風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

1月12日(金) 申命記31章

「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」 申命記31章6節

 2節に「わたしは今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主はわたしに対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた」というモーセの言葉があります。これを見る限り、もうこれで晴れてお役御免、お務めご苦労様でしたというところです。

 ただ、モーセの本心は、ヨルダン川を渡って約束の地を踏みたい、乳と蜜が流れるというカナンの地を見たいということでした(3章25節)。しかし、それは適わず、最後にネボ山、即ちピスガの山頂から、その地を眺めることだけが許されたのです(同27節、34章1節以下)。

 どんなに優れた指導者でも、力のあるリーダーでも、永遠にその働きを続けることは出来ません。いつしか、そのバトンを次の者に渡さなければならないときが来るのです。そのとき、何が起こるのかということが示されています。民はこれまで、困ったことがあるとモーセに訴え、解決が与えられて来ました。主によって立てられたよい指導者がいなくなれば、この民はどうなるのでしょうか。

 モーセは先ず「あなたの神、主御自身があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国々を滅ぼしてそれを得させてくださる」(3節)といい、続いて冒頭の言葉(6節)のとおり、「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」と告げます。

 これは、モーセに代わって主なる神が直接導くということではありません。主が共にいて導かれたからこそ、モアブの地まで来ることが出来たのです。そして、モーセがいなくなっても、それは主がイスラエルの民を見捨てるということではなく、だから、主が共に歩んでくださるということに、変化はないということなのです。

 「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127編1節)と詩人が詠っています。イスラエルの国を建て、その民を守るのは、優秀な指導者ではなく、主なる神なのです。主こそ、真のリーダーです。主が共に歩んでくださるのだから、「恐れてはならない。おののいてはならない」(6節)と言われるのです。

 次いで、モーセはヨシュアを呼び寄せ、民の前で自分の後継者であることを明らかにします(7節)。モーセは、ヨルダン川を渡れないことが確定したときから、エフライム族のヌンの子ヨシュアが選ばれていました(民数記27章12節以下、23節、申命記3章26節以下、28節)。神の導き、助けが、これまでモーセを通してなされていたように、これからは、ヨシュアという新しい代理人を介して与えられるのです。

 これは、創世記2章18節で「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と神が言われたことを思い起こさせます。「助ける者」は、「助け」という意味のエゼルというヘブライ語が用いられています。旧約聖書において、「助け」をお与えになるのは主なる神のほかにありません(詩編121編1,2節参照)。その神が、独りでいる、寄る辺のない人に、「助ける者」を造ってくださるというのです。

 モーセが全権をヨシュアに委ねるにあたり、与えた奨めは「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」(7,8,23節)という言葉です。それは、ヨシュア自身も主なる神の助けを必要としている、弱い人間だということです。だから、冒頭の言葉で全イスラエルに向かって与えたのと同じ奨めの言葉が、あらためてヨシュアに与えられているわけです。

 モーセは、12章1節以下26章まで、イスラエルの民が約束の地に入って守るべき掟と法を語って聞かせ、28章69節以下、その掟と法に基づき、シナイ山で結んだ契約を更新するかたちで、モアブの地で契約を結びました。ここで、それらを書き留めさせ、祭司およびイスラエルの全長老に与えました(9,24節)。それこそ、モーセの遺言です。それによって、民はいつでもモーセの遺志を確認出来ます。そして、主の導きを知ることが出来ます。

 主なる神が先立って民を導き、モーセの後継者にヨシュアが立てられ、そして、契約書としての律法の書があれば、鬼に金棒、これで用意は万全と言いたいところですが、モーセはしかし、そのように考えてはいませんでした。「わたしはあなたがかたくなで背く者であることを知っている。わたしが今日、まだ共に生きているときでさえ、あなたたちは主に背いている。わたしが死んだ後は、なおさらであろう」(27節)と語っているからです。

 だから、ヨシュアに「強く、雄々しくあれ」と語るのであり、また、祭司、長老たちに、七年ごと、負債免除の年の定めの時、仮庵祭に全イスラエルの前で律法を読み聞かせ、忠実に守らせよと命じるのです(10,11節)。どんなに心備えしても、それで安心ということはないでしょう。

 イスラエルが拠って立つのは、自分たちの誠実さ、忠実さ誠実さなどではなく、「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(6節、8節など)という主の御言葉です。主がそう約束されるからこそ、約束の地で安息を得ることが出来るのです。

 祈り願う前から私たちに必要なものをご存じの主を信頼し、日毎その御言葉に耳を傾け、導きに素直に従って歩みましょう。

 主よ、あなたは私たちの弱さをよくご存知です。あなたがご一緒くださらなければ、どうして信仰の道を全うすることが出来るでしょう。どうか前から後ろから、また上から下から私たちを取り囲んで、恵みをお与えくださいますように。信仰の創始者であり、完成者である主を仰ぎ見ながら、私たちの担うべき役割を果たすことが出来ますように。 アーメン

 

1月11日(木) 申命記30章

「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」 申命記30章14節

 30章は、「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み」(1節)という言葉で始まります。イスラエルが、申命記に記されているあらゆる祝福や呪いを味わう、初めは大いに祝福されたけれども、やがてその祝福を失い、最悪の事態に陥って28章に語られているようなあらゆる災いを被るということです。

 これまでの論調は、神に従えば祝福、背けば呪いが臨むという二者択一のもので、そこでは当然、神に忠実に従って祝福を受けるようにという招きが語られていました。どこか、「天国か地獄か」といった響きとして、それを聴いていました。そして、神に呪われ、災いを受けたらそれでおしまいと考えていました。

 しかし、ここに見られるのは、神に背いてその呪いを受けても、追い遣られた先々で悔い改めるならば(1,2節)、「あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」(3節)という、回復の約束です。

 つまり、主なる神は背くイスラエルを滅ぼしてしまわれたいのではなく、再び神に聴き従う者となること(2節)、心を尽くし、魂を尽くして、イスラエルの神、主を愛する者となること(6節)を望んでおられるのです。そしてそれが、申命記でモーセを通して神が告げていることなのです(10節)。

 11節に「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」とあります。ここで「難しい」の原語は、「不思議(パーラー)」という言葉で、神の御業の形容に、「驚くべき」(出エジプト記3章20節、34章10節)とか「奇しき」(新改訳:出エジプト記34章10節)と訳されて、用いられています。

