風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

7月15日(土) 創世記3章

「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」 創世記3章21節

 エデンの園に蛇が登場し、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(1節)と女に尋ねました。女は蛇に、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えます(2,3節)。

 このやり取りは、単なる事実の確認ではありません。蛇は女を、神に従う道から外れさせようと、巧妙に罠を仕掛けているのです。女は蛇の問いかけを、「園のどの木からも食べてはいけないと言うとは、何とけちんぼなのか」という非難と聞き、神を弁護しようとして、上記(2,3節)のように答えたのです。

 「園の木の果実を食べてもよいのです」という自由さの中、「園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない」という禁止命令があることを告げ、しかしそれは、神がけちだからではなく、「死んではいけないから」と私たちのことを心配されての注意なのだと答えているわけです。

 それはしかし、神が言われたことに忠実な答えではありません。神が親切なお方だと言おうとして、禁止命令の根拠を創作し、また、「触れてもいけない」という律法を付け加えています。女はこの時点で既に、神に従う道から外れ始めていたのです。

 女の答えを聞いた蛇は、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存知なのだ」(4,5節)と言い返します。女が説明した禁止命令の根拠を否定し(4節)、神が何故禁止命令を女たちに与えたのか、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ」(5節)と全く別の根拠を示したのです。

 その言葉で心揺さぶられた女が、園の中央の木を見ると、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆して」(6節)いました。巧妙にも蛇は、食べる木の実を特定してはいませんし、取って食べろとも言っていません。しかし、女は木の実に手を伸ばして取って食べ、男にも渡します(6節)。それで、男も食べてしまいます。

 著者はここで、蛇を悪魔の手先とかサタンの化身などとほのめかしてはいません。賢さの点で他の動物に抜きんでていると言うだけです。しかし、その賢さが、神が「極めて良かった」と評されたこの世界で無邪気に楽しく過ごしていた男女に、自分で「善悪を知る」という経験へと唆し、そして、男女は彼ら自らの判断で木の実を食べてしまったと告げているのです。

 木の実を食べた結果、二人の目が開け、自分たちが裸であることを知って、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆いました(7節)。それが、神のように善悪を知る者となり、賢くなったということなのでしょうか。

 それまで、二人が裸であったことを知らなかったわけではないでしょう。2章25節に「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」と記されていました。しかし、目が開けた結果、彼らがしたのは腰を覆うこと、つまり、裸を恥ずかしく思うようになったということです。

 その上、神の足音を聞くと、アダムと女は主なる神の顔を避けて、木の間に姿を隠しました(8節)。「どこにいるのか」(9節)と尋ねた神に、「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(10節)と答えます。

 裸が恥ずかしいだけでなく、「恐ろしい」ということは、神の前に立つことが出来なくなった自分を自覚しているということであり、それは、彼らが神の御前に不従順の罪を犯したということです。その恐ろしさは、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2章17節)という律法に違反した罰に由来するものでしょう。

 だから神の御顔を避け、裸の腰を覆うものを造ったわけですが、これが、二人が神の戒めを離れて自らの道を歩み、それゆえ神の加護を失い、自分で自分を守るほかな亡くなったということです。

 一方、主なる神が「どこにいるのか」(9節)とアダムを呼ばれたとき、それは、隠れているアダムを探しておられたのではなく、むしろ「なぜ隠れているのか」という意味でしょう。エデンの園を耕し、守るように神からその使命を与えられているアダムです(2章15節)。神の足音が聞こえれば、当然、アダムは神の前に立っているはずだからです。

 神の足音を恐れ、「わたしは裸ですから」(10節)とその理由を説明したアダムに対し、主なる神は「お前が裸であることをだれが告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」(11節)と問われました。それは、アダムの罪をはっきり指摘する言葉です。

 その言葉にアダムは素直に「はい、そのとおりです。ごめんなさい」とは言わず、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(12節)と答えます。それは、自分が食べたのは、女が木の実を差し出したからで、女がいなければ食べることはなかったと、罪を女の所為にします。

 「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(2章23節)と、一心同体として与えられた伴侶を喜んだ男が、結婚を後悔しているような言葉で、二人の関係はそれによって破綻してしまうでしょう。さらに「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」という言い方で、女を与えられた神を非難しています。

 それは女も同様です。「なんということをしたのか」(13節)という主の問いに、「蛇がだましたので、食べてしまいました」(13節)と答えました。蛇がいなければ、しなかったというのです。

 責任転嫁して悔い改めようとしないアダムに対して、主は「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(17節)、「お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる」(18節)、「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」(19節)と言われ、彼をエデンの園から追い出されました(23節)。

 そして、ケルビムときらめく剣の炎を置いてエデンの園、命の木を守られます(24節)。つまり、神との関係が断絶してしまったのです。そのように関係が断絶することを、死と言ってもよいでしょう。パウロが「罪の支払う報酬は死です」(ローマ書6章23節)と言っているのは、そのことです。

 しかしながら、それは永遠の裁きではありませんでした。神は彼らを裸のまま、追放されませんでした。冒頭の言葉(21節)のとおり、神は彼らに皮の衣を作って着せられたのです。これはつまり、これからも神が彼らを守るというしるしです。

 また、衣が皮製だということは、皮を剥がれた動物がいるわけで、神が人を守るための衣を作るのに、動物が犠牲となったということ、その贖いによって人の罪が覆われたということです。ここに、キリストの贖いの予表があります。

 しかしそれは、完全な罪の赦しではありません。裸を覆うものが与えられたということは、覆いを必要とする体だということです。「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(2章25節)という元の状態に戻されたわけではないのです。

 最終的にアダムの罪を赦すのは、キリストの十字架の贖いの御業だということです。主の恵みに感謝し、御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、絶えず私たちの耳を開いてください。常に御言葉の恵みが開かれますように。導きに従って歩むことが出来るよう、信仰に堅く立たせてください。委ねられた使命を全うすることが出来るよう、聖霊に満たし、その力を受けさせてください。そうして、主の御名が崇められますように。 アーメン






7月14日(金) 創世記2章

「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』。」 創世記2章18節

 1章には、天地万物が秩序づけられて神に創造されたということが記されていましたが、2章には、特に生物が造られた意味、目的が記されています。

 7節に「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記されています。「土」はヘブライ語で「アダマー」、土の塵から造られた「人」を「アダム」といいます。

 「アダム」は、「人」という一般名詞であり、そしてそれが「アダム」(3章8,9節)という固有名詞にもなりました。人は土の塵から造られたので、息を引き取ると、やがて土の塵に返ります(3章19節、ヨブ記34章15節、詩編90編3節、104編29節など)。

 静岡に来て、3人の方を見送りました。1986年に牧師になって以来、42人の方の葬儀を執り行いました。そして、2009年12月30日に私の父が召されました。勿論、こうした方々は、死んでおしまいになったのではありません。天の故郷で永遠の命を生き始められたのです。ただ、この地上で使っていた体、形あるものはすべてこの地上に残ります。そして、土の塵に返るのです。

 主なる神は、最初の人アダムをエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされました(15節)。それぞれの役割を果たすように、神によって造られ、相応しいところに配置されたわけです。私たちは、進化論でいうような、何かの偶然が重なってたまたま出来た命などではありません。神によって、その意味と目的をもって創造されたのです。

