風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

1月27日(月) マラキ書3章

「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。かならず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」 マラキ書3章10節

 マラキ書3章は、旧約聖書最後の章です。

 1節に「見よ、わたしは使者を送る」と言います。この「使者」は「マルアーキー(my messenger)」という言葉で、1章1節の「マラキ」と同じ言葉です。つまり、「見よ、わたしはマラキを遣わす」と訳すことも出来ます。確かに主はマラキを使者としてイスラエルの民に遣わしておられます。

 その後に、「あなたたちが喜びとしている契約の使者がやって来る」と言います。「契約の使者(マルアフ・ハッブリート)」は、「あなたたちが待望している主(アドーン)」とも呼ばれます。最初の「使者」は「契約の使者」の道備え、「待望の主」の到来を告げ知らせるため、遣わされるということでしょう。

 イスラエルの民は契約の使者の到来を喜びとし、待望しているのかも知れませんが、その使者は彼らが期待するメッセージを伝えてくれるでしょうか。というのも、「彼の来る日にだれが身を支えうるか。彼が現れるとき、誰が耐えうるか」(2節)と言われているからです。

 この後の文言を考えると、「待望している主」、「喜びとしている契約の使者」とは、皮肉を込めた表現と考えざるを得ません。2章17節に「裁きの神はどこにおられるのか」とイスラエルの民が言っているとされていますが、イスラエルの民がその到来を期待していなかったというか、存在を信じていなかった「裁きの神」として、待望の主、契約の使者が来られるということです。

 「裁きの神」(エロヘーイ・ハッミシュパート)は、精錬する火としてレビの子らを清め、金銀のようにその汚れを除きます(3節)。それは、彼らが献げ物を正しく献げる者となるためであり、主を正しく礼拝するためです。

 5節に「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する」と言われます。この「裁き」も「ハッミシュパート:the justice)で、律法に背いて呪術を行い、姦淫し、偽り近い、雇い人の賃金を不正に奪い、寡婦、孤児、寄留者を苦しめ、主を畏れぬ者らを告発して、イスラエルに正義を確立されるのです。

 新共同訳聖書は、6節以下の段落に「悔い改めの勧告」という小見出しをつけています。そして7節に「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると、万軍の主は言われる」と記されています。聖書の告げる悔い改めとは、主なる神に立ち帰ること、主の御言葉に耳を傾け、その声に従うことです。

 十分の一の献げ物と献納物において、神を偽っているという告発が、8節にあります。即ち、神のものを盗んでいるというのです。レビ記27章30節以下、申命記14章22節以下に、すべての収入の十分の一を神に献げるようにと命じられています。

 十分の一を献げることになった原点は、アブラハムがいと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクに対して、取り戻したすべての財産の十分の一を贈ったというところでしょう(創世記14章20節)。また、ベテルで祝福の約束を受けたヤコブが、約束が成就した暁には、十分の一を献げるという誓願を立てています(同28章30,31節)。

 イスラエルの民が献げた「十分の一」は、レビの子らの嗣業として与えられます(民数記18章21,24節)。それは、彼らが嗣業の土地を持たないからと説明されています(同23,24節)。

 そしてレビの子らは、嗣業として受けた十分の一を主への献納物とします(同26節)。そしてそれは、祭司アロンに与えられます(同28節)。主への献納物とするのは、執行として行けたものの中の最上のもの、聖なる部分を選ばなければなりません(同29節)。このような規定があるということは、レビ人たちがそれに誠実でなかったのではないでしょうか。

 また、イスラエルの民が献げる「献納物」とは、祭司やレビ人たちの生計のために分けられる「奉納物」,「礼物」と言われる雄羊の献げ物の一部分で(出エジプト記29章26節以下)、「イスラエルの人々が主に対する献納物として,和解の献げ物のうちから献げる物である」(同28節)と規定されています(レビ記7章32~36節、民数記5章9節など参照)。

 「十分の一の献げ物と献納物において」主のものを盗んでいたのは(7節で「偽る」と訳されたカーバーは、「盗む、奪う」という語)、1章、2章の記述からすれば、イスラエルの民だけでなく、祭司たちも同様でしょう。祭司を筆頭にすべての民が「掟」(ホーク:定め、掟、律法)と言われる主の教えを守っていなかったのです。

 彼らがそれを守れなかったのは、理由のないことではなかったと思われます。というのは、冒頭の言葉(10節)に「天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐ」と記されているからです。そのことから、その当時は天から雨が降らず、旱魃による不作が続いていたのではないかと想像されます。

 また11節には、「食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにする」とありますから、イナゴなどの害虫による被害に絶えず見舞われていたのでしょう。旱魃にイナゴの害、まさに泣き面に蜂の状態です。

 そのような状況の中で食うや食わずの生活をしているような人々が、わずかに収穫できたものや、次期の収穫に備えて蓄えているようなもの、また、家畜の産んだ初子などを主なる神の前に携えて来るのは、言うほど容易なことではなかったと思います。

 しかるに主は、冒頭の言葉(10節)のとおり、十分の一と献納物は主のものだから、まず主の家の倉に納めよ、そうすれば、旱魃や害虫などによる被害から守ろう、そのとおりになるかどうか試してご覧と言われるのです。

 主イエスが、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(マタイ福音書6章25節)、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(同33節)と教えておられます。

 これらの御言葉で語られているのは、神とその御言葉を信じるかということです。神の愛に対する信頼があれば、その言葉に従うことが出来るでしょう。そうすれば、大きな恵みを味わうことが出来るというのです。

 ダビデ王が、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩編23編4節)と語ることが出来たのは、「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴う」(同1,2節)羊飼いなる主への信頼、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えて下さる」(同5節)という信仰があったからです。

 すべてのものは神のものです。確かに、収入は自分の労働に対する報酬で、どのように使おうと個人の自由でしょう。けれども、働くために必要な知恵や力、健康、そして職場があることなどは、報酬ではありません。家族があること、家庭の暖かい交わりも、報酬ではありません。

 十分の一の献げ物と献納物を主にささげるのは、すべてが主の所有物であると信じることです。そしてまた、主の豊かな恵みに対する感謝と喜びを表明することでもあります。

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント書8章9節)。

 いつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように,あらゆる恵みをわたしたちに満ちあふれさせることがお出来になる方に信頼し(同9章8節)、喜びと感謝をもって主の教えに聴き従いましょう。

 主よ、私たちはあなたの恵みによって常に守られ、支えられています。ご自身の栄光の富に応じて,キリスト・イエスによってわたしたちの必要をすべて満たしてくださる主の御言葉に従い、献げることにおいても豊かな恵みを味わうことが出来ますように。 アーメン



1月26日(日) マラキ書2章

「もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや、既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。」 マラキ書2章2節

 2章は最初の段落(1~9節)に、祭司への警告が語られています。彼らは、主の御前にいけにえをささげ(1章7節以下参照)、また人々に真理を語り教える務めを担っています(6,7節)。しかし、いつのころからか、それがおざなりになってしまいました(8,9節、1章12,13節)。

