風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

5月18日(木) ヘブライ書1章

「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」 ヘブライ人への手紙1章2,3節

 この手紙は、かつてはパウロによって書かれたものと考えられました。それは、13章23節の「わたしたちの兄弟テモテ」という句から連想されたものです。しかし、手紙の通常の形式である冒頭の差出人の名前や宛名、あて先への挨拶や感謝の言葉などがありません。

 その他、用語法や旧約聖書の解釈の仕方などでパウロとの違いが目立ち、最近の学者でこれをパウロの書いたものと考える人はほとんどいないようです。因みに、宗教改革者ルターは、アポロが著者であると言っています。

 表題の「ヘブライ人」について、この手紙がギリシア語で記されており、旧約聖書を引用するときもギリシア語訳旧約聖書(七十人訳)を用いていることから、パレスティナのユダヤ人ではなく、世界に散らされたディアスポラ(離散)のユダヤ人のことでしょう。

 手紙の宛先について、13章24節の言葉からローマであろうと考えられています。とそうれば、受取手はディアスポラのユダヤ人ばかりでなく、異邦人も少なからず含まれているローマの教会のキリスト者たちということになりそうです。執筆時期は、紀元80年代であろうと想定されています。

 この手紙は、旧約聖書を用いながら、イエス・キリストが神によって立てられた大祭司だということを論証しようとしています。その性格は、神学的論文というより勧告ないし説教というべきものです。また、その構成は、例えばパウロ書簡では前半が教理的な叙述、後半が実践的な勧告となっているのに対し、本書では教理的叙述と実践ないし勧告の言葉が交互に現れています。

 1章は、4節までと5節以下の二つの段落に分けられます。文章の構成から、そのように分けられていますが、内容的には、4節の「御子は、天使たちより優れた者となられました」という言葉を、それ以下の文章で証明する形になっていて、3節までと4節以下に分けるというのもありそうです。

 新共同訳聖書は最初の段落に、「神は御子によって語られた」という小見出しをつけています。神は、御子イエスをお遣わしになる以前、神は様々な方法で「先祖」に語られました(1節)。「先祖」とは、父祖アブラハムに始まる旧約のイスラエルの民のことです。最もよく用いられたのが「預言者たちによって」語るという方法です。

 そして、最後の手段として選ばれたのが、冒頭の言葉(2節)の「御子によって」語るという方法です。2~4節には、「御子」とはどういう方なのかということが列挙されています。

 まず、「御子は万物の相続者」(2節)、「御子によって世界を創造された」(2節)と言われます。この世にお生まれになる前、主イエスは創造者であられ、復活後40日して天に昇られた後、その一切を相続されたということです。3節の「天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」という言葉も同じ理解を示しています。

 主イエスは神の御子なのですから、当然のことながら、神が所有しておられるすべてのものの相続者であられます。また、御子が創造者であるという信仰は、ヨハネ福音書1章3節、第一コリント書8章6節、コロサイ書1章16節などにも見られます。すべてのものを創られたお方として、それを所有されることになるというわけです。

 次に、「神の栄光の反映」(3節)、「神の本質の完全な現れ」(3節)と言われます。「反映」は「輝き」(口語訳)とも訳されます。神が光であられ、その光が御子を通して伝えられ、輝き出るということです。これは、御子に神の栄光があるということです。反映は、光源なしに存在し得ません。ここに、父と御子の密接な関係が示されます。

 「神の本質の完全な現れ」とは、まことの神が人間となってこの世に来られたということです。御子がまことの神であるということを、「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられる」(3節)と説明します。これは、神に創造された世界が、主イエスの御言葉によって支えられていること(コロサイ書1章17節参照)、つまり、創造の業が御子の働きで継続していることを示しています。

 御言葉の力は、その真実さにあります。神の御言葉は必ず実現するのです(ルカ福音書1章45節)。特に、神の真実は、御子キリストによる贖いを通して示されました。御子がこの世に来られたのは、「人々の罪を清める」(3節)ためでした。その御業によって、私たちは今生かされ、支えられているのです。

 キリストは死んで葬られた後、三日目に復活された後(第一コリント書15章3,4節)、天に上げられ(ルカ福音書24章51節)、神の右の座に着かれ、私たちのために執り成しておられます(8章1節、ローマ書8章34節)。「天使たちより優れた者となられ」(4節)たことが、人間となられた御子キリストが、再び神の右に着座されたことによって証明されたのです。

 ここに、イエス・キリストは、まことの神、主の主であられることを、あらためて確認させていただきました。神は今も、御子キリストを通して、私たちに語りかけておられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)と言われた主イエスの御言葉に耳を傾け、その真実に触れ、素直にその導きに従いましょう。

 主よ、すべての人々の罪を贖い、救いの道を開いてくださったことを心から感謝致します。御言葉の力をもって万物を支えておられる御子キリストが、完全な救いを成就するために再びおいでになるのを、待ち望んでいます。主イエスの福音に相応しく、日々歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン






5月17日(水) フィレモン書

「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役に立つ者となっています。」 フィレモンへの手紙11節 

 今日は、フィレモンへの手紙を読みます。手紙の冒頭に「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから」(1節)と差出人の名が記され、続いて「わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」(1,2節)と受取人が紹介されています。

 「フィレモン」は、この手紙以外には登場してきません。「姉妹アフィア」はフィレモンの奥さんでしょう。そして、「アルキポ」はフィレモンの息子だろうと考えられています。

 23節以下にエパフラス他の人々に挨拶が書き送られていますが、それがコロサイ書4章10節以下に出て来る人々と符合することから、フィレモンはコロサイ教会の信徒であろうと思われます。また、「あなたの家にある教会へ」(2節)という言葉から、コロサイ教会の集会がフィレモンの家で行われていたようです。

 この手紙は、フィレモンの許から逃げ出した「オネシモ」という奴隷を、もう一度受け入れてくれるようにという、私的なものです。そしてパウロは、この手紙を、オネシモ自身に持たせたようです。

 なぜ、オネシモがフィレモンの許から逃げ出したのかは分かりません。そしてまた、どうしてパウロ
と出会ったのか、その経緯も不明です。ただ、オネシモは、18,19節の言葉から、逃げ出すときに、フィレモンの家から金品を持ち出していたようです。

 そのお金を全部使い果たして途方にくれてしまったとき、主人の家で聞いたことのあるパウロの名を思い出して、そこに身を寄せようと考えたのかも知れません。そして、獄に監禁されている囚人パウロの身の回りの世話を積極的に行っていたのでしょう。

 10節に「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」と記されていますので、オネシモは、パウロを通して主イエスを信じ、クリスチャンになったのです。それで、ますます、パウロのためによく働いたことでしょう。そうしたことが、パウロをいかに慰め、励ましたことでしょうか。

 13節に、「本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のために監禁されている間、あなたの代わりにつかえてもらってもよい思った」と記されているところに、その様子が窺えます。

 そこで冒頭の言葉(11節)のとおり「(オネシモは、)以前はあなた(フィレモン)にとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたし(パウロ)にも役立つ者となっています」(11節)と言ってオネシモのことをフィレモンに執り成しています。

 オネシモがパウロの役に立ってくれたということは、先ほどの13節の言葉に示されるとおり、オネシモの主人であるフィレモンの役に立ったということでもあります。フィレモンに代わって、獄中のパウロの世話をしたことになるからです。