 つまり、普通の人間が理解することの出来ない不思議な出来事という意味で用いられているわけです。ここでは、「難しすぎるものではなく、遠く及ばぬものでもない」ということから、誰もが理解することが出来るといわれているのです。そのように誰もが理解することのできるものだから、実行するのは難しくない。それを行って、祝福を得よというのです。

 勿論、あらゆる律法、すべての戒めを行えと言われて、それが完璧に出来る人もまたいないでしょう。マルコ10章17節以下、永遠の命を巡る問答で、主イエスが示した神の掟に、青年が「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(同20節)と答えますが、それが完全なものでなかったことを主イエスに見抜かれていました。

 パウロも、「正しい者はいない。一人もいない」(詩編14編3節)といった言葉を引用しながら(ローマ書3章10節以下)、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(同20節)と結論しています。

 しかし、神の赦しと救いに与り、神の愛を知った者として、命令に従いたいと願い、教えを実行しようと努力すること、神に近づこうとして歩み始めること、それがどんなに弱々しく、ゴールまでほど遠いものであっても、その一歩一歩を神は喜んでくださるにちがいありません。

 そして、善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると信じます(フィリピ書1章6節)。

 戒めが難しいものではないという根拠について、冒頭の言葉(14節)で、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と言っています。

 これは先ず、神の御言葉を繰り返し朗読することです。御言葉が「口にある」とはそのことです。口にあるのでそれを聞くことができます。そして「心にある」とは、既に自分自身のものになっているということでしょう。だから、それを行うことができるというのです。

 パウロが、この言葉をローマ書10章8節で引用しています。そして、「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」と解釈しました。つまり、口と心にある「御言葉」とは、キリスト・イエスのことだというのです。神の言葉をキリストのことと解釈するのは、キリストが律法の体現者、律法の完成者だということでしょう(マタイ5章17節)。

 そして、口で「イエスは主である」と公に告白し、心で「神がイエスを死者の中から復活させられた」と信じるなら、あなたは救われる(同9節)と説いています。主イエスを信じて心に迎え、その信仰を公に言い表すことで神に義とされ、救いに与るのです(同10節)。

 こうした言葉の背後には、パウロ自身の信仰体験があると思います。迫害者をも愛し憐れみ、救おうとされる主イエスの愛に触れて目が開かれ、主イエスを信じる者となりました。御霊の力を受けて、主イエスの愛と救いを証しする者となりました(使徒言行録9章)。

 パウロは、彼の心に主イエスが住まい、もはや自分ではなく、キリストが生きているというのです(ガラテヤ書2章20節)。そして、どのような困難にも迫害にも気落ちしないで主を証しし、福音を語る時、彼の心には御霊を通して神の愛がいよいよ豊かに注がれ、喜びに満たされました。彼は、艱難さえも喜ぶことが出来る者とされていたのです(ローマ書5章1~5節)。

 日々神の御言葉に耳を傾け、それを行うことにより、岩の上に家を建てる賢い者とならせて頂きましょう(マタイ7章24,25節)。御言葉に土台し、導きに従う者は、どんな世の嵐が吹き荒れ、荒波が押し寄せてきても、神の祝福の内に守られるからです。

 主から受けた恵みを証しするため、御霊の満たしと力を祈り求めましょう。主は、求める者に聖霊をくださるからです。

 主よ、繰り返し背いたイスラエルを絶えず憐れみ、何度も祝福の道を示されました。そこに赦しを見ます。救いを見ます。今日私たちがあなたに従って歩むことが出来るのも、主が私たちを憐れみ、招き続けていてくださるからです。感謝をもって常に「イエスは主なり」と告白して参ります。私たちの歩みを守り導いてください。その恵みを証します。聖霊を与えてください。御名が崇められますように。御業がこの地に行われますように。 アーメン

 

1月10日(水) 申命記29章

「あなたはその目であの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。」 申命記29章2,3節

 29~32章は、モーセの決別説教というべき部分です。まず29,30章に、モアブで結んだ「契約の言葉」が告げられます。28章69節(口語訳、新改訳は29章1節)に「これから述べるのは、主が、ホレブで彼らと結ばれた契約とは別にモアブの地でモーセに命じられてイスラエルの人々と結ばせた契約の言葉である」と記されています。

 その後、モーセの後継者として正式にヨシュアを立てて、その任務を委譲し(31章)、「モーセの歌」を語り聞かせて、「最後の勧告」を行いました(32章)。

 「契約の言葉」は、1節以下7節までのところで、簡潔にこれまでの歩みを振り返っています。1,2節で、イスラエルの民がエジプトを脱出するために起こされた神の災いを思い起こさせ、4,5節では、荒れ野で経験した神の恵みに触れ、6,7節には、ヨルダン川東岸での戦いに勝利して嗣業の地に編入したことが記されています。

 ただ、冒頭の言葉(2節)で「今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった」というのは、イスラエルの民が、これら神の偉大な御業を主の御業としてでなく、自分たちの努力の結果と勘違いしていたのではないかということを示唆するものです。もしも、見るものを見、聞くべき言葉を聴いていれば、それが神の御業であることを悟れたはずだということです。

 そもそも、神が彼らに憐れみをかけてくださらなければ、エジプトを一歩も離れることは出来なかったでしょう。イスラエルの民は、エジプトにいたときから約束の地を目前にしている今日まで、様々な恵みを味わって来ました。そして、約束の地に入ってからも、恵みによって生かされる生活は続きます。

 しかしながら、イスラエルの民は、神の民として神を畏れ、その御心を悟り、神にのみ信頼して、従順にその御言葉に聴き従うということが出来ませんでした。何度も神に不平を言い、繰り返し主に背いて、その怒りを招きました。

 だから、シナイの荒れ野で登録されたイスラエルの成人男子について(民数記1章)、ヨルダン川東岸のモアブの平野で再調査した時には、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて、生き残った者はいなかったという結果を招いてしまったのです(同26章)。そこで、もう一度改めて、次の世代の者たちと契約を結ぶことになったわけです。

 9節に「今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。部族の長、長老、役人、イスラエルのすべての男子、その妻子、宿営内の寄留者、薪を集める者から水を汲む者に至るまでいる」と言われています。

