風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

4月16日(日) エフェソ書5章

「あなたがたは以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」 エフェソの信徒への手紙5章8節

 1節の「神に倣う者となりなさい」と記されている言葉に目が留まりました。「神に倣う」という言い方は、聖書中、ここにしか出てきません。ただ、神がどのようなお方であるのか、どのように言葉を発し、行動されているのかなどを知って、そのとおりに生きようと考えるならば、それは、当然のことながら、誰にも出来はしません。神に倣えと語るパウロ自身も失格でしょう。

 この言葉の前に、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4章32節)と記されています。神が赦されたように赦し合いなさいという言葉から、「神に倣え」という表現が出て来たと考えてもよさそうです。そうすれば、神に倣うとは、互いに赦し合うということになります。

 2節に、「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」とあります。「神に倣え」と語った後で、キリストに倣い、「愛によって歩め」というのですから、神に倣うとはキリストに倣うことであり、キリストに倣うとはキリストの愛の内を歩くということになります。

 「歩む」は、生活すること、生きることを意味します。パウロは、第一コリント書12章31節で、愛のことを「最高の道」と言いました。最高の道を歩くこと、つまり愛によって生きることが、キリストに倣うことであり、神に倣う生活であるということになるのです。

 私たちの心に神の愛を注がれるのは、聖霊の働きです(ローマ書5章5節)。私たちの祈りに応えて、神は聖霊を通して、神の愛をあふれるほどに豊かに注いで下さいます。この聖霊は、私たちに「アッバ、父よ」と呼ばせる霊であり(ガラテヤ書4章6節)、私たちが神の子であり、御国を受け継ぐことの保障なのです(エフェソ書1章13,14節)。

 18節には、「霊に満たされなさい」と語られています。聖霊を通して主の御心を悟り、神に愛されている子供として歩むためには、聖霊に満たされる必要があるのです。神に倣うとは、聖霊に満たされ、その導きに従って生きる生活をすることということです。

 冒頭の言葉(8節)で「光の子として歩みなさい」は、口語訳では「光の子らしく歩きなさい」と訳されています。「光の子らしく」とは「光の子にふさわしく」という意味です。「光の子」とは、私たちキリストを信じる者のことですが、1節では、「神に愛されている子ども」と記されています。神に愛されている子どもとして、愛によって歩むことが、光の子として歩むことであると示されます。

 3節では「聖なる者」と言われ、聖なる者にふさわしく、色々の汚れた言葉やみだらな冗談を避け、むしろ、感謝を表しなさいと勧めます(4節)。つまり、自分の欲に心奪われず、神の恵みに絶えず目を留め、関心を払い、喜び感謝する生活です。

 リビングバイブルは冒頭の言葉を「あなた方の心は以前は暗やみにおおわれていましたが、今は主からの光にあふれています。そのことを態度で示しなさい」と訳しています。「光の子として歩みなさい」を、「そのことを態度で示しなさい」としているわけです。

 この訳語について、「幸せなら手を叩こう」の作者・木村利人氏(元早稲田大学教授、元恵泉女学園大学学長)は、「幸せなら態度で示そうよ」の歌詞が 、リビングバイブルの翻訳に影響を与えたのではないかと仰っていました。

 木村氏は第二次世界大戦終戦後、早稲田大学の学生として参加したフィリピンでのYMCAワークキャンプで経験したことを、詩編47編2節の「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」という言葉を読んで、「幸せなら手を叩こう」を作詞されたそうです。

 それは、神によって生かされている平和の「幸せ」を「態度に示して」生きていくようにと、私たちは神によって召されていることをフィリピンの友人たちから教えられ、その感謝と感激の体験を帰国途次の船中で作詞したということでした。

 「光の子」に対して、6節に「不従順の者たち」という言葉があります。「者たち」の原語は「子どもたち」です。不従順を「暗闇」と言い、それが以前の私たちの状態だったことを冒頭の言葉は示しています。つまり、神を知らない、主に結ばれていない、不従順な状態を暗闇というわけです。それに対して、神に愛され、主に結ばれた私たちは「光」となっていると言います。

 私は、自分が「光」であるとは思っていませんでした。あらためて、聖書は私のことを、光に照らされている者と言っているのではなくて、「光となっている」と語っていることを心に留めます。

 これは勿論、私たちが自分で光となれるということではありません。私たちが自分で光を放つことが出来るはずもありません。しかし、「光あれ」と言われて光を生じさせることのお出来になる神が、私に「光となれ」と仰せになれば、私は光となるのです。

 光は、自分自身が光であることを認識していなくても良いかもしれません。光の役割は、自分で自分の輝きを認識することではなく、周りを照らして明るくすることです。ただ、人の目を幻惑するほどの強い光はかえって迷惑です。

 雨の降る闇夜の山道を歩いたことがあります。全く光が見えず、這うようにして通った場所もありました。一人で本当に心細くなりました。そろそろと進んでいくうち、遠くにぽつんと窓の灯りが見えたとき、これでなんとか無事に家に帰れると、嬉しくなったことを思い出します。その家の人は、私がその窓の光で元気づいたことを知りません。しかし、私にとってそれは、確かな道しるべでした。

 神は、私たちが神に愛されている者として愛によって生きているとき、あるいはまた、聖なる者として神の恵みに注目し、感謝して歩んでいるとき、私たちを「光」として用いてくださっているのです。

 誰が見ているかは分かりません。どのように用いられているかも分かりません。しかし、その光を通して、「あらゆる善意と正義と真実とが生じる」と言われます。主を信じ、主を愛して進んで参りましょう。

 主よ、あなたは、以前は暗闇であった私たちを「光の子」と呼び、光としてくださいました。光の子にふさわしく、聖霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、あなたに向かって心からほめ歌うことが出来ますように。そして、いつも、あらゆることについて、あなたに感謝することが出来ますように。 アーメン




4月15日(土) エフェソ書4章

「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ。」 エフェソ書4章5節

 主を深く知り、その愛に満たされる祈りに導かれた教会に、4章から具体的な信仰の勧めを与えます。その勧めの基本は、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」(1節)と言われていることです。原文に「神から」はありませんが、敢えて意訳されています。

 「招き」(クレーシス)は「召し、召命」と訳される言葉です(口語訳など参照)。これは、特定に任務への招き、召しというのではなく、救いに導かれたことを指します。「招きにふさわしく」とは、主イエスの救いに与った者としてということです。それを「招き」というのは、呼び集められて教会を形作るためです。ここに述べられるのは、教会生活上の勧めと言うことになります。

 そこで先ず、「一致を保つように努めなさい」(3節)と言われます。主の広く、長く、高く、深い愛に根ざし、その愛に基づいて生活する教会が、分裂するはずはないからです。しかし、小さなすれ違いや誤解が分裂の種になります。どうしても馬が合わないという人もいます。