 しかし、いかにパウロの執り成しがあるとはいえ、損失を与えて逃げ出した家に手紙を届けに行くということは、決して並大抵のことではありません。通常、逃亡奴隷には、死刑という処罰が待っていたのです。

 ですから、パウロから主人フィレモンのもとに帰りなさいと言われたとき、オネシモは「はい」と言うことが出来なかったのではないでしょうか。そんな押し問答が何度もなされたのではないでしょうか。そしてついにオネシモはパウロの言葉を受け入れ、フィレモンのもとに戻ることを受け入れました。

 このことは、私たちが神の前に悔い改めをするとき、神が私たちの罪を赦してくだされば,もうそれで万事OKということではない。他の人に対して犯した罪をそのままにしておいて、神に喜ばれる平安な生活を送ることは出来ないということではないでしょうか。私たちは、すべての人と平和に過ごすこと、だれとの間にもわだかまりのない生活をすべきなのです。

 勿論、人間のすることですから、完璧などというものはありません。しかし、それを願うこと、その道を目指すことが必要だと教えられているのだと思います。パウロはそれをオネシモにも要求したのです。そしてオネシモは、それが神の御旨に従う道だと信じ、受け入れたのでしょう。主イエスの恵みのゆえに、絶対に出来ないと思っていたフィレモンの家に帰るという十字架を負うことに決めたのです。

 もし、主人が受け入れてくれず、死ななければならないのなら、それは自分の犯した罪の結果なのだから、それを受け入れようと考えたのでしょう。こうして、オネシモがフィレモンのもとに手紙を携えて戻ったというのは、彼が真に悔い改めてキリストに従う者となったという明白な証しなのです。

 だから、パウロはフィレモンに、オネシモのことを「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として」(15,16節)受け入れることを願っているわけです。

 「オネシモ」とは、ギリシア語で「有益、役に立つ」という意味です。この名前は、彼の本名ではなく、奴隷として売られるときに奴隷商人によってつけられたあだ名だと言われます。この男は役に立つといってオネシモという名をつけ、フィレモンに売ったわけです。ところが、有益どころか、損害を与えて逃げ出したわけです。まさしく「役に立たない者」になってしまいました。

 ところが、パウロの許に行き、パウロを通して主イエスを信じ、クリスチャンとなったとき、文字通り、「役に立つ者」と変えられたのです。パウロは、「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」(15節)と言っています。

 イスラエルには、同胞を奴隷として使用する場合、7年目に自由の身として解放しなければならないという規則がありました(申命記15章12節以下)。あるいはヨベルの年、即ち50年目には解放しなければならないという決まりがありました(レビ記25章39節以下)。

 けれども、その奴隷が主人とその家族を愛して、生涯共にいることを願うときは、「錐を取り、彼の耳たぶを戸につけて刺し通さなければならない。こうして、彼は終生あなたの奴隷となるであろう」と定められています(申命記15章17節)。

 オネシモはユダヤ人ではありませんから、この規定が適用されるわけではありませんが、しかし、主イエスを信じるキリスト者となり、真の悔い改めに導かれたオネシモは、再び主人フィレモンの家に戻り、キリストに仕えるように、終生フィレモンに仕えようという思いになったのではないでしょうか。

 それを思えば、以前のオネシモはフィレモンにとって役に立たず、価値のない者だったかもしれません。そればかりか、損失を与えるマイナスの存在でした。しかしながら、パウロのもとで主イエスを信じる信仰に導かれ、役に立つ忠実な僕として戻ってきたのです。つまり、マイナスと思われたものは、大きなプラスを生み出すための投資だったというわけです。

 また、18~19節に、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう」と記しています。これは、パウロがオネシモの身代わりになるということです。

 マイナスがプラスになり、損失が支払われる、これが、神の御子キリストがこの世においでになった意味だと思います。私たちも、神の御前に役に立たない存在でした。否、むしろ損失を与える者だったのですが、主イエスの贖いにより、救いの恵みに与りました。

 そして、神様は私たちを役に立つ者だと見做して、私たちに使命を与え、主の業のために用いてくださいます。自分で「私は役に立つ」と胸を張ることは出来ませんが、召しに答えて、委ねられた使命を全うする者になりたいと願っています。

 主よ、キリストは罪人の私たちを救うために、この世に人間となっておいでくださり、贖いの御業を成し遂げられました。この恵みを心より感謝致します。主を信じる信仰に堅く立ち、委ねられた主の使命を果たすことが出来ますように。 アーメン





5月16日(火) テトス書3章

「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」 テトスへの手紙3章6節

 1節以下の段落に、新共同訳聖書は「善い行いの勧め」という小見出しがつけられています。この段落の4~7節は、ギリシア語原典では韻文(詩のかたち)になっています。

 私たちを救うためになされた神の御業をたたえる内容になっており、当時の教会の中で用いられていた信仰の宣言文、あるいは讃美歌ではないかと思われいます。讃美歌を手紙に引用している例としては、フィリピ2章6節以下の「キリスト賛歌」などを上げることが出来ます。

 ここで「人間に対する愛」(4節、フィランスロピア:博愛)は、使徒言行録28章2節(「親切」と訳出)とここの2箇所にしか用いられない珍しい言葉です。5節も、パウロの思想をなぞっているようですが、用語法はパウロのものとは思われません。「新たに造り変える」(パリンゲネシア)も、マタイ19章28節で「新しい世界になり」と終末の世界変革を意味する言葉として語られるのみです。

 6,7節では、神の救いの御業が主イエスと関連づけて語られます。4節で神に冠せられた「わたしたちの救い主」という言葉が、冒頭の言葉(6節)ではイエス・キリストに冠せられます。さらに、「イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました」(6節)と、父、子、聖霊が関係づけられています。

 8節で「この言葉は真実です」と語っています。「この言葉」は、4~7節の言葉を指しています。それが重要な宣言ないし賛美の言葉であることを、このように明示しているのです。

 私たちは、讃美歌や祈りのあとに「アーメン」と唱和しますが、それは「それは真実です」という意味です。アーメンという決まりになっているから、そう言うというのではなく、讃美歌や祈りの言葉を受けて、それは真実です、私もそう信ずると和しているのです。ここで、引用された宣言文に「真実です」と言っているのは、それが自分たちも体験したアーメンたる出来事だということなのです。

 5節に「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」と記されています。私たちは義の業をなし得なかったけれども、神は私たちを御自分の憐れみによって救ってくださったのです。神の憐れみなしには、だれも救いの恵みに与ることは出来ません。

 そして、「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」と言います。「洗い」(ルートゥロン)とは、バプテスマを指しています。

 ただ、罪過ちを洗いさえすれば、もとの清く正しい存在になるということではありません。全身を水に浸すことから「洗い」という言葉が出て来たのでしょうけれども、それは、古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わるという「新たに造りかえる洗い」なのであり(5節、ローマ書6章3節以下)、「聖霊によって新しく生まれさせ」ることなのです(ヨハネ福音書3章3節以下)。

 「新しく生まれさせる」(アナカイノウシス)という言葉は、「アナ(再び)」と「カイノス(新しい)」の合成語で、「更新(renewal)」という意味で用いられます。ローマ書12章2節でも、「(心を)新たにして」と用いられています。それによって「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」と勧められているのです。

 キリスト・イエスの贖いによって罪赦され、聖霊によって新しく生まれさせられた者は、「無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし忌み嫌われ、憎み合っていた」(3節)生活を捨て、「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接」(2節)する生活を営まなければなりません。

