風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

11月7日(火) 民数記1章

「イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった。」 民数記1章1節

 今日から、民数記を読み始めます。民数記は、モーセが書いたと言われている5つの巻物の4番目のものです。「民数記」という書名は、イスラエルの民の数を数える記事が2度出てくるところから、つけられています(1章、26章)。

 ヘブライ語原典では、「ベ・ミドゥバル」と呼ばれます。これは、「ベ」が in 「~の中で、~において」、「ミドゥバル」は wilderness 荒れ野」です。「荒れ野の中で、荒れ野において」というのが、民数記の原題です。これは、冒頭の言葉(1節)で、「荒れ野にいたとき」(ベ・ミドゥバル)が、そのまま書名になったものです。

 荒れ野は、ものが満ちあふれ、生きていくのに困らないというようなところではありません。水がない、食べ物がない。死と隣り合わせといっても過言でない、瞬間瞬間生存が脅かされるという場所です。民数記は、イスラエルの民がその荒れ野において、40年におよぶ生活をしたときの出来事を記しているのです。

 何故主なる神は、イスラエルの民を荒れ野に導かれたのでしょうか。これがこの書のテーマです。ここから、いくつかのことを学ぶことが出来ると思います。

 まず第一に、頼るものが何もないところで、神に頼るということを学びました。イスラエルの民の宿営の中心に神の臨在の幕屋が置かれ、そこでモーセが神の言葉を聴きます。イスラエルの民にとって、神が共におられる、そば近くにいてくださるということです。

 呼べば答える、会おうと望めば、お会いくださる。そんな近くに神がおられるということです。何はなくても、すべてのものを創り、支えておられる神がご一緒におられるのです。私たちに必要なものは何でもお与え下さるお方が、常にそば近くにいてくださるのです。

 パウロは、神が味方となって下さるので、私たちは何者に対しても、圧倒的な勝利者でいられると語っています(ローマ8章31節以下)。

 第二に、イスラエルを神の民として訓練するためです。神は愛する子を鞭打ち、訓練されます。栄冠を得たければ、だれよりも厳しい訓練を受ける必要があるでしょう。

 主イエスも、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられ、聖霊の力を頂いて公生涯にお入りになるとき、聖霊に荒れ野に導かれて、40日の間何も食べずに悪魔の試練を受けられました(マタイ福音書4章1節以下)。それは、何よりも神の御言葉を信頼する試練でした。そして、主はこの訓練において、悪魔に勝利されたのです。

 第三に、神の恵みを学び、味わうことです。神は戦に出ることの出来る男性の数を数えるように命じられました。その命令に従って兵士の数を数えてみると、約60万人でした(1章)。

 かなりの年数がたち、神が改めて兵士の数を数えさせられます(26章)。それは、最初に数えられた兵士たちのほとんどが死んでしまったからです。2回とも、その数に入ったのは、わずか2名だったのです。すっかり世代が交代してしまいました。

 しかし、2度目に数えた兵士の数は、最初に記されている兵士の数とほぼ同数です。40年の荒れ野の放浪生活でも、イスラエルは数を減らすことがなかったのです。

 民は、荒れ野の生活で神や指導者モーセに対して、決して忠実、従順ではありませんでした。いつも不平ばかり、不満ばかりを語っていました。けれども、神はその都度、忍耐と寛容をもって彼らの願いに答えられました。嘆き、呻きに神が答えられ、祈りが聞かれるという経験、これは、神の恵み、憐れみです。民は荒れ野で神の恵みを学び、味わったのです。

 私たちも、荒れ野を通るとき、真剣に祈ります。そして、荒れ野で本当に頼りになるものは何か、ということを知り、学びます。真の神を畏れ、真の神に頼り、万事を益としてくださる神の恵みを味わいましょう。
 
 主よ、突然、人生の荒れ野に迷い込んでしまうことがあります。どうして良いか分からず、途方に暮れるようなこともあります。祈りが祈りにならないようなときもあります。その呻き、嘆きに応えてください。平安と慰めをお与えください。その荒れ野で主と出会い、その恵みを知ることが出来ますように。そのために、信仰の目が開かれますように。 アーメン





11月6日(月) レビ記27章

「特に、永久に神に奉納された奉納物が人である場合は、その人を買い戻すことは出来ず、必ず殺さねばならない。」 レビ記27章29節

 27章には、種々の「献げ物」について記されています。

 2,3節に「もし、終身誓願に相当する代価を、満願の献げ物として主にささげる場合、その相当額は20歳から60歳までの男子であれば、聖所のシェケルで銀50シェケルである」とあります。

 この定めは、ある人が何かを神に願い、それが叶えられたときには、自分自身を神にささげるという約束をして、現実にその願いが叶えられたので、一生涯神に仕えるために身をささげる代わりに、聖所のシェケルで銀50シェケルを支払えばよいというものです。

 このような規定が設けられた背景には、たとえば、命にかかわる重い病いの癒しを神に願い、叶えてくださるなら残りの生涯を神に献げるという約束をした人がいて、その願いを神に叶えていただいた人が、神に仕える以外の生き方がしたくて、賠償を申し出たということがあったのではないでしょうか。

 しかし、身をささげるという誓願をして、その相当額を支払うというのは、興味深いものです。ここに、「贖い」の思想が見えるからです。本来、私たちは罪人として、自分で罪の償いをしなければなりませんでした。しかしながら、私たちに代わって、神の御子キリストが罪の代価を支払われたのです。