 民の貧しさを見て、最もよいものでなくても、第二、第三のもの、残りのものでもよいとしたのでしょうか。それで、盗んで来たものや足に傷のあるもの、病気にかかっているものであってもよいとしたのでしょうか(1章8,13節)。あるいは、自分たちの貧しい状況を変えてくれないような神に、最もよいものをささげる必要などないと人々から言われたのかも知れません。

 とはいえ、群れの中に傷のない雄の動物を持っていながら、傷あるものを主に献げるのは、偽りを行うことでしょう(同14節)。そして、それを許したということは、祭司たち自身の神を畏れる心が鈍くなり、礼拝する姿勢が既に崩れていたということを示しています。

 かつて、神はイスラエルの民をご自分の宝の民として選ばれました(出エジプト記19章4節、申命記7章6節)。それは、彼らに祝福を与えるためであり、そしてその祝福がイスラエルを通して異邦の民にも及ぶためでした。ところが、今は冒頭の言葉(2節)の如く、イスラエルの背きの罪のゆえに、祝福が呪いとなってしまっています。

 かつて、エジプトを脱出して約束の地を目指すイスラエルの民に恐れを抱いたモアブの王バラクが(民数記22章3節)、ユーフラテス流域のアマウ人の町ペトルから占いを生業とするベオルの子バラムを招き(同5節)、イスラエルを呪わせようとしました(同6節)。ところが主はバラムに、イスラエルの祝福を告げさせました(同23,24節)。モアブによる呪いを祝福に変えられたのです。

 しかるに今、主は祝福を呪いに変えると警告されます。イスラエルが主の道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせて、主の祝福を受けるに相応しくないと判断されたからです(8,9節)。  

 むしろ、異邦の民のほうが、主をあがめ、主の御前に香をたき、清い献げ物を献げていると言われているのです(1章11節)。勿論、重要なのは、どのようないけにえを献げたかというよりも、どのような心でそれをしたのかということです。主は「潔白な手と清い心をもつ人、むなしいものに魂を奪われることなく、欺く者によって誓うことをしない人」(詩編24編4,5節)を祝福し、恵みをお与えになります。

 「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編18,19節)という言葉もあります。

 主イエスは、貧しいやもめの献金を賞賛されました(ルカ福音書21章1節以下)。この女性の献げたレプトン銅貨2枚は、現在の50円硬貨二つというところでしょう。しかしそれは、この女性の生活費全部だったのです。

 たとえ傷のある動物であっても、それが、最上のものを惜しんでとか、自分が先にとった残り物とかというのではなく、その人の献げられる最上のもの、精一杯の献げ物であれば、人は喜ばなくても、主はそれを喜ばれるでしょう。外面的には傷がなくても、病気でなくても、いとよきものを献げようという心からの献げ物でなければ、主は喜んでくださらないのではないでしょうか。

 主イエスの贖いによって救われ、神の民とされた私たちも、いかにして神の道に歩み、その聖なる御名にふさわしい栄光を神に帰するかということを学ぶ必要があります。私たちの信じる主は、畏れとおののきこそがふさわしい大いなる王であるということを知るべきです(5節、1章14節)。

 もう一度、主イエスを全地の大いなる王として崇めましょう。私たちを創り、私たちを贖い、私たちを愛し尽くされる主に、心からの賛美のいけにえを捧げましょう。私たちに御霊を注いで力を与え、主の証人としてお立てくださった主の使命を、喜んで果たしましょう。

 「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王」(詩編47編2,3節)。ハレルヤ!

 主よ、御名を崇めて感謝します。あなたこそまことの主、まことの神。あなたの他に私たちを救うことの出来るお方はありません。あなたにあって、命と平和を得ました。与えられている恵みを呪いに変えてしまわないように、御言葉に聴き、その導きに従って歩みます。いつも目を覚ましていることが出来ますように。 アーメン




1月25日(土) マラキ書1章

「今、神が恵みを与えられるよう、ひたすら神に赦しを願うがよい。これは、あなたたちが自ら行ったことだ。神はあなたたちの誰かを受け入れてくださるだろうかと、万軍の主は言われる。」 マラキ書1章9節

 いよいよ、旧約聖書の最後の書のマラキ書に入ります。マラキ書が執筆されたのは、その内容から、ハガイ、ゼカリヤよりも半世紀以上降った紀元前460年ごろ、エズラ、ネヘミヤと同時代のことだろうと想像されています。預言者マラキについては、マラキ書に書かれている内容以外のことは何も分かりません。

 「マラキ」という名は「私の使者」という意味であり、3章1節では、「マラキ」が普通名詞として、「わたしは使者を送る」と訳されています。こうしたことから、マラキとは固有名詞ではなく、3章1節からとられた役職名ではないかと考える学者もいます。

 そうであれば、彼が神からの託宣を受けて語る預言者であるということ以外に(1節)、この預言者個人について、その名前も含めて、確実に言えることはほとんど何もなく、マラキ書の内容から推定される時代状況を読み取るほかはないということになります。

 紀元前460年ごろというのは、神殿は再建され(紀元前515年)、礼拝は定期的に守られているものの、城壁は破壊されたまま、都の回復はまだ程遠いといった状況でした。ペルシア帝国による支配は穏やかでしたが、その支配から独立することは出来ませんでした。また、生活が大幅に改善されるということもなかったようです。

 神殿が再建されれば、自分たちを取り巻いている生活環境や国際的な情勢など、状況が劇的に変化するのではないかと期待していたイスラエルの民は、次第に懐疑的になって来ていました。それは、主は本当にイスラエルを愛しておられるのか(1章2節以下)、正義を行われるのか(3章13節以下)という問いです。このような状況の中に、預言者マラキが登場して来たのです。

 内容は概ね警告であり、悔い改めて神に立ち返るようにとの勧告です。即ち、「わたしはあなたたちを愛してきた」(2節)という言葉に始まり、「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた」(3章24節)と結んで、主との契約を忠実に履行せよと招いているのです。

 2節以下で愛を語られる主は、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(2,3節)と言われます。エサウとヤコブは、イスラエルの父祖アブラハムの子イサクの息子たちです(創世記25章19節以下、25,26節)。ヤコブに対する主の愛は一方的なものです。創世記25章23節に「一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」とありますが、その理由は説明されません。

 エサウの子孫エドムはイスラエルに隷属し、時には反抗していましたが、やがて歴史の表舞台から姿を消します。「荒れ野のジャッカルのものとした」(3節)とは、砂漠の住民ナバテア人によって、その地から追い払われたことを指しています。

 エサウが表舞台から姿を消したのが、神に愛されているイスラエルに対する敵対行為を理由としてなされたと考えると、それがまさに、主なる神がイスラエルを愛しておられる証拠とされるわけです。しかし、この愛はイスラエルへの慰め、希望として語られているのではなく、主の愛を軽んずるイスラエルに対して、エサウが憎まれたようにイスラエルも同じ道を行くことになると警告しているのです。

 イスラエルが神の愛を軽んじている様が、6節以下に示されます。それは、祭司たちが汚れたパン、目のつぶれた動物、足が傷ついたり、病気である動物をいけにえとしてささげ、しかも、「主の食卓は軽んじられてもよい」(7、12節)、「主の食卓は汚されてもよい」(12節)といって、主の名を汚していることです。