 そこで、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保ちなさい」(2,3節)という言葉になるわけです。勿論それは、一致のための一致ではありません。私たちは主イエス・キリストによって贖われ、罪赦されて神の子となり、神の家族としていただいたのです。

 私たちが兄弟姉妹の絆で結ばれたのは、神の愛のゆえです(コロサイ3章12節参照)。私たちの内にキリストが住まわれ、永遠の命を与えていただいているのですから、同じ命に生かされている兄弟姉妹が愛し合うのは当然です。むしろ、喜びです。

 表現が適切でないかもしれませんが、私たちは主の命を移植されて生かされた兄弟姉妹なのです。共に主によって生きる者としていただいていることを喜び合う、そのために、謙遜、柔和や寛容、愛を伴う忍耐をもって「平和」に過ごすのです。それは、キリストこそ、平和だからです(2章14節)。それを「霊による一致」というのは、人間的努力で成し遂げることは出来ないということでしょう。

 4~6節は、「霊による一致」(3節)を勧告する根拠を示しています。この箇所は初代教会の讃美歌ではないかという注解者がいます。そこで「体は一つ、霊は一つ」(4節)と言い、冒頭の言葉(5節)で「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ」(5節)、そして「すべてのものの父である神は唯一」(6節)。ここに「一つ」が連呼されます。

 「体は一つ、霊は一つ」(4節)は、キリストの体としての教会と聖霊の一致を示します。

 そして、冒頭の言葉を原文で見ると、「一つ」の男性形「ヘイス」、女性形「ミア」、中性形「ヘン」がそれぞれ、主(キュリオス)、信仰(ピスティス)、バプテスマ(バプティスマ)にあてられています。この用語法で、すべてのものが一つに結ばれていることを、象徴的に言い表しているようです。

 6節の「父である神は唯一」の「唯一」は5節の「一人」と訳されているのと同じ「ヘイス」です。それを「唯一」と強調された訳文になっているのは、イスラエルの基本的信仰告白の「我らの神、主は唯一の主である」(申命記6章4節)に合わせたのでしょう。

 かくて、4節に聖霊、5節に主イエス・キリスト、6節で父なる神と、三位一体なる神が教会の一致の根拠であるというのです。私たちを愛し、深く憐れんでくださった唯一の神が、私たちのために独り子イエスを遣わし、贖いの業を成し遂げられました。そして、聖霊によって主イエスを信じる信仰に導かれ、そうして私たちは救われました。

 洗礼=バプテスマは、私たちが古い自分に死に、主イエスの新しい命の中に浸されたことを象徴するものです。まさしく、唯一の神の愛により、神の独り子、主イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは一つの命につながるものとされたのです。

 一つの命につながり、一体となったということは、顔かたちがみんな同じになったということではありません。皆が同じことをしなければならないということでもありません。

 顔に目があり、鼻があり、耳があり、口があり、体に手があり、足があり、おなかがあり、背中があるというように、各々の形も機能も違います。私たちは互いに、キリストを頭とする体の一部分(第一コリント12章27節)、キリストを幹とする枝なのです(ヨハネ15章5節)。

 互いに違うことを認め、場合によっては馬が合わないことを認め合いながら、しかし、キリストを信じる信仰と聖霊の導きによって主の御業ために協力し合います。祈り合います。助け合います。神の愛と平和がダイナミックに働く教会となるように、主の恵みと聖霊の導きを祈りましょう。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマ書11章36節)。

 主よ、私たちは違いが気になります。外面の違いによって一致が阻まれます。どうか目を開かせてください。主イエスを信じる信仰により、同じ命に生かされている兄弟姉妹であることを喜び、平和の絆で結ばれ、聖霊による一致に導いてください。それによって私たちが神の招きに相応しい歩みが出来るようになるためです。栄光が永遠に主にありますように。 アーメン






4月14日(金) エフェソ書3章

「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」 エフェソの信徒への手紙3章19節

 3章は、使徒パウロの異邦人伝道にかけたその使命を確認し(1~13節)、読者のための執り成しの祈り(1~19節)と頌栄(20~21節)をもって、手紙前半の教理的な部分(1~3章)をまとめ、後半の実践的な部分(4~6章)へとつなぎます。

 12節で「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と言いますが、「神に近づく」というのは、2章18節に既に語られていた、教会の信仰の主要なテーマです。

 「主キリストに結ばれており」というのは、「エン・ホー:この方(主キリスト)において、この方の中で」という言葉です。キリストという大きな器の中に入れられているような、主イエスという衣を着せていただいているような状況を思い描きます。

 「キリストに対する信仰により」というのは、「ディア・テース・ピステオース・アウトゥー:彼(主キリスト)の信仰によって」という言葉です。これは「キリストの真実のお蔭で」という意味にも、「キリストを信じる信仰によって」という意味にもとれます。その両方の意味を受け止めて、「キリストの真実のゆえに、キリストを信じる信仰に導かれたお蔭で」と読みたいと思います。

 キリストの恵みの真実を味わい、キリストを信じる信仰に導かれ、キリストの内に、キリスト共に住まうならば、私たちははっきりとした「確信をもって」生きることが出来るでしょう。その確信があれば、「大胆に、神に近づくことができます」。
 
 パウロはキリストを信じ、熱心に福音を宣べ伝えました。その結果、何の不自由もない生活が出来るようになったというのではなく、むしろ様々な迫害を受け(第二コリント書11章23節以下)、最後は殉教の死を遂げることになります。

 パウロは牢の中で自由を奪われ、苦しめられていながら、死を目前にしていても、その心はキリストに結ばれて、キリストの真実を感じて、ますますはっきりとした確信に導かれていたのです。鎖に縛られ、番兵に囲まれて身動き出来ないような状態に置かれていても、その心は、大胆に神に近づくことが出来て、平安と喜びに包まれていたのです。

 ローマ総督やアグリッパ王の前で自分の回心の経験に基づき、キリストによる復活の希望を大胆に語り(使徒言行録26章参照)、そして、ローマ皇帝の前での裁判を望んでローマ送りにされたパウロですから(同25章11節)、どこでも誰に対しても福音を語り続け、常に信仰によって喜び、祈り、感謝していたことでしょう(第一テサロニケ書5章16~18節、使徒言行録16章25節参照)。

 14節以下に、この手紙で二つ目の祈りが記されています。これらの祈りを自分のための祈りとして学びたいと思います。「あなたがた」を「わたし」、あるいは「自分の名前」と置き換えて読むのです。

 「どうか御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもって私の内なる人を強めて、信仰によって私の心のうちにキリストが住まわれ、私を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、私がすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超える愛を知るようになり、そしてついには、神の満ち溢れる豊かさに与り、それによって満たされるように」という祈りを神にささげるわけです。
 
 16節で「その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」と聖霊の力を受けること、17節で「心のうちにキリストを住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」とキリストにあって愛の実践者とされること、19節で「神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たされるように」と神の充満を求めるという内容になっています。

 愛を知るということについて、18節に「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」と記されています。