 主イエスは、12弟子の一人イスカリオテのユダによって、銀貨30枚で祭司長たちに売られました(マタイ26章14節以下、15節)。これは、男奴隷の価格でした(出エジプト21章32節参照)。

 後にユダは後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言いますが(同27章3,4節)、受け取りを拒否され、彼は銀貨を神殿に投げ込み、首をつって死んでしまいます(同5節)。

 これは、28,29節の規定が当てはめられたものでしょう。冒頭の言葉(29節)にあるとおり、一旦奉納物として神に奉納されたものは、買い戻すことが出来ず、必ず殺さねばならないというのです。

 ここで、「奉納物」(へーレム)とは、もともと敵を人も家畜もすべて滅ぼし尽くすことでした(申命記7章2節)。新改訳はこれを「(絶滅すべき)聖絶のもの」と訳しています。

 神に敵対していた者を滅ぼし尽くし、彼らが所有していた土地や金、銀、銅、鉄器などの宝を神のものとして奉納すると(ヨシュア6章17節以下、19節)、「永久に奉納物はすべて、神聖なもので主に属する」と言われているように、汚れが滅ぼし尽くされて、聖いものとされるわけです。

 つまり、ユダは主イエスを祭司長たちに「奉納物」として引き渡したというわけで、「その人を買い戻すことはできず、必ず殺さねばならない」のです。ここで、当然のことながら、主イエスはユダの持ち物などではありません。

 また、終身誓願の代価として銀貨30枚をユダが祭司長に支払ったというのではなく、祭司長らが奴隷を買い取るようにユダに銀貨30枚を払ったというのも、変な話でしょう。人の欲からでた悪巧みであることを示しているわけです。

 ペトロが、「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(第一ペトロ1章18,19節)と言っています。

 神の御子イエスの血は、銀貨30枚で買うことができるような代物ではありません。全世界の富をもってしても、買うことなど到底出来ないのです(マタイ16章26節参照)。キリストは、そのような高価な代価を、私たちのため、そしてユダや祭司長たちのためにも支払ってくださったわけです。

 その恵みを無駄にしないように、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励み」(第一コリント15章58節)ましょう。神の恵みによって今日の私たちがあるのであり、そして、主のために働くことが出来るのも、私たちと共にある神の恵みだからです(銅15章10節)。

 主よ、あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。私たちの主よ、あなたの御名はいかに力強く、全地に満ちていることでしょう。わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えます。いと高き神よ、わたしは喜び、誇り、御名をほめ歌います。 アーメン



11月5日(日) レビ記26章

「それにもかかわらず、彼らが敵の国にいる間も、わたしは彼らを捨てず、退けず、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らと結んだわたしの契約を破らない。わたしは彼らの神、主だからである。」 レビ記26章44節

 26章には、神の「祝福と呪い」について、記されています。

 まず、祝福を受ける条件は、私たちが神の掟に従って歩み、その戒めを忠実に守るかどうかということです(3節)。これは、レビ記を通して主なる神が私たちに問いかけている基本的な問いです。

 レビ記の原題は「ヴァ・イクラ」、即ち、「そして(モーセを)呼ぶ」(1章1節)というものでした。つまり、神がモーセを臨在の幕屋に呼び出し、そこで告げられた神の御言葉を記したのが、このレビ記なのです。

 そして、あなたがこの命令に従って歩み、それを忠実に守るなら、地の産物(4,5,10節)、諸国との平和(6~8節)、子宝(9節)という祝福を与える。また、主なる神が民の間に住んで(11節)彼らの神となり、彼らをご自分の民とされる(12節)という約束が記されています。

 一方、主の御言葉を聞かず、すべての戒めを守らず、法を捨て、何一つ戒めに従わず、その契約を破るなら(14,15節)、恐怖が臨み、病にかかり、種を蒔いても敵がそれを食べ尽くし、何より、主なる神ご自身がイスラエルの敵となられます(16,17節)。

 それで悔い改めなければ7倍の、天地に示された罰で懲らしめられます(18節以下)。それでも悔い改めなければ7倍の、子どもや家畜が野獣に襲われるという災いが加えられます(21節以下)。それでも悔い改めないなら更に7倍の、戦争や疫病という災いがくだされます(23節以下)。

 それでも悔い改めないなら更に7倍の、自分の息子、娘の肉を食べ、あらゆる偶像が打ち壊され、町が廃墟となり、国が荒れ果てるという懲らしめが加えられます(27節以下)。

 まるで、モーセとアロンの前に心頑なになったエジプトのファラオのように、罰が7倍に拡大され、災いが繰り返し襲って来ても、最後の最後まで真に悔い改めることが出来ないと言われているようです。そして、それが私たち人間の現実なのでしょう。

 「祝福と呪い」、どちらを選ぶかと問われて、「わたしは呪いを選ぶ」と答える人は、百人中一人もいないでしょう。みんな祝福を受けたいと言うのだろうと思います。

 けれども、それでは神の掟に従って歩み、戒めを忠実に守り続けることが出来るかというと、悲しいことに、いつの間にか怠惰に流れてしまいます。頭で考え、理解している通りに生活することが出来ません。ここに、私たちの弱さ、罪があります。

 パウロが「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ書7章18,19節)と告白し、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(同24節)と嘆いているとおりです。

 主は、そのような私たちの現実を勿論よくご存じです。にも拘らず、それで私たちを滅ぼし尽くされません。冒頭の言葉(44節)で「彼らが敵の国にいる間も、わたしは彼らを捨てず、退けず、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らと結んだ契約を破らない」と言われています。