 主なる神と契約を結ぶために、「部族の長、長老、役人からすべての男子、その妻子」という、イスラエルのすべての民だけでなく、宿営内の寄留者に、薪を集め、水を汲む僕たちも、主の御前に共に立っています。

 これは、ここで結ばれる契約は、イスラエルの選民思想とは無縁ということです。また、イスラエル民族という集団というより、共同体を構成する一人一人と結ぶということでもあります。

 そのことは、13~14節の「わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである」という言葉にも表れています。

 神はこの契約の相手を、世代を越えてもっと広げようとしておられるのです。今ここに共にいない、次の世代、次の次の世代、もっとずっと後の世代の人々とも結びたいということです。

 「今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳を持たなかった」(3節)という言葉を、イスラエルの民は、特にバビロン捕囚において噛みしめることになったことでしょう。それこそ、亡国の憂き目を見た一番の原因だったからです。そして、再びイスラエルに戻って来るに際して、改めて主との契約を結ぶ言葉を聞くというのは、極めて重要な意味を持ったことでしょう。

 そしてまた、この時モーセがそう考えていたとは思えませんが、「今ここに共にいない」、別の場所にいる者、つまり、イスラエルの民ではない、周辺諸国の人々とも結ぶということにもなるのではないでしょうか。だから今、私たちも主なる神との契約のうちに入れられているわけです。キリストの福音がイスラエルの民から異邦人へと広げられた根拠が、ここに記されていたということです。

 冒頭の言葉との関連で、主なる神は、エジプトを出たイスラエルの第二世代の民から、寄留者、奴隷、そして、異邦人、後のすべて世代の人々に、「悟る心、見る目、聞く耳」に示されている、主を神と信じる信仰をお与えくださるために、新しい契約を結ぼうとしておられるということになります。

 パウロが「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10章17節)と言いました。申命記において、神の御言葉、すべての掟と法、神の命令と教えに忠実に従うように、何度も命じられています。

 神の御言葉を聞くことから始まる信仰を通して、主のほかに私たちを救うことが出来るものはないと悟ること、このお方の約束を信じ、その御手にすべてを委ねて歩むこと、そして、このお方の御言葉、御教えに忠実、従順な選びの民となるように、繰り返し語られ、導かれているのです。

 神はかつてホレブで契約を結び、そして、ここモアブでそれを更新されます。一度契約を結べば、それで善いというのではありません。あなたは「今日」、わたしと契約を結びますかと、神は問われるのです。即ち、神との契約は毎日更新されるのです。毎日、「あなたは今日、私を主と呼びますか。私の言葉に耳を傾けますか。私を信じて仰ぎますか」と問われているのです。

 主の問いかけに、常に「はい」と答えて、主の御言葉に日々耳を傾け、喜びをもって素直に従って行きたいと思います。

 主よ、私たちは置かれた状況、境遇によって心が変わります。キリストのみ、信仰のみに立つことが出来なくなります。どうか清い心、確かな新しい霊を授けてください。信仰に堅く立ち、絶えず主に目を向け、御言葉に耳を傾けることが出来ますように。アーメン

 

1月9日(火) 申命記28章

「あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので、あなたは主の差し向けられる敵に仕え、飢えと渇きに悩まされ、裸にされて、すべてに事欠くようになる。敵はあなたに鉄の首かせをはめ、ついに滅びに至らせる。」 申命記28章47,48節

 28章には、神とイスラエルの間に結ばれる契約の特約事項が、「神の祝福」(1節以下)と「神の呪い」(15節以下)というかたちで記されています。呪いについては、27章8節以下の「呪いの掟」に、どのような行為が禁じられているのかが具体的に規定されていて、それを破ると呪われると言われます。

 それに対して、28章では、この契約のために与えられた掟と法(5~26章)を忠実に守り行うことによっていかなる利益=祝福がもたらされるのか、また、それを守り行わないことによっていかなる不利益=呪いを被ることになるのかということが述べられています。

 神の祝福には、理想的な姿、こうであればよいなあという、希望溢れる表現が並んでいます。神の守りは国の全域に及んでおり(町でも野でも祝福される:3節)、人の生活にかかわる生き物が多産で(4,5,11,12節)、あらゆる活動が順調に進みます(6,8節)。敵を打ち負かすことが出来ます(7節)。それらのことを通して、イスラエルが神の聖なる民であることが証しされ(9,10節)、他国をも治めることが出来るでしょう(13節)。

 一方、神の呪いは、まず分量的に、祝福の4倍の長さで語られています。内容は、16~19節に神の祝福(3~6節)をちょうど裏返しにした記述があり、20節以下には疫病や天変地異などの災厄、異国の支配、36節以下には捕囚の憂き目を見ることなども記されています。そして、これらの災いは、実際にイスラエルが味わうことになりました。

 疫病や天変地異などは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際に、エジプトに下された災いでした。イスラエルの民は、神の恵みを得てエジプトを脱出したのです。エジプトに下された災いでイスラエルの民が打たれ、そして、「エジプトに送り返される」(68節)というのは、文字通りエジプトの奴隷となるということでもありましょうけれども、神に背いて呪われた結果、一切の恵みを失った姿であるということが明示されるかたちなのです。

 イスラエルの民は、ダビデ王の時代に、神の大いなる祝福を得ました。それこそ神は、町にいても祝福され、野にいても祝福され(3節)、入るときも祝福され、出て行くときも祝福され(6節)、立ち向かう敵を目の前で打ち破られました(7節)。

 ダビデから王朝を引き継いだその子ソロモンも、主なる神から受けた知恵をもって、これ以上ないというほどの祝福を受けました(列王記上3章)。壮麗な神殿を建て、贅を尽くした王宮を完成することも出来ました(同6~8章)。ソロモンの名声を聴き、知恵を聞くために世界中の人々が拝謁を求め、貢ぎ物を携えてやって来たと言います(同10章1節以下、23~25節)。

 ところが、ソロモンには700人の王妃と300人の側室がいて、この妻たちがソロモンを惑わしました(同11章1節以下)。外国から娶った王妃や側室のために異教の神々を祀る場所が築かれ、その礼拝が行われるようになり、ソロモンは主の戒めに背いたのです。ソロモンはいったい何のために千人もの妻たちを抱えたのでしょうか。