 そこに、生活を通してなされる証しの業があります。それが、罪人の私たちを憐れみ、贖いの供え物となって下さったキリストに倣い、神の恵みに応える生活であると、ここに教えられているのです。

 冒頭の言葉(6節)は、この聖霊によって新しく造りかえられることのために、キリストを通して聖霊が豊かに注がれたと読むことも出来るでしょう。しかしながら、ここは、聖霊によって新しく造りかえられた人々に、さらに豊かに聖霊が注がれると読むべきだろうと思います。

 それは、私たちがバプテスマを受けてクリスチャンになりさえすれば、それでもう大丈夫ということではないからです。借金体質の会社の赤字をだれかが補填してくれたとしても、翌日からまた借金の生活が始まり、赤字が膨らんでいってしまいます。体質そのものが改善されるように、テコ入れくれる人が必要なのです。

 それと同様、私たちが聖霊によって新しくされた信仰の生活をおくるために、どうしても聖霊の助け、導きを必要としているということです。だから、主イエスは私たちのために、聖霊をちょっぴりではなく、豊かに注いでくださるというのです。

 パウロはその力で絶えず励まされ、いつでもどこでも大胆に、キリストの福音を宣べ伝えました。自分を殺せと叫んでいる人々に向かって21章36節以下)、また、最高法院で(23章1節以下)、総督フェリクスに対して(24章10節以下)、総督フェストゥスとアグリッパ王の前で26章2節以下)、弁明と称して自分の信仰体験を語り継げました。

 聖霊の力と導きをいただいたからこその働きでしょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(キリスト)の証人となる」(使徒言行録1章8節)というとおりです。

 主なる神は、キリストを通して聖霊を豊かに注いでくださいますから、祈り求めてその力を受けましょう。そうして、主の証人とならせていただきましょう。主の栄光のために、委ねられている賜物を用いさせていただきましょう。主はそのことのために、私たちを極みまで愛して、十字架の死に至るまで、従順に歩んでくださったのです。ハレルヤ!

 主よ、おとめマリアが天使の告げる御言葉を信じて受け入れたとき、聖霊の力がマリアに臨みました。私たちも御言葉を信じます。日々十字架を仰がせてください。そして、絶えず聖霊に満たしてください。聖霊の力を受けて、主に命じられた宣教の使命を果たすことが出来ますように。宣教を通して、私たちの街にも神の愛と恵みが明らかにされますように。 アーメン





5月15日(月) テトス書2章

「また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」 テトスへの手紙2章13節

 新共同訳聖書は、2章に「健全な教え」という小見出しを付けています。ここには、年老いた男(2節)、年老いた女(3節)、若い女(4,5節)、若い男への勧めがあり(6,7節)、そして、テトスへの勧めがあり、最後に、奴隷への勧めもあります(9,10節)。

 ここでは、教会の秩序を健全に保つということが念頭に置かれ、その秩序を乱すものを不健全な教えと考えていることが示されます。そもそも、1章5節に、「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」といって、教会に指導者を立てること、その指導によって教会を整え、育てることを指示しています。

 秩序を守る、指導者の指示が行き届くように体制を整えるというのは、しっかりと安定した組織を作るためには必要なことと思われます。しかしながら、何のためにその体制が必要なのかと考えると、組織作り、体制作りというのは、神の御言葉、指導者の指導が行き届くためです。

 組織さえ出来ればよい、そしてその組織を保たなければならないということではありません。その組織を構成しているすべての人々、隅々に至るまでキリストの血が通い、神の恵みが行き渡るように、生きた組織を作らなければなりません。

 既に、すべての人に救いをもたらす神の恵みは現れました(11節)。今から2000年前、ユダヤのダビデの町ベツレヘムに救い主メシアとして、主イエスがお生まれになったのです。天使が、今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ福音書2章11,12節)と告げました。

 この知らせを聞いた羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」と聞いたとき、それはまさに自分たちのところに来てくれた救い主だと感じることが出来たことでしょう。その場所ならば、正装していなくても、野宿して羊の番をしていたそのままの格好で、近づくことが出来ます。飼い葉桶の置かれている家畜小屋は彼らの仕事場だからです。

 それに象徴的に示されているように、主イエスはすべての人々に救いをもたらしたお方なのです。教会は、キリストの体と言われます。この世に来られたキリスト・イエスの心を戴し、この世に対してキリストの御心を行う生きた体、それが教会です。

 キリストの御心は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」ということです(マタイ福音書28章18節以下)。

 このことを1章3節で、「わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教を委ねられたのです」と語っていたわけです。

 「救いをもたらす神の恵み」を受けて12節に、「その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」と言います。原文は、「教える」を意味する動詞(パイデウーサ)で始まっています。神の恵みは、信じる者を義とするだけでなく、「思慮深く、正しく、信心深く生活する」ことを教えるというのです。

 「不信心と現世的な欲望を捨てて」というのは、キリスト者の生活の基準が世間的な常識などではなく神の恵みにあることを示しています。そこでは、信仰により、御言葉と祈りを通して神の御前に正しく判断することが求められています。

 それに続けて語られるのが、冒頭の言葉(13節)です。ここで「祝福に満ちた希望」(ヘ・マカリア・エルピス)を、「イエス・キリストの栄光の現われを待ち望む」ことと説明しています。それは、キリストが再び地上に来られるのを待ち望むということです。それが、「祝福に満ちた希望」と言われるのは、キリストの再臨によって悪が完全に裁かれ、滅ぼされて救いの御業が完成するからです。

 キリストの再臨によって救いの御業が完成するということは、今は未完成の状態にあるということです。ただ、この救いは徐々に完成に向かうというものではありません。世の中がだんだん清く明るく正しくなって神の国が完成するのではなく、この世が裁かれ、滅ぼされて、新しい天と地が創造されるのです(イザヤ書65章17節、第二ペトロ書3章12,13節、黙示録21章1節など)。

 いまだ救いの完成していないこの世を、思慮深く、正しく、信心深く生きることにより、その人の内に神の恵みが働いていることが証しされます。そうして、救い主キリストを正しく待望する生活が出来るのです。

 神の憐れみなしには何も出来ない私たちです。であればこそ、神の恵みに応えて、その使命を果たすことが出来るよう、日々主を仰ぎ、私たちを神の宮としてその内に宿っておられる聖霊に、栄光から栄光へと主と同じ姿に造り替えていただきたいと思います(第二コリント書3章18節)。

 主よ、絶えずキリストの十字架を見上げさせてください。常に神の恵みを心に留めさせてください。再臨の主を待ち望ませてください。そのために、日々御言葉と祈りをもって生活し、主の使命に生きることが出来ますように。 アーメン




5月14日(日) テトス書1章

「神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教を委ねられたのです。」 テトスへの手紙1章3節

 今日からテトス書を読みます。この手紙は、第一テモテ書と同時期に、同じ著者によって記されたと考えられています。

 この手紙の受取人とされているテトスは、第二コリント書、ガラテヤ書、第二テモテ書に、その名が記されています。けれども、不思議なことに、使徒言行録には登場して来ません。

 ガラテヤ書2章13節によれば、彼はギリシア人で、本書2章6~7節と第一テモテ書4章11節との関連で、恐らくテモテと同世代だと思われます。また、「信仰を共にするまことの子テトス」(4節)という言葉から、テトスがパウロの伝道によって救いに導かれたことが分かります。

 テトスは、パウロに連れられてエルサレムの使徒会議に出席しました(ガラテヤ書2章1節、使徒言行録15章参照)。であれば、使徒言行録16章の記事から、テトスはテモテよりも早くパウロの同労者となったということになります。