 「敵の国にいる」ということは、国が滅ぼされて敵の捕虜になったということでしょう。そこで罪を悔い改めたら、滅ぼさないと言われているわけではありません。滅ぼし尽くされない理由は、私たちの善良さや罪を悔い改める態度などではないのです。

 主は「わたしは彼らの神、主だからである」と言われます。彼らの神、主だから、滅ぼし尽くさないというのは、合理的な説明ではありません。考えられることは、主なる神は憐れみと慈しみに富むお方だということです(詩編136編1節など)。

 そして、ここに言われるとおり、イスラエルがバビロンの捕囚とされて50年が過ぎたとき(歴代誌下36章17節以下21節)、神はイスラエルを顧み、ペルシアの王キュロスを動かして、イスラエルをバビロンから解放して下さいました(同22節以下、エレミヤ書29章10節以下、同33章1節以下。因みに、捕囚期間は70年と語られているが、実際は紀元前587年~538年の50年)。

 絶えず私たちを祝福される主を仰ぎ、その深い憐れみに依り頼みつつ、日毎に御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みましょう。

 主よ、私たちがあなたの祝福から漏れることがないように、御言葉に耳を開き、その導きに従って歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン





11月4日(土) レビ記25章

「身売りをした後でも、その人は買戻しの権利を保有する。その人の兄弟はだれでもその人を買い戻すことができる。」 レビ記25章48節

 25章には「安息の年とヨベルの年」についての神の教えが記されています。

 まず、「安息の年」について、2節で「あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい」と言われます。「主のための安息」とは、七年目に全き安息を土地に与えることであり(4節)、それは、畑に種を蒔かず、ぶどう畑の手入れをせず、また休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れをせずにおいたぶどう畑の実を集めないことなどです(4,5節)。

 これはちょうど、一週間に一日を安息日としてあらゆる仕事を休むように、七年のうち一年は安息の年として、土地に安息を与えると言われるわけです。安息日を守ることは問題が少ないだろうと思いますが、土地を一年休ませれば、その年の収穫は全く期待出来ません。収穫なしでは、早晩生きていけなくなります。どうしたらよいのでしょうか。

 そのことについて、神は「わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなたたちは八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまで、それに頼ることができる」(21,22節)と言われました。

 それは、シナイを旅するイスラエルのために、6日目には二日分のパンを与えて、安息日にマナを集めに行かなくてもよいようにされたことで、既に実証されています(出エジプト記16章5節、22節以下)。

 しかしながら、一年間畑を遊ばせて、次の年の収穫まで、1年半以上もあるとなれば、この規則を守るのは、実際には容易いことではありません。神が言われたとおり、6年目に3年分の収穫があり、それをきちんと管理すれば問題はないということにはなります。

 しかしながら、豊作だったからと気が緩み、つい無駄遣いをしてしまうというのが、世の常、人の常です。恵みの主に依り頼みつつ、その恵みを疎かにしないようにしなければなりません。

 次に、「ヨベルの年」について、8節以下に規定されています。安息の年を回数えた年の翌年(8,10節)、即ち「五十年目はあなたたちのヨベルの年である」(11節)と言われます。「ヨベル」とは、ヘブライ語で「雄羊の角」のことです。国中に雄羊の角のラッパを吹き鳴らしてその年を聖別し、全住民に解放を宣言することから(9,10節)、「ヨベルの年」と呼ばれます。

 ヨベルの年は安息の年ですから、種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずに置いたぶどう畑の実を集めることも出来ません(11節)。さらに13節には、所有地の返却を受けるとあります。つまり、50年ごとに嗣業の地が元の持ち主に返されるというわけです。そうすることで、どの人も神の嗣業の地を損なうことなく、共に神の民として生きることが出来ます。

 また、土地だけでなく、奴隷に売られた人も家族のもとに帰らせよと言われます(10節、39節以下)。これも、イスラエル各部族の士族、家族が損なわれないようにするためということでしょう。

 まるで、我が国の鎌倉時代に、元寇戦役の負担などによって没落した御家人を救済するために発布された「徳政令」のようです。貧窮した人々を救済するためには非常によさそうな制度です。

 けれども、買い取ったものを無償で元の持ち主に返さなければならない時が来るということになれば、高いお金を払って他人の土地を手に入れるという行動を誰も起こさなくなるでしょう。そうなると、貧窮者は逆に生活に困ってしまうことになるかも知れません。だからなのか、ヨベルの年が守られたという記述は、聖書中、どこにも見当たりません。

 けれども、主なる神ご自身が歴史的に、バビロン捕囚(紀元前587年~538年)によってヨベルの年を実施され、その期間、イスラエルの地は安息を得ました(歴代誌下36章21節参照)。そして、バビロンの奴隷となっていたイスラエルの民が50年目にペルシア王キュロスによって解放され、嗣業の地に戻り、神殿を再建することが許されたのです(同23節、エズラ記1章)。

 さらに主は、イスラエルの民のみならず、罪の奴隷となっていた私たちをも(ヨハネ福音書8章34節、ローマ書6章16節)、独り子という高価な代価を払って、買い戻されました。その贖いの御業により、私たちは神のものとされたのです(ローマ書6章16節以下、第一ペトロ1章18,19節)。

 冒頭の言葉(48節)で、奴隷となっていた者を買い戻すのは、その兄弟や伯父、従兄弟という血縁者でした。主なる神が御子キリストの命の代価で私たちを買い戻してくださったということは、主が私たちの血縁者となってくださったということです。

 その事実から、私たちが主イエスを信じたから、神の子となる資格が与えられたのではなく、主が私たちを神の子とするために、先に贖いの業を行っておられ、その上で、主イエスを信じるように私たちを導かれたということが分かります。それは当に一方的な主の恵みです。ハレルヤ!