 良いものはとっておいて、売り物にならず役に立たないものを主にささげる。厳しい生活の中でそれはやむを得ないと考えることも出来るかもしれません。実際に、「主の食卓は軽んじられてもよい」などと公言する人は殆どいないでしょう。むしろ、申し訳なく思いながら、それが精一杯だと思ってするのではないでしょうか。

 けれども、冒頭の言葉(9節)を見てください。その献げ物をささげて、主が恵みを与えられるよう、ひたすら主に赦しを願うけれども、誰が主に受け入れてもらえるだろうかというのです。それが私たちの行っていることだと言われています。

 8節に「それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうか」という言葉があります。勿論、そうはしないと、誰もが答えるでしょう。ここに、主なる神が総督よりも低い地位に置かれ、民の生活の必要の後回しにされている現実が浮き彫りになります。そして、当然それは、主が喜ばれる信仰の生活ではないのです。

 「日の出るところから日の入るところまで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる」(11節)とは、異国の民が純粋に創造主なる神をあがめ、真実な礼拝をささげているということです。

 それに対して、イスラエルの民が主なる神を軽んじ、御名を冒涜し続けるなら、彼らの礼拝を主が受け入れてくださるはずはありません(13節)。むしろ、偽り者として神の呪いを受けることになります(14節)。 

 主に喜ばれるために、どうすればよいのでしょうか。主を畏れましょう。おのが罪を認め、主に赦しを願いましょう。そして、何よりも先ず、神の国と神の義とを求め(マタイ6章33節)、いとよきものを主にささげましょう(民数記18章29節,ローマ書12章1節)。そうすれば、主なる神は私たちの必要を満たしてくださいます。

 主よ、私たちの不信仰をお赦しください。日毎に御顔を慕い求め、御言葉に耳を傾けさせてください。御心を教えてください。導きに従い、主の御業を行う知恵と力を与えてください。聖霊の満たしと導きが常に豊かにありますように。そうして、主の御名をあがめさせてください。 アーメン




1月24日(金) ゼカリヤ書14章

「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」 ゼカリヤ書14章9節

 ゼカリヤ書最後の章になりました。預言者ゼカリヤが見ているのは、厳しい状況です。2節に「わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され、女たちは犯され、都の半ばは捕囚となっていく」とあります。

 12章2節にも、「わたしはエルサレムを、周囲のすべてを酔わせる杯とする。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる」とあり、その時、主がエルサレムの住民の盾となり(同8節)、エルサレムに責めてくるあらゆる国を必ず滅ぼすと言われていました(同9節)。同じ事態の違った側面が描かれていると考えたらよいのでしょう。

 「民の残りの者が、都から全く断たれることはない」(2節)という言葉は、都にいた多くの者が断たれるということになるわけで、その状況の厳しさをあらためて思わされます。都が敵に囲まれ、その戦いで多くの人々が命を落とし、女性は犯され、戦利品が分配されます(1節)。つまり、この戦いで敵軍が勝利を収めているということです。

 しかし、ゼカリヤが見たのはそれだけではありませんでした。12章で語られていたように、主が国々と戦い(3節)、ついには、冒頭の言葉(9節)にあるように、地上をすべて治める王となられるのを見ています。

 そして、エルサレム東のオリブ山が二つに裂け、東方への避難路として谷ができます(4節)。その谷を通って逃げよと言われ(5節)、主なる神が難を逃れた民のもとに、御使いたちを伴ってやって来られます(同節)。

 その日、太陽の光が失われ、冷えて凍てつくばかりでしたが、昼もなければ夜もない、神の栄光が常に輝き(7節)、エルサレムの都は命の水が湧き出て潤い、その川が東に西に流れ続けて海に至っています(8節)。

 これは、ヨハネの黙示録に記されている新しいエルサレムに似ています(黙示録21章23節、22章1,5節、11章15節など)。ということは、ここに預言者ゼカリヤの見ているのは、すぐにも実現するというものなどではなく、世の終りに訪れる主の日のことということになります。

 それがここに記されているのは、冒頭の言葉(9節)に記された、「その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」という主の日の到来を待ち望みつつ、今のこの苦難のときを、信仰に堅く立ち、恐れず勇気を出して歩みなさいと、エルサレムの民に励ましを与えているわけです。

 これらのゼカリヤの言葉を、確かに神によって与えられた預言の言葉であると信じることが出来た人には、希望が与えられたことでしょう。けれども、どれほどの人が、信仰によってこの言葉を聴くことが出来たでしょうか。むしろ、殆どの人がまともに聞こうとしなかったのではないかと思われます。

 厳しい現実の中で、希望の光を見出すのはなかなか困難です。このトンネルの向こうには必ず光の出口があると言われても、実際には出口などなくて暗闇の袋小路に追い込まれているのではないか、そのまま底なしの淵に沈みこんでしまうのではないかというような不安を拭い去ることが出来ないのです。

 恐れや不安を取り除く万能薬を作ることは出来ません。でも、不安や恐れを取り除いてくださる方はおられます。それは、私たちの救い主、主イエス・キリストです。

 十字架にかかられる前、主イエスは弟子たちに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14章1節)と言われ、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(同16章33節)と励まされました。

 また、主イエスが十字架で死なれ、葬られた後、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵を掛け、閉じこもっていた弟子たちのところに甦られた主イエスが立たれ、「あなたがたに平和があるように」(同20章19節)と仰いました。

 「心を騒がせるな、勇気を出せ。平和があるように」と語られる主の御言葉に耳を傾けましょう。主を信じる信仰は、自分で作り出せるものではありません。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10章17節)と言われる通りです。聞いた言葉を信仰と結びつけることができるよう(ヘブライ書4章2節参照)、聖霊の導きを求めましょう。

 また、心の耳を開いていただきましょう。主こそ良い羊飼いであり、羊は羊飼いの声を聞き分け、従っていくことが出来るからです(ヨハネ福音書10章3,4節)。心の目を開いていただきましょう。神の御旨を深く悟ることが出来るからです(エフェソ書1章17節以下)。

 希望の源なる主よ、なかなか明るい希望の光を見出すことが困難な状況の中で、すべてを統べ治める全能の主を仰ぎ見ることが出来、そして勇気をもって神殿再建、エルサレム復興のために民を励ましたゼカリヤのように、私たちにも絶えず主を仰がせ、その御声に耳を傾けさせてください。主を信じる信仰に堅く立ち、主の御言葉に従うことが出来ますように。聖霊の満たしと導きに与らせてください。 アーメン




1月23日(木) ゼカリヤ書13章

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」 ゼカリヤ書13章1節

 冒頭の言葉(1節)のとおり、「ダビデの家とエルサレムの民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれ」ます。「その日」というのは、12章2節の「エルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする」日のことであり、同9節の「ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」日のことです。