 また、パウロから手紙を託されてコリントに赴き、パウロとコリントの教会の関係を修復することに成功しました(第二コリント書7章5節以下)。さらに、苦闘しているエルサレム教会を援助するための募金活動を行っています(同8章6節以下)。このように、テトスはパウロの同労者として、その信任を受けて働いている様子を知ることが出来ます。

 5節に「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」とあります。「クレタに残してきた」ということは、パウロがテトスと一緒にクレタに行ったこと、そして、テトスが今クレタ島にいることを示しています。

 使徒言行録によれば、パウロがクレタ島に行ったのは、エルサレムからローマに向かって護送されていく途中のことです(27章7節以下)。護送途中のパウロが、クレタで宣教活動が行えたとは考えられません。「町ごとに長老を立てる」必要があるほど教会の働きが進展しているのであれば、使徒言行録に記されていない働きがあったと考えざるを得ません。

 ある学者は、パウロがローマに送られた後、自由の身になって第四回伝道旅行を行い、そのときにクレタ島での宣教がなされて、設立された教会を指導するためにテトスを残したのであろうと考えています。ただ、第三回伝道旅行中、ローマに宛てて書いた手紙で、スペイン伝道の計画について記していたパウロが(ローマ書15章23,24節)、クレタ伝道をしたとは考え難いところです。

 上に述べたようなパウロとテトスの関係から、「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから」(1節)という挨拶が記されているのは、この手紙がひとりテトスのために書き送られたものではなく、テトスとクレタの教会の人々に読ませるためのものであることを示しています。

 特に「神の僕」という肩書きは、他のパウロの手紙では見ることが出来ません。これは、「不従順な者、無益な話をするもの、人を惑わす者」と呼ぶ異端的な教えを持ち込む者に対抗するために、「神の僕、イエス・キリストの使徒」と強調して語る必要があったためでしょう。

 それは、彼が使徒とされた目的を「神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くため」と記しているところにも表れています。ローマ書1章5節で「御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くため」と言い、その使命は福音宣教にあると見ることが出来ます。

 一方、「信心に一致する真理の認識に導く」(1節)とは、異端的な偽りの知識や教えから教会を守り、信仰の一致を保つように指導する信徒の教育・牧会にその使命があると読めます。キリストに立てられた使徒として、福音宣教によって多くの信徒を獲得すると共に、キリストを信じる信仰によって一致を保つよう信徒を教え導くため、特に誤った教えに惑わされないよう、心配りしていたわけです。

 それは、真理の認識、即ちキリストを信じる信仰によって、「永遠の命の希望」(2節)が与えられるからであり、この命は、偽ることのない神が、永遠の昔に約束されたものなのです(第二テモテ書1章9節、ローマ書1章2節以下)。
 
 冒頭の言葉(3節)で「定められた時に」というのは、イエス・キリストがこの世に来られたときにということです。そして、「宣教を通して御言葉を明らかにされました」とは、主イエスこそ神の御言葉そのものであり、その御言葉が人間となってこの世に現れたことを表しています(ヨハネ福音書1章1節以下、14,17,18節参照)。

 そして、神の御言葉なる主イエスの宣教により、神の御心が示されたのです。残念ながら、この世は主イエスの宣教を受け入れませんでした。かえって、主イエスを十字架につけて殺してしまいました。

 しかし、神は主イエスを死者の中から甦らせられました。神の御心は、死によって中断されません。むしろ死を打ち破られたのです。主イエスの死は、私たちの罪を贖うためのものであり、死に勝利された主イエスは、今も生きて私たちを導いてくださいます。

 そして主イエスは、宣教をご自分に従う者たちに委ねられました。パウロは「わたしたちの救い主である神の命令によって」と語って、キリストが神で、その命令で使徒となり、福音宣教の使命が与えられたと明言しています。

 私たちも同じ主によって贖われ、永遠の命を与えられました。主によって福音が委ねられています。それぞれの分と賜物を用いて、主の愛の証し人としての使命を果たしてまいりましょう。

 主よ、パウロに委ねられたキリストの福音は、宣教命令に従う者たちの言葉と行いを通して、現代の日本にいる私たちのところにまで宣べ伝えられて来ました。その福音が真理であった何よりの証拠です。私たちも、聖霊の力に与って委ねられた宣教の使命を感謝と喜びをもって全うさせていただくことが出来ますように。静岡の町に住む70万の人々に神の愛と恵みが届きますように。 アーメン




5月13日(土) 第二テモテ書4章

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」 テモテへの手紙二4章2節

 1節以下の段落は、パウロが自分の死と最後の審判を展望しながら、テモテに任務の遂行を命じるという箇所です。パウロの使徒としての使命が終わりの時を迎えており(6節以下参照)、そのバトンをテモテに手渡そうとしているところです。

 「生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエス」(1節)というのは定型句のようで、バプテスマにあたって用いられた信仰告白の一句だろうと考えられます(使徒言行録10章42節、第一ペトロ書4章5節参照)。「出現」(エピファネイア)はこの場合、終末に再びおいでになる「再臨」を意味しています(第一テモテ書6章14節、第二テモテ書4章8節)。


 冒頭の言葉(2節)は、婚約式で交換した聖書の扉に、家内が書いてくれた御言葉でした。御言葉の教師として献身し、牧師となって32年目の春を迎えています。あらためてこの御言葉が迫って来ました。

 ここに、五つの命令形の動詞があります。まず、「御言葉を宣べ伝えなさい」(ケールクソン・トン・ロゴン)と言います。何を語るのか、何を宣べ伝えるのか。それは「御言葉」(ホ・ロゴス)です。御言葉とは、神の言葉です。聖書の言葉の知識を語るのではありません。

 ですから、語るべき御言葉を神に求めます。神が告げられてもいないことを、神の御言葉として人に語り伝えることは出来ないからです。どんなに教理的に正しい話であっても、キリスト教の教理で人が救われるわけではありません。生ける神の御言葉が人に力を与え、人を救いに導きます。なすべきことを教えます。

 私たちは、神が自分に語りかけている言葉として、聖書の言葉を読みます。そこから自分に対する神のメッセージを聴くため、心の耳を澄まします。ときには、御言葉を通して感謝が心を満たします。喜びが来ます。ときには、罪を示され、悔い改めを迫られます。

 ときには、何が語られているのか分からず、一日悩むこともあります。けれども、そのように御言葉にしがみつき、御心を求めていくと、次第に御言葉が慕わしいものとなり、私たちの生活になくてはならないものとなってきます。

 ヨハネ福音書15章4節で主イエスが「わたしにつながっていなさい」と命じられましたが、それは、御霊の導きを求めつつ、神の御言葉を聴くことです。だから、同7節で「あなたがたがわたしにつながっており」に続けて「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」と言われているのです。

 次に、「折が良くても悪くても励みなさい」(エピステーシ・エウカイロース・アカイロース)とは、状況の如何にかかわらず、委ねられている任務に忠実であるようにという勧めです。

 医者は、患者を治療する時間を選びません。急を要する場合、患者の都合や自分自身の都合を脇へ置いておいて治療を施します。主の福音に仕えている伝道者たちにも、そのような心構え、準備、覚悟を求めているのです。というのも、私たちはしばしば、今が時でないという事情を思いつこうとするからです。

 勿論それは、相手に非常識になっても執拗に宣教しなければならないということではありません。相手の状況に配慮し、それを尊重するということは、紛れもなく宣教の一形態です。