 婚姻関係を結んで、両国の平和安定的な交易を求めるためでしょうか。あるいは、よい子孫を残すためでしょうか。その他、様々な理由があるのでしょうけれども、勿論それは、神の導きではありません。むしろ、神の戒めに背く行為だったのです(同11章2節、出エジプト記34章12節以下)。申命記17章14節以下に「王に関する規定」が記されているのは、まさにソロモンの違反行為がその背後にあるといってよいのではないでしょうか。

 民を正しく裁き、善と悪を判断するために聞き分ける心をお与えくださいと神に求め、知恵に満ちた賢明な心を授かったソロモンが(王上3章6節以下、9節)、なぜ、愚かにも神に背く道を歩んでしまったのでしょうか。その理由は定かではありませんし、理解に苦しむところです。

 冒頭の言葉(47節)で「あなたが、すべてに豊かでありながら、心からの喜びと幸せに溢れてあなたの神、主に仕えないので」と言われています。ソロモンは、あらゆる面で豊かになったとき、シェバの女王を初め多くの来訪者たちが賛辞を口にするのをおのが誉れとし、いつしか心高ぶって感謝を忘れ、喜びと幸せに溢れて主に仕えることをしなくなったのでしょう。

 いちいち神に知恵を求めずとも、自分の世界一豊かな知恵で判断し、最も良い裁決が出来ると思い始めて、歯車を狂わせてしまったのかも知れません。主を畏れることが、知恵の初めなのです(箴言1章7節)。

  驕り高ぶって神に背いた結果、冒頭の言葉(48節)に言われているように、ソロモンの存命中に敵対する者が起こり、死後、イスラエルは南北に分裂します(列王記上12章)。そうして、北イスラエルは紀元前721年にアッシリアに(列王記下15章27節以下)、南ユダは紀元前587年にバビロンに滅ぼされ、民は捕囚として連れ去られるという結果を刈り取ることになりました(同25章)。

 パウロは、知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れていると言っています(コロサイ書2章3節)。主の御前に謙ればこそ、知恵と知識の宝が明らかにされるのです。主を畏れる心を忘れて、賢明に生きることは出来ないということです。その意味では、神の賜物がソロモンにとっては仇となってしまったかたちです。

 神の恵みが仇となることがないように、恩知らずにならないように、絶えず主の御前に謙り、日々御言葉に耳を傾け、「今日」主が命じられるところをことごとく忠実に守り、主と共に歩みましょう。

 主よ、与えられている恵みに心から感謝します。その恵みを主の御業の前進のために生かして用いることができますように。そのために、聞き分ける心、実践する力を授けてください。喜びと幸せに溢れて主に仕えさせてください。御心が行われますように。 アーメン

 



1月8日(月) 申命記27章

「また、和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい。」 申命記27章7節

 1節に「モーセは、イスラエルの長老たちと共に民にこう命じた」と記されています。イスラエルの民に語りかける際に、モーセが「長老と共に」民の前に立つというのは、これまで前例のないことでした。

 原文は「そしてモーセとイスラエルの長老たちは命じた」という言葉遣いになっていますが(口語訳、新改訳参照)、イスラエルの長老たちが主から直接言葉を聞いたという場面はなく、また「命じる」(ツァーヴァー)には3人称単数形が用いられていることもあって、「と」を「共に」に変えて訳出しているわけです(岩波訳も)。

 モーセは、約束の地に入ることが許されてはいません。ですから、ここで命じたことを民が忠実に実行するかどうか、モーセ自身が確かめることが出来ません。そのために、長老たちがモーセと共に立ち、いわば立会人しての役割を果たしているというかたちです。

 ここで命じられているのは、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ったら、大きな石を幾つか立ててそれに漆喰を塗り(2節)、その上に律法の言葉をすべて書き記せというものです(3節)。因みに、ヨシュア記4章には、水の涸らされたヨルダン川を渡った記念に、ヨルダン川の石を取ってギルガルの地に立てたことが記されています。

 律法の言葉を石に書き記させるのは、その石碑を見る人に神の戒めを守るべきことを常に思い起こさせるという狙いがあるのでしょう。「律法の言葉をすべて書き記せ」(3節)と言われているということは、神がモーセを通じてお命じになった律法を、すべて守り行えというわけです。

 ただし、「律法の言葉をすべて」とは、5~26章に記されている掟と法のことだとすると、その分量の多さから、それを文字通りに実行するのは、とても大変なことではなかったかと思われます。

 恐らく、契約の箱に十戒の刻まれた石の板を納めたように(4章13節、10章4,5節)、律法のすべてを代表して「十戒」を石碑に記したのではないかと思われます。あるいは、「大きな石を幾つか立て」(2節)ということですから、重要な掟とされる5~11章を碑に刻んだのかも知れません。

 4節に「これらの石をエバル山に立て」なさいと言われています。エバル山について、以前、「あなたが入って得ようとしている土地に、あなたの神、主が導き入れられるとき、ゲリジム山に祝福を、エバル山に呪いを置きなさい」(11章29節)と言われていました。それは、主の戒めに聴き従うならば祝福を受け、戒めに耳を傾けようとせず神に背く道を行くならば呪いを受けるということでした(同27,28節)。

 そして、エバル山には、石碑が建てられるだけでなく、祭壇も築かれることになります(5節)。それは石の祭壇で、鉄の道具を当てない(5節)、自然のままの石で主の祭壇を築くように命じられています。そのことについて、出エジプト記20章25節に「のみを当てると、石が汚される」と、その理由が説明されています。

 そこに焼き尽くす献げ物をささげ(6節)、また、和解の献げ物をささげます(7節)。和解の献げ物は、それをもって神に和解を求めるというよりも、罪赦され、和解の恵みに与った感謝の献げ物といった方がよいのでしょう。

 冒頭の言葉(7節)に「和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい」と言われています。レビ記によれば、和解の献げ物は、脂肪を燃やして煙とし、胸の肉と右後ろ足は祭司らのものとなり、それ以外の肉は、奉納者が神の御前で食することになっています(レビ記3章、7章11節以下)。和解の恵みに与った感謝の献げ物を、神と、そして仲保者たる祭司たちと共に喜び祝うわけです。

 これは、イスラエルの民が約束の地に入るということは、罪の赦しという神の恵みの賜物だということでしょう。赦しがなければ、だれ一人、約束の地に入ることが出来なかったのです。だからこそ、「主の御前で喜び祝いなさい」と言われるのです。