 「泉が開かれる」ということですから、井戸が掘られたというのではありません。また、雨水を貯めておく池を造るということでもありません。罪、汚れを洗い清める水が泉となって湧き上るのです。この水の源は主なる神ご自身です。主が、あらゆる罪と汚れを洗い清める泉を開いてくださるのです。

 その清い水の流れは、この地から「数々の偶像」(2節)、即ち異教の神々を取り除き、また、異教の神々に仕える偽の預言者たちを追い払います(同節)。それでもなお預言をする者があれば、両親から「主の御名において偽りを告げたのだから、お前は生きていてはならない」(3節)と言われ、処刑されます。それは、申命記13章2節以下に規定されているとおりです。

 ゆえに、彼らは預言者のユニホームである毛皮の外套をまとわなくなり(4節)、「わたしは預言者ではない、土を耕す者だ」(5節)と言って、処刑を免れようとするのです。そうして、偶像と偽りの預言者が排除されることにより、主の支配が確立するその日が到来するのです。

 因みに、アモスが「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を買い、いちじく桑を栽培する者だ」(アモス書7章14節)と言いましたが、それは、職業的預言者ではないという宣言であり、にもかかわらず、「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた」(同15節)と、預言者としての使命を託されたことを明らかにしていました。

 また、「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ、わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい」(7節)と主が言われます。これは、主の民を養い、正しく導くべき指導者たちが、その使命を果たさないばかりか、異教の神々を礼拝して神を怒らせたゆえ、退けられたということです。

 それは、11章15節の「愚かな羊飼い」、同17節の「無用な羊飼い」と呼ばれる人たちのことです。そして8節に「この地の何処でもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る」とあります。民の三分の二は、この悪しき指導者たちと共に裁かれるということです。つまり、指導者たちだけでなく、民も自ら、神に背いていたわけです。

 しかし、民の三分の一は残され、神と民との間で、「彼こそわたしの民」、「主こそわたしの神」(9節)と呼び合う新しい契約が結ばれます(エレミヤ書31章31,33節)。「銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す」(同節)と言われていますから、民は火のような試練を通って清められ、神の民とされるわけです。

 あらためてゼカリヤに与えられた本章の託宣は、エゼキエル書47章の「命の水」の預言を思い出させます。神殿の敷居の下から湧き上った水が川となり、アラバの海に注いで水を清め、すべての生き物が生き返り、魚も非常に多くなるというものでした。清い水の働きが神殿から始まり、すべてのものを清めると考えてもよいでしょう。

 ゼカリヤ書でも、この清める泉が開かれたのは、異教の神々を祀り、偽の礼拝を行わせる預言者や悪の指導者たちのいたエルサレムの都を清めるためで、その神殿から神の清めの働きが始まると示されているわけです。

 またこの託宣は、主イエスとサマリアの女性の対話を思い出させます(ヨハネ福音書4章参照)。主イエスは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました(同14節)。

 もちろんこれは、飲み水のことではありません。彼女に永遠の命を与える水であり、そしてそれは、まことの礼拝をするために与えられる真理の御霊のことです(同23,24節)。

 さらに、ヨハネ福音書7章37,38節にも「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られ、そして、「イエスは、ご自分を信じる人が受けようとしている霊について言われたのである」(同39節)と解説されています。

 主イエスによってもたらされた永遠の命の水たる真理の御霊は、今や私たちのところにまで流れてきています。誰でも、その水を飲むことが出来ます。そして、イエス・キリストを信じる者は、罪が赦されます。神の子とされます。永遠の命が与えられます。聖霊の賜物を受けます。神の愛と計画を知り、その使命に生きる者となります。神との間に親しい交わりが開かれます。

 主は私たちの祈りを聞いてくださり、「彼こそわたしの民」と言われます。すべてが主の恵みです。私たちも喜んで、「主こそわたしたちの神」と主をほめたたえ、「わたしの民」と呼んでくださる主の御声に耳を傾けながら、日々歩ませていただきましょう。

 主よ、今日も御言葉をくださってありがとうございます。主イエスを信じる信仰を通して、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれました。主よ、私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御霊の働きにより、私たちをあなたが望まれるようなものに造り変えてください。 アーメン


1月22日(水) ゼカリヤ書12章

「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」 ゼカリヤ書12章10節

 ゼカリヤ書後半部(9章以下)で、第二の託宣が記される12章以下14章までを第三ゼカリヤと呼びます。12章には、「エルサレムの救いと浄化」という小見出しがつけられています。

 主は、「わたしはエルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる」(2節)と言われました。エルサレムが全世界の民に包囲されます。周囲のすべての民のエルサレムに対する敵対心は、神に対する反抗であることを示しています。

 しかし、主なる神に反抗することは、おのが身に主の裁きを招くことです。「その日、わたしはエルサレムをあらゆる民にとって重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う」(3節)とは、そのことです。

 エルサレムを取り巻く民の中にユダの人々もいます。主は、ユダの人々の目を開かれました(4節)。すると、彼らは「エルサレムの住民はわれらの神、万軍の主のゆえに、わたしの力だ」(5節)と心に言います。エルサレムに反抗する群れの中にいたユダの民が、エルサレム側に寝返ったかたちです。

 主はユダの民を薪や松明のようにして、エルサレムを取り巻く周囲の人々に燃え移らせ、すべてのものを焼き尽くさせます。さながら、豊臣方(西軍)であった小早川秀明が徳川方(東軍)に寝返り、大谷吉継隊に攻めかかり、壊滅させたことで戦況は東軍優位に傾き、関ヶ原の戦いは一日で決着してしまったといった状況を思い浮かべます。

 これは、主なる神がご自分に敵対するものをすべて打ち滅ぼそうとしておられるのではなく、滅びを刈り取ることのないように、ご自分のもとに立ち返るよう呼び掛けておられるということではないでしょうか。だから、ユダの家の人々の目が開かれるようになさったのです。

 10節以下には、エルサレムの住民への言葉が記されています。まず、冒頭の言葉(10節)のとおり、「ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」と言われます。そうすると、「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」というのです。

 ダビデの家とエルサレムの住民が主なる神を刺し貫いたとは、主が遣わした預言者を殺したということであり、それによって主を刺し貫こうとしたのだと言われているわけです。そこで、憐れみと祈りの霊が注がれて、彼らはおのが罪に気づかされ、その愚かな業を嘆き悲しむのです。

 11節に「その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる」と記されています。メギド平野とは、メギドから東に広がるイズレエル平野のことでしょう。メギドは交通の要衝で、軍事的にも商業的にも重要な場所でした。ソロモンはこの地の戦略上の重要性を考えて、強力な要塞都市を建設しました(列王記上9章15節)。

 メギドにおける嘆きで思い起こすのは、神殿修復の際に発見した律法の書に従い、徹底的な宗教改革を行ったヨシヤ王が、エジプトのファラオ・ネコと戦って殺された場所だということです。

 もしも、ヨシヤ王がここで戦うことを回避していれば、そして、長く生きて宗教改革を徹底していれば、国の行く末は違ったものになったかも知れません。そのことを嘆く声が高く上がったように、エルサレムにおいて大きな嘆きが起こるということです。