 どんなものも受け入れるという神の愛の広さ、いつまでも愛し続け、顧み続けているという愛の長さ、そして、私たちを清め、天の御国の栄光を授けるという愛の高さ、黄泉にまでくだり福音を伝えられるという愛の深さ、これらは、神の愛から漏れる者など一人もいないということを、明確に示しています。

 そして、愛とはそういうものだと知的に理解するのではなく、まるでその愛の対象が自分一人であるかのように、私に注がれてくるものとして、神の愛を味わうことです。冒頭の言葉(19節)で、「人の知識をはるかに超える愛を知るようになり」と言われるのはそのことです。

 「神の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という言葉を直訳すると、「神の充満のすべてへと満たされるために」(ヒナ・プレローセーテ・エイス・パーン・ト・プレローマ・トゥー・セウー)となります(岩波訳参照)。これは、キリストの愛を知るとは、神の豊かさの中に浸され、満たされることであると知らされます。

 キリストは、私たちを神の豊かさのすべてを持って満たそうと、私たちに愛を注いでおられるのです。放蕩息子の父が兄息子に、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と語ります(ルカ福音書15章31節)。この言葉を、神はキリストを通して私たち一人一人に語っておられるのです。

 私たちが神の充満のすべてに与り、それに満たされるようにという祈りは、私たちのしたい放題のことが出来るようにということではありません。神のうちに充満しているものは、すべてを受け入れる広い愛、いつまでも変わらない長い愛、そして御国の栄光を授ける高い愛、黄泉にまでくだって福音を伝える深い愛です。

 そしてその愛が私たちに届くように、独り子を私たちの贖いのためにこの世に遣わすという、考えられないほどの愛です。その愛に満たされることが、霊の力を受けて内なる人が強くされることであり、キリストが心の内に住み、愛に根ざし、愛を基とした生活をすることなのです。ここに、三位一体なる神の本質が示されます。「神は愛だからです」(第一ヨハネ書4章8節)。

 この祈りをとおして、神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たしていただきましょう。

 主よ、あなたは私たちの内に働く御力により、私たちが求めたり思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることがお出来になります。教会により、またキリスト・イエスによって、主なる神に栄光が世々限りなくありますように。 アーメン


4月13日(木) エフェソ書2章

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」 エフェソの信徒への手紙2章14,15節

 11節に「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました」とあります。ユダヤ人と異邦人との区別ということですが、私たちは1節の「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」と言われる者でもあります。

 だから、「そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(12節)と言われるのです。無神論者ということではなく、キリストの福音を知らず、まことの神を信じていなかったということです。

 しかるに「以前は遠くに離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(13節)。「遠くに離れていた」は異邦人、「近い者」はユダヤ人とかんがえられますが、異邦人がユダヤ人になったということは、その違いがなくなったということになります。それはただ、神の深い憐れみのゆえ、恵みによることです(4,5節)。

 17節との関連で、「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる」(イザヤ書57章19節)という御言葉が、「キリスト・イエスにおいて」(エン・クリストー・イエスー:in Christ Jesus)「キリストの血によって」(エン・トー・ハイマティ・クリストゥー:in the blood of Christ)成就したことになります。

 エルサレムの神殿には、いくつもの隔ての壁があり、異邦人とユダヤ人を隔て、ユダヤの女性と男性、一般人と宗教者とを隔てていました。拝殿の中には、祭司だけしか入れませんでした。それは、汚れた者を聖なる場所に近づかせないためのものでした。

 律法の中に、「わたしの住まいに汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい」という規定があります(レビ記15章31節)。そこで、異邦人の壁、女性の壁、男性の壁などを設けたわけです。

 冒頭の言葉(14節)でこれら隔ての壁を「敵意」(エクスラ:ガラテヤ書5章20節など)と表現しました。ユダヤ人が、律法と割礼のゆえに、異邦人との平和を望まない心は、敵意だというのです。平和の神を礼拝する場所に、敵意という壁があるのは悲しいことです。神の前に、男と女、ユダヤ人と異邦人の差はありません。

 キリストこそ、わたしたちの平和であると聖書は語ります。キリストは、嵐の船の中でも眠ることが出来ました(マルコ福音書4章38節)。そして、嵐を鎮め、凪にされました。また、十字架の死を前にして、弟子たちに「心を騒がせるな」と言われ(ヨハネ福音書14章1節)、そして、「わたしの平和を与える」と語っておられます(同27節)。

 あとに残される弟子たちの動揺を思い遣り、予め約束の言葉を与えておかれたのです。そして、復活された後、「あなたがたに平和があるように」といって、弟子たちにご自身を現されました(同20章19節他)。主イエスは、揺るがない平和を心にお持ちの方であり、そしてその平和をお与えになられるお方なのです(ローマ書15章33節も)。

 主イエスが十字架で死なれたとき、神殿の至聖所の垂れ幕が真っ二つに裂けるという出来事がありました(マタイ福音書27章51節)。それは、聖所と至聖所を隔てていたもので、主イエスがご自分の死によって、その垂れ幕を打ち破り、常に神と出会い、交わりを持つ道を開いてくださったというしるしです。

 それがヘブライ書10章19,20節に、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」と言われていることです。「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(同22節)。

 キリストの豊かな憐れみにより、信仰を通して救われた私たちは、キリストが開かれた新しい生きた道を通って、大胆に神に近づくことが出来ます。神は、私たちの「御父」だからです(18節)。

 神が御父ですから、私たちは神の家族です。キリストの平和が支配している家族なのです。それで、私たちはお互いに兄弟姉妹と呼び交わします。そして、私たち神の家族の平和の交わりの中に、主なる神が共にいて下さるのです(マタイ福音書18章20節、詩編133編)。

 平和の福音を通して、キリストの命に養われましょう。この福音は、使徒や預言者と呼ばれる伝道者たちによって宣べ伝えられました。彼らの伝道を通して、教会が作られ、キリストを信じる信仰が世界中に広げられて来ました。「神の家族」なる教会が、「使徒や預言者という土台の上に建てられています」(20節)と言われるのは、そのためです。

 私たちも、教会の働き、伝道者たちの働きによって、キリストを信じる者、神の家族の一員とされました。ですから、同じようにキリストを必要としている方々に広く福音を宣べ伝え、その恵みを分かち合うキリストの体なる教会、聖なる神殿に、共に建て上げられて参りましょう(21,22節)。

 主よ、平和の福音を土台として、キリストの体なる教会を建て上げることが出来ますように。御霊の導きにより、私たちも告げ知らされた福音を聞き、キリストを信じる者となりました。私たちの教会も、伝道する教会となりますように。主の御業を拝し、賛美溢れる教会となりますように。 アーメン




4月12日(水) エフェソ書1章

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」 エフェソの信徒への手紙1章3節

 今日から、エフェソの信徒への手紙を読み始めます。1節に「エフェソにいる聖なる者たち」という言葉があります。実は、もともと「エフェソ」という地名は入っていなかったようです。主だった古い写本には、地名が記されていないのです。