 その恵みを無駄にすることがないよう、日々主の御言葉に聴きながら、主の証人としての使命を全うできるよう、聖霊の満たしと導きを祈りましょう。その力を受けて主の御業に励む物とならせていただきましょう。

 主よ、御子イエスの血の代価によって贖いとられた私たちです。頭なるキリストによって一つからだとされ、御言葉に聴き従って歩み、互いに愛し合って主の栄光を表すことが出来ますように。主の御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン






11月3日(金) レビ記24章

「イスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせ、臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に備え付けさせなさい。アロンは主の御前に、夕暮れから朝まで絶やすことなく火をともしておく。これは代々にわたってあなたたちの守るべき不変の定めである。」 レビ記24章2,3節

 24章の最初の段落には、「常夜灯」についての規定が記されています。常夜灯については、出エジプト記27章20,21節にも同様の規定がありました。

 常夜灯をともす燭台は、聖所の中の至聖所に向かって左側、即ち幕屋内の南に配置されていました(出エジプト記40章24節)。「常夜灯」という名前のとおり、「夕暮れから朝まで」(3節)、幕屋の中を照らさせます。聖所では朝に夕に、主の御前に礼拝がささげられます。聖所に置かれている香の祭壇は祈りを、パンの机は神の御言葉を、そして燭台は神への賛美を象徴しているようです。

 常夜灯がともされるのは、神が天地創造の初めに「光あれ」(創世記1章3節)と言われて、光が造られたこと、それゆえ「神は光であり、神には闇が全くないということ」(第一ヨハネ1章5節)を象徴しています。

 このことは、詩編27編1節で「主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう」と告げ、また同80編4節で「神よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」と求めているところにも示されています。神が光を輝かせているとき、人は勝利を与えられて喜びと平安の中におり、その光が見えないとき、恐れと不安で神を呼び求めるわけです。

 そのことについてパウロが「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(第二コリント4章4節)と言い、そして「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(同4章6節)と記しています。

 私たちの体をご自身の神殿としてその内に住まわれる神が(第一コリント6章19節、第二コリント6章16節)、私たちの内に「光」に象徴される主イエスへの信仰をお与えくださったことを教えているのです。

 これは、パウロ自身の体験に基づいているようです。というのは、キリストを信じる以前のパウロは、主イエスに神の栄光を見ることが出来ませんでした。そのために、キリストの福音を恥として、教会を迫害しました。しかしながら、神はパウロを憐れんで復活のキリストと出会わせ(使徒言行録9章)、パウロの内に、キリストを信じる信仰をお与えになったのです(同9章18節)。

 そして、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5章8節)と言います。

 これは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ福音書8章12節)と言われた主イエスが、私たちに「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」(マタイ福音書5章14節)、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(同16節)と語られたことと通じています。

 私たちは自分自身が光ではありませんが、まことの世の光なる主イエスを信じ、主イエスを証しすることで、光の子として歩み、世の光としての使命を果たすのです。

 常夜灯をともすのに、冒頭の言葉(2節)で「オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ」なさいと言われます。「純粋の油」とは、オリーブの実を砕いてざるに入れ、自然に流れ出た油のことだそうです。実を押し潰し、搾り出した油とは区別しています。

 これは、主イエスを証しするときに、内側から神に促され、聖霊の力を受けて語ることと、私たちが自分の知恵や力、経験で語ろうとすることとを区別しているかのようです。

 というのは、「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(主イエス)の証人となる」(使徒言行録1章8節)と言われているとおり、主イエスの証人になるために、聖霊の力と導きが必要不可欠だからです。

 主イエスが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ福音書28章18~20節)とお命じになりました。

 ご命令に従い、主の証人としていつでもどこでも誰にでも、主イエスの福音を告げ知らせることが出来るよう、日毎に主の御前に進み、祈りと御言葉によって主との交わりを持ち、聖霊の力に与らせていただきましょう。

 主よ、私たちと共におられ、私たちを絶えず正しい道に導いてくださることを感謝します。主の恵み、神の愛を証しする者として整え、用いてください。そのために、聖霊に満たし、その力を与えてください。世の人々にキリストの光を輝かせることが出来ますように。 アーメン




11月2日(木) レビ記23章

「これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。」 レビ記23章43節

 23章には「主の祝祭日」についての規定が記されています。2節に「あなたたちがイスラエルの人々を聖なる集会に招集すべき主の祝日は、次のとおりである」とあります。原文は少々難解で、新共同訳聖書はこの節の最後の「モーアダーイ(わたしの祝日)」という単語を訳出していません。

 直訳すれば「これらは、あなたたちが彼ら(イスラエルの子ら)を聖なる集会に召集すべき主(ヤハウェ)の祝日であり、わたしの祝日である」となります。岩波訳が「〔以下は、〕あなたたちが聖なる集会〔の時〕として宣布すべき、ヤハウェの指定祭日である。それらはわたしの指定祭日である」としているとおりです。

 新共同訳の「祝日」を岩波訳が「指定祭日」としているのは、原語の「モーエード」が「定められたもの」という言葉で、定期的に行われる祝祭行事という意味で用いられているからです。

 イスラエルの民が守るべき祝日とは、「安息日」(3節以下)、「過越祭」(5節以下)、「七週祭」(15節以下)、「角笛の日」(23節以下)、「贖罪日」(26節以下)、「仮庵祭」(33節以下)です。彼らはそれを、「聖なる集会」としなければなりませんでした。つまり、聖い神のために区別された集いなのです。だからこそ、主なる神がこれらを「わたしの祝日」と呼ばれるのです。