 「ハダド・リモンの嘆き」とありますが、「ハダド」は「雷・嵐」を意味するアラムの神です。「リモン」は「吠え掛かる者」というアッカド語に由来する名で、 エリシャにより重い皮膚病を清めてもらったナアマン将軍が、「わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」(列王記下5章18節)と言います。リモンもアラムの神なのです。

 「ハダド・リモン」とは、ハダドとリモンが同一視されていたということでしょう。「メギド平野におけるハダド・リモンの嘆き」ということは、ハダド・リモンを祀る聖所か祠がメギドの傍にあったということでしょう。ヨシヤの宗教改革のさなか、ハダド・リモンを祀る聖所がメギドの傍にあったということは、主に反抗し、主の胸を刺し貫く行為がなされていたわけです。

 そのことを嘆く声が、ヨシヤ王を悼んで嘆くよりもさらに高く大きく、エルサレムで上がるということです。その声は、部族ごと、氏族ごと、男女別々に上げられると言われます。それは、その嘆きが公式発言としてなされるというより、一人ひとり個人的な痛み、嘆きとして声が上げられているということなのでしょう。ゆえに大きな嘆きになっているのです。

 「ダビデの家の氏族」とは、ダビデ王家のことでしょう。「ナタンの家の氏族」とは、ダビデに仕えた宮廷預言者言ナタンに遡る家系ということです(サムエル記下7章2節以下、12章1節以下参照)。

 続く「レビの家の氏族」がどの氏族のことをいっているのかというところですが、その後に「シムイの氏族」とあり、シムイはレビの長男ゲルションの一氏族(民数記3章21節参照)です。

 こうしてみると、ダビデ王家とという政治的指導者と、ダビデに仕えた預言者ナタンの子孫とレビ家の子孫という宗教的指導者とが、それぞれに分かれて嘆くと言っています。彼らがエルサレムの民に罪を犯させ、主に背いてその胸を刺し貫くような愚かな振る舞いに及んだので、北はアッシリア、南はバビロンに滅ぼされ、捕囚とされるという結果を招いたわけです。

 おのが罪に気づき、嘆き悲しむとは、悔い改めの表現です。悔い改めとは、後悔するというよりも、方向を転換することです。背を向けていた神に顔を向けること、耳を閉ざしていた神の御言葉に耳を傾けること、背いていた神に従うようになることです。 

 ここに言われる独り子を失った嘆き、初子の死の悲しみとは、イエス・キリストの死を指しています。ヨハネ福音書19章37節に、「また、聖書の別のところに、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある」とあります。これは、十字架のイエスがやりでわき腹を刺されたのは、ゼカリヤ書12章10節の預言が実現したことだと言っているのです。

 つまり、自分たちの罪のために死なれた神の独り子イエス・キリストの死を見つめて、彼らは嘆き悲しむ、即ち、悔い改めをするということです。民が悔い改めて神の下に帰ってくること、それが神の計画なのです。これこそ、偽りの神々の策略に対するまことの神の勝利なのです。

 憐れみと祈りの霊を注がれて、悔い改めに導かれた民は、自分の罪を悔い、悲しむと共に、その罪を自ら背負い、死んでくださった主イエスの贖いに心から感謝することでしょう。さらに憐れみと祈りの霊は、十字架につけられたキリストを宣べ伝える伝道の力、証しの力を与えるでしょう(使徒言行録1章8節、第一コリント書1章23節、2章2,4節)。

 主の霊は私たちの内に住まい、私たちを神の神殿、聖霊の宮とされます(第一コリント書6章19節)。主の霊の働きによって、自由にされます(第二コリント書3章17節)。顔の覆いが除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます(同18節)。

 私たちを神の子とし、神を「アッバ、父よ」と呼ばせてくださいます(ローマ書8章15,16節)。神の子として天の御国を受け継ぐ保証となってくださいます(エフェソ書1勝13,14節)。私たちのために呻きをもって執り成し、万事が益となるようにしてくださいます(ローマ署8章26,28節)。

 霊的な賜物をお与えくださいます(第一コリント書12章1,4節)。一人一人に霊の働きが現れるのは、教会全体の益となるためです(同7節)。そして、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という霊の実を結ばせてくださいます(ガラテヤ書5章22,23節)。

 絶えず聖霊に満たされて、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌いましょう。

 主よ、私たちの霊の目を開き、私たちがどこにいるのか、何をしているのか、気づかせてくださいますように。偽り、背きの罪を離れ、真理の神に立ち返ることが出来ますように。御言葉と御霊によって内なる人を清め、キリストの贖いという尊い代価を払って買い取ってくださった私たちの体で、神の栄光を現すことが出来ますように。 アーメン


1月21日(火) ゼカリヤ書11章

「わたしは彼らに言った。『もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。」  ゼカリヤ書11章12節

 11章は、10章に続いて羊飼いについての言及があります。新共同訳聖書では、4節以下の段落に「悪い羊飼い」という小見出しをつけています。レバノンの杉、見事な大木、バシャンの樫の木、人を寄せつけなかった森は(2節)、いずれも称賛の言葉ではなく、人の高ぶりを示す預言者的な表現です。ゆえに、焼き尽くされ、荒れ果て、倒されるのです。

 3節の「見事な牧場」という言葉について、原語に「牧場」という言葉はなく、「栄光、輝き、威厳」(アッデレト)という言葉が、「羊飼いたちの泣き叫ぶ声」という言葉からの類推で「見事な牧場」という訳語になったわけです(岩波訳脚注参照)。口語訳は「栄え」と訳し、新改訳は「ヨルダンの密林」との関連で「みごとな木々」と訳しています。

 いずれにせよ、ユダの指導者たちの高ぶりによって国が破壊されること、住処を荒らされて獅子が吠えるように(3節)、主なる神の裁きが羊飼いたるユダの指導者たちの上にふりかかり、泣き叫ぶことになると告げられているのです。

 羊飼いは、牧草のあるところや飲み水のある泉などへ羊を導き、羊を養い育てるという務めをします。羊は弱い動物で、ユダの荒れ野において、羊飼いなしに生きることはなかなか困難です。そして、羊は自分がよい羊飼いになることは出来ません。

 また、羊を憐れまない羊飼いが(5節)、良い羊飼いであるはずがありません。ここで預言者ゼカリヤは、王や祭司など政治的、宗教的な指導者たちのことを羊飼いと呼び、イスラエルの民を羊と呼んでいます。

 5節の「買い取る者」は異国の王で、イスラエルの民を奴隷とするということでしょう。「罪を着せられず」というのは、彼らがイスラエルの民を裁く道具として用いられるからです。羊を売るのは、羊を食い物にする悪い羊飼いで、私腹を肥やすためにそうしていると言われます。

 良い羊飼いは、絶えず羊のことを心にかけます。羊飼いは、「好意」と「一致」という二本の杖を手に持っています(7節)。好意は、小さい者に関心を払い、契約を結んで神の民とし、彼らに恵みを与えようとすることです。また、一致とは、分かれているものが一つになることです。そして、良い羊飼いは、悪い羊飼いを取り除きます(8節)。この良い羊飼いとは、主なる神のことです。