 エフェソ教会はパウロによって建てられた教会です。この手紙がエフェソ宛に書かれた手紙なのであれば、他の手紙によく記されている感謝の言葉や、誰々によろしくという最後の挨拶の言葉が当然記されているはずです。ところが、そのような言葉が記されていません。

 むしろ、1章15節の「あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き」、3章2節の「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません」という言葉は、著者が宛先教会の信徒たちを個人的には知らないということを示しています。

 そのため、もともとこの手紙は回覧状、公同書簡(Catholic Epistles)として書かれたのではないか、そして、この手紙を受け取った教会が自分たちの名を宛先の抜けているところに書き入れて読んだのではないかと考えられています。

 ということであれば、今日この手紙を学ぶ私たちは、1節のこの箇所に「静岡にいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ」と読むことが許されており、私たちはそのように、自分に宛てて記された手紙として、御言葉を真剣に受け取るべきだと思います。

 冒頭の言葉(3節)では、「ほめたたえられますように」(エウロゲートス)という言葉が一番最初に記されています。語順どおりに直訳すれば、「ほむべきかな、父なる神、わたしたちの主イエス・キリストの」という具合になります。

 そう語った後、賛美する理由を、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」と記しています。「祝福で満たしてくださいました」は、「祝福する」(エウロゲオウ)という言葉です。

 文頭の「ほめたたえられますように」(エウロゲートス)と「祝福で満たして下さいました」(エウロゲオウ)は、一種の語呂合わせになっています。神が私たちを祝福してくださったので、神を賛美すべきだ、賛美は神の祝福に対する応答なのだということを、それによって示しています。

 神の祝福の内容は、4~6節に示されています。それは、私たちを神の子とするために、愛によって選んでくださったということです。

 この選びは、この世界が創造される前にキリストにおいてなされました。天地が創造される以前から、神の子とされるために私たちを選ばれていたというのは、まさに想像を超えた世界ですが、むしろ力点は、天地が造られる前からキリストが神と共に、神の御子として存在していたというところにあります。

 そして、この選びの目的は、「輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6節)。「輝かしい恵み」(ドクサ・テース・カリトス)は、原文を直訳すると「恵みの栄光」(新改訳)という言葉になります。私たちが神の子とされたのは、神の御旨による一方的な恵みなのです。そのような恵みを授けて下さった神の栄光を、心からほめたたえましょう。

 また、神の祝福は、「キリストにおいて」(4節:エン・アウトー「彼において」)与えられました。ですから、「主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(3節)と言われているわけです。

 キリストにおいて与えられたものが、7~12節に示されます。私たちは、キリストの血によって贖われ、神を知らず神に背いてきた罪が赦されました。過去の重荷が取り除かれ、キリストと共に歩む新しい生活が始まったのです。

 9節に、「秘められた計画」(ムステーリオン)という言葉があります。口語訳は「奥義」と訳しています。奥義とは隠されているものです。神の奥義というのであるならば、それは、人間の誰にも明らかにされるはずがないものでしょう。けれども、神はそれを誰の目にも明らかになるように、すべての知恵と理解とをお与えになったのです。

 秘められた計画が明らかにされたのは、キリストによる贖いの業が成し遂げられたときです。その計画とは、天地万物がキリストのもとに一つにまとめられるということです。言い換えれば、私たちのために贖いの業を成し遂げられたキリストが、天地万物の主となられるということです。

 そして、神の愛によって選ばれ、神の子とされた私たちは、キリストに結ばれて、約束されたものの相続者ともされているのです(11節)。キリストは神の御子として、父なる神のものすべてを相続される権利、資格を持っておられます。私たちには、そのような資格はありません。しかし、子たる身分を授けられて、キリストとの共同相続人なのです。

 そうされた目的は、キリストに希望を置く私たちが、神の栄光をたたえるためです(12節)。驚くべき恵みをお与え下さる主を賛美いたしましょう。

 さらに、父なる神の祝福は、「天のあらゆる霊的な祝福」(3節)と言われます。「天の」も、「霊的な」も、人が作り出すことの出来ない、神がお与え下さる祝福であることを示しています。そして、「霊的な」(プネウマティコス)は、聖霊の働きを思わせます。天からの、聖霊の働きによってもたらされた祝福ということになります。

 その内容が13節に「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(13節)と記されています。神の祝福、キリストによる贖いの業が、「真理の言葉、救いをもたらす福音」として語り告げられたとき、それを私たちが理解し、信じることが出来るように働きかけてくださったのは、「聖霊」なる神です。

 パウロは、第一コリント書12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と記しています。それは、「イエスは主である」と言葉で言えるかどうかということではなく、イエスを主とする生活が出来るかどうかということです。キリストの贖いによって過去の重荷が取り除かれ、キリストと共に歩む新しい生活が始まるのは、聖霊の働きがあるからなのです。

 「約束された聖霊で証印を押された」とは、主イエスを信じてバプテスマを受け、神の子とされたこをを証しするのは私たちではなく、聖霊だということです。この聖霊によって私たちは、神に向かって「アッバ、父よ」と叫びます(ガラテヤ書4章6節)。それは、神の助けを呼び求める叫びであり、そしてまた、神の助けに感謝して、喜びに溢れて神をほめたたえる叫びです。

 こうして、冒頭の言葉が4~14節の主題を提示していることが分かります。そしてそれは、父なる神が御子キリストにおいて示された祝福を、聖霊の働きを通して私たちに悟らせ、信仰の導きを与えて下さったということです。聖霊を通して導かれた信仰により、喜びあふれる賛美を神にささげましょう。

 天のお父様、私たちを愛をもって選び、御子の命をもって罪の呪いから贖い出し、神の子として受け入れ、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださったことを感謝します。絶えず聖霊に満たされて主の御心を悟り、御名をほめたたえさせてください。その力を受けて主の証人となることが出来ますように。 アーメン





4月11日(火) ガラテヤ書6章

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」 ガラテヤの信徒への手紙6章2節

 11節に「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」とあります。これは、恐らくこの直前まで、つまり6章10節まで口述筆記をしていたのですが、ここからパウロ自身が筆を取り、大きな字で書き始めたということを表しています。

 それは、4章15節の「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです」という言葉から、パウロの目が悪くなっていたと考えられ、そのために、パウロに代わり、パウロの語る言葉を手紙に認める人がいたわけです。

 けれども、パウロが自ら筆を取ったというのは、これまで語ってきたことをもう一度、強調して語りたいということでしょう。目が悪くて小さい字が書けず、大きな字になったとも考えられますが、それならば、いちいち断らなくても、字の大きさは、見れば分かります。ですからこれは、語ってきたことをさらに強調しようとして、大きな字で書いていると解釈すべきでしょう。