 もともと、「主の過越」と共に守る「除酵祭」は大麦の収穫の初め、「七週祭」は小麦の収穫の終わり、「仮庵祭」は葡萄やオリーブの収穫という、農業の収穫を祝う祭でした。それが、イスラエルの救いの物語と結びつき、「過越祭」は文字通り、イスラエルがエジプトから解放された「過越」の出来事(出エジプト記12章参照)を記念する祝いとなりました。

 そして、キリストが十字架につけられ、三日目に甦られたのが過越祭のときであったので(マルコ福音書14章12節、15章6節)、私たちは今日、これを「イースター(キリストの復活祭)」として祝います。また、キリストが甦られたのが週の初めの日、即ち日曜日だったので、それを記念して、毎週日曜日を礼拝の日としています。その意味では、毎週イースターを祝っているわけです。

 「七週祭」は、後に、シナイ山で十戒を授与された(出エジプト記20章)ことを祝う祭りとなりました。七週祭は、ギリシア語で「ペンテコステ(五旬祭)」と言います。

 この日、約束の聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子たちの宣教により、3千人もの人々が一度にクリスチャンとなり、エルサレムに教会が誕生しました(使徒言行録1章4,5,8節、2章1~42節)。教会では、この「ペンテコステ」を聖霊降臨日、また教会の誕生日として祝います。

 そして、「仮庵祭」は、ぶどうの収穫のために雇った人々に簡素な小屋が提供されるのを、シナイの荒れ野を旅したときの幕屋に見立て、40年の旅路を共に歩み、その必要を満たされた主を記念するのです。冒頭の言葉(42節)は、そのことを説明しています。これは、今日の「収穫感謝祭」であり、また勤労感謝の日ということになりますね。

 一週間を仮小屋で過ごすことによって、かつての荒れ野の生活を振り返ると共に、人生はいわば「旅」であり、今与えられているものすべてが、神によって預けられているものに過ぎない、やがてそれをすべて神に返すべきときがやって来るということを、繰り返し思い起こすのです。

 仮庵祭では、大祭司が大きな金のひしゃくを頭に乗せてシロアムの池で水を汲み、神殿の祭壇にそれを注ぐという儀式が行われていたそうです。それによって、神が収穫のために雨を降らせてくださった感謝をささげると共に、次の収穫のために雨が再び与えられることを祈願したのです。

 主イエスが「(仮庵の)祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」(ヨハネ福音書7章37節)、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同37,38節)と言われたのは、雨の恵みを与えるのはご自分だと宣言されたのです。

 そして、その恵みとは、雨の水に象徴的に示されている、人に命を与える「霊」であると説明されています(同39節)。同4章14節に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われていましたが、ここでは「川(複数形)となって流れ出るようになる」と言われて、わき出る水の量が拡大されています。

 私たちの人生の旅路に同伴してくださり、絶えずその必要を満たしてくださる方、私たちを神の宮としてうちに住み、真理を悟らせ、賛美をお与えくださリ、祈りに導かれる聖霊なる神に、心から感謝しましょう。

 主よ、私たちは聖霊の働きによってイエスを主と信じ、救いの恵みに与りました。今、聖霊の働きによって御言葉の真理を教えられています。絶えず御霊に満たされ、その力に与り、神の愛と恵みを、いつでも、どこでも、誰にでも、喜びと感謝をもって証しすることが出来ますように。 アーメン




11月1日(水) レビ記22章

「祭司が金を出して買い取った奴隷はそれを食べることができる。また、家で生まれた奴隷も祭司の食物を食べることができる。」 レビ記22章11節

 22章には、「聖なる献げ物について」の規定が記されています。イスラエルの人々が主の前に奉納するいけにえは、神に献げられた物ですから、「聖なる献げ物」と呼ばれています。神のために特に区別された、とっておきのものということです。ゆえに、神に許可された者のほか、それに触れたり、また食べたりすることが出来る者はいません(2,3節)。

 10節に、「一般の人はだれも聖なる献げ物を食べてはならない。祭司のもとに滞在している者や雇い人も食べてはならない」とあります。6~7章の規定では、聖なる献げ物を食べることが出来るのは、祭司の家系につながる男子、つまり、祭司の務めを果たす者たちだけで(6章11,22節など)、たとえ家族といえども、女性や子どもには許されていなかったのです。

 しかし、冒頭の言葉(11節)を見ると、金で買われた奴隷、その家で生まれた奴隷は、食べることが許されています。そして12~13節では、祭司の娘も食べることが出来たようです。このように、ここでは聖なる献げ物を食べることが出来る者の範囲が、祭司の家族、彼らに仕える奴隷たちと、すこし拡げられています。

 祭司でなくても、その家の奴隷であれば、その食事に共に与ることが出来るというのは、聖書に一貫して流れている恵みの世界です。恵みとは、神が権利のない者にお与えになるものであり、受ける資格のない者がそれに与ることです。神の恵みは、決して、自分で働いて獲得した報酬などではありません。

 救いは、主イエスを信じる者に与えられる神の恵みですが(エフェソ書2章8,9節)、使徒言行録16章31節によれば、その恵みが家族にまで及ぶと語られています。冒頭の言葉では、金で買い取られた奴隷、その家で生まれた奴隷も、祭司の家族の一員と認められています。ここに、神の愛があります。