 私たちの罪を赦すために、神の御子、主イエスが贖いの供え物となられました(ローマ書3章24,25節、第一ヨハネ書2章2節、4章10節)。主の晩餐式では、裂かれたパンと、ぶどうから作られた杯をいただきます(マルコ14章22節以下など)。それは、キリストが体を裂き、血を流されたことを記念するものです(第一コリント書11章23節以下、ルカ22章19節)。

 そしてそれは、神の国での祝宴の先取りでもあります。というのは、主イエスが「神の国で新たに飲む日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14章25節)と仰っています。ここに、神の国で、主イエスと共にぶどうの実から作ったものを飲むときが来ることが約束されているといってよいでしょう。

 それは、どんなに大きな喜びでしょうか。言葉では表現出来ない喜びが爆発するときでしょう。主の晩餐式は、それを先取りしているのです。冒頭の言葉に「和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい」と言われているとおり、私たちの和解の献げ物として死んでくださった主イエスを記念する主の晩餐に与るとき、もっと喜ぶべきです。もっと神に感謝すべきです。

 私たちのささげる礼拝が、神を喜び祝う礼拝となるように、主の御言葉に耳を傾け、御旨に従い、日々豊かな祝福に与りましょう。

 主よ、計り知れない恵みに心から感謝します。罪赦され、救われ、神の子とされ、永遠の命に与りました。祈りが聞かれ、癒しや助けをいただきます。聖霊の力を受け、主の恵みを証しすることが出来ます。日々御言葉が開かれ、御旨を悟ります。御業のために用いてください。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン

 

1月7日(日) 申命記26章

「今日、あなたの神、主はあなたに、これらの掟と法を行うように命じられる。あなたは心を尽くし、魂を尽くして、それを忠実に守りなさい。」 申命記26章16節

 冒頭の言葉(16節)は、「イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい」(5章1節)といって語り始められた「掟と法」の序文に対応しています。つまり、5章の十戒に始まる掟と法の宣告が、冒頭の言葉で「結び」となったわけです。

 ですが、掟と法の宣告が結ばれたということは、これで完成ということではありません。冒頭の言葉で言われている通り、神が命じておられる「掟と法」を、心を尽くし、魂を尽くして、忠実に守ることが求められているのです。

 17節の「主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聴き従います」というイスラエルの民の誓約の言葉に対し、主なる神が18,19節で「すでに約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。造ったあらゆる国民にはるかにまさるものとし、あなたに賛美と名声と誉れを与え、既に約束したとおり、あなたをあなたの神、主の聖なる民にする」と誓約されました。

 ここに、イスラエルの民が主をおのが神とし、主なる神がイスラエルの民をおのが民とするという契約が、再び結ばれたことになります。

 かつて、シナイ山においてイスラエルの民は主なる神と契約を結びました(出エジプト記19~24章)。けれども、彼らは、シナイの荒れ野を旅する間、度々主なる神に背いたので、主は彼らを打たれ、約束の地に入ることが出来ませんでした(民数記14章、26章参照)。

 そこで、約束の地カナンに入る前、第二世代の民と、改めて契約を結ぼうとしているわけです。約束の地には、モーセも入ることが許されませんでした(民数記20章12節、申命記3章23節以下、27節)。そこで、掟と法を語り聞かせる必要が生じ、十戒をはじめとする重要な教え(5~11章)と、諸規定(12~26章)を民に伝えたのです。

 諸規定を語り終えるに当たり、約束の地に入って住み、そこで収穫を迎えた時になすべきことを定めています(1節以下)。神は、「地の実りの初物」(2節)を主にささげる際に、5~10節の言葉を告白するように求めておられます。

 そこで語られるのは、まず出自で「滅び行く一アラム人」と言います(5節)。アラムとは、ヨルダン川東岸からチグリス・ユーフラテス流域までに住むアラム人のいる広い地域を指すものです。

 イスラエルの先祖アブラハムは、「カルデアのウル」(創世記11章31節)、即ちユーフラテス川河口の町の出身です。ウルから父テラに連れられて水源地に近いハランの地に移り住み、そこで主の御言葉を聞いて、カナンに下って来ました。彼には子どもが与えられていませんでした。神の助けと導きがなければ、彼の代で系図が途絶えてしまうところでした。「滅び行く一アラム人」の素質は十分です。

 アブラハムは「わずかな人を伴ってエジプトに下り」(5節、創世記12章10節以下)、そこに寄留しようとしたこともありますが、「そこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました」(5節)というくだりをみると、それはアブラハムの孫ヤコブのことであることが分かります。

 ヤコブは、兄エサウの祝福を奪い、ハランの地に避難したことがあります(創世記27章)。彼はたった一人でハランの地に赴きましたが、そこで神の恵みに与って二人の妻、二人の側室を得、12人の男児をなしました(同29章以下)。また、多くの財産を抱えて故郷に戻って来ます。

 その後、パレスティナを襲った飢饉のため、子らとその家族70名(先にエジプトに売られ、宰相となっていたヨセフの家族も含めて)を連れて、エジプトに下ります(創世記48章、出エジプト記1章5節)。ゴシェンの地に寄留したヤコブの家族は、王に厚遇されてその数を増し、「強くて数の多い、大いなる国民」(同7節)に成長したのです。

 しかし、それがエジプトにとって不安の種になります。それで、ヨセフを知らない世代の王が出ると(同8節以下)、イスラエルの民は厚遇される立場から一転、重労働を課される奴隷の立場に落とされました(同11節)。

 神は、助けを求めるイスラエルの民の声を聴き、その苦しみ、労苦、虐げを御覧になり(7節)、力ある御手をもってエジプトから導き出し、彼らに約束の地をお与えになりました(8,9節)。ですから、初物をささげるのは、約束の地に入ることが出来たという喜び、約束を主が真実に適えて下さったという感謝のしるしなのです。

 それを、約束の地に定住し、作物の実りを見た最初にするだけでなく、新しい季節の産物の初物をささげるごとに行うのです。そのことで、実りに対する感謝と共に、自分たちがこれまで受けてきた神の恵み、自分たちが神の民と呼ばれるために与えられた神の愛の深さを思い起こし、その感謝を言い表すのです。