 9章16節で「彼らの神なる主は、その日、彼らを救い、その民を羊のように養われる」と言い、10章3節には「万軍の主は御自分の羊の群れ、ユダの家を顧み、彼らを輝かしい軍馬のようにされる」とあり、同8節にも「わたしは彼らを贖い、口笛を吹いて集める。彼らはかつてのように再び多くなる」と記されています。

 ところが、羊たちが良い羊飼いを好むとは限りません。ここではむしろ、悪い羊飼いを退けた良い羊飼いを嫌っています(8節後半)。良い指導者よりも自分たちにとって都合のよい指導者を、まことの神、主よりも、自分たちの欲望を満たす偽りの神々を慕うのです。

 そのため、良い羊飼いに見限られ、「わたしはお前たちを飼わない。死ぬべき者は死ね。消え去るべき者は消え去れ」(9節)、「わたしは『好意』というわたしの杖を取って折り、諸国の民すべてと結んだわが契約を無効にした」(10節)と言われます。即ち、神の支配から切り離されて、バビロン捕囚の憂き目を見ることになったわけです。

 14節には「わたしは『一致』というわたしのもう一つの杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りを無効にした」という言葉があります。これは、ソロモン王の罪により、イスラエルが、北と南に分断されたことを示しています。「国が内輪で争えば、その国は成り立たない」(マルコ3章24節)と主イエスが教えられたとおり、主なる神との契約が無効にされて、滅亡への道を突き進んでしまったわけです。

 冒頭の言葉(12節)に「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を払え」とあります。羊が羊飼いに賃金を払うというのは、前代未聞の出来事ですが、「好意」という杖が折られた後、即ち契約を無効にした後に賃金を支払うというのですから、賃金が支払われて契約解除、謂わば解雇金といったものです。「支払わない」となれば、懲戒解雇を意味するといってよいでしょう。

 そして、銀30シェケルが量り与えられました。主がゼカリヤに「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を」(13節)と言われるので、彼はそれを取って、鋳物師に投げ与えました。

 銀30シェケルは、イスカリオテのユダに支払われた、主イエスを売り渡す代価でした(マタイ福音書26章15節)。後にユダは後悔して、銀貨を返そうとし(同27章3節)、神殿に投げ込みます(同5節)。祭司たちはそれで陶器職人の畑を買いました(同6,7節)。ここに、ゼカリヤの預言が成就したのです。

 主イエスは、自分を殺そうとする者のために執り成して祈り、神に罪の赦しを請いました(ルカ福音書23章34節)。そして、十字架で贖いの死を遂げられました。主イエスこそ、実に「羊のために命を捨てる」良い羊飼いなのです(ヨハネ福音書10章11節)。

 私たちは、良い羊飼いなる主イエスに、「好意」と「一致」の杖で導いていただきましょう。主が共におられれば、災いをおそれることもありません。その杖が私たちに力を与えるからです(詩編23編4節)。

 主よ、元来あなたの囲いの中にいなかった私たちをもその群れに加えてくださり、恵みと平安にあずからせて頂くことが出来たことを、心から感謝致します。絶えずあなたの御声を聞かせてください。永遠の命の御言葉に常に耳を傾けます。あらゆる誘惑や罠から私たちを守ってくださり、死に至るまで忠実に歩ませてください。 アーメン



1月20日(月) ゼカリヤ書10章

「彼らは苦しみの海を通って進み、波立つ海を打つ。ナイルの深みはすべて干上がり、アッシリアの高ぶりは引き降ろされ、エジプトの王笏は失われる。」 ゼカリヤ書10章11節

 1節に「春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ、すべての人に野の草を与えられる」とあります。この言葉は続く2節で「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい」と語られている言葉との関連で、収穫をもたらす雨をだれに祈り願うのかと、イスラエルの民に訴えているのです。

 「テラフィム」は、創世記31章19節で「家の守り神」と訳されています。士師記17章5節の表現では、主なる神のこととして礼拝しています。しかし、サムエル記上15章23節では「偶像」と訳されています。ここに、はっきり主なる神と区別されたわけです。

 2節の「テラフィム」は、偶像の代表のようにして語られています。そして、テラフィムを初めとする偶像に依り頼んで雨を祈り求めること、また占い師に将来の夢幻を尋ねるのは、真の神に依り頼まず、人の作った偶像や、占い師など偽りの指導者に道を求める人々は、羊飼いのない羊のように空しくさまようことになるのです。

 ソロモン王以後、イスラエルは異教の神々を慕い求めて道を誤り、まことの神を悲しませました(列王記上11章)。その結果、国は分裂し(同12章)、そして、亡国と捕囚という塗炭の苦しみを味わわなければなりませんでした(列王記下17章、25章)。

 国を再建するにあたり、あらためてその信仰を問い、主に恵みを祈り求めよというのです。そして6節で「わたしはユダの家に力を与え、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す。彼らはわたしが退けなかった者のようになる。わたしは彼らの神なる主であり、彼らの祈りに答えるからだ」と約束されました。

 ここで「ヨセフの家」とあるのは、ヨセフの子はマナセとエフライムで、特にエフライムの子らは北イスラエル王国を代表する中心的な部族となりましたので、ここでは北イスラエル王国のことを表しています。つまり、「ヨセフの家を救う」というのは、北イスラエルを救うということです。

 北イスラエルは、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、民はアッシリアの各地に散らされました(列王記げ17章6節)。主なる神は、バビロンの捕囚となったユダの民だけでなく、アッシリアの捕囚となった北イスラエルの人々をも、「わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す」と言われるのです。

 「彼らはわたしが退けなかった者のようになる。わたしは彼らの神なる主であり、彼らの祈りに答えるからだ」ということは、かつて彼らはその罪のゆえに主を怒らせましたが、亡国と捕囚の苦しみの中で主を求めたゆえに、主が憐れみをもってその祈りに答え、捕囚の地から贖い出してくださるというのです。 

 冒頭の言葉(11節)で「苦しみの海を通って進み、波立つ海を打つ」というのは、出エジプトの出来事を思い起こさせるものです。かつて主なる神は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、エジプト軍に追撃される絶体絶命の危機にあって悲鳴を上げたとき、葦の海(紅海)を二つに分けて、乾いた地を行くように民を対岸へ逃れさせました(出エジプト記14章)。

 それからの40年間の荒れ野の生活でも、民はたびたび苦難や危機を経験しましたが、そのたびに主は民を守り、助けました(申命記29章参照)。そのようにして彼らは信仰の養いを受け、約束の地カナンへ導き入れられて、国を建てることが出来たのです。

 ユダとイスラエルの民がエジプトの地から帰り、アッシリアから呼び集められるというのが(10節)、第二の出エジプトとしてここに語られているということは、彼らのために主の守りと助けが用意され、国を再興することが出来ると約束されているのです。

 勿論それは平坦な道ではありません。冒頭の言葉のとおり、彼らの前に苦しみの海、波立つ海があって、彼らの行く手を遮っているのです。けれども、民は海を渡ることが出来ます。遮る海を打つことが出来ます(4章6節以下も参照)。