 続いて矢継ぎ早に三つ、「とがめ、戒め、励ましなさい」(エレンクソン・エピティメーソン・パラカレソン)と言います。非のあった人にそれを指摘し、非を認めようとしない人を叱責し、正しい道を歩むよう励ますのですが、それは、聖書が「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」(3章16節)なものだから、それに基づいて行うのです。

 その際、「忍耐強く、十分に教えるのです」と但し書きがあります。原文は、「すべての忍耐において、そして、(すべての)教えにおいて」(エン・パセー・マクロスミア・カイ・ディダケー:with all long suffering and doctrine)という言葉遣いです。私たちは、他者を裁く裁判官ではありません。相手への愛と尊敬をもって、忍耐強く謙遜に関わることが求められています。

 「だれも健全な教えを聞こうとしない」(3節)とき、そのような人々に真心から寄り添い、健全な教えを伝えるというのは、なかなか出来るものではありません。そこであせらず、慌てず、希望を失わずに、文字通り忍耐強く神に尋ねましょう。私たちの心が十分に満たされるまで、恵みを求めましょう。求め続けましょう。

 「(いかに幸いなことか、)主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(詩篇1編2,3節)と詩編の記者は詠いました。

 主の教えが生ける水の流れで、それを愛し、口ずさむ人は、「することはすべて、繁栄をもたらす」と言われます。命の水につながるとき、私たちは活き活きと成長し、時が来れば実を結ぶことが出来るのです。流れのほとり、神の命溢れる御言葉を自分の側近くに置きましょう。

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」とローマ書10章8節に言われるのも、このことです。御教えを慕い求め、御言葉を口ずさみ、心に豊かに宿らせましょう。

 主なる神様、いつも主の教えを愛して、昼も夜もその教えを口ずさみます。どうか、私たちの心にキリストの言葉を豊かに宿らせてください。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から主をたたえさせてください。御言葉に従って歩み、宣教の業に励む私たちの生活を通して、主の栄光が表されますように。 アーメン




5月12日(金) 第二テモテ書3章

「聖書はすべて神の霊の導きのもとに書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」 テモテへの手紙二3章16節

 これから困難(1節以下)を経験するであろうテモテをはじめとする教会の指導者たちに、10節以下で「最後の勧め」として励ましを与えます。その中心メッセージは14節の「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」ということです。

 信仰によって生きる者には、迫害が待ち受けています(12節)。また、信仰の道から離れさせようとする惑わしもあります(13節)。当時、様々な教えに振り回されて真理からそれて行くキリスト者が少なくなかったのです。特にグノーシス主義(霊的な知識を重んじるグループ)には、どちらが正統であるか分からなくなるほどの影響を受けていました。それと戦わなければならないわけです。

 パウロは、「自分が学んで確信したことから離れるな」と命じる根拠を二つ挙げています。一つは、それを「だれから学んだか」(14節)を思い出すことです。誰からかといえば、勿論パウロから学んだのです。1章13節にも、「わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」と語られていました。パウロから学んで得た確信に堅く立てと言われているわけです。

 実は、この「だれから」(パラ・ティノーン)というのは、「だれ」(ティス)の複数形が用いられています。つまり、「教師」はパウロ一人ではないわけです。そこで想定されているのは、テモテの母エウニケや祖母ロイスでしょう(1章5節)。母たちから純真な信仰を学び、受け継いだのです。それは、15節の「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っている」という言葉からも窺えます。

 ユダヤ教では、5歳になると聖書を読むように教えられたそうです。テモテの場合、父親がギリシア人ですし(使徒言行録16章1節)、生後八日目の割礼も受けていなかったことから(同3節)、それを厳格に行うことが出来たかどうかは不明です。それでも、テモテが幼いときから聖書に触れる環境にあったことは事実でしょう。

 二つ目の根拠は、その聖書です。主イエスも、悪魔の試みに遭われたとき(マタイ福音書4章1節以下)、申命記の御言葉をもってその誘惑を退けられました。ここに「聖書」([タ]・ヒエラ・グランマタ)と記されているのは、旧約聖書のことです。この手紙が記された頃、まだ新約聖書はまとめられていなかったからです。

 旧約聖書を指して「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」(15節)と記されていることを、しっかり受け止めましょう。旧約聖書からキリストの福音を聞くことが出来るということですし、聞かなければならないのです。

 なぜならば、 冒頭の言葉(16節)に言うとおり、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」たからです。神の霊は、主イエスが話したことを思い起こさせ(ヨハネ福音書14章26節)、主イエスについて証しをされます(同15章26節)。だから、神の霊の導きの下に書かれた旧約聖書に、キリストの福音が記されているわけです。

 そして、主イエスご自身が、[あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ」(同5章39節)と仰っています。主イエスを証しする書物として旧約聖書を読むように教えられます。

 また、神の霊は「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(同16章8節)と言われています。神の霊の導きの下に書かれた聖書が「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)と言われる所以です。

 「導く訓練」(パイデイア)というのは、[子ども」(パイディオン)に関係があり、「教え育てる」という意味の言葉です。何でもインスタントに手に入れるというわけにはいきません。子どもが様々なことを学びながら成長するように、時間をかけて学びます。

 「義に導く訓練」ということは、神との正しい関係に導く訓練、神との正しい関係における教育ということです。人と交わり、関係を深めるには、時間がかかります。神と交わり、その関係を深めるのにも、時間が必要なのです。

 絶えず御言葉に聴き、御言葉が示す主イエスを信じる信仰の道に歩み、その真理に堅く立ちましょう。

 主よ、今日も私たちを御言葉で養い、導きをお与えくださって有難うございます。世の惑わしから、悪の誘いから、私たちを守ってください。聖書の真理に目を開かせてください。目を覚まして、信仰によって歩ませてください。主に仕える者として善い業を行うことが出来るよう、十分に整えてください。 アーメン






 パウロは最後の勧めとして、「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」(14節)と語ります。当時、様々な教えに振り回されて真理からそれて行くキリスト者が少なくなかったのです。特にグノーシス主義(霊的な知識を重んじるグループ)には、どちらが正統であるか分からなくなるほどの影響を受けていました。
 テモテが正統な教えにとどまるために、二つのことを思い出させます。一つは、彼の信仰の指導者のことです(14節後半)。それは勿論パウロです。パウロは彼が信じ、宣べ伝えたキリストの福音のゆえに様々な試練、迫害を受けていますが、それに耐えました(11節)。後に続くテモテにも、パウロのことを思い出して、試練と迫害に耐えて、パウロから学んだところに堅く立つように、というわけです。
 しかし、テモテの指導者はパウロだけではありません。「それをだれから学んだか」という言葉の中の「だれから」というのは、実は複数形なのです。パウロは一体だれを、テモテの信仰の指導者と考えているのでしょうか。それは、「祖母ロイスと母エウニケ」(1章5節)です。彼女たちの信仰の指導は、とくに「幼い日から聖書に親しんできた」(15節)というところに表われています。ユダヤでは、子どもが5歳になったら聖書を読むように教えるのが慣わしでした。テモテの父はギリシャ人でしたが、彼は母方の宗教指導を受けて育ったのです。そしてそのことは、テモテにとって大きな恵みでした。
 それは、幼いときから聖書に親しんだことで、彼に純真な信仰を抱かせたからです(1章5節)。15節にも、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」と記されています。パウロはテモテに、もう一つのこととして、聖書に親しんできたこと、学んだことを思い出して、御言葉に堅く立つように、と勧めているのです。主イエスも、悪魔の試みに遭われたとき(マタイ福音書4章1節以下)、申命記の御言葉をもってその誘惑を退けられました。
 冒頭の言葉にあるとおり、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」ました。ということは、聖書を読むとき、神の霊の導きが必要だということになります。聖書を読みさえすれば、だれでも簡単に信仰が持てるというものではないわけです。けれども、神の霊の導きを受けるというのは、難しくありません。神は御自分の御心を隠そうとしておられるのではなく、聖書の御言葉を通して、御心を示そうとしておられるからです。ただ、何でもインスタントに手に入れる、というわけにはいきません。人と交わり、関係を深めるには、時間がかかります。神と交わり、その関係を深めるのにも、時間が必要なのです。
 聖書は、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」と語られます。「教え、戒め、誤りを正し、魏に導く」のに有益というのではなく、それらの「訓練をするうえに有益です」というのです。私たちが御言葉の前に謙り、御言葉に従うことで、信仰が導かれます。整えられます。そうして、神との交わりが深められていくのです。