 私たちは、まことの大祭司なるイエス・キリストの贖いによって買い取られた主イエスの奴隷です(ヘブライ書4章14節以下、10章10節、第一コリント書6章20節、7章22,23節など)。主イエスを信じると、主イエスが私たちの家に入って来られ、一緒に食卓を囲むことが許されました(黙示録3章20節参照)。神の家族、家の者とされたのです。

 私たちが食べることの許された聖なる献げ物とは、実に、主イエスの肉と血です。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハネ6章55~56節)と言われる通りです。

 主イエスの肉を食べ、血を飲むとは、神の御子の命に与ることです。主は私たちのためにご自身の肉を裂かれ、血を流されました。それによって私たちの罪を赦し、私たちに神の子どもとなる特権、資格をお与えくださいました(同1章12節)。

 命に与るとは、イエス様を救い主、人生の主として心に受け入れること、そして主と親しく語らい、交わることです。私たちに、神の御子イエス・キリストの命を頂き、主と親しく語らい、交わることが許されたのです。なんと幸いなことでしょうか。私たちは、日毎に主と親しく交わり、日々の糧を受けるように招かれています。この食卓は本当に豊かです。

 かつて、カナンの女性が娘の病気の癒しを主イエスに願った際に、「資格のない者に与えられる神の恵み」について、主人の食卓から落ちるパンくずを小犬が食べると語りました(マタイ15章21節以下)。主人たちと一緒に食卓について食事をする資格のない小犬にすぎない自分だけれども、食卓から落ちるパンくずで十分おなかを満たすことが出来る、それほど豊かな食卓だと言っているのです。

 主イエスは、神の恵みの豊かさ、憐れみ深さをそのように信じているカナンの女性の信仰を喜ばれました。確かに主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることがありません(詩編100編5節、136編)。私たちの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、私たちに必要なものをすべて満たしてくださいます(フィリピ書4章19節)。

 そして、神はさらにこの恵みを押し広げようとしておられるのです。ヨハネ15章16節で「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」と言われているとおりです。

 私たちには、日毎に聖書の御言葉を通して、祈りによってその食卓の恵み、神との深く親しい交わりに与ることが許されています。それは、恵みを味わった者が他者にもその恵みが広げられるように祈り、救いを告げ知らせるためです。

 共に心から主を畏れ、信頼し、心を合わせて主に従って参りましょう。主なる神が私たちを愛し、受け入れてくださったように、お互いに愛し合いましょう。毎日、心を合わせて神の愛と真実の言葉である聖書を読みましょう。家族一人一人のことを覚え、感謝をもって祈りましょう。

 神は私たちを、愛の砦、平安の港、祝福の湧き出す泉としてくださるでしょう。そして、そこから全世界に向かって、主の恵みが広げられていくのです。
 
 主よ、この町に神の恵みを伝えるよう、先達に伝道の働きを命じられました。今日まで、それを守り続けて来ることが出来たのも、神の恵みでした。心からなる感謝をもって、思いも新たに主に仕えて参ります。さらに恵みの世界を広げることが出来るよう、日々聖霊に満たし、伝道の力、証しの力を与えてください。御名が崇められますように。 アーメン





10月31日(火) レビ記21章

「ただし、彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。わたしが、それらを聖別した主だからである。」 レビ記21章23節

 21章には、「祭司の汚れ」について記されています。1節に「親族の遺体に触れて身を汚してはならない」とありますが、これは、葬儀に参列することを禁ずる戒めです。死や遺体が、人に汚れをもたらす最大の要因と考えられていたようです(エゼキエル44章25節、民数記19章11節以下)。ただし、父母や息子、娘、兄弟など近親の葬儀は、例外として許されました(2,3節)。

 5節の「頭髪の一部をそり上げたり、ひげの両端をそり落としたり、身を傷つけたり」というのは、哀悼の意を表す異教の習慣だったようです。これは申命記14章1節で、祭司だけでなく、一般の人々についても禁じられています。

 しかし、「聖別の油を頭に注がれ、祭司の職に任ぜられ、そのための祭服を着る身となった者」(10節)、即ち選ばれた大祭司だけは、「自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない」(11節)と定められています。民の代表として聖所で仕える者が、汚れによって職務が全う出来なくなることを禁止し、どんなときでも自らを清く保つという模範を示すことが求められたのです。

 神の定めといえば、守るほかないのかもしれませんが、命を限りあるものとし、その死を悼む思いを人の感情の中に作られたのも神であれば、葬儀を行い、哀悼の意を表すことを禁ずるというのは、なかなか胃の腑にすとんと落ちるものではありません。

 主イエスが、ベタニアで兄弟ラザロの死を悼んでマリアが泣いているのを御覧になって激しく心を揺さぶられ、ご自身も涙を流されました(ヨハネ福音書11章35節)。その後、ラザロを生き返らせて、御自分が人に命をお与えになるメシアであることを示されます(同38節以下)。主イエスにとって、死は触れてはならない汚れというのではなく、神によって打ち破られるべき敵なのです。

 17節以下には、障害のある者は誰も、祭司の任務に就くことを禁ずるという規則が記されています。献げ物が「無傷」のものでなければならないように(1章3節など)、それを神にささげる祭司も無傷、欠陥のない者でなければならないと考えるわけです。神が聖であられるように聖であれという要求を、容姿にも適用しようということです。

 冒頭の言葉(23節)は、障害を「汚れ」と考えていることを示しており、それゆえ、聖所の中に入り、祭壇に近づいて神を礼拝する場所を汚してはならないというわけです。「障害」について、18節以下に10ほどのケースが挙げられていますが、後期ユダヤ教においては、これを142にも拡大したと言われます。