 その役割を果たし終えれば、天の故郷に帰ります。天に帰れば、もう何もすることがないということでもありません。天に召される、天に呼ばれるというのは、天で新たな使命、新しい役割が与えられるということです。私たちは、そのようなものとして、神に造られたのです。

 ここまで、神は創造されたものを御覧になって、「良し」(トーブ)という評価をなさっていました(1章4節、10節など)。特に31節には「極めて良かった」(トーブ・メオード:very good)と言われています。

 ところが、冒頭の言葉(18節)には、「良くない」(ロー・トーブ:not good)という言葉が出て来ます。これは、人が独りでいるという状態が、神の創造計画、その目的、御心に適わない、満足な状態ではないということです。

 そもそも、神が人を造られたとき、ご自分にかたどり、「男と女」に創造されました(1章27節)。神のかたちとは、男と女がひとつとなるというものでしょう(24節)。二人が一体となるとき、命が産み出されます(4章1節)。神が夫婦の営みを通して、命を産み出す創造の業をなさるのです。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1章28節)と言われたとおり、神は、人を夫婦として、そして家庭を作り、社会を造り、全被造物に調和を与えるものとして、創造されたのです。

 地獄というのは、孤独な世界だと思います。そこは、まさに神の御心が行われない、神の御心に背いている世界です。語り合う相手がいない、助ける者がいない世界です。かみはそれを「良くない」と言われています。神は地獄を造ろうとはなさらなかったと言えそうです。むしろ、地獄は人が造るのです。

 「地獄に仏」という言葉がありますが、環境がどんなに辛く厳しいものであったとしても、心通わせることの出来る家族や友がいれば、そこは地獄ではありません。むしろ、天国を垣間見ることさえ出来るでしょう。神は、孤独な助けのない地獄のような世界から私たちを救うために、「助ける者」を用意されます。

 言うまでもなく、確かに私たちは多くの助けを必要としています。私たちの周りに、高い山、広い海、緑の野原、美しく咲く花がなかったら、川のせせらぎや木々を渡る風の音、鳥の鳴く声がなくなったら、どこで心の洗濯をするのでしょうか。猫や犬をはじめ動物たちは、私たちを喜ばせ、また慰めます。神様は私たちのために素晴らしいものを用意してくださったのです(19節)。

 さらに、「彼に合う」(ネグドウ)という言葉に注目してください。これは、「面と向かい合って、対等な:comparable」という意味です。即ち、ここに記されている「助ける者」とは、「あなた、助ける人。私、助けてもらう人」という一方通行、ワンパターンの関係ではなく、お互いが対等に、助けたり助けられたりする関係であるというのです。

 かくて、神は人間を、互いに助け合う存在として造られました。ですから、人間は他者の助けが必要であり、そして自分も他者を助ける存在なのです。私が誰かの助けを必要としているように、誰かが私の助けを持っているわけです。

 24節を見ると、神はこの助け合う関係を、結婚の関係と結びつけて教えておられます。男女がそれぞれ、親の愛情を一杯に受けて成長し、やがて二人が出会い、結婚します。

 私たちはこれまで、多くの愛を受けて来ました。親の愛、家族の愛、友の愛などです。これらの愛に恩返しが出来るでしょうか。もしその方法があるとすれば、それは出会った二人が真実に愛し合い、幸せな家庭を築くことでしょう。愛されて愛を学び、人を愛する人間になることです。初めから出来上がっている完全な人間などいません。初めから完璧な夫婦も存在しないのです。

 「家庭は裁判所ではなく、愛を学ぶ学校だ」と語られた方がありますが、確かに互いの欠点をあげつらい、裁き合うというのではなく、一生をかけて相手を愛することを学ぶのが、夫婦だと思います。

 助け合う、愛するとは、甘え合う、もたれ合うというものではありません。自立して、互いの責任をしっかりと担い、呼吸を合わせ、心を一つにすることです。私たちが真の夫婦になるためには、一生、努力を続ける必要があるでしょう。

 原語の「助ける者」は「エゼル(=助け)」という名詞で、特に、助け主としての神様を指して用いることが圧倒的に多い言葉です。たとえば、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助け(エゼル)はどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121編1,2節)という言葉があります。

 私たちを助けるために、美しい自然、動物を造り、そして相応しいパートナーを私たちに与えてくださった主なる神様こそ、まさにこの聖書が教えるまことの「助ける者」です。

 御言葉に耳を傾け、目には見えなくても、私たちの家庭を守り続けてくださる神様を信頼し、どんなことにも、皆でお互いに心を合わせ、どんなことにも皆がお互いに力を合わせ、立ち向かいましょう。

 主よ、私たちはあなたから多くの愛を受けて来ました。そのご愛に応え、信仰の先達が生きられたように、私たちも与えられた使命をしっかりと果たす生き方をしたいと思います。上よりの知恵と力に満たしてください。宣教の働きが前進、拡大しますように。 アーメン





7月13日(木) 創世記1章

「神は光と闇をわけ、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」  創世記1章5節

 今日から、旧約聖書第一の書・創世記を読み始めます。これから1章ずつ読めば、3年3ヶ月後の2020年10月に聖書一巻を読み終わることになります。これを機に、聖書を通読する習慣を身に着ける方々が一人でも多く起こされるよう、主の恵みと導きを祈ります。

 「創世記(Genesis)」という書名は、ギリシア語の「ゲネシス」(初め、起源の意)からつけられたものです。ヘブライ語原典では、1章1節冒頭の「べ・レシート(in the beginning=初めに)」がそのまま書名になっています。

 創世記は、続く出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と共に、「トーラー(律法の書)」に分類されます。トーラーは、伝統的にモーセによって書かれたと考えられていて、モーセ5書という呼び方もあります。

 ただし、学者によれば、J典(ヤハウェ文書:紀元前950年頃成立)、E典(エロヒーム文書:J典より100~200年後に成立)、P典(祭司文書:捕囚期後、450年頃までに成立)という主要な文書、資料によって造り上げられたと考えられています。因みに、その大枠はJ典、神の名を「主(ヤハウェ)」と呼んでいる資料に基づくとされています。

 1節の「初めに、神は天地を創造された」という言葉が1章の表題となっています。ここに、「初めに、神がおられた」というのではなく、天地が創造されたと言います。神のご存在ではなく、神が初めになさった御業に注目しているわけです。神のご存在、神がおられるということは、当然のこととして前提されているわけです。

 「創造された」はヘブライ語で「バーラー」といいますが、これは、神によってのみ用いられる言葉です。この言葉は、完全なまでの労力の欠如、容易く楽々と造り上げる様を表し、また、素材の記述を持たない「無からの創造」という思想を含んでいます。こうしたことで、神は天地万物を創造された世界の主だと言い表そうとしているということが出来ます。

 2節の「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」というのは、それが神の最初に造られた天地の姿だったというのではなく、天地が創造される前の原初の状態を示すものではないかと思われます。

 「混沌」は「トーフー・ワー・ボーフー」という言葉です。「トーフー」は「形がない」、「ボーフー」は「虚無」という意味の言葉、そして「ワー」は「そして」という接続詞です(口語訳「形なく、むなしく」)。エレミヤ書4章23節でも「混沌」と訳されています。