 主よ、あなたの御言葉をお与えくださって、感謝致します。いつも御言葉を思い起こし、絶えず口ずさみ、そうして、信仰の実を豊かに結ぶことができますように。 アーメン


12月6日(火) 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」 第二テモテ書3章16節


5月11日(木) 第二テモテ書2章

「そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」 テモテへの手紙二2章2節

 1節に「あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」とあります。ここで、「強くなる」(エンドゥナモオー)というのは、体力的に強くなるということではありません。精神的な強さとも少し違います。

 この言葉は、牧会書簡の中で3回用いられています(一テモテ書1章12節、二テモテ書2章1節、4章17節)。第一テモテ書1章12節では、伝道者の務めに就かせて頂いたということと同じ意味で用いられています。第二テモテ書4章17節では、福音があまねく宣べ伝えられるために力づけられたと語られています。

 つまり、牧会書簡では「強くなる」という言葉が、伝道者としての使命が与えられ、その使命を全うするという意味で用いられているわけです。ですから、ここでもパウロはテモテに、神の御言葉に従い、伝道者としての使命を全うすること、その故に苦しみをも喜んで受けることを命じているわけです(3節参照)。

 また、「強くなりなさい」というのは、自分の意志や努力で強くなることではありません。「キリスト・イエスにおける恵みによって」と言われます。私たちを強くするのは神の恵みなのです。そして、「キリスト・イエスにおける」とは、「キリスト・イエスの中にいる」(エン・クリストー・イエスー:in Christ Jesus)という言葉です。

 パウロはローマ書5章6節で「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められたときに、不信心な者のために死んでくださった」と語っています。そこにある「弱かったころ」という言葉を、同8節では「わたしたちがまだ罪人であったとき」と言い換え、そして同10節では「敵であったときでさえ」と言います。

 パウロが考えている弱さとは、罪のゆえに神の敵となっていることです。そこで「強くなる」とは、御子キリストの死によって罪赦され、その血によって義とされ、神と和解させて頂いたということで、今や、神が自分の味方となってくださったということになります(同8章31節)。自分で自分の罪を赦し、神に味方していただくようにすることは出来ません。神様にしていただくほかないのです。

 神の御子キリスト・イエスが私たちの罪のために、十字架で贖いを成し遂げてくださり、私たちの罪が赦されました。そして神は、私たちのために、私たちの内に聖霊を遣わしてくださいました。聖霊を通して、私たちの心に神の愛が注がれています(同5章5節)。こうして神は、主イエスを信じる信仰を通して、すべての人に神の恵みを注ぎ与えてくださっているのです。

 すべての人が神の恵みを味わうのは何のためですか。その恵みに強められて、神の御業、その使命を全うするためです。

 冒頭の言葉(2節)で「多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人にゆだねなさい」と言います。パウロがテモテに教えたことを、忠実な人に委ねると、彼らはそれを他の人々に教えます。ここに、テモテのなすべきこととして、三つのことが語られています。

 まず、パウロの教えを聞くことが上げられます。人に何かを教えるためには、何を教えるのか、教師自身が学ばなければなりません。私たちもそうです。御言葉を伝え、証しするために、まず神の御言葉を聴きましょう。礼拝で、教会学校で、そして、朝ごとのデボーション、清聴の時間に御言葉をいただきましょう。

 そして、その教えをほかの人に伝えることが示されます。教会学校や家庭集会、また個人的な交わりの中で証しすること、御言葉の恵みを分かち合うことです。私たちは他の人に教え、伝え、語ることを通して、さらに強く深く、御言葉を学び、恵みを味わいます。

 それから、聞くこと、伝えることにおいて他の人の模範になれる人を見出して、その人に教える仕事を委ねるようにと指導しています。模範になれる人の要件とは、その人の有能さや賢さではなく、忠実さです。「忠実(ピストス)」は、「信頼できる」とも訳されます。主に信頼される忠実さを持ちたいものです。

 それは、主の御言葉を聴く忠実さ、そして、聴いたことを実行する忠実さですが、ここでは、聴いたことを教える忠実さが語られています。パウロは、テモテにその忠実さを見出したわけです。

 パウロは、「多くの証人の面前で」と言っています。これは、テモテが伝道者に任命されたときのことを想像させる言葉です。パウロ自身が大切なこととして受けた教え(第一コリント書15章3節以下)を、忠実なテモテに与えました。その教えを広く告げ広めるように按手の祈りがなされて、テモテは伝道者に任命されたわけです。

 そして今度は、テモテが伝道者を生み出す教師として、忠実な人にその大切な教えを委ね、福音宣教の働きが広げられるようにと命じているのです。

 これは、弟子作りといわれる部分です。パウロが殉教した後、テモテが自分に代わって使徒の務めを果たすことを期待し、使徒としての働きをテモテに委ねようとしているのです。こうして、パウロの受けた教えがテモテに受け継がれ、テモテが受けた教えが忠実さを認められた人に受け継がれ、そしてその人々からさらに他の人々に告げ広められます。教えが鎖のように受け継がれ、広げられるように指導しているわけです。

 8節で「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」と語ります。原文を文字通り直訳すると、「思い起こしなさい、イエス・キリストを、復活された、死の中から、子孫から出た、ダビデの、わたしの福音によれば」となります。

 つまり、言葉の順序として、ダビデの子孫として生まれたということよりも前に、死者の中から復活されたということが語られているのです。「イエス・キリストが死者の中から復活された」ということこそ、「わたし(パウロ)の福音」なのです。主イエスは生きておられます。十字架にかかって死ぬという苦難の道を歩まれました。そして、復活され、神の栄光を受けられました。

 キリスト者たちは日曜日に礼拝します。それは、主イエスが「週の初めの日」(マルコ福音書16章2節など)、つまり日曜日に甦られたことを記念しているのです。
「キリストが甦られた」という福音を、記念としていつも思い起こすのは、思い出として忘れないためなどではありません。

 キリストは苦しみと十字架の死を通して、神の栄光を表されました。主イエスに従う者も、主イエスの辿られた道を歩むのです。そこには苦難があるでしょう。意気消沈し、臆病になることもあるでしょう。しかし、苦難の向こうには、神の栄光が輝いているのです。そのその喜びに満ちた輝かしい希望を忘れないように、この福音をいつも思い起こすのです。