 サムエル記下5章6節以下の記事において、ダビデの命を憎む者として、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」と言われるようになったとされていることも(同8節)、この流れの中にあると思います。ただ、ここにあるのは、まさに障害者に対する不当な偏見、差別と言わざるを得ません。

 祭司アロンの子孫で障害がある者でも、神聖なるものも聖なる献げ物も食べることができると言われますが(22節)、しかし、「垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない」となると、聖域でしか食べられない神聖なるもの、聖なる献げ物を食べることは、事実上不可能ではないでしょうか。

 このような規定があるので、「生まれつき目の見えない人」を見かけたときに(ヨハネ福音書9章1節)、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(同2節)という質問が、弟子たちの口から出て来るのです。

 それに対して主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(同3節)とお答えになられました。

 弟子たちは、障害の原因が誰の罪かと尋ねたのですが、主イエスは、その障害が罪から生じたという考えを明確に否定して、神がその人に障害をお与えになった真の目的を示されたのです。即ち、生まれつき目が見えないというその障害は、神の業が現れるためにその人に与えられた神の賜物だと言われたわけです。

 即ち、見えないということは、神から遠ざけられる、文字通りの「障害」ではなく、むしろ、神が彼に目を留め、彼を通して神の御業が表わされるための賜物なのです。それは、ヨハネの記事においては、主イエスが彼に近づいてその目に触れ、シロアムの池に遣わしてその目を癒されるという形で表わされました。

 「闇」という漢字は、門が閉ざされ、日が隠れるという文字だそうで、「暗」が書き換え文字だと、漢和辞典にありました。ただ、素直に見れば、暗やみの中で「音」の門が開くという文字のように見えます。光がないところでは、晴眼者は動きが制限されますが、目の不自由な方には何の妨げにもなりません。

 目の不自由な方々が「目が見えないのは不自由ではあるが、決して不幸ではない。むしろ、それによって神を知ることが出来てよかった」と言われるのは、晴眼者の私には味わうことの出来ない神の恵みを証ししてくださっているのです。

 真理に目が開かれ、真理によって自由にされるため、主の御言葉に耳を傾け、御言葉に留まるものになりたいと思います(ヨハネ8章31,32節参照)。

 主よ、御子イエスを遣わして、文字に縛られて他者を裁き、不自由にする心から、私たちを解放してくださったことを感謝します。あなたが創造されたものはすべて、はなはだ善いものであることを、いつも教えてください。表されようとしている神の御業を見落とし、見逃すことがありませんように。 アーメン




10月30日(月) レビ記20章

「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。」 レビ記20章26節

 主なる神は冒頭の言葉(26節)で、イスラエルの民をご自分のものとするために諸国の民から区別した、と言われました。だから、聖なる者となり、自分を清く保つために、汚れた動物などを食べたり、それに触れたりしてはならない、清いものと汚れたものとをはっきり区別せよというのです(25節)。

 このことで、二つのことを思わされます。一つは、諸国の民から区別される前のイスラエルは、決して特別な存在ではなかったということです。区別される前から特別な存在、清い民であれば、わざわざ「諸国の民から区別」する必要はありません。

 イスラエルは清い民であったから選ばれ、他のものと区別されたというわけではないのです。であれば、彼らの側に選ればれるだけに理由があったわけではなく、一方的な神の恩寵、恵みと憐れみによる選別といってよいのでしょう。

 そうすると、もう一つのことが気になります。それは23節で「あなたたちの前からわたしが追い払おうとしている国の風習に従ってはならない」と言われていますが、当時のイスラエルの民と他の諸国の民の風習も、それほど大きな違いはなかったことでしょう。であれば、他の国々の風習に倣わない道を歩むというのは、決して容易いことではなかったのではないでしょうか。

 22節で「あなたたちはわたしのすべての掟と法を忠実に守りなさい」と告げ、そして25節で「あなたたちは、清い動物と汚れた動物、清い鳥と汚れた鳥とを区別しなければならない」と命じています。神の教えに従って、清いものとそうでないものとを区別し、汚れたものから離れた生活をせよというわけです。

 しかしながら、イスラエルの民は、神の御言葉に忠実に歩むことが出来ませんでした。むしろ、御言葉に背き続ける道を歩みます。繰返し預言者が遣わされ、背きの罪を離れるよう警告しますが(列王記上17章、列王記下17章など参照)、結局、神に導き入れて頂いた約束の地カナンから、叩き出されることになってしまうのです。

 つまり、人は自分の知恵や力、考えで、神の御言葉に忠実に従うこと、その道を清く保つことは出来ないということです。

 そこで示されるのが、詩編51編のダビデの詩です。「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(4節)と願った後、12節で「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と求めました。自分の罪咎が清められるだけでは、また同じことを繰り返してしまいます。

 たとえが不適切かも知れませんが、放漫経営のために倒産寸前の会社の債権をすべて肩代わりしてくれる人がいて、それで倒産を免れても、経営陣が刷新されなければ、結局また倒産に追い込まれてしまう結果となるでしょう。

 そこで、経営陣を刷新し、新しい方法で会社を再建してくださいと願うのです。それが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」という祈りなのです。これは、実に虫のいい祈りでしょう。しかしながら、それ以外に、罪人が清い生活に戻り、その歩みを保つ道はないということなのです。

 このことについて、預言者エレミヤが「新しい契約」(エレミヤ書31章31~34節)について告げた後、32章39,40節で「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする」と預言しています。