 また「深淵」(テホーム)という言葉があります。これは、「カオスの海」という意味で、宇宙的な深淵を表します。また、「神の霊が水の面を動いていた」という言葉で、「霊」(ルーアハ)は「かぜ」をも意味することから、「水の面を神の風が吹き荒れていた」と解することも出来ます。
 そんな「混沌」や荒涼とした原初の無秩序な状態の中で、神が創造の御業を始められました。

 最初に、光が創造され(3節)、「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ」(5節)ました。次に、水を二つに分けて、間に大空を造られ(6,7節)、それを「天」(8節)と呼ばれました。第三に、下の水を一つ所に集め、乾いた所を造られ(9節)、「乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれ」(10節)ました。

 第四に、二つの大きな光る物と星を造られ(14~16節)、「大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられ」(16節)ました。第五に、水に群がるものと翼ある鳥を創造され(20,21節)、祝福されました(22節)。第六に、地を動く獣、家畜、土を這うもの(24,25節)、そして、すべての生き物を支配する「人」をご自分にかたどって創造されました(26,27節)。

 第一から第三は環境、第四から第六はそこを動く物、そして、第一と第四、第二と第五、第三と第六が対応するようにと、神はすべてのものを秩序立てて創造されたこと、そして、水の生物、空の鳥、陸上の生物、そしてそれを支配する人間、いわゆる「動物」と呼ばれるものに「産めよ、増えよ、(置かれた環境に)満ちよ」(22,28節)と祝福を告げられたことが記されています。

 あらためて、神が初めに造られたのは「光」(3節)でした。神が「光あれ」(3節)と言われると、光が出来たということですが、勿論、日本語で言われたわけではありません。それは、人間が理解出来る言葉でもなかったのかも知れません。

 光が造られたことで、一日の始めと終わりが出来ました。けれども、この光は、太陽光ではありません。太陽は、14節で「天の大空に光る物」、「(二つの大きな光る物の)大きな方」と呼ばれています。そして、それは第四の日に造られました。エジプトを始め、太陽や月を神として礼拝する国が周辺に多くある中で、聖書は、太陽や月、星などは神の被造物にすぎないと語っているわけです。

 神は「闇」を造られたわけではありませんが、光の創造される前の、光のない世界は真っ暗闇でしょう。しかし、神は光を造って闇を全く排除されたわけでもありません。冒頭の言葉(5節)で「闇を夜と呼ばれた」ということは、光だけでなく、闇も神の支配下、神が創造された秩序のもとにあるということです。

 また、聖書の世界の一日は、夕べから始まります。夕方6時から一日が始まるのは、日中は暑くて仕事にならないので昼寝し、涼しくなった夕方から起きて仕事を始めるためだと聞いたことがあります。真偽は不明ですが、いずれにせよ、闇に光を創造された順序に倣い、夜の闇を通って明るい朝を迎えるという一日を過ごすのです。

 イスラエルの歴史は、エジプトでの奴隷の苦しみからの解放に始まりました。40年の荒れ野の生活を通って約束の地に定住しました。その後、アッシリア、バビロンによる国の滅亡と捕囚という苦しみを通って、イスラエルを建て直しました。

 夜の闇が神の支配下にあるからこそ、朝の光を見ることが出来るわけですし、夕べと朝が交互に訪れて日を重ねていくのです。ここに「闇を良しとされた」という言葉はありません。しかし、光を良しとされた神により、夜の闇の中で朝を期待することが出来ます。そこで希望を持つことが許されているのです。

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った」(イザヤ書9章1,2節)というメシア預言があります。命の光なる主イエスを仰ぎ(ヨハネ福音書1章4節、8章12節など)、どのようなときにも深い喜びと大きな楽しみに与らせていただきましょう。

 主よ、あなたが天地万物の創造者であられ、私たちも主に造られたものであることを感謝します。御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることが出来ます。御言葉を通して、主イエスの御顔に輝く神の栄光を悟る光を、絶えず私たちにお与えください。常に聖霊に満たされ、主の愛と恵みを証しする者とならせてください。御名が崇められますように。 アーメン





7月12日(水) ヨハネ黙示録22章

「霊と花嫁とが言う。『来て下さい』。これを聞く者も言うがよい。『来て下さい』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」 ヨハネの黙示録22章17節

 1節に「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた」と言い、続く2節に「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる」とあります。

 これは、エゼキエル書47章1節以下、ヨエル書4章18節などの預言とともに、創世記2章8節以下に記されている「エデンの園」が回復され、アダムの堕罪によって呪われた地が(創世記3章17,18節)、毎月実を実らせる祝福された地に変えられたことを表しています。

 「両岸には命の木があって」ということは、当然複数の木があることになりますが、原文の「木」(クシュロン)は単数形です。これは、ギリシア語訳旧約聖書(七十人訳)のエゼキエル書47章12節で「あらゆる果樹」(パーン・クシュロン・ブローシモン)が単数形で表現されているのと同様、集合的複数の意味になっているわけです。

 さらに、命の「木の葉は諸国の民の病を治す」(2節)と記されていますが、「もはや死はなく、もはや悲しみも労苦もない」(21章4節)という世界には、必要ないようなものです。新しい神の都は、命に満ちた世界、命が満ち溢れている永遠の世界であると語っているわけです。いつも病や苦しみ、死の不安や恐れの中にいる私たちにとって、そこはなんと光り輝いていることでしょうか。

 ペトロは、高い山の上で主イエスの姿が変わったのを見ました(マルコ福音書9章2節以下など)。その服は、この世のどんなさらし職人の腕も及ばないほどに白く輝いていました。まさにペトロは、あらゆる呪いが取り除かれた、神の子の真の栄光の姿を見たのです。

 パウロも、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(フィリピ1章23節)と言っております。第三の天にまで引き上げられて、人が語ることの出来ない言葉を聞き、その世界を垣間見たパウロとしては(第二コリント書12章参照)、苦しみ多きこの世で過ごすよりも、御国はよほど素晴らしいところであったに違いありません。

 ですから、御霊の導きで神の都の幻を見ているヨハネも、心を躍らせて筆を執ったのではなかろうかと思われます。何より、そこには私たちの救い主、主イエスがおられるのです。そのお方の御顔を親しく拝することが出来るのです。

 「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、私たちに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださいますように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださいますように。アーメン」(エフェソ1章17~18節参照)。

 13節に「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」とあります。「アルファ」はギリシャ語アルファベットの最初の文字、「オメガ」は最後の文字ですから、最初と最後、初めと終わりと、同じ意味の称号が3種類並べられていて、その意味を強めているということが出来ます。

 この称号は、21章6節、イザヤ書41章14節、44章6節、48章12節などでは、神ご自身のものでしたが、ここではそれが、「わたし」と語る主イエスに与えられています(16節参照)。これは、父なる神と子なる主イエスが一つである(ヨハネ10章30節)ということを証言していると考えることが出来ます。

 この「初めであり、終わりである」という称号は、初めからおられ、最後までいてくださる。初めから終わりまでずっと変わらず、すべての歴史を貫いてどこにも主はご存在くださるお方である、主が共におられなかった時はないという宣言でしょう。