 キリストが復活され、今も生きておられるということが、どんなに大きな喜びであり、希望であるかということを、パウロは自らの死を前に、深く味わっています。このキリストが甦られたという福音を告げ知らせる務め、御言葉を教える務めを、テモテに委ねます。9節で、「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」と語っています。

 これは、自分の体は鎖につながれていても、口は動く、神の言葉を語ることが出来るという意味もあります。パウロは、留置所でも法廷でも、堂々と福音を告げ知らせていたことでしょう。しかし、神の言葉がつながれていないというのは、福音をテモテに伝え、そのテモテがそれを忠実な人に伝え、忠実な人がさらに他の人に告げ広める働きが、エフェソにおいて、そしてやがて全世界で展開されることを、語っているのです。

 「わたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい」という命令は、変更されてはいません。私たちにも与えられているのです。日毎に主の御言葉を聞き、豊かな恵みを受け、その恵みに強められ励まされて、周りの人に御言葉の恵みを証ししましょう。

 主よ、絶えず御前に謙り、朝ごとに御顔を慕い求め、御言葉に耳を傾けさせてください。あなたが光の内におられるように、私たちも光の内を歩ませてください。主との親しい交わりの内に強められ、委ねられている使命に忠実に、喜びと感謝をもって励むことが出来ますように。 アーメン






5月10日(水) 第二テモテ書1章

「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」 テモテへの手紙二1章8節

 本日から、テモテへの手紙二を読み始めます。冒頭の言葉(8節)に「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と言い、12節で「恥じてはいません」、16節には「恥とも思わず」と、「恥」という言葉が1章で3度も語られます。

 6節の「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように」、7節の「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった」という言葉と合わせ、ローマ帝国による迫害を恐れ、「俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論」(第一書6章20節)などに惑わされて福音を恥とする思いに捕らわれないよう、励まそうとしているようです。

 使徒パウロは、「わたしは福音を恥としない」(ローマ書1章12節)と言います。こういう言い方をする背景には、福音が恥とされることがあるということです。かつてパウロは、キリストの福音を恥と考えて、キリスト教会の撲滅を図る迫害者でした。

 しかし、パウロはその福音によって義とされ、永遠の命を受けました。「恥としない」というよりもむしろ「誇りとする」という者になっているのですが、あえて「恥としない」という言い方をして、自分の経歴を滲み出させているのだと思います。

 恐れや不安に脅かされている指導者たちを励ますのに、まず、自分がどのようにして信仰の道に入ったのかを思い起こさせます(5節)。テモテは、パウロの伝道を通して主を信じる者となったのですが、その信仰は祖母ロイスと母エウニケから受け継いだものです。信仰が受け継がれていて、テモテもその素晴らしさを知っていたのです。

 私たちも、自分がどのようにして信仰の道に導かれたか、思い出してみましょう。生まれつきクリスチャンという人はいません。また、初めからクリスチャンになりたいと思っているいた人もいないでしょう。色々な人や出来事との出会いを通して、主イエスを信じる信仰に導かれました。そして、それらの出会いの背後には、神様のお導きがあったのです。

 そして、祖母ロイスの信仰が母ユニケに、そしてテモテにも受け継がれたように、私たちの信仰も子に孫に受け継がれていく必要があります。また、テモテがパウロの伝道によって信仰に導かれたように、私たちの周りにいる知人や友人に福音を告げ知らせる責任が私たちにあります。そのため、主の導きを真剣に祈りましょう。

 ついでパウロは、神の賜物が与えられていることを思い起こさせます(6節以下)。「わたしが手を置いたことによって」(6節)とは、テモテを伝道者に任命し、その働きのために祝福の祈りをすることです。ということは、神の賜物とは、伝道者としての使命が与えられたこと、そして、その使命のために必要な霊的な知恵や力が授けられたことを示しています。

 「賜物を、再び燃え立たせなさい」(6節)と言われているということは、今それが十分に燃えていない、くすぶっていて、そのまま放置すれば消えてしまうような状態になっているということではないでしょうか。かつては熱く燃えていた信仰が、だんだん生温くなり、いつしかその火が消えかかってきているとすれば、問題でしょう。

 ヨハネ黙示録3章14節以下のラオディキア教会のように、主から、「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」と言われてしまいます。
 
 それでは、どうすれば賜物を再び燃え立たせることが出来るというのでしょうか。パウロは、神が私たちに聖霊を与えてくださったと言います。そしてその霊は、「おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊」(7節)と言われています。臆病にさせる霊ではなく、力と愛と思慮分別を与える霊をお与えくださったというのです。

 「聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」と使徒言行録1章8節に約束されています。そして、同2章1節以下で、約束の聖霊が降ったとき、弟子たちは力を得ました。それまで、ユダヤ人たちを恐れて鍵を厳重にかけて部屋に閉じこもっていたのに、力を受けるやいなや 、いつの間にか部屋の外に飛び出して主イエスの復活を力強く証言していました(同4節)。

 そして、彼らの様々な国の言葉で語り出した神の偉大な御業の証言、使徒ペトロが語り告げた説教(同14節以下)を通して、3000人もの人々が主イエスを信じて群れに加わりました(同41節)。彼らは互いに愛し合い、すべての持ち物を共有にするという生活をしたと報告されています(同44,45節)。

 かまどの中でよく燃えている薪でも、一本だけ取り出してよそに置けば、すぐに火が消えてしまいます。しかし、もう一度かまどの中に戻せば、再び燃え始めます。テモテも、神から召されて「多くの証人の前で立派に信仰を表明」(第一書6章12節)することが出来ました。しかし一人遣わされて奉仕を続ける内に、臆病風に吹かれて火が消えかかるようなことがあったのです。

 また、私たちはいつも側にいる人、側にあるものに影響されます。短気な人や神経質な人の側にいて、暢気で鷹揚にしているのは易しくないでしょう。いつの間にか自分もイライラしてきます。嫌な気分になっています。臆病のオーラを放っている人の側にいたら、自分も心配性になるでしょう。反対に、どんなときにも落ち着いている人が側にいれば、私たちも落ち着くことが出来ます。

 あなたの側にいるのはどなたですか。その方は、臆病な方ではない、力と愛と思慮分別に満ちている聖霊なる神様なのですと、パウロが教えてくれます。これは、パウロ自身が今、心で体で味わっていることでしょう。パウロの内に力と愛と思慮分別に満ちた聖霊がおられ、彼に、力と愛と思慮分別を与えてくださっているのです。

 だから、殉教の死を前にしているパウロが、臆病になっているテモテを慰め、励ましているのです。4章9節に「急いでわたしのところへ来てください」とあります。それはパウロ自身の必要でもあることでしょうけれども、一緒にいて苦しみを共にしながら、その苦しみに打ち勝つ「力と愛と思慮分別の霊」の強さをも、共に味わいたいのです(8節)。

 私たちも臆病です。ですから、与えられている信仰、私たちに与えられた召しと賜物のことを、そして、私たちの内に、私たちと共におられる聖霊なる神のことを絶えず思い起こし、祈りと御言葉を通して、ほかの人々をも慰め励ますことの出来る力と知恵をいただきたいと思います。

 力と愛と思慮分別の霊に満たされて日々御言葉に耳を傾け、委ねられている主の御業に共に励みましょう。主にあって、私たちの労苦は決して無駄になることがありません。

 主よ、どうか私たちの心の眼、信仰の目を開かせてください。御言葉と祈りを通して、主をさらに深く知ることが出来ますように。信仰に立って、委ねられた賜物を主のために用いることが出来ますように。力と愛と思慮分別の霊に満たしてください。そうして、慰めと励ましに溢れる愛の教会を共に建て上げることが出来ますように。 アーメン