 それは、新しい地においても神の恵みを受けるという信仰の表明でもあります。かくて、主なる神とイスラエルの民との契約は、彼らがエジプトから導き出して頂いたという感謝と、新しい地でも神の恵みに与るという希望に基づくものであり、そのために御言葉に聴き従うことを誓うことなのです(14,15節)。

 私たちも、罪の呪いから解放され、新しい命に生きる者とされました。日毎に主の御言葉に耳を傾け、その導きに心を尽くし、魂を尽くして忠実に従いましょう。そこに、私たちの感謝と希望もあります。 

 主よ、私たちも新しい月ごとに主が命じられた主の晩餐を守り、その御業を記念しています。私たちが神の子とされるためにどれほどの愛を賜ったことか、思いを新たにするためです。どうか私たちを祝福し、与えられている務め、働き、私たちが仕えている場所、家庭、職場、地域を祝福してください。 アーメン

 

1月6日(土) 申命記25章

「あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない。」 申命記25章19節

 25章の最後、「アマレクを滅ぼせ」という見出しが付けられた17節以下の段落、その冒頭の17節に「アマレクがしたことを思い起こしなさい」とあり、そのことで、続く18節に「彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れなることがなかった」と説明されています。

 アマレクのそのような仕業に基づいて、冒頭の言葉(19節)のとおり「あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない」という厳しい命令が記されています。アマレクの徹底的な殲滅が命じられているわけです。

 これは、出エジプト記17章8節以下のイスラエルとアマレクとの戦いのことを言っているものと思われます。その戦いでは、ヨシュアの奮戦とモーセの執り成しの祈りにより、アマレクを打ち破ることが出来ました(同12節)。そして、主がモーセに「わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る」(同14節)と言われ、モーセが「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる」(同16節)と語っています。

 ただ、18節で言われているようなことは、出エジプト記には何も記されてはいません。徹底的にアマレクを打ち滅ぼし、彼らの記憶をぬぐい去らせるようにするための悪意に満ちた付加ではないかとさえ思われます。

 創世記36章12,16節によれば、アマレク人は、ヤコブの兄エサウの子孫と伝えられています。とすると、23章8節の「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である」という言葉とぶつかってしまいます。エドム人とは、エサウの子孫のことだからです(創世記25章30節)。

 ここに記されているアマレク人に対する嫌悪感は、恐らくその後の士師時代、王国時代を通じて、繰り返しエドムの荒れ野からイスラエル南部に侵入して略奪を行うなど勢いを振るい、モアブ、アンモン、ミデアンと共に脅威となっていたからでしょう(士師記3章13節、6章3,4節、サムエル記上15章、30章)。

 ところで、私たちはこの記事をどのように読むべきでしょうか。イスラエルに敵対し、神の民に弓引くアマレクの民は、滅ぼし尽くして永遠の忘却の彼方に追い遣るべきなのでしょうか。文字通りに考えれば、そうなのかもしれません。

 実際、聖書のほかに、アマレク人の存在を記している資料はありません。アマレク人に関する考古学的発見もないようです。ということでは、神の命令が実現していることになります。それにも拘わらず、聖書にアマレクの記事が記されているので、その記憶を天の下から拭い去るどころか、世の終わりまで確実に語り継がれていくわけです。

 ということは、申命記が伝えようとしているのは、アマレクを滅ぼし尽くすこと、アマレクに敵愾心を燃やし続けることなどではなく、出エジプト記17章16節のモーセの言葉のように、イスラエルに敵することは、神を敵に回すことであり、神ご自身がイスラエルの民のために戦って下さるということではないでしょうか。

 あるいはまた、アマレクが攻め滅ぼしたとされる、疲れ切って民のしんがりにいた落伍者に対して、神を畏れ、憐れみの心を持って対応するようにせよということかも知れません。つまり、申命記記者の関心は、イスラエルの民の幸福にこそあるということではないでしょうか。

 確かに、「敵」といわれる存在があることでしょう。自分たちに敵対し、害を与えるため、「敵」と呼ばざるを得ないような相手です。敵との戦いを避けられず、神の武具で武装せよと言われるところもあります(エフェソ書6章10節以下)。しかしそれは、人間を相手にするものではありません。

 そして、身を守る武具として、真理の帯、正義の胸当て、福音宣教の靴、信仰の盾、救いの兜、そして御霊の剣を取れと言われます(同16,17節)。ここには、相手に害を与える武具は、存在しません。御霊の剣とは、神の御言葉のことだと説明されています(同17節)。神の御言葉で悪魔の策略を打ち破れというわけです。

 主イエスは、人間の敵に対しては「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)と言われました。これは、簡単に実行出来るものではありません。しかし、実行出来ないものでもありません。主イエスの御言葉に聴き従うことこそ、私たちと「敵」との間にうごめく悪魔の策略を打ち破る戦いなのです。

 御霊の力により、御言葉に従わせないよう働く悪しき力、思いを取り除いて頂きましょう。御霊の導きを祈りつつ、絶えず主の御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、誰かに右の頬を打たれて左の頬も向けてやるというような心のもち合わせは、私にはありません。しかし、あなたは敵を愛せよと言われます。御旨に聴き従うことが出来ますように。信仰と祈りによって一歩踏み出させてください。 アーメン

 

1月5日(金) 申命記24章

「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。」 申命記24章19節

 新共同訳聖書は、5節以下の段落に「人道上の規定」という小見出しをつけています。特に、貧しく、弱い立場の人々に対する配慮が記されます。

 6節に「挽き臼あるいはその上石を質にとってはならない」という言葉があります。挽き臼全体を持って行くのが大変ということで、上石だけを質に取るということがあったのでしょう。挽き臼は穀物を粉に挽くために欠かせない生活必需品です。上石を持って行かれると、下石だけでは用をなさず困ってしまいます。

 金貸しとしては、そういうモノを担保に金を貸せば、すぐにそれを取り戻そうと、借りたお金を返済するのに必死になるだろうという考えがあるわけです。しかし、それは生活に困窮している人の生存そのものを脅かす行為として禁じられます。

 10,11節で「あなたが隣人に何らかの貸付をするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい」というのも、上記同様、困窮者を保護するために、貸主に都合の良いものを質に取ることを禁じているわけです。