 主イエスは、神の全権と尊厳を身に受けて再臨されます。そのとき、主イエスは裁きを行い、それぞれの行いに応じて報いられます(12節、2章23節、第二コリント書5章10節、マタイ福音書16章27節など)。 

 「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(14節)と言われますが、衣を洗って白くするように、罪に汚れた心、魂を自分で清めることが出来る者など、どこにもいません。

 アダムとエバの罪の姿を覆うために、神は動物を屠られ、その皮で衣を作って与えられました(創世記3章21節)。それは、主イエスが私たちの罪をご自分の身に負って十字架に死なれること、私たちは主イエスを着せられて(ガラテヤ書3章27節)罪赦され(エフェソ書1章7節)、神の子として生きることが出来ることを示しています(ヨハネ福音書1章12節、フィリピ書2章15節)。

 ヨハネがこの黙示録が執筆していた時、クリスチャンたちは大きな苦難の中にいました。黙示録のメッセージを初めに受けた7つの教会の人々は、激しい迫害を経験していました。彼らに対してヨハネは、祈りを教えます。それが冒頭の言葉(17節)に記されている「来てください」(エルクー)という言葉です。

 「霊と花嫁」が「来てください」というのですから、呼んでいるのは花婿なるキリストのことで、「花嫁」はキリストの教会です。「すぐに来る」(12節)と言われるキリストに、「来てください」と祈り求めるのです。「霊」が「来てください」というのは、「花嫁」のために執り成しの祈りをささげておられるのです(ローマ書8章26,27節)。

 主イエスが来られて、救いの業を完成してくださる時が来ます。だから、じっと待ってなさいというのではなく、「主イエスよ、来てください」と祈れというのです。即ち、神の救いの御業が完成し、栄光の主イエスを拝することが出来ますようにと求めるのです。そのとき、私たちは神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、満たされることが出来ます(エフェソ3章19節参照)。

 「来てください」という祈りに「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」という応答の言葉が続いています。21章6節で「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」と言われていましたが、「来てください」と求めた者には「(命の水を)価なしに飲むがよい」と、今ここで分け与えられるのです。

 仮庵祭の最終日に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ福音書7章37,38節)と言われました。それは、主イエスを信じる人々が受けようとしている霊のことだと説明されています(同39節)。

 主は求める者によいもの、聖霊をくださいます(マタイ福音書7章11節、ルカ福音書11章13節)。聖霊を通して神の愛が注がれてきます(ローマ書5章5節)。私たちのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか(同8章32節)。

 御言葉を信じ、期待して祈りましょう。信じるからこそ祈る。希望があるからこそ祈るのです。

 「アーメン、主イエスよ、来てください。」主よ、御言葉が私たちの身に実現しますように。私たちに永遠の命の泉として、主の御言葉と御霊の導きをお与えくださり、感謝します。命の水の流れから離れず、豊かな命の実に与ることが出来ますように。主の恵みが、すべての者と共にありますように。 アーメン





7月11日(火) ヨハネ黙示録21章

「その時、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共にすみ、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」 ヨハネの黙示録21章3,4節

 1節に「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」と記されています。最初の天と最初の地は去って行ったからですが、20章11節に「天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」と言われていました。

 「もはや海もなくなった」と言われています。13章1節以下に見るように、海は人を死に引きずり込む獣を内に潜ませているところでした。海がなくなったとは、神に敵対する勢力が完全に消滅したことを言い表しているわけです。

 これまで、この地上のものが皆なくなり、天体など、すべてのものが失われて、新しい完全な天と地が造られるものと考えていました。確かに、これまでとは違う新しい天地となるということだとは思いますが、しかしそれは、この地上にあるものは何ひとつ意味がなく、私たちクリスチャンは、この地上に何ら責任を持つ必要がないということではないでしょう。

 ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言われています。神が愛されたと言われるこの世のものと一切関わりを持たないように ただ、新しい天と新しい地を目指しさえすれば、それでよいということになるはずはないでしょう。主が私たちに願っておられること、私たちがこの箇所から聞くべきことは、そういうことではなかろうと思います。

 なぜ、ヨハネが新しい天と新しい地を見たのかというと、天と地が全く新しくなったというよりも、むしろ、天と地を見る「私」が新しくなった。今までと同じものを見ていながら、私はそこに新しい天、新しい地を見ているというのが、私たちの聞くべきメッセージではないでしょうか。即ち、神が私たちの目や耳、思いを新しくして、天と地を全く新しいものとしてくださるということです。

 私たちが主イエスと結ばれ、主イエスにつながり、主イエスと共に歩むことを経験するならば、今日が昨日と同じはずはありません。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(第二コリント5章17節)と言われるとおりです。

 神が私たちの歩みを新たにし、新しい天と新しい地を見ることが出来ると言われるのです。勿論、「裸の王様」のように、見えないものを見えると言い張るわけにもいきませんが、神を信じ、神の御言葉に従って信仰の告白をするということは、とても大切なことです。

 私たちは自分の感覚に頼って生活するのではなく、御言葉に立ち、信仰によって歩んでいくのです。神が私たちに見せてくださる新しい天と新しい地を見つつ、主にあって新しく造られた者として生きていきたい、絶えず信仰の目をもって歩ませていただきたいと思います。

 ヨハネは「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から降って来るのを見」(2節)ます。「聖なる都、新しいエルサレム」とは、紀元70年にローマ軍によって滅ぼされたエルサレムの町が再建されるというようなことではありません。

 「着飾った花嫁のように」というのは、ドレスアップしてということではありません。キリストと教会とは夫婦の関係で語られるところがあって(エフェソ書5章21節以下)、神の愛と義をもって互いに愛し、仕え合うことをそのように表現していると言えます。

 つまり、私たちが連なっているキリストの教会が、「聖なる都、新しいエルサレム」となるということです。「天から下って来る」とあって、キリストの教会は人が造るものではなく、神によって創られたものであるということが分かります。

 「教会」(エクレシア)とは、神によって呼び集められた群れのことで、人のいない教会というものはあり得ません。しかし、クリスチャンが集まりさえすれば、教会になるというのでもありません。夫のために着飾った花嫁のごとく、主イエスを花婿としてお迎えするために、神はキリストの花嫁たる教会を整え、建て上げてくださるというのです。

 そのことを、玉座からの大きな声が明言します。それが冒頭の言葉(3節)です。「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」というのは、旧約の時代から語られていた神の約束を思い出させます(出エジプト記25章8節、29章44,45節、エゼキエル書37章27節)。

 かつて、人は神と共にパラダイスに生きることの出来るものでした。なぜ人は、神と共に住まなくなっているのでしょうか。それは、神の言葉から離れて自分勝手に善悪の知識の木の実に手を伸ばしてしまったからです(創世記3章1節以下)。

 そして、その罪を責められると素直に悔い改めたというのではなく、人は妻に、妻は蛇に責任を転嫁するのです(同3章8節以下)。それで彼らは、エデンの園から追い出されてしまいました(同3章23節)。

 人を罪に誘った蛇が火と硫黄の池に投げ込まれ(20章10節)、海も消滅してしまった今(1節)、もう一度神はキリストを信じる者たちに、エデンの園を回復し、神が人とともに住み、人が神の民となるという約束を実現してくださるのです。