 パウロは、この手紙で人が救われるのは、律法の実行ではなく、イエス・キリストを信じる信仰によることを述べてきました(2章16節、3章2,3節、3章26節、5章5,6節)。敵対者は、安息日を守り、割礼を受けることによって成熟した信仰を持てると説いていたのです。

 敵対者たちが人々に割礼を受けさせることで自らを誇ろうとしていることを、「あなたがたの肉について誇りたい」という言葉で示しています(13節)。つまり、自分の指導に従って異邦人が割礼を受けたということで、それを自分自身の誇りとするというわけです。

 それに対してパウロは、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と言います(14節)。十字架にかかられた主イエスは、言ってみれば、弱さそのものでした。十字架は、この世が主イエスを否定して殺した場所です。

 そこでは、何の奇跡も行われませんでした。水をぶどう酒に変えたような、嵐の海の上を歩き、はたまた荒れる波と風をしかって凪にされたような、また、あらゆる病を癒し、悪霊を追い出し、死者を甦らせるというような驚くべき御業を、十字架では示されませんでした。

 捕えられ、訴えられ、裁かれるがまま、そして鞭打たれ、嘲られ、侮辱されるまま、十字架を担いでゴルゴタの丘に引いていかれるまま、十字架に釘づけられ、はりつけにされるがままとなられ、御自分のためには何の御業もなさらないまま、息を引き取られました。

 ファリサイ派の一員としてユダヤ教主義に生きていたパウロも、はじめは主イエスを否定していました。「木にかけられた者は皆呪われている」(3章13節)と書いてあるので、主イエスは神に呪われた者であると考えていたのです。

 しかし、主イエスはそのパウロを否定なさいませんでした。むしろ、深い愛をもってその罪を赦し、使徒として選び立てられました。キリストが呪われた者となったのは、私たちの代わりに呪いを受け、私たちがその呪いから救われ、解放されるためだったのです(3章13節)。

 つまり、神の呪いとしか見えなかったキリストの十字架が、自分をあらゆる呪いから救い、解放する神の力であるというのです。そのことをパウロは、甦られた主イエスとの出会いを通して、聖霊の導きによって示されたのです(1章12節、3章1,2,5,14節、4章6節、使徒言行録9章参照)。

 パウロは、「御霊の導きに従って前進せよ」(5章25節)と勧めていたことを、生活に具体的に適用するよう促します。そこで、冒頭の言葉(2節)に「互いに重荷を担いなさい」と語られています。

 ここで言われている「重荷」(バロス)は、1節の「罪」(パラプトーマ:「過ち、違反」)を言い換えたものです。つまり、隣人の罪、弱さに同情するというだけではなく、隣人の罪を自分の罪、弱さとして引き受けることです。

 それは、罪を贖うということではありません。私たちはキリストではありませんから、隣人の罪を贖うことは出来ません。私たち自身も、罪を贖っていただかなければならない罪人だからです。それが出来るのは、罪のない神の御子キリストだけです。

 弱さを引き受けるとは、互いに弱さを認め、隣人と共に罪と戦い、互いに執り成し祈り合うことです。私たちは互いに重荷を担うように召されています。ということは、自分自身も隣人に重荷を担って頂かなければならない、隣人の助けを必要としている存在であるということです。

 確かに神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われました(創世記2章18節)。助ける者がいない状態は、神の御心ではないということです。そして、助ける者自身も、助ける者を必要としている人です。

 ただ、忘れてならないのは、聖書が語る「助け」は、人からではなく、「天地を造られた主のもとから」(詩編121編2節)来るのです。主が助ける者であられるからこそ、私たちのために必要な「助ける者」をお与えになられるのです。

 逆にいうならば、私たちは、信徒同士、家族同士、神がお与えになった「助ける者」であることを知らなければなりません。そこに私たちの使命があります。5節で「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」と言います。

 5節に言われる「重荷」は、2節のものとは異なり、「フォルティオン」という言葉が用いられています。それは、義務や責任、使命を指す言葉です。

 あらためて、「互いに」(アレーロス)は、「他」(アロス)という言葉から出来たと言われます。他人であった者が関わり合うときに、「お互い様」になるわけです。

 「互」という漢字は、二本の竹ざおに縄をかけてねじり合わせた形から造られました。離れて相対しているものが組み合わされることを示します。ある方が、これは、カスガイを相互に打ち込み合っているかたちであると言われました。

 カスガイというのは、鎹という字を書きますが、土台のつなぎ目や梁と柱などをつなぐために打ち込む「コの字型をした金具」のことです。相手にカスガイを打ち込み、自分もまたカスガイが打ち込まれる。その痛みを受け止め合ってはじめて、「お互い」ということが分かるという話です。

 それは、実際に傷を受け、双方が血を流す必要があるということではないと思います。他者と重荷を共に担い、それをお互い様、お蔭様と思うことが出来れば、重荷を担う痛み苦しみは違ったものになるでしょう。

 そして、私たちはその痛みを主イエスのところに持って行きます。主イエスが、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさいと招いておられるからです(マタイ福音書11章28節)。そこで、重荷を全部主イエスに背負わせて、一件落着となるのではありません。主イエスと共に、主の軛を負うのです。

 その軛は負い易く、その荷は軽い、と言われます(同11章30節)。重荷を担うためにふさわしい道具が用意され、そして主と共に担うとき、それは担いやすい、担うのが楽、もっと積極的に、担うのが楽しい、嬉しい、そういう真の安息、喜びが与えられるのです。

 主のもとで、主の柔和と謙遜を学ばせていただきましょう。

 主よ、私たちの罪の一切の重荷を主イエスが担ってくださり、感謝いたします。その恵み、喜びを味わっている私たちお互いが、隣人の弱さを担い合い、祈り合い、助け合うことが出来ますように。そのために、御霊の導きに絶えず与らせ、わたしたちの心に神のご愛を注ぎ満たしてください。 アーメン




4月10日(月) ガラテヤ書5章

「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」 ガラテヤの信徒への手紙5章25節

 16節以下に、肉と霊の対立が出てきます。新共同訳聖書はこの段落に「霊の実と肉の業」という小見出しをつけています。パウロはこれまでの「律法か、信仰か」の議論を、「肉か、霊か」に置き換えて展開しています。

 パウロにとって、律法の行いというのは、人間の努力によって救いを獲得しようとする営みであり、それは肉の支配を免れません。そのため、その行いによっては、救いを獲得することが出来ません。

 一方、信仰とは、自分の努力ではなく、神の恵みに信頼し、御子の霊の力に自分を委ねることです。そして恵みの神は、信じる者に救いを賜るのです。「正しい者は信仰によって生きる」からです(3章11節)。

 この段落で「肉」というのは、肉体とか肉欲ということというよりも、神に従わないで生きる生き方を指していると言ってよいと思います。人間は、本来、自分ひとりで生きるように造られていません。神に造られた者として、神に仕え、隣人に仕えるように造られたのです。