 そこで、上着以外に担保となるものがないような貧しい人には、その日の内にそれを返せと言われます(12,13節)。それは、上着が夜具でもあるからです(13節)。17節の「寡婦の着物を質に取ってはならない」というのも同様です。

 恵まれない者に対してそのような配慮が命じられる根拠として、18節に「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである」と告げられています。

 冒頭の言葉(19節)も、その関連で語られます(22節参照)。「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない」というのは、レビ記19章9節の「穀物を収穫するときは、畑の隅まで駆りつくしてはならない。収穫後の落穂を拾い集めてはならない」と同じで、落穂を拾うのは、貧しい人々が命を支える糧を確保する大切な手段でした。

 主イエス一行が麦畑を通られたとき、弟子たちが穂を摘んで食べたとき、それをファリサイ派の人から咎められましたが(ルカ6章1,2節)、それは「他人のものを盗ってもよいのか」ということではありませんでした。麦畑で穂を手で摘んで食べることは、貧しい者や旅人には許されていたわけです(23章26節参照)。ファリサイ派の人が問題にしたのは、「安息日」に収穫と食事の準備をしたことです。

 落穂拾いと言えば、ルツ記の記事を思い出します。モアブ人女性ルツは、ユダヤから移り住んできたエリメレクの息子と結婚しますが、その夫に先立たれ、姑ナオミが故郷ベツレヘムに戻るのに同行します(ルツ記1章)。ルツは早速落穂を拾いに行きますが、それは、たまたま姑ナオミの親戚ボアズの畑でした(同2章1節以下、3節)。ボアズは、異国人であり寡婦であるルツの身の上を知り(同2章5節以下)、厚意を示します(同8節以下)。

 そこに、申命記の戒めが忠実に守られた実例を見ることが出来ます。モアブ女性ルツに親切にし、やがて結婚したボアズとルツの間にオベドが生まれ、オベドからエッサイ、そしてエッサイからダビデが誕生します(ルツ記4章13,21,22節)。ボアズは、ダビデ王の曽祖父となったのです。

 幕末期の1865年7月、米国のA.ハーディーは、自分が所有している船(ワイルド・ローバー号)のボーイとして渡米して来た一人の日本人青年に目を留め、青年の志を知って自宅に引き取り、学問をさせるため全面的に援助します。青年は、ハーディーの感化でクリスチャンになり、大学を卒業して神学校で学んでいたとき、明治政府最初の外交官・森有礼と会い、その後、岩倉具視の遣米使節団の通訳として協力することになります。

 神学校を卒業し、宣教師となって帰国した青年が、日本の将来のためにと様々な困難の乗り越え、京都に同志社大学を建てます。この青年こそ、ご存じ、新島襄先生です。ハーディーが一人の寄留者に示した愛が、以後、大きな実を結ぶことになったのです。新島先生は、ハーディーをアメリカの父と呼び、自分のミドル・ネームに名前をもらってジョセフ・ハーディ・ニイシマ(Joseph Hardy Neesima)と称していたそうです。

 私たちも主イエスの恵みに与って神の子とされ、クリスチャン(キリストのもの)と呼ばれています。キリストに愛された愛をもって、互いに愛し合いましょう(ヨハネ15章12節)。主が手の業すべてを祝福してくださるからです。

 主よ、御子が私たちのために一切を捨ててこの世においでくださいました。それは御子の貧しさによって私たちが富む者となるためでした。神は、主を信じる私たちのためには、御子と一緒にすべてのものをお与えくださるのです。 ハレルヤ!アーメン

 

1月4日(木) 申命記23章

「主人のもとを逃れてあなたのもとに来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。」 申命記23章16節

 冒頭の言葉(16節)で言及されている「奴隷」とは、負債の支払いのために身を売って奉公するヘブライ人奴隷ではなく、他の国から逃亡して来た奴隷のようです。この箇所では、そのような逃亡奴隷に対して、もとの主人に引き渡さず、むしろ、「どこかの町の彼が選ぶ場所に、望むがままにあなたと共に住まわせなさい」(17節)と、避難所を提供して保護するように命じています。

 しかしながら、そのようなことをすれば、国外逃亡奴隷を引き渡さないということで、国際社会の摩擦を呼び、大変な事態になってしまうのではないでしょうか。また、そのような逃亡奴隷に対する対応は、国内の奴隷制度にも影響を与えそうです。

 新約時代、ローマ帝国のもとでは、逃亡奴隷が捕まえられることになれば、十字架刑という極刑が待っていましたし、ローマ市には逃亡奴隷を捕まえる特別警察が組織されていたと聞いています。その意味では、奴隷制を廃止することなど全く考えられない時代に、これは、奴隷の生存権を守る画期的な規定といってもよいでしょう。

 ここで、「逃れて・・来た」というのは、ナーツァルというヘブライ語で、この言葉には「救う」という意味があり、主なる神がイスラエルの民をエジプトから「救い出す」というときに用いられている言葉です(出エジプト記3章8節、6章6節など)。

 イスラエルの民は、かつてエジプトで奴隷として使役されていました。その民の叫びを主が聞かれて、彼らをエジプトから救い出され、今や、約束の地に導き入れようとしているところなのです(出エジプト記3章7節以下)。

 ですから、イスラエルの民のもとに逃れて来る他国からの逃亡奴隷は、いわば同胞、家族なのであり、彼らを匿い、共に住むようにするのは、当然のことだというわけです。彼らには、住む場所を自由に選ぶ権利さえ、保障されます(17節)。

 新約聖書の時代、使徒パウロが、オネシモをフィレモンのもとに送り帰すという手紙を書いています(フィレモン書8節以下、12節)。オネシモは、フィレモンの家の奴隷でしたが、彼のもとを逃げ出してパウロのところに身を寄せていたのです。そのため、「以前はあなたにとって役に立たない者でした」(同11節)と言われるのです。

 オネシモとは、「役に立つ」という意味の名前で、特に奴隷の名として用いられたそうです。その名に反して、オネシモが役立たずになって逃げ出し、パウロのところにやって来たのを、もう一度、フィレモンのもとに送り返そうという話です。

 しかも、「役に立たない者」と言われるのは、ただフィレモンのもとを逃げ出したというだけではなかったようです。同18節に「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら」とあるように、実際、逃げ出すときに金品を持ち出して、フィレモンに損害を与えていたのだろうと思われます。