 目の涙が拭い取られるというのは、罪を悔いる悲しみの涙がぬぐわれること、つまり、罪が赦されたことを示しています。神によって罪が赦されるというのは、本当に素晴らしい恵みです。

 ドミティアヌス皇帝時代に始まった皇帝礼拝の強要のため、大変な苦しみを味わっていた当時のクリスチャンたちにとって、このメッセージは大きな希望となりました。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もないというときが来るからです。

 そう信じることが出来るのは、神様の助け、御霊の導きがあったからです。主は御名を呼び求める者に救いを与え(ローマ書10章13節)、賜物として聖霊をくださるのです(ルカ福音書11章13節、使徒言行録2章38節)。

 心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえさせていただきましょう(ローマ書12章2節)。絶えず主を仰ぎ、御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、あなたは私たちの罪を赦し御国の民とするために、御子の命をもって私たちを贖ってくださいました。そのことは、どんなに感謝しても、感謝し尽くすことは出来ません。絶えず主を仰ぎ、御言葉に耳を傾け、御心をわきまえて、どんなときにも喜びと感謝をもって主にお従いすることが出来ますように。主の道をまっすぐに歩ませてください。 アーメン





7月10日(月) ヨハネ黙示録20章

「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。いくつかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」 ヨハネの黙示録20章12節

 1節以下の段落には「千年間の支配」という小見出しが付けられています。いよいよ悪の勢力が滅ぼされ、神が勝利されるときが近づきました。地上に投げ落とされたサタンが、天使に縛られて底なしの淵に投げ込まれ、千年の間閉じ込められます。そして、イエスの証人として殉教した者たちが、キリストと共に千年にわたってこの地上を支配するときがやって来るというのです。

 これをキリスト教の用語で「千年王国」と呼びます。この千年王国については、昔から様々な議論がなされて来ました。ただ、考えるべきことは、これが黙示録に記されたものであるということ、黙示録以外にこのような記述はないということです。ヨハネは、何の目的で千年王国というユニークな情景をここに記したのでしょうか

 千年は10の3乗という年数です。「10」は完全数と言われます。10を3乗するということは、「完全×完全×完全」ということで、十分な長さを表現しています。一方、サタン悪魔の支配は42ヶ月、三年半と短く限定的でした(13章5節以下)。殉教者たちが千年間支配するというのは、主の力がサタン悪魔とは比較にならない、圧倒的な勝利であるという表現であろうと思います。

 詩編90編4節には「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません」と記され、第二ペトロ書3章8節にも「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」という言葉があります。

 つまり、千年も生きられない私たち人間にとって、千年は永遠にも等しい時間の長さですが、神様にとっては、千年といえども一日のようなもの、言い換えれば、一時的なものであるということです。

 つまり、千年王国というけれども、それは王国と呼べるような組織、制度が完成したなどというものなどではないのです。一時的に悪魔である竜を縛り、底なしの淵に閉じ込め、その後、また解き放たれるということです。

 これはちょうど、天地が創造された折、神が六日働いて七日目に業を休まれたように、世の終わり、新天新地が完成する折にも、千年=1日の休みを取られ、この神の安息に、死に至るまでキリストに忠実に従った者たちも共に与らせて頂くことが出来るというのが、この箇所の一番のメッセージではないでしょうか。

 千年が経過してサタン悪魔が解き放たれると、彼らはゴグとマゴグを惑わし、神と戦うために召集します(7,8節)。このゴグとマゴグというのは、エゼキエル書38~39章を見ると、神の民に敵する国がマゴグ、その国の首長がゴグです。ですから、ゴグとマゴグは、神に従わない勢力の代表ということになるでしょう。

 召集された者の数は「砂のように多い」(8節)と言われているように、多くの人々が現実の見える世界に惑わされます。見えない永遠の世界を見出すことが出来る者は、いつの時代にも多くはありません。しかしながら、彼らはついに滅ぼされます。そもそも、悪魔が天使に取り押さえられ、縛られるということは(2節)、既にこの戦いに天使が勝利していることを表しています。

 だから、解放された悪魔が再び戦いを挑もうとしたとき(7,8節)、天からの火に焼かれ(9節)、火と硫黄の池に投げ込まれた、即ち、戦いにもならなかったと記されているのです(10節)。こうして、サタンの陣営の敗北が確定し、陣営のすべてのものが火の池に投げ込まれるという、最後の裁きがなされるわけです(14,15節)。

 かくて、黙示録において勝利は既に高らかに宣言されたわけですが、今はまだ、それが実現してはいいません。ただ、一時的にせよ、天使がサタン悪魔を取り押さえ、縛り上げ、深い淵に閉じ込めるというのですから、私たちを苦しめる悪魔を今縛り、この苦しみから解放してくださいと神に願いなさいというメッセージを受け止めることが出来ると思います。

 もう一つのことは、この千年王国のとき、天上で統治すると言われているのは天使たちなどではありません。イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たち(4節)、つまり、殉教したクリスチャンたちがキリストと共に統治すると言われています。これは、殉教した者たちを労い、褒賞を与えるという意味に捉えることが出来ます。

 天で統治するというのは、仕える者となることです。千年の間、キリストと共に仕える者となり、その働きによってすべての人々を安息させるのです。だから、厳しい迫害の中で苦しんでいる人々に、最後までキリストに忠実に歩むように励ましを与え、受ける報いは大きいと希望を与えるものとなるのです。それは、神は苦しんでいる者をお見捨てになってはいないというメッセージでもあります。

 11節以下の段落に「最後の裁き」が記されます。ここに、古い世界が神の御前から姿を消してしまいます(11節)。そして、冒頭の言葉(12節)のとおり、死者が裁かれるために復活します。海の中、死と陰府の中の死者も、神の前に呼び出されます(13節)。そして、死者を閉じ込めていた死と陰府が火の池に投げ込まれます(14節)。死の世界が滅ぼされてしまったということです。

 冒頭の言葉(12節)に、「命の書」という言葉があります。「命の書」について、詩編69編29節に「命の書から彼らを抹殺してください」とあり、これは「彼らを裁いてください」という意味です(出エジプト記32章32節参照)。

 ということは、命の書に名が記されるということは、神に裁かれない、救いに与ることが出来るということになります。15節の「その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」という言葉も、同じことを示しています(3章5節参照)。

 13章8節では「屠られた小羊の命の書」と呼ばれています。「屠られた小羊」とは、イエス・キリストのことですから、「屠られた小羊の命の書」とは「イエス・キリストの命の書」ということになります。つまり、命の書の所有者、あるいは、命の書を書き記した著者がイエス・キリストであるということです。

 それはまた、イエス・キリストの命を授けられた人の名が記されている本ということでもあるでしょう。主イエスを受け入れ、その名を信じた人には、神の子となる資格を与えたと言われますから(ヨハネ福音書1章12節)、主イエスを信じ、永遠の命が授けられた人の名が記されているといって良いでしょう。

 この書に名が記されていない者は、獣を拝むということですから(黙示録13章8節)、この書に名が記されている者は、屠られた小羊なる主イエスを信じ、玉座に座しておられる真の神を礼拝するということになります。