 この預言は、神の御子イエスが十字架で血を流されることによって、成就しました(ヘブライ書9章15節以下)。キリストの血潮により、罪が清められたのです。

 また、第二コリント書3章18節に「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」とあります。聖霊の力で新たに造り替えられるのです。

 主の御前に謙り、御言葉に従って歩むことが出来るように、主に信頼し、絶えず「憐れみと祈りの霊」(ゼカリヤ書12章10節)を注いで頂きましょう。

 主よ、渇いている者に命の水の泉から価なしに飲ませてくださる恵みを感謝します。主にあって心の一新によって造り変えられ、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえさせてください。求める者には、聖霊をお与えくださいます。聖霊に満たされ、力を受けてキリストの証し人となることが出来ますように。 アーメン




10月28日(土) レビ記18章

「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」 レビ記18章21節

 3節に、「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない」と言われ、その風習とは、6節以下を見れば、近親相姦をはじめ、乱れた性的な関係のことであることが分かります。

 新共同訳聖書は、18章に「いとうべき性関係」という小見出しをつけています。イスラエルの民には、かつて奴隷とされていたエジプトや、これから獲得することになる約束の地カナンとその周辺に住む異国民らの、乱れた風習に染まず、神に選ばれた聖なる民として生きることが求められているのです。

 25節に「これらの行為によってこの土地は汚され、わたしはこの地をその罪のゆえに罰し、この地はそこに住む者を吐き出したのである」とあり、イスラエルの民がカナンの地に定住出来るのは、先住民がその罪によって地を汚して罰を受け、追い出されたためだというわけです。

 ということは、彼らがエジプトやカナンの民の風習に従って歩めば、彼らも罰を受けて「先住民をはき出したと同じように、土地があなたたちを吐き出すであろう」(28節)ということなります。そこで、民全体が吐き出されてしまう前に、「これらのいとうべき事の一つでも行う者は、行う者がだれであっても、民の中から断たれる」(29節)と言われるのです。

 この規定の中で、冒頭の言葉(21節)だけは、性行為と直接関係がないように見えます。モレク神に子どもをささげるなというのは、偶像礼拝禁止条項です。それがここに入れられているのは、偶像礼拝が神との関係の乱れということで、乱れた性的関係との類似ということも出来るでしょうけれども、そうであるなら、カナンの代表的なバアルやアシェラの礼拝が取り上げられるべきです。

 「モレク」というのは、ヘブライ語の「王」(メレク)という言葉に、「恥ずべきもの」(ボシェス)の母音をつけて発音したもので、「恥ずべき王」という意味になるかと思われます。これは、列王記上11章7節では、アンモン人の神とされており、同33節ではミルコムとも呼ばれています。あるいは、それが正しい呼び名なのかもしれません。

 モレクの神殿は、エルサレムの南西ベン・ヒノムの谷トフェトに築かれました(エレミヤ書7章31節)。それは、ソロモンにより、異教徒の妻たちのために建てられたのです(列王記上11章5,8節)。

 ここは、エルサレムの町のごみやガラクタを焼却処分するところで、その火が消えることはなかったことから、ヒンノムの谷(ゲイ・ヒンノム)=ゲヘナとして知られるようになり、やがて、ゲヘナの火といえば、神の永遠の裁きの象徴となったのです。

 自分の子どもに火の中を通らせて、モレク神にささげるという祭儀が行われていました。大切な子どもをささげることで、なんとしても願い事を神に叶えてもらうという目的があったのでしょう。しかしそれは、神に与えられた命を神ならぬものにささげることであり、自分たちの将来を犠牲にすることです。

 21節の原文を直訳すると、「自分の種から、火によってモレクに与えてはならない」となります。これは、20節の「あなたの隣人の妻に種のためにあなたの性交を与えてはならない」という言葉で、隣人の妻に種を与えることと、モレクに自分の種の一つを与えることが並置されている事が分かります。

 隣人の妻との姦淫が、相手の家庭と自分の家庭の双方を破壊してしまうので、十戒で禁止され(出エジプト記20章14節)、20章10節で「必ず死刑に処せられる」と宣告されています。モレクに子をささげることが民の間に広がることで、主との関係が蔑ろにされ、主の民としての共同体を破壊し、将来を担う命を無駄にするという恐るべき罪とされているわけです。

 そして何と、ユダの王アハズ(列王記下16章3節)、同じく王マナセ(同21章6節)もこれを行っており、この罪によって繰返しその地が汚された結果、イスラエルの民は、この地から追い出され、亡国とバビロン捕囚という憂き目を味わわなければならなくなったわけです。

 改めて、イスラエルが自分の知恵や力で神の民となることは出来ません。人が自分でエデンの園を作り出すことは出来ないのです。イスラエルが神の民として選ばれたのは、ただ神の憐れみです(申命記7章6節以下参照)。

 エゼキエル書36章25,26節)で神が「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」と宣言されています。

 これは、エレミヤが「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ書31章31節以下、33節)と語った「新しい契約」預言と同じ内容の言葉でしょう。

 それはまた、姦淫と殺人の罪を犯したダビデが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。・・・御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」(詩編51編12,14節)と求めた祈り願いに対する主の応答ともいうべきものです。

 主なる神は、求めるものに得させ、捜すものに見出させ、門を叩くものには開いてくださるよいお方だからです(マタイ7章7節以下)。

 主よ、何よりも先ず、神の国と神の義を求める者とならせてください。絶えず御言葉を通して清められ、新しい霊で満たしてください。心から、霊と真実をもって主を礼拝することが出来ますように。御名が崇められますように。 アーメン




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