  だから、神に従わないで生きる生き方を選んだとき、その人は、神ならぬ者を主人として、その縄目に縛られてしまうのです。4章8節で「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました」というのはそのことでしょう。

 1節で「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」というのは、発言や行動、選択の自由などではありません。罪の束縛から解放されるように、神の主権と支配のもとで生きるようにされたことです。それは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生活から解放されて、まことの神に仕えて生きるように選ばれたところに示されています。

 そして、まことの神に仕えて、その主権と支配の下で生きる生き方について、13節では「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と言い、さらに14節で「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と語っています。つまり、この自由は、罪からの自由であり、愛をもって神と人に仕える自由なのです。

 パウロは、この「罪から解放され、愛をもって神と人と仕える自由」に生きる生き方を「霊」という言葉で表現しています。それは、「主の霊のおられるところに自由がある」(第二コリント書3章17節)からです。

 冒頭の言葉(25節)で「霊の導きに従って生きている」というのは、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって罪の呪いから解放されたこと、神の子どもとされたこと、永遠の命をいただいたことを指します。

 そして、イエス・キリストが神の子、救い主であることを私たちに証しし、信じるように導いてくkださったのがキリストの霊です。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(第一コリント書12章3節)というのは、このことです。

 ガラテヤの人々も、キリストの十字架の福音を聞いたとき、聖霊の働きによって主を信じました(3章1,2節)。また、御霊の働きによって奇跡を体験しました(3章5節)。彼らは確かに、律法の行いによらず、神の恵み、御霊の導きにより、信仰によって生きる者とされたのです。

 霊は、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(22,23節参照)という実を結ばせます。一つ一つを見ると、これはいずれも、交わりを育み、共に生きる集まりを造り上げるために与えられる恵みです。

 「霊の結ぶ実」は、上述の通り九つの徳性を持っていますが、実は一つの「実」(カルポス:単数形)です。霊による一致と読むことも出来るでしょう。そしてそれは、聖霊の働きを通して私たちの教会の交わりのうちに現されるキリストの御心といってよいでしょう。

 御霊は、他者との関わりにおいて実を結ぶように、働かれます。それは、自分の欲を満足させるような関わり方を許しません。聖霊は私たちを内側から変革し(第二コリント書3章18節、5章17節)、そして、私たちと他者との関係を新しくするのです。それは、「互いに愛し合う」という関係です(ヨハネ福音書15章12節ほか)。

 「前進しましょう(ストイケオウ)」と訳されているのは、「兵士のように一列に並んで前進する、順序正しく進む」といった言葉で、そこから「同調する、一致する」という意味になりました。そして、「従う」という意味も生じます。だから、「(霊の)導きに従って前進しましょう」という訳語になっているわけです。

 私たちを信仰に導き、生かしてくださっている聖霊の働きを喜び、感謝しつつ、傍らに固く立っていてくださる聖霊の導きに従って、信仰の正道を歩ませていただきましょう。

 主よ、私たちの内に絶えず神の御霊が働き、私たちを主と同じ姿に造り変えてくださいますように。主を愛し、隣人を愛して仕えることを喜びとする教会としてください。聖霊に満たされて常に神の愛を証しし、その恵みをほめたたえる教会となりますように。御言葉と祈りを通して、日毎に導いてください。 アーメン




4月9日(日) ガラテヤ書4章

「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」 ガラテヤの信徒への手紙4章6節

 キリストを信じる信仰により、キリストに結ばれて神の子とされた者は(3章26節)、アブラハムの子孫であり、約束の相続人でもあります(同29節)。即ち、神の子どもとして、神の持てるすべてのものを受け継ぐ資格が与えられているということです。

 当然のことながら、私たちは「神の子」ではありません。ですから、相続人になれるはずもありません。神が私たちを養子にしたくなるような才能や特質を備えているわけでもありません。その行いが倫理道徳的に、宗教的に聖く正しいわけでもありません。むしろ、神を知らず、神に背いて歩き続けている存在でした。そんな私たちが神の子とされるというのは、神の一方的な恵みです。
 
 ガラテヤの人々は、どのようにして神の子になったのでしょうか。それは、私たちとなんら違いはありません。彼らは、アブラハムの子孫ではありません。旧約聖書の律法とも無縁の生活をしていた人々です。その人々に、パウロがキリストの福音を伝えました。そして、導かれて彼らはキリストを信じる者となったのです。そして、その導きをお与えくださったのが、恵みの神ご自身なのです。
                                                       
 初めてキリストの話を聞いて、すぐに信じることが出来る民族、氏族というものなどありません。なぜキリストを信じることが出来たのか、理路整然と話せる人のほうが少ないと思います。大多数の人が自分でキリストを信じたくて、信じようとして信仰に入ったのではなく、様々な人や出来事との出会いの中で、信仰を持つように導かれたとしか言いようがないという状況だと思います。
 
 イスラエルの人々は、アブラハムの子孫であるしるしとして割礼を受け、律法を守ります。しるしが与えられることは、悪いことではありません。けれども、私たち人間には、そのしるしを他の人よりも大きく見せたいという誤った思いが働きます。神の子とされている喜びよりも、だれよりも律法を熱心に守っている自分の行いを誇り、律法を守ろうとしない者を裁こうとします。

 ガラテヤの人々を惑わしているのも、そのような思いです。自分の救いをより確かにするために、割礼を受け、律法を厳格に守れと教える人が教会にやって来て、それに従う人々が出て来たわけです。律法が生活の基準になるとき、自分の行いが律法に適っているかどうかが誇りの基準となります。律法によって、むしろ神に目を向けることが妨げられてしまいます。

 冒頭の言葉(6節)で「御子の霊を、わたしたちに送ってくださった」(エクサペステイレン・ホ・セオス・ト・プネウマ・トゥー・フイウー・アウトゥー)という表現は、4節の「御子を・・お遣わしになりました」(エクサペステイレン・ホ・セオス・トン・フイオン・アウトゥー)という表現と非常によく似ています。どちらも同じ「遣わす(アポステロウ)」の不定過去形(アオリスト)三人称単数の動詞が、「神が」(ホ・セオス)という主語の前にあります。

 御子キリストをこの世に遣わされた神が、私たちの心に御子の霊を遣わされたという表現で、あのゴルゴタの丘でキリストが十字架につけられた出来事が、私たちを贖う神の救いの御業であるということを示し、その保証として、御子の霊をいただきました。その御霊の働きで、私たちは御子キリストを信じることが出来たのです。

 私たちを贖ってくださった神は、私たちを奴隷とされたのではなく、神の子どもとしてくださいました。これは、考えられない恵みです。理解を超えています。どうして、人間が神の子どもになることが出来るのでしょうか。理屈は分かりませんけれども、そのようにして、神は私たちに愛を示されました。「神は愛です」と言われるのです(第一ヨハネ書4章7~10,16節)。