 主イエスが弟子たちに「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ福音書10章20節)と言われました。この御言葉も、命の書について述べられたものと考えると、「天に書き記されている」という表現で、命の書に名が記された者は、天の御国に迎えられることが約束されていると読めます。

 主イエスを信じる信仰に導かれること、罪赦され、神の子とされること、永遠の命に与り、神の御国に迎えられること、これらすべては神の恵みによることです。とすれば、命の書に名が記されるのも、神の恵みといってよいでしょう。私たちの行いは神に裁かれるほかないものですが、神は私たちの名前を命の書に書き込み、恵みをもって救ってくださるのです。

 深い憐れみによって私たちを救いに導いてくださった主に感謝しつつ、日々主の御言葉に耳を傾け、その導きに従い、信仰に堅く立たせていただきましょう。

 主よ、御言葉を感謝致します。今、苦しみの中にある方々に、あなたの平安と慰めを授けてください。癒しと解放をお与えください。希望と勇気を与えてください。信仰の恵みをいつも味わうことが出来ますように。主に従う者たちが喜びをもって愛し合い、仕え合う世界を築くことが出来ますように。聖霊のみ足しと導きに与らせてください。 アーメン





7月9日(日) ヨハネ黙示録19章

「それから天使はわたしに、『書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ』と言い、また、『これは、神の真実の言葉である』とも言った。」 ヨハネの黙示録19章9節

 19章で、大群衆が登場し、「ハレルヤ」と勝利の歌を歌い始めます(1節)。これは、18章20節の「天よ、この都のゆえに喜べ。聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ」という呼びかけに対して、応答しているのです。黙示録を貫いている賛美が、この歌に要約されるのです。バビロンが倒れ、神の僕たちの血の報復がなされたからです(2節)。

 その賛美の中で「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(7,8節)と歌われます。

 花嫁とは、キリスト教会のことです(第二コリント書11章2節、エフェソ書5章25~27節、マタイ福音書25章1節以下など参照)。ここに、バビロンの淫婦として皇帝礼拝を強要するローマと、キリストの花嫁なる教会が対照されています。

 大淫婦は裁かれますが(2,3節)、花嫁は婚礼の席、主のもとへ進みます(7節)。大淫婦が紫と赤の衣を着、金と宝石と真珠で実を飾り、忌まわしいものやみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を持っているのに対して(17章4節、18章16節)、小羊の花嫁は輝く清い麻の衣をまとっています(8節)。

 清い衣は、聖なる者たちの正しい行いであると言われます。それが花嫁に与えられたということは、キリストに忠実に従って信仰の道を歩んで来たこと(3章4,5節)、キリスト者たちは神の御心に従って正しく生きることが出来るのです。

 この賛美に続いて、天使がヨハネに語りかけ、祝福の言葉を書き記すように命じます。それが冒頭の言葉(9節)です。黙示録の中で「幸い」(マカリオイ)を告げる言葉は、これで4度目です(1章3節、14章13節、16章15節)。

 この祝福の言葉は、小羊の婚礼に招かれたすべての者のために書き留められ、伝えられています。婚礼に招かれた者とは、教会に連なるすべての者のことです。私たちは、主イエスが「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日」(マタイ福音書26章29節)と言われたように、終わりの日の天の御国における晩餐の宴に招かれているのです。

 ということは、今、キリストを信じるように招かれ、その導きに従って歩み続けている者は幸いだと言われていることになります。それは、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2章10節)と言われた言葉に通じます。

 こうしてみると、2,3章に記されていた七つの教会について、キリストの小羊の婚礼への招きが告げられて、その招きに応ずる者の幸いが語られているわけです。ということは、それぞれの教会に対して語られていた警告と勧告の言葉に耳を傾け、どのような迫害と誘惑の嵐が襲ってきても、この信仰の戦いに勝利するようにと、あらためて奨励していることになります。

 そして、彼らが勝利するよう、清い衣が用意されたのです。これを、聖霊の力を着せられたと読むことも出来るでしょう。聖霊は、信じる者たちに働きかけて御言葉が真実であることを悟らせ(ヨハネ福音書16章13節など)、救いの確信に導かれます(エフェソ書1章13,14節)。

 また、聖霊を通して神の愛が私たちの心に注がれ、苦難をも誇り(口語訳:喜び)とすることが出来る信仰が与えられます(ローマ書5章3~5節)。弱い私たちを助けてくださり、霊自ら、言葉に表せない呻きをもって執り成し(同8章26節)、万事が益となるように共に働いてくださいます(同28節)。

 日毎に御言葉を聴き、その導きに従って信仰の道筋をまっすぐ歩き通すことが出来るように、聖霊に満たしと導きを祈りましょう。日々、主の御顔を拝し、御言葉を慕い求めましょう。

 主よ、私たちを教会に招いてくださって感謝致します。私たちがあなたを選んだのではなく、あなたが私たちを選ばれたと言われました。それは、主の使命を果たすためでした。私たちに委ねられている使命を悟り、御霊の導きと力によって全うすることが出来ますように。日々、聖霊に満たしてください。 アーメン





7月8日(土) ヨハネ黙示録18章

「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。」 ヨハネの黙示録18章4節

 18章には、バビロンが倒れたという宣言(2,3節)、大きな災いが臨むので、バビロンから逃れよという勧告(4~8節)、バビロンとつながりのある王や商人たちの嘆き(9~20節)、バビロン消滅宣言(21節以下)が記されています。

 ここには、旧約聖書を背景とした表現が多く見られます。9~19節の背後にはエゼキエル書26~27章、その他の部分にはエレミヤ書50~51章があり、また、多くの表現がイザヤ書とも関連しています。

 これらの表現を援用して、バビロン=ローマ帝国が冨と贅を尽くして神をないがしろにし、また神の民を虐待してきた報いを受けることが、ここに都が滅びる様子は描写されていませんが、つながりがあった者たちの嘆きの言葉と、天使の告げるバビロンに対する裁きの言葉で語っているのです。

 現代に生きる私たちは、このメッセージをどのように聞くべきでしょうか。私たちとは無関係の世界だから、聞かなくてもよいと言えるでしょうか。そうは思いません。神に従おうとしない人々や、国から離れなさいと言われているので、キリスト教国というところに行かなければならないのでしょうか。そうも思いません。

 当時も今も、神に従わない人々から離れよ、挨拶もするなということになるなら、この世で生活出来なくなります。当時のクリスチャンたちの中には、奴隷という身分の人も沢山いたと思います。彼らは、移動の自由を持っていません。彼らに町を離れよと言っても、出来る相談ではなかったと思います。

 これは、文字通り、町を離れ、国を離れることではありません。社会生活を捨てて、クリスチャンだけの隠遁生活を送ることなどではないはずです。

 「彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ」(4節)というのは、皇帝礼拝をするなということです。神ならぬものを神とはしないという、信仰の旗印を明確にすることです。今日の日本にも、クリスチャンであるというだけでマイナスとなるために、自分の信仰を公に出来ないというようなところがあるようです。

 そうしたところで自分の信仰を表明するのは、戦いでしょう。ヨハネ黙示録は、そのような環境の中で信仰を表明したために苦しみを受けている人々に向けて、信仰を守っている「あなたは幸いだ」とメッセージを送り(1章3節、22章7節)。最後までその姿勢を守り続けるように励ましているのです。