 ここでいう海とは、葦の海などではなく、様々な苦しみ、試練を指しているようです。その苦難を通して開かれる恵みの世界があること、その試練を通らなければ味わうことが出来ない信仰の世界があるということを教えられます。

 苦しみがあれば神に訴え、悲しみがあれば神に嘆き、呻いて祈りを捧げます。そして、訴え、嘆き、呻いてささげた祈りが神に聞かれ、やがて喜びや感謝の賛美に導かれる恵みを味わうのです。こうして、私たちの主なる神は、慰めと希望の源なるお方であり、どんなマイナスもプラスに変えてくださるお方であるという信仰に導かれてゆきます(ローマ書15章5,13節、8章26,28節)。

 主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖を向こう岸に向かっている時、何度か嵐に遭遇しました。しかし、どんな嵐が襲って来ても、向こう岸に渡ることが出来ました。それは、弟子たちの信仰のゆえなどではなく、向こう岸に渡ることが主の御旨だからであり、そして、主イエスが弟子たちと共におられたからです(マルコ福音書4章35節以下など)。

 どんなときにも思い煩わないで、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けましょう。あらゆる人知を超える神の平和、平安が、私たちの心と考えをキリスト・イエスによって守ってくださいます(フィリピ書4章6,7節)。主を信じ、御言葉に立って前進させていただきましょう。

 主よ、あなたこそ真の羊飼いであられ、深い憐れみをもって私たちを命の道に導いてくださいます。苦しみの海を通ることがあっても、あなたが私たちと共にいて波立つ海を打たれ、私たちは主にあって力を受けます。私たちは主の御名において歩み続けます。その恵みと慈しみのゆえに心から感謝します。いよいよ御名があがめられますように。 アーメン



1月19日(日) ゼカリヤ書9章

「またあなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。」 ゼカリヤ書9章11節

 9章以下は、8章までの預言とは文体も内容も異なっており、別人の筆によるものと考える学者は少なくありません。さらに、9章以下を9~11章と12~14章の二つに分け、8章までを第一ゼカリヤ、9章から第二ゼカリヤ、そして12章以下を第三ゼカリヤと呼んでいます。

 ただ、その三つが一つにされて今日に伝わっているという事実は、どうでも良いというものではありません。考古学的な研究から、かなり早い段階から一つの書として読まれるようになっていたようです。最近の研究者の中には、9章以下の部分は、1~8章までの時期から10年ほど後にゼカリヤが記したものとする説を唱える人も出て来ました。

 9章には、まず諸国民に対する裁きが記されます。1~4節にはシリア、フェニキアの町に対する託宣で、それらの町が交易などで集めた富や力を、海に投げ込み、町を火で焼くと言われます(4節)。また5~7節はペリシテの町に対する託宣で、ペリシテ人の高ぶりを絶つと語られます(7節)。

 人を高ぶらせるものが取り除かれたとき、驚くべきことに、「その残りの者は我らの神に属し、ユダの中の一族のようになり、エクロンはエブス人のようになる」(7節)と言われます。ダビデはエブス人の町エルサレムを陥落させて「ダビデの町」としました(サムエル記下5章6節以下、9節)。ただ、エブス人は滅ぼされたのではなく、ユダの民の中に吸収されたようです(同24章16節参照)。

 即ち、主なる神は御自分の支配を、力ではなく平和をもって打ち立てられるということです。それで、地上から戦乱はなくなり、イスラエルに平和が訪れます。だから、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ」(9節)と言われ、「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を立つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」(10節)と記されるのです。

 冒頭の言葉(11節)で「捕らわれ人を水のない穴から解き放つ」というのは、イスラエルの父祖ヤコブの11番目の息子ヨセフの身の上に起こった出来事を思い出させます。ヨセフは、父ヤコブの寵愛を一身に受けました。ヨセフはそれを鼻にかけていたので、10人の兄たちの妬みを買い(創世記37章1節以下)、空の井戸に投げ込まれます(同12節以下)。

 空井戸ですから、水がありません(同24節)。また、食べ物もありません。そのままなら、飢えと渇きで死んでしまうことでしょう。しかし、長兄ルベンが、弟を殺すのはやめて、イシュマエル人に売ってしまおうと提案します(同27節)。

 ところが、兄弟たちがそのように話し合っている間にミディアン人が通りかかり、ヨセフを井戸から引き出し、イシュマエル人のキャラバンに売ってしまいました。ルベンが提案したとおりの成り行きになったわけです(同28節)。

 イシュマエル人は、ヨセフをエジプトに連れて行き、ファラオの宮廷役人で侍従長ポティファルに売られ、奴隷として働かされることになります(同28,36節)。それは大変な道ですが、まずは死を免れることが出来ました。

 ヨセフはエジプトでも困難なところを通りましたが(同39章参照)、主はヨセフを祝福されて(39章2,21節)、ファラオの家来たちの夢解きをしたことから(同40章)、ファラオの見た夢を解くことになり(同41章1節以下)、その知恵が認められてついにエジプトの宰相に任じられるようになります(同41節以下)。

 そのことで、エジプトが飢饉から守られただけでなく、ヤコブ一族も救われることになり(同42章以下参照)、その子孫は400年を超える奴隷生活の後、モーセに率いられてエジプトを脱出しました(出エジプト記1章8節以下、12章40節以下)。

 ひとりエジプトに売られたヨセフでしたが、やがて家族70名がエジプトで過ごすことになり(創世記46章27節)、モーセに率いられてエジプトを脱出したときには、成人男子だけで60万を超える大民族となっていました(民数記1章45,46節)。

 預言者ゼカリヤの時代、捕囚から解放されたものの、いまだイスラエルに戻って来ていない民も少なくありませんでした。むしろ、帰国した方が圧倒的に少ないという状況だったでしょう。それは、帰国しても困難が待っているだけで、バビロンにいる方がよほどましだと考えられたからです。

 そこで、主なる神は彼らのために、ロバに乗る平和の王、勝利を与える者を遣わされます(9節)。主によって繁栄が回復されます。失ったものが2倍になって戻って来ると約束されています(12節)。主は恵みを備えて、主を礼拝する民がご自分のもとに帰って来るのを待っておられるのです。「砦に帰れ」(12節)という御言葉に聞き従うように求めておられるのです。

 あらためて、「水のない穴」とは、御言葉を聞くことの出来ないところとも考えられます。水は、神の御言葉を指しています(詩編1編2,3節、エフェソ書5章26節、ヨハネ福音書4章参照)。私たちは、いつも水のある広い場所、神と共にいて、その御言葉を聴くことの出来るところにいたいと思います。

 私たちには、神の御言葉を聴く資格があるとか、神の共にいるのが当然というのではありません。「あなたと結んだ契約の血のゆえに」と言われるとおり、主イエスが十字架で流された贖いの血によって結ばれた新しい契約によって救いの恵みに与り、神の宝の民としていただいたのです(16節、出エジプト記19章5,6節、第一ペトロ書2章9節)。