 神の愛を受け、キリストの御霊に覆われた私たちの心から、「アッバ、父よ」(6節)という叫びが生じます。「アッバ」とは、「父よ」というアラム語です。父上様というような、格式ばった表現ではなく、幼児が父親を「父ちゃん」と呼ぶ言い方です。「アッバ、父よ」というのは、アラム語の「アッバ」とギリシャ語の「父よ」(ホ・パーテール)という言葉が並んでいるということなのです。

 どちらも「父よ」という意味なのですから、「アッバ」と言わなくてもよさそうですが、これは、主イエスが神を呼ばれる、その親密さを表す表現だったので、当時の信徒たちはそれをそのまま自分たちの祈りのときに用いたものなのです。そして、それは「父よ」という意味であるということが分かるように、「アッバ、父よ」という呼び方になったのでしょう。

 これは、単に神をそう呼ぶということ以上の、重い意味があります。というのは、父親に対して「アッバ」と呼べるのは、実の子どもだけだからです。私たちは、自ら神を、「父」とは呼べません。しかし、神が遣わしてくださった御子の霊が、私たちに、「アッバ゙、父よ」と神を呼び求める叫びを与えてくださいました。

 そして、その叫びが与えられたということは、その叫び声を上げることが許される親密な関係に入れられたということであり、神がその叫びに耳を止めて、「子よ、なにか用か」とその叫びの祈りに答えて、私たちに必要な一切のものを豊かに授けてくださるということです。

 このことは、ローマ書8章15節にも「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記されています。

 そして、同26節で「同様に、霊もわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」という御霊の執り成しの祈りについて言及しています。

 さらに同32節には「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言われるのです。

 私たちが心から、「アッバ、父よ」と叫ぶとき、私たちは神の子どもであり、ですから、神の恵みの資産を受け継ぐ相続人であることになります。主の恵みに感謝し、その恵みを無駄にしないように、「アッバ゙、父よ」と神を呼び求めつつ、その御旨を行う者にならせていただきましょう。

 天のお父様、資格のない者に対して一方的な恵みをもって「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を授けてくださり、心から感謝します。しかし、そのためにキリストが贖いの供え物となられたことを厳粛に受け止めます。どうか私たちを、神の子どもに相応しく、恵みによって整えてください。信仰によって福音に生きることが出来ますように。 アーメン




4月8日(土) ガラテヤ書3章

「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした。」 ガラテヤの信徒への手紙3章14節

 最初の段落(1~14節)に「律法によるか、信仰によるか」という小見出しがつけられています。パウロはこの段落を「ああ、物分かりの悪いガリラヤの人たち」(1節)という言葉で語り始めます。

 その物分かりの悪さは、単なる無理解、無分別というのではありません。「だれがあなたがたを惑わしたのか」と言われます。正しい判断を失わせるという言葉です。キリストの恵みから「ほかの福音」に乗り換えようとしていること、即ちキリストを信じる信仰による救いを、律法の行いと取り替えようとしていることを、そのように言い表しているのです。

 その際、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言います。「十字架につけられた」(エスタウローメノス)は現在完了分詞ですから、はっきり訳せば「十字架につけられてしまったままの」(岩波訳)ということになります。

 十字架につけられてしまったままのキリストは、律法の呪いそのものです。「木にかけられた者は皆呪われている」(13節)と書かれてあるからです。これは、申命記21章23節からの引用です。つまり、キリストは、私たちのために「呪い」そのものとなられたということです。

 「呪い」そのものとなられた主イエスは、その命をもって私たちを律法の呪いから贖い出し、解放してくださいました。主イエスを信じる信仰に生きる者は、アブラハムの子として(7節)、義とされる恵みに与ることが出来ます(8節)。

 そのことを、冒頭の言葉(14節)で、アブラハムに与えられた祝福が異邦人に及ぶと表現されています。神がかつてアブラハムと結ばれた約束が、いまだ反故にされてはいない、いえ、有効に働いているということです。

 その約束とは、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」というものです(創世記12章2,3節)。

 パウロはその最後の「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という言葉を引用して、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」(8節)という福音を予告されたのだと語っています。ところが、その約束にも拘らず、異邦人は割礼がなく、律法を守らない「罪人」として、祝福から締め出されて来ました。

 ところが、割礼を受け、律法を与えられているユダヤ人も、律法の行いによっては義とされませんでした。パウロは、「律法の実行に頼る者は誰でも、呪われています」(10節)と言います。

 律法を文字通りに行うという点では、パウロは自分でも「非のうちどころのない者」(フィリピ書3章6節)と語ることができました。けれども、「正しい者は信仰によって生きる」とハバクク書2章4節の御言葉を引きながら、人を義とするのは、神に信頼する信仰だけであることを示します。

 そのように書いてある預言をパウロが見出したという背景には、律法に込められている神の御旨、神の御心を完全に行うことは出来ないことを、彼が悟ったということがあるでしょう。つまり、救いを人間が作り出すことは出来ないということです。

 そして、律法を守ることが出来ない者は呪われるという掟(申命記27章26節)から、人間は律法を絶えず完全に守ることは出来ないので、すべての人間にとって律法が呪いとなるというわけです。そのことについて、ローマ書3章9節以下でも、詩編14編1~3節の言葉を引用しながら、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」と結論しています。

 その律法の呪いをキリストが引き受け、祝福に変えてくださいました。キリストは、律法を完全に行われた唯一人のお方です。そのお方が何故、神の呪いを受けられたのでしょうか。それは、律法を守ることではだれ一人祝福に与ることが出来ない、その律法の呪いを身に引き受け、その贖いによって、すべての人に祝福が及ぶようにするためだったのです。

 さらにパウロは、キリストの十字架によって贖われたのは、「わたしたちが約束された霊を信仰によって受けるため」(14節)と語ります。「約束された霊を受ける」というのは、神の子どもとされるということです(4章4,5節参照)。

 そして、ガラテヤの信徒たちは、彼らがパウロの十字架の福音を聞いて主イエスを信じたとき、御霊の臨在が現れ、霊の賜物による奇跡的な出来事、たとえば癒しや悪霊追放という出来事がその集会の中で行われたのです(2,4,5節)。その御業が現れたのは、彼らが主イエスを信じたからです。

 そして、主イエスを信じるならば、ユダヤ人と異邦人の区別なく、つまり、異邦人がユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなくても、アブラハムの祝福に与れるわけです。ゆえに、神の祝福の道を歩むというのは、律法を守ることではなく、主イエスを信じる信仰の道を歩むことなのです。

 十字架の主を信じて仰ぎつつ、絶えず主の御言葉と聖霊の導きに与り、アブラハムの子として信仰の恵みを周囲の人々に証しする者とならせて頂きましょう。

 主よ、私たちの歩みはすぐに自己中心的になります。人の目が気になり、もっとよく見られたいという自分の欲望が顔を出します。そうして、十字架の主を仰ぎ、主の御言葉に従うという信仰の道からそれてしまうのです。絶えず聖霊の助けによって御言葉へ、祈りへと導いてください。力を得て主の証人とならせてください。 アーメン
 