 日本を代表する伝道者の一人、羽鳥明先生が、信仰に入られるきっかけを話されたのを伺ったことがあります。戦時中、中学校の軍事教練の教師は大のヤソ嫌いで、いつも「ヤソは国賊だ」と言っていたそうです。

 ある日、先生のおられた教室に軍事教練の教師がやって来て「ここにヤソはおるか、おるならば手を上げよ」と尋ねました。だれも手を上げないだろうと思っていたところ、おとなしい一人の少年が、手を上げて立ち、「僕はクリスチャンです。僕はイエス・キリストを信じています」と答えました。

 その少年の真実な毅然とした態度に強く心打たれ、先生はその少年と友だちとなりました。そして、その少年に導かれて教会に行き、2度目の集会でクリスチャンになる決心をされたのだそうです。

 私たちは、様々な苦しみから解放されるために神の翼の下に安息の場所を求めました。そして、罪の呪いから、死の恐れから、解放していただきました。心に、魂に、そして生活に神の平和が与えられました。

 その平和が脅かされるとき、つまり、私たちを罪の呪いと死の恐れから解放してくださった主イエスに対する信仰を妨げ、奪おうとする力に対して、力で対抗して平和を守ろうということではありません。信仰を表明することでマイナスを被るとしても、私たちには、神の御翼の下、主イエスの懐という逃れ場があることを信じることです(第一コリント書10章13節)。

 そう言いながら、自分がそういう場に立たされたら、足が震えるだろうと思います。しっかり信仰を守り、主イエスを証しすることが出来ると胸を張れない臆病さを感じます。だから、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ福音書6章13節)と祈ります。そう祈りながら、御言葉に従おうとする信仰に立たせていただきたいと思います。

 主よ、御子イエスが「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(ヨハネ福音書17章15節)と祈ってくださいました。主よ、この世にあって私たちがあなた以外のものを神とすることがありませんように。罪から離れ、災いに巻き込まれることがありませんように。いつも私たちを守り導いてください。 アーメン




7月7日(金) ヨハネ黙示録17章

「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいるもの、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」 ヨハネの黙示録17章14節

 17章には、赤い獣にまたがった一人の女が出てきます(3節)。それは1節で「多くの水の上に座っている大婬婦」と言われ、また5節で「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」と呼ばれています。

 女の座っている「多くの水」について、15節に「あの淫婦が座っている所は、さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民である」と説明されています。また、「大バビロン」と呼ばれた女について、18節で「あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである」と言われます。

 つまり、黙示録が執筆されている時代、様々な民族、種族、国民の上に君臨し、その王たちを支配している都とは、ローマ以外にあり得ないでしょう。女がまたがる赤い獣の七つの頭について、9節に「七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである」とありますが、ローマの都はティペル河畔の七つの丘の上に築かれていました。

 「そして、ここに七人の王がいる」(9節)は、口語訳、岩波訳と同様「また(それは)七人の王のことで(も)ある」と解するべきでしょう。ただ、黙示録執筆当時のドミティアヌスまで、ローマ皇帝は12人います。そのうち7人とは誰のことを指すのか分かりません。

 ただ、11節に「以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる」と言われる八番目の皇帝のことが問題です。「以前いて、今はいない獣」、「先の七人の一人」とは、既に死んだ人物でありながら、次代の皇帝として再び登場してくるということです。

 このことについて、研究者たちが、「ネロの再来」伝説との関連を指摘しています。キリスト教徒の迫害者として知られるネロは自殺して果てましたが、後に、彼は死んだのではなく遠方に雌伏していて、ローマの宿敵パルティア人を率いて戻って来るとか、死人の世界から復活して来るという伝説が生まれたのです(13章3節も参照)。

 「みだらなこと」、「みだらな行い」(1節)とは、ローマ帝国の繁栄による腐敗、退廃を示すような用語です。けれども、旧約以来の伝統では、神に対する敵対、神を神としない不信、そして異教の神々を拝む偶像礼拝を指しているといってよいでしょう。「この女(ローマ)のみだらな行い」(2節)とは、ローマ国家の偶像礼拝、即ち皇帝礼拝のことをいうのです。

 ローマ皇帝が神のように崇められているときに、皇帝礼拝を拒むクリスチャンたちは、圧倒的な帝国の力の前にまったく無力な存在でした。けれども、冒頭の言葉(14節)の通り、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」とヨハネは語ります。小羊が獣とどのように戦うのでしょう。どのように勝利するのでしょう。

 小羊には、獣を引っかき、捕らえる爪はありません。獣を突く角もありません。噛みつき、引き裂く牙もありません。運動能力が優れているということでもないでしょう。小羊の戦いは、力によるものではないということです。

 ゲッセマネの園で主イエスを捕らえにきた大祭司の手下どもに、弟子の一人が剣を抜いて切りかかったとき、主イエスは「剣を鞘に収めよ、剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ福音書26章47節以下など)と言われ、無抵抗のまま捕らえられ、連れられて行きました。自分を裁く不当な裁判の中でも、何も答えられなかったと言われます(同27章12節など)。

 そして、死刑が確定して(26章26節、27章15節以下など)十字架に磔になり(同35節など)、そこで息を引き取られました(同50節など)。これを見る限り、小羊なる主イエスは、敗北してしまったとしか、考えられません。主イエスを殺した者たちは、その日、勝利の美酒に酔ったことでしょう。

 ところが、小羊が彼らに打ち勝つと言われるのは、主イエスの死によって、神の救いの御業が完成したからです。悪の力は、神の救いの御業を阻止することが出来なかったということです。主イエスを信じる者は罪赦され、永遠の命が与えられ、神の子となる資格が授けられます。

 神の子とされた者たちは、この世のものに対して力で対抗しません。「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた」(14節)、同じように権力の前に無力です。しかし、権力を恐れず福音宣教の働きを進めます。それが神の救いの業だからです。そして、歴史上どんな権力も、福音宣教の働きを阻止出来ませんでした。まさしく、小羊が主の主、王の王だからです。

 キリストは、ダビデの子と呼ばれました。ダビデは、勿論キリストではありません。罪多き人物でした。けれども、一つその理由を挙げるとすれば、彼は権威に対して力で立ち向かいませんでした。ダビデは、サウル王から命を狙われて逃亡生活に入ります(サムエル記上19章11節以下)。

 その中で二度、ダビデがサウルを手にかけるチャンスがありました。けれども、「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけるのを、主は決して許されない」(同24章7節、26章11節)と、そうする意思のないことを示します。ここに、父なる神に完全に服従された主イエスの姿を見ることが出来るというわけです。

 私たちの勝利も、主の御言葉に対する従順さ、忠実さをもって示されるのです。それは、世の人々に対して無力さを示すことかもしれません。しかし、私たちが語る福音の言葉だけが永遠に残るのです(第一ペトロ書1章25節)。

 主よ、御言葉に服従するというのは、確かに戦いです。服従することを妨げようとする力が、様々な形で働きかけてきます。自分との戦いということもあります。小羊なる主イエスが主の主、王の王として、いつも私たちの心の王座に君臨してください。そして、主ご自身が勝利を収めてください。私たちはあなたにお従いします。御名が崇められますように。 アーメン