 そういうオネシモが、どのような経過でパウロのもとに身を寄せることになったのか分かりませんが、恐らくエフェソで監禁されていたパウロに執り成しを頼み、仕えている内に、キリストの教えを受け入れ、クリスチャンになったのでしょう。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(同10節)とはそのことを示しています。

 そこでパウロは、オネシモをフィレモンに送り帰すことにします。しかし、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟として」(同16節)ということです。パウロはフィレモンに、オネシモをパウロ自身と思って迎え入れてくださいと求め(同17節)、オネシモがフィレモンに与えた損害は、パウロが肩代わりしようとまで言います(同18,19節)。

 このパウロの姿勢は、一見、冒頭の言葉に反しているようですが、フィレモンがオネシモをパウロの求めに従って受け入れるならば、以後、オネシモは自由の身となり、住む場所を自由に選ぶことが出来るようになります。その意味で、冒頭の言葉の核心をついた姿勢を示したということになります。

 パウロはなぜそこまで、オネシモのことに親身になっているのでしょうか。それは、主の導きに反して御子キリストを迫害する者となっていたパウロでしたが(ガラテヤ書1章13節以下)、裁かれるどころか、復活の主イエスと出会ってキリストを信じる者となり、更にその福音の伝道者とされたのです(使徒言行録9章1節以下など)。その神の恵みを味わった者として、オネシモに関わるのは当然のことだったのでしょう。

 罪の奴隷であった私たちを贖い出して自由の身にしてくださった主イエスに感謝し、聖霊の力と導きを受けて、贖いの主の証人にならせて頂きましょう。

 主よ、あなたはかつて罪の奴隷であった私たちを、御子の十字架の死によって贖い出してくださいました。その恵みを知ったとき、多くの人にこの喜びを味わって欲しいと思いました。今もその思いが心の内にあります。主よ、聖霊の力に満たしてください。主の愛の証し人とならせていただくことができますように。 アーメン

 

1月3日(水) 申命記22章

「道端の木の上または地面に鳥の巣を見つけ、その中に雛か卵があって、母鳥がその雛か卵を抱いているときは、母鳥をその母鳥の産んだものと共に取ってはならない。」 申命記22章6節

 1節に、「同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。必ず同胞のもとに連れ返さねばならない」とあり、さらに3節では、「ろばであれ、外套であれ、その他すべて同胞がなくしたものを、あなたが見つけたときは、同じようにしなさい。見ない振りをすることは許されない」と言われます。

 これは、出エジプト記23章4,5節の「あなたの敵の牛またはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない」のという定めを、拡大したものと考えることが出来ます。

 こういう定めがあるということは、多くの場合、他人の持ち物のことで時間を取られたり、面倒に巻き込まれるのを避けるため、見なかったことにするということになるからでしょう。

 主イエスの語られた「善いサマリア人」のたとえ話で(ルカ福音書10章25節以下)、祭司やレビ人が追いはぎに襲われた人を見ない振りをして、道の向こう側を通り過ぎたと言われます。彼らは、自分たちを清く保つため、半殺しの目に遭っていた人と関わり合って、祭儀的汚れを受けることを避けたのです。そして、そのことを追及されたも、知らなかった、見なかったと言い逃れるつもりなのです。

 これはしかし、他人事ではありません。私自身、彼らに石を投げることの出来ない、面倒に関わり合いたくないと考える人間です。寝た振り、見なかった振りをしてしまいます。そういう私に、「見ない振りをしてはならない」と訴えているのです。

 そのことについて、さらに考えさせられる言葉があります。それが、冒頭の言葉(6節)です。ここに言われている「母鳥をその母鳥の産んだものと共に取ってはならない」という定めは、「道端の木の上または地面」に巣を作った小鳥を、おそらく食用にするために捕獲するということが前提のものです。

 その際、親鳥と雛あるいは卵を一緒に取るなというのです。7節では「必ず母鳥を追い払い、母鳥が産んだものだけを取らねばならない」と、細則を定めています。これは勿論、小鳥のことを考えて定められたものではありません。こうすることで資源を確保し、引き続き貧しい人が卵あるいは雛鳥を取り続けることを考えているわけです。そして、神はそれを許しておられるということになるでしょうね。

 ところで、主イエスが「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ福音書10章29節)と仰っています。また、ルカ福音書12章6節では「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか」と言われています。つまり、4羽買うと1羽ただでおまけがついて来るということです。

 それほどの価値しかない雀ですが、しかし、おまけとして与えられる「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」、つまり、父なる神があたかも飛行機の管制官であるかのように雀一羽一羽の動静を見極め、飛んでいるときも羽を休めているときも、絶えず見守っておられるというのです。

 そう語られた上で、「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(ルカ福音書12章7節)と言われました。私たちの動静のすべてを神がご存じだというのです。

 「恐れるな」(同7節)と言われますが、神の御心に背いている私たちです。御言葉に従い得ない私たちです。そのすべてを、主なる神は御存じです。どうして恐れないでいられましょう。

 けれども、その主御自身が「恐れるな」、恐れなくてよいとおっしゃるのです。何故でしょうか。主は私たちに罰を当てようとして見ておられるのではありません。私たちが主の許しなしに地に落ちたりしないように、それで怪我をしたりしないように、私たちが主の助けを求め、導きを求めて祈ると、それに応えようと待ち構えておられるのです。

 主は、私たちが道に迷ったようになっているとき、「いい気味だ、そうなったのは自業自得だ」などとは言われません。まさに、見て見ぬ振りをなさらないお方です。必ずあるべきところに連れ戻してくださいます。私たちの一切の必要を豊かに満たしてくださるお方なのです。

 そのお方を主と呼び、神として崇めさせていただいています。主が「見て見ぬ振りをするな」と仰るならば、それを実行することが出来るようにしてくださいと祈りましょう。心貧しい私たちのために、必要な知恵と力を授けてくださいと、主に求めましょう。

 主よ、何をするにも自分の都合が最優先で、面倒なこと、遠回りさせられそうなことには目をつぶり、見なかったことにしようとする私です。そんな身勝手さで道を迷う私を見ぬ振りせず、絶えず正しい道へ導き返してくださる神様、その恵みに感謝し、主の御心を行う者とならせて下さい。御名が崇められますように。 アーメン

 
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