4月6日(木) ガラテヤ書1章

「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。」 ガラテヤの信徒への手紙1章15~17節

 今日から、ガラテヤの信徒への手紙を読み始めます。ガラテヤは、小アジア(今のトルコ)のほぼ中央に位置する一地方の名前です。紀元前3世紀にケルト人がここに移住して住み着きました。彼らをギリシア語で「ガラタイ」と呼んだことから、彼らが住み着いた一帯がガラテヤ地方と呼ばれるようになりました。

 使徒言行録を見ると、パウロは第二回伝道旅行の際、フリギア・ガラテヤ地方を通っています(16章6節)。そして第三回伝道旅行の折に、「ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた」(18章23節)とありますから、第二回伝道旅行のときに短期間ながら福音の種がまかれ、教会の礎が据えられたと考えられます。

 この手紙は、ガラテヤ地方に建てられた「教会」(2節、エクレシア・複数形)に宛てて記されました。それはおそらく第一コリント書と同時期、紀元54年頃第三回目の伝道旅行中エフェソで書かれたものと推定されています。

 この手紙が書かれた理由は、パウロによって教会が設立された後に入り込んできた別の指導者によって、パウロの教えが曲げられようとしていたのです。その指導者は、異邦人の多いガラテヤの教会に対し、ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守ることによって、真のキリスト者となることが出来ると指導していたのです。

 パウロはそれを「ほかの福音」と呼び(6節)、「キリストの福音を覆そうとしている」ものだと言っています(7節)。そして、ガラテヤの人々がほかの福音にそれて行く恐れが大きくなったのを知って(6節、3章1節以下、5章7節以下も参照)、キリストの福音にとどまらせるべく、この手紙を書いたのです。

 比較的短い手紙ですが、キリスト教の歴史の中で、人々に大きな影響を与えてきました。特に、この手紙が宗教改革者マルティン・ルターに影響を与え、注解書を著わすと共に、「キリスト者の自由」という彼の代表作が執筆されました。

 新共同訳聖書は、5章2節以下の段落に「キリスト者の自由」という小見出しをつけています。ルターの「キリスト者の自由」を貫いているテーマがこの段落、特に同6節の「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」という言葉なのです。

 ルターが影響を受け、それによって宗教改革が行われたということになれば、今日の私たちプロテスタントの信徒にとっても、信仰の源流がここにあるということになりますので、しっかり学ばなければならない手紙であると言えます。ということで、毎日一章ずつ、じっくり読み進めてまいりましょう。

 冒頭の言葉(15節)によると、彼が選ばれたのは「母の胎内にあるとき」です。ということは、その選びが神の主権によって全く自由になされたことで、パウロの意思や才能などとは無関係であることを示しています。そしてパウロ自身、自分が神に選ばれた者であることを知らなかったのです。

 かつてパウロは、ユダヤ教徒として誰よりも徹底して神の教会を迫害し(13節)、先祖伝来の教え、つまり、割礼を受け、(安息日遵守を含む)律法を熱心に守る生活をしていました(14節)。そのパウロが、ダマスコ途上で復活の主キリストと出会って回心しました(16節、使徒言行録9章1節以下)。ユダヤ教徒であり、迫害者であったパウロが、キリストの伝道者となったのです。

 10節で「今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」というのは、「誰よりも徹底して」といったパウロの振る舞いは、自分自身を含む人の評価を気にしている姿だということです。

 11~12節で、「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」と語り、自分が伝道者になったのは、自分自身の回心の体験に基づいていて、キリストの福音を誰かから聞いたとか、教えられたというのではないことを強調しています。

 回心した時点で選ばれたというのではなく、「母の胎内にあるとき」にということは、神の選びにも拘らず、キリストの教会を迫害していたという自分の罪を告白することです。迫害者であった自分が赦されたというのは、神の憐れみ以外の何ものでもないということです。

 それから、「召し出してくださった」という言葉がありますが、これは、使徒としての召命を受けた、使徒として呼び出されたということです。胎児で何の働きもないときに召し出されたということで、「恵みによって」と語っているのです。

 それはまた、そのような神の選びにも拘わらず、神に背き、教会の迫害者としての道を進んでいたパウロを、処罰するのではなく復活の主と出会わせ、異邦人の使徒として立てられたのは(16節)、神の恵みによるものだということも示しているようです。

 国語辞典で「召命」を調べてみたら、「(キリスト教で)罪の世界に生きていた者が、神に呼び出されて救われること」と書いてありました。この説明は大事なことを教えています。即ち、召命とは、「神に呼び出されて救われること」と、「救い」を指す言葉として説明されているわけです。

 それで何が大事なことなのかというと、パウロは、「恵みによって召し出してくださった」と語っていて、使徒としての召命が恵みの出来事、つまり、救いの体験と密接に関連していることを示しているのです。パウロにとっての回心とは、単に救い主イエスを信じて罪が赦されたということに留まらず、それは、使徒として召し出されたということだったのです。

 パウロを回心させたのは、御子イエス・キリストの啓示です(12節)。御子が啓示されたとき、律法に従って生き、律法によって救いを獲得しようとしていたパウロが、キリストを信じる信仰によって救われること、否、キリストを信じるほか、救われる道はないことを知ったのです。そしてパウロは、神の計画に従い、その福音を異邦人に告げ知らせました(16節)。

 そのパウロの働きでガラテヤ地方にも教会が建てられました。その教会を形作っているガラテヤの教会の信徒一人一人も、パウロ同様、神の恵みにより、憐れみによって救いに与りました。彼らが恵みを受けたのは、ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守っていたからではないのです。

 そして、それは私たちも同様です。私たちも恵みによって救いに与りました。決して割礼を受けたのでも、律法を守っていたのでもありません。恵みによって救いに与ったということは、ただそれを喜んでいればよいということではありません。恵みによる救いは、召命と密接な関係があるのです。神の救いの計画が進められるために、神の御業が進められるために、それぞれに使命が与えられるのです。
 
 今年度、私たちは「まことの礼拝者ー御言葉を受けて主の証人となろう」という主題を頂きました。一人一人が主イエスの福音に与る恵みを証しする者になることを決断したわけです。如何に語るべきか、それは「イエス・キリストの啓示によって知らされた」(12節)というように、まさに主の言葉を受けて、その導きに従うほかありません。
 
 日毎主の御言葉に耳を傾けましょう。そこから、日々主の御心を聴きましょう。御心を悟るのは、聖霊の助けが必要です。聖霊の助けと導きを祈り求めつつ御言葉に聴くのです。

 主よ、私たちをも恵みにより、主イエスを信じる信仰に導いてくださり、感謝します。恵みの福音を委ねられた者として、その福音に生き、信仰の恵みを証しする者となることが出来ますように。聖霊の助けと導きを与えてください。常に聖霊で満たし、御業のために用いてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 
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