7月6日(木) ヨハネ黙示録16章

「汚れた霊どもは、ヘブライ語で『ハルマゲドン』と呼ばれる所に、王たちを集めた。」 ヨハネの黙示録16章16節

 16章には、7つの封印(6~8章)、7つのラッパ(8~11章)に続く、第三の災いのグループ(7つの鉢)が登場してきます。災いの種類は、それぞれよく似ていますが、その規模が順々に大きく拡大されています。ヨハネは、世の終わりに起こるこれらの災いを、神の義による裁きとして描いています。神に逆らって悔い改めようとしないものは、苦しめられ、滅ぼされます。

 それは、度重なる災いでも頑なになって悔い改めようとしなかったエジプトのファラオが、過越の事件と紅海の出来事を通して、最終的に滅ぼされたことを思い出させます。出エジプトの出来事になぞらえて、クリスチャンたちを苦しめているローマ帝国による迫害にも、やがて神による裁きがなされ、教会があらゆる苦しみから解放される時が来るという希望を示しているのです。

 黙示録が記されてから200年後(AD313年)、皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ勅令を発布して、キリスト教がローマ帝国の公認宗教となりました。弾圧するよりも公認して利用した方が得策と考えたということのようですが、いずれにしても、教会は確かに、厳しい弾圧の中でじっと我慢というのではなく、キリストの勝利を信じて福音宣教に励んでいたわけです。

 冒頭の言葉(16節)の「ハルマゲドン」は、聖書を読まない人でも耳にしたことあるものでしょう。ただ、地球滅亡とか宇宙大戦争というイメージで捉えられていて、正しい意味で用いられてはいません。1998年に「アルマゲドン」というSF映画が作られていますが、大きな惑星が地球に衝突して、そのために地球が消滅するという危機を、この題名で表現しているのでしょう。

 「ハルマゲドン」とは、「ハル」が「山」、「マゲドン」が「メギド」という地名です。つまり、「メギドの山」という意味になります。ただ、「メギド山」はイスラエルには存在しません。なぜ、ヨハネは汚れた霊どもが「ハルマゲドン」に全世界の王たちを集めると記しているのでしょうか。

 まず考えられるのは、汚れた霊どもが世界の王たちを集めるのは、最後の抵抗の戦いのためでしょう。古来、メギドは何度も戦場になりました。中でも特に、バビロンと戦うために北上するエジプトを阻止しようとしてイスラエルのヨシヤ王が出て行き、メギドでの戦いに敗北し、戦死しています(列王記下23章29,30節、歴代志下35章20節以下)。

 ヨシヤ王は、申命記の御言葉に従って宗教改革を断行し、それが祝されて国力を増大することが出来ました(列王記下22章8節以下)。しかし、その成果に思い上がったのが、メギドでの敗北の原因だったと思われます。汚れた霊どもは、メギドで神の民イスラエルに対する勝利を再現したいと考えたかのようです。

 しかし、上述のとおり「メギドの山」は実際には存在しません。存在しない地名が記されているということは、汚れた霊どもと天の軍勢の戦いはもはや起こらないという意味になるのではないでしょうか。

 実は、メギドの北西20kmの距離にカルメル山があります。そこは、エリヤがバアルとアシェラの預言者たちを打ち負かした所です。主が神か、バアルやアシェラが神かという戦いで、主が神であることが明らかにされたという出来事がありました(列王記上18章16節以下)。そのためか、ハルマゲドンとはカルメル山のこととする学者もいます。

 そうであれば、汚れた霊どもは、エリヤのときの報復戦を挑もうとしていることになります。ところが、戦いが始る代わりに、17節に「事は成就した」(ゲゴネン:it is done)という大声が神の玉座から聞こえたとあります。これは、主の勝利宣言です。

 それで大地震が起こり(18節)、ローマが引き裂かれ、諸国の方々の町が倒れたと言われます(19節)。結局、戦いは起こらずじまいでした。汚れた霊どもによって集められた全世界の王たちは、最後の闘いを戦う前に、あの大きな都バビロンが裁かれたのを見て、嘆き悲しむことになるのです(18章9節参照)。

 つまり、ヨハネがこれを記したのは、どこで最終的な戦いが起こるか、どのような戦いになるかということではありません。主イエスが贖いの小羊として屠られた後、罪と死に打ち勝って甦られ、天に上げられたことで、既に主の勝利と悪しき勢力の裁きは確定しています。それで、クリスチャンたちが汚れた霊どもに惑わされず、最後まで主イエスの勝利を信じるように、求められているのです。

 そのことを、15節に挿入されている言葉が示しています。これは、主イエスがルカによる福音書12章37節で「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と語られた言葉を模しています。ここに「幸い」という言葉があります。黙示録中、これが3度目です(1章3節、14章13節)。

 「目を覚まし、衣を身に付けている人は幸いである」(15節)ということは、キリスト者たちに目を覚まして備えているよう勧告しているのです。

 衣を身に着けているというのは、3章4節の「白い衣を着てわたしとともに歩くであろう」という表現などから、キリストを信じている、キリストに従って歩んでいることを指しています。目を覚ましているとは、悪しき霊に惑わされないこと、キリストの勝利を信じて信仰を守ることです。

 「身に着ける」と訳されているのは「テーレオー:守る」という言葉で、黙示録にも11回用いられ、殆ど「守る、守り続ける」と訳されています。「着物を守る」という訳ではおかしいので、「身に着ける」と訳されていますが、「キリストを信じる信仰」を「守る」ことが、「衣」を「身に着けること」ということです。

 ローマ皇帝の圧倒的な権力の前にまったく無力に見えるクリスチャンたちが、勝利の主の御手の内に守られていること、そのご支配の中に生かされているということを、この御言葉によって確信し、大いに励ましを受けたのです。

 ヨハネは、厳しい現実から逃れるためにおとぎの世界を描いたのではなく、厳しい現実に立ち向かうために、信仰による勝利を描きました。夢にまどろむのではなく、目を覚ましているためです。そして、勝利の主に対して賛美の歌を歌います。

 15章にも、全能の神を讃える歌が記されていました。既に勝利を得たから歌っているのではありません。勝利を信じているから歌うのです。ここに信仰があります。賛美の歌を通して勝利に導かれるとも、言うことが出来ます。

 詩編46編11節に「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」とあります。私たちが自分の知恵や力に頼ることをやめ、主に頼るとき、この手ごたえを味わうことが出来るのです。

 どんな問題があっても、神を賛美してみましょう。歌を歌う気分でなくても、御名を崇めましょう。問題があるからこそ、苦しみを味わっているからこそ、歌うのです。そこに主がともにいて下さいます。そこで主が働かれます。そして、聖霊を求めて祈りましょう。約束どおり、主は御霊に満たしてくださいます。聖霊を通して、神の愛が私たちの心に注がれます。

 主よ、マイナスと見える現実にではなく、私たちに勝利を与えてくださる主に目を留めます。御名を呼び求めて祈ることが出来ることを感謝します。聖霊も弱い私たちのために呻きをもって執り成してくださり、万事を益としてくださることを感謝します。御言葉と祈りを通して、絶えず正しい道へと導いてください。 アーメン




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