5月9日(火) 第一テモテ書6章

「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」 テモテへの手紙一6章12節

 11節に「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」とあります。ここで、避けるべき「これらのこと」というのは、3節以下に記されている欲望に支配された生き方のことです。

 そして、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」と列挙されて、いわば信仰の心、心の姿勢において重要なことがここに示されます。そして、それを追い求めなさいと語っているのです。

 その初めに「神の人よ」という呼びかけの言葉があります。新共同訳聖書では、「神の人」という言葉が、合計76回用いられています。そのうち75回は旧約聖書に用いられていて、新約聖書では、この箇所だけです。原文で見ると、実はもう一箇所、第二テモテ書3章17節にも、「神の人」と記されているのですが、新共同訳聖書は、なぜかそこを「神に仕える人」と訳しています。

 旧約聖書で、モーセ(申命記33章1節など)、サムエル(サムエル記上9章6節など)、ダビデ(歴代誌下8章14節)、預言者シェマヤ(列王記上12章22節)、エリシャ(列王記下5章8節)などが「神の人」と呼ばれています。即ち、神の人とは、神に託された使命を果たすために、神の特別な霊感を受け、権威を授けられた人のことをいう表現であると言えます。

 新約聖書では、用例がこの箇所と第二テモテ書3章17節の2箇所だけです。ここで「神の人」と呼ばれているのは、言うまでもなくテモテのことですが、教会の指導者として立てられた人々のことをそう呼んでいると考えられます。

 指導者たちを「神の人」と呼んでいるのは、彼らが神の使命を果たす者として選ばれた者であることを示し、その自覚をもって働くように促しているのです。というのは、避けるべき内面的な事柄だけでなく、外に厳しい戦いがあるからです。

 13節の「万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエス」という言葉で、「神の人」の直面する戦いが、「命」の危機をもたらす、殉教覚悟の戦いであることを暗示しています。

 第二テモテ書1章7,8節にも、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と言われています。

 だから冒頭の言葉(12節)で、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」と命じています。「戦い」(アゴーン)は「競技、組み打ち」という言葉ですが、「苦闘、努力、苦心」という意味で用いられます。英語のアゴニー(agony)は、ここから出たものでしょう。

 定冠詞をつけてジ・アゴニー(the Agony)というと、受難前のゲッセマネでの主イエスの苦悩の意味になると、辞書に書いてありました。使命のために起こる苦しみ、迫害や試練などの苦しみを指しているわけです。

 私たちには、信仰生活上、担うべき痛みや苦しみがあり得る。負わなければならない十字架がある。主イエスが、ゲッセマネで。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたのは、この十字架が悲しく辛いものだったからです(マルコ福音書14章36節など)。

 けれども、十字架を負うことが神の御心であるならば、「わたしが願うことではなく、御心に適うことができますように」(同36節)と祈られるのです。つまり、苦しみに打ち負かされず、使命を全うする、それが、「信仰の戦いを立派に戦い抜」くということなのです。

 「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)とパウロが語っていましたが、苦しみを通して与えられる神の恵みと栄光が絶大なので、それを恵みの賜物と語っているわけです。

 私は以前、持病から体調を壊して2ヶ月半ほど教会からお休みを頂いたことがあります。その後、体調も含めて色々なことに自信を失うという、精神的にも不安定な状態になりました。何をやっても、どんなにやっても、これでよい、大丈夫という思いにならず、他人の視線が気になり、何か批判されると、必死にそれに対応しようとしていました。

 色んなことをやろうとして、すべて中途半端になってしまうというようなことで、いつしか、牧師を辞めたいという気持ちが芽生え、次第に大きくなりました。いつ辞めようか、どうやって辞めようか、教会に迷惑をかけずに牧師を辞する方法はないかと、始終考えているような状態でした。

 神様はそんな私に、一つのメッセージを与えてくださいました。それは、病気をして2年ほと後の超教派牧師会で頂いた、ルカ福音書5章からの説教です。一晩中漁をして一匹もとれず、疲労困憊していたペトロに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(同4節)と主イエスが言われ、それに従うと、大量に漁れたという話です。

 完全に自信を失い、疲れ果てているペトロが、やっても無駄としか思えないときに、「お言葉ですから、やってみましょう」(同4節)と言えたのは何故か。それは、主イエスの足もとにすわり、主イエスの語られた話を聞いたから(同3節)、というのがその時のメッセージでした。

 考えてみれば、魚が漁れなかったのは、ペトロの腕が落ちたからではない。主イエスの言葉に従って大漁になったのも、当然のことながら、ペトロの腕が上がったからではありません。漁れるはずの時に何も漁れず、漁れないはずのときに大漁になったのは、いずれも神の御業です。主の御言葉に従う恵みをペトロに教えるために、何も漁れない夜と御言葉に従って大漁となる昼を経験させられたのです。

 私たちが神に召されたのは、私たちの知恵や能力、経験、努力で実を豊かに結ぶからというようなことではなくて、いかに神の御言葉が真実で力のある確かなものであるかということを、まず私たち自身が知り、その喜びをお伝えするためなのです。

 「人間をとる漁師になる」(同10節)というのは、私たちの能力や経験が問われるのではなく、私たちを漁師とされる主イエスに対する信頼の心を私たちが持って、いつでも「お言葉ですからやってみましょう」と答えられるように心が整えられているかどうか、そのために、いつも主イエスの足もとに座って、主イエスの言葉を聞いているかどうか、それが鍵だと教えて頂いたのです。

 「信仰の戦いを立派に戦い抜き」(12節)と言った後、「永遠の命を手に入れなさい」(12節)と語ります。この「永遠の命を手に入れなさい」というのは、少し意外な言葉です。パウロが命との関連で「獲得する」という言葉を用いることは、この手紙以外にはありません。パウロは、命は獲得するものではなく、賜物として与えられるものと教えているからです(ローマ書6章23節など)。

 ここで「永遠の命を手に入れなさい」と言われているのは、福音を宣べ伝えた者が、自ら失格者になるなという意味ではないかと思われます(第一コリント書9章27節参照)。パウロは、自分が主イエスを信じて救われたことと、使徒としての使命が授けられたことを、表裏一体の関係として捉えています。使徒となるために救いの恵みを受けたというわけです。

 テモテも、神に召されて多くの証人、キリスト者たちの前で信仰の表明をしました。教会の指導者として、いつでも人々の前で福音を宣べ伝える使命を果たすこと、それが命の恵みに与っているしるしであると言われているのです。

 今、私たちが果たすべき最も大切な使命は、神を礼拝することだと思います。それは、日曜日、教会で行われている礼拝に出席することだけではありません。いつでもどこでも、どんな時でも、神を仰ぐ。主こそ神である。私たちに語りかけられる主イエスの御言葉を聴く、その御言葉に従うことです。そのときに、神の御心がはっきり示されます。

 御言葉に従って生きる、生活をすることを通して実を結ばせていただきましょう。能力に応じ、賜物に応じて、主の業のために共に励みましょう。

 主よ、御言葉を通して主の御心を悟り、あなたの恵みに支えられて、委ねられた使命を果たすという信仰の戦いを立派に戦い抜くことが出来ますように。あなたの憐れみに応え、私たちの体をあなたに喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げさせてください。御名が崇められますように。 アーメン






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