 主イエスは、まさにロバに乗ってこられた平和の王で(ルカ19章28節以下、38節)、死に打ち勝って甦られ、今も生きて私たちを守り導いてくださいます(同24章、マタイ28章20節、ローマ書14章9,11節、5章21節、使徒言行録5章31節)。

 それは、私たちの行いによるのではなく、神の賜物であり、一方的に授けられた神の恵みです(エフェソ書2章8,9節)。神が招いてくださるからこそ、神の御前に立つことが出来、主の御声を聴くことが許されるのです(ヘブライ書4章16節、7章25節)。

 日々主の御前に進み、いのちの言葉を戴きましょう。聖霊に満たされ、心から主をほめ歌いましょう。上からの力を受けて、キリストの証人としての使命を全うしましょう。 

 主よ、いつも共におらせてください。御言葉を聞かせてください。御言葉に聴き従うことが出来ますように。弱い私たちを常に聖霊で満たし、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰によって歩ませてください。主の恵みを信じます。 アーメン




1月18日(土) ゼカリヤ書8章

「あなたたちのなすべきことは次のとおりである。互いに真実を語り合え。城門では真実と正義に基づき、平和をもたらす裁きをせよ。」 ゼカリヤ書8章16節

 8章は、バビロン捕囚から帰還したユダの民によって神の国イスラエルを再興されることが約束され、イスラエルを祝福する預言の言葉です。その中で、「勇気を出せ」、「恐れてはならない」(9,13,15節)と繰り返し言われます。

 これは、同時期に活動した預言者ハガイも語っていたところでした(ハガイ書2章4,5節)。そこには、帰国を果たすことは出来たものの、神殿を建て直し、エルサレムの都を復興するまでには、なお多くの困難があるということが伺えます。

 8章の主の言葉が、7章1節と同時期(「ダレイオス王の第4年」)のものであれば、神殿の工事が終わるまでまだ2年もかかります(「この神殿は、ダレイオス王の治世第6年のアダルの月の23日に完成した」エズラ記6章15節)。

 主なる神は復興されるエルサレムについて、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座すようになる。それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく」(4,5節)と言われます。

 ということは、帰国した民の中には、老爺や老婆、わらべやおとめが殆どいない、いても数が極めて少ないということを示しています。それは、バビロンからエルサレムまで長距離を旅し、荒れた町を復興するのは困難だからであり、高齢者や幼子を抱えた世代の人々は、生活が不安定になることを望まないからです。

 そう考えると、バビロンから帰国したのは、若者が中心であったと言ってよいでしょう。高齢者が座し、幼子の声が満ちるというビジョンを通して、神は、神殿や城壁などといった建造物だけでなく、あらゆる世代が町に住む社会全体の復興を約束して、苦難の中にいる帰国の民を励ましているのです。

 そして、国を建て直すのに必要なのは、「真実」(エメト)と「正義」(ミシュパート:公正)に基づき、「平和」(シャローム)をもたらす「裁きを行え」(シャーファト)と、冒頭の言葉(16節)で語られています。それは特に、7章10節に語られていたとおり、やもめや孤児、寄留者、貧しい者らに対して示されなければならないものです。

 昔も今も、国の為政者によって真実が歪められ、不正が行われ、そのために国民、特に弱い立場にいる人々が苦しめられるという構図には、変わりがありません。森かけ問題も桜を見る会の問題も、政府は真相が明らかにしようとはしません。

 沖縄に米軍基地の74%が集中しているというのは、数字の読み方に偏りがあります。米軍が占有している基地の面積は、全国で1028㎢、そのうち沖縄は229㎢、全体の22.7%です。しかし、沖縄本島に占める基地面積は、本島面積の18%にもなります。

 米軍基地が2番目に多く存在する神奈川県の基地面積は21㎢、県面積の0.8%、米軍基地面積が全国2位の青森県では24㎢、県面積の0.3%です。また、有事に共用にされる土地という点では、北海道が全国1位で345㎢です。しかしこれは、北海道面積の0.5%足らずです。

 沖縄では、有事の際に共用となる土地は更に増えるのです。これらは、沖縄にどれだけ大きな負担を強いているか、よく分かる数字だと思います。国は、一刻も早くこの状況を改善するため、普天間基地を辺野古に移すという方針を撤回し、本土並みの負担になるよう基地の返還、本土、あるいは国外への米軍基地移転を進めるべきです。

 真実を行うというのは、国だけの問題ではありません。13年ほど前の飲酒運転による悲惨な死亡事故で、飲酒運転に対する厳罰化がなされ、飲酒運転追放運動が全国的に展開されましたが、飲酒運転は一向に減りません。警察官が飲酒運転で逮捕という嘆かわしいニュースを聞いたのも、一度や二度ではありません。そもそも法令遵守意識(コンプライアンス)がないのでしょう。

 最近、服薬コンプライアンスという言葉があることを知りました。医療現場において、患者が処方どおりに服薬している場合、「コンプライアンス良好」といい、そうでない場合を「ノンコンプライアンス」というそうです。もしかすると、こんなところにも、真実に生きるという意識の欠如が表われているのかも知れません。

 私たちに求められているのは、思い上がらず虚勢を張らず、主なる神を信頼し、弱さは弱さのまま、足りなさは足りなさのまま、あるがままで主の前に立ち、自分の身の丈にあった真実、誠実な働きをすることです。そのとき、主なる神はご自分の栄光の富に応じて、私たちに必要なものをすべて豊かに満たしてくださいます。

 主は、「四月の断食、五月の断食、七月の断食、十月の断食はユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時となる」(19節)と言われます。7章3節にエルサレム陥落を記念して断食する悲しみの時を持つべきかという問いが提出され、それに対して主が「果たして、真にわたしのために断食してきたか」(同5節)と問い返しておられました。形式的な断食に意味はないということです。

 また、[あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりして来ただけではないか」(同6節)と追求され、「正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、孤児、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを企んではならない」(同9,10節)と命じられていました。

 それをここでは、断食の時をユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時とすべきことを提案なされました。破壊された都に主が来られて真ん中に住まわれ、復興されるので(3節)、悲しみ嘆くときではなく、喜び祝うときとなると言われ、「あなたたちは真実と平和を愛さねばならない」(19節)というのです。

 多くの民、強い国々の民が来て、エルサレムにいます万軍の主を尋ね求め、主の恵みを求めて(22節)、「あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ」(23節)と言うと告げられます。

 未だ、このゼカリヤの告げた預言が実現を見てはいませんが、しかし、エルサレムのみでなく、あらゆる言葉の国々のあらゆる広場に老爺老婆が座し、わらべとおとめに溢れ、彼らが笑いさざめく様をぜひ見せていただきたいと、主に祈り願います。

 その実現を思い描きつつ、主にあって真実をもって語り合い、聖霊の導きに従って平和を創り出す者とならせていただきましょう。

 主よ、わが国の政治、経済、教育など、あらゆる分野で真実と公正、平和が脅かされているように思われます。そうした中にあって、常に真実であられ,平和の源であられる主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、正義を行う者となることが出来ますように。私たち自身も真実をもって語り合い、平和を創り出す者となることが出来ますように。 アーメン



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