風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

6月25日(日) ヨハネ黙示録5章

「泣くな。見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」 ヨハネの黙示録5章5節

 ヨハネの黙示録を読み、理解するための一つの方法は、天上の出来事と地上の人々の状況を対比して考えてみることです。たとえば、4,5章には、天上の玉座の間で行われている礼拝の様子が描かれていますが、地上では、ローマ皇帝を神として拝む皇帝礼拝が、帝国内の民に強要されていました。

 2章13節に「サタンの王座」という言葉がありますが、皇帝礼拝を強要し、それを拒否する者を殺すという悪魔的な存在を神として拝ませているという批判が込められています。こうした表現で、皇帝を神として礼拝することを拒否する姿勢を鮮明にしています。

 そして、4章11節で「あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」と賛美をささげて、本当に賛美されるべき方、信じて従うべき方は、天地を創られた唯一の神のみであるという信仰の宣言をしているのです。

 5章では、玉座に座っておられる方の右の手に握られた巻物が話題になります。その巻物は表にも裏にも文字が書いてあると、1節に述べられます。そこに何が書かれているのか、本章では明らかになりません。まぜ巻物の表裏両面に文字が書かれていると分かったのかは不明ですが、巻物は「七つの封印で封じられていた」(1節)のです。

 6章以下に封印を一つずつ解く度に起こる出来事が描写され、事態が進展していくことから、本章はその導入の場面として、非常に重要な位置を占めているということになります。

 神の手に握られた、表にも裏にも文字が記されている巻物とは、エゼキエル書2章9,10節にその表現があり、ヨハネがここにそれを援用したわけです。エゼキエル書の巻物に書かれているのは、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」(同10節)ということで、それはイスラエルの反逆の民に対する神の裁きを意味しています。

 その点は黙示録も同様で、封印が解かれるにつれて、不信の者たちに下される災いが現れます。一方、神の裁きは、信仰者にとっては、救いに近づくしるしとなります。その意味で、神の手に災いの記された巻物が握られているというのは、迫害下にあるキリスト教会にとっては、大いなる希望であり、励ましです。

 ところが4節に、封印された巻物を開くことの出来る者が見当たらないというので、激しく泣いたという言葉があります。その巻物を封じている七つの封印は(1節)、玉座に座しておられる方の権威の完全さ、だれもそれを犯すことが出来ないということを示しています。

 封印を解いて巻物を開く者がいないことを嘆き悲しむのは、巻物が開かれないので、そこに記されている神の業が現実化しないということだからでしょう。ということは、現在ローマ皇帝の下、迫害されているクリスチャンたちの苦難が今後も続くことになると考えられ、ヨハネは全信徒を代表するかのようにして、泣いているのです。

 しかし、それは神の権威をもって封じられているのですから、人間がそれを開くことは許されていません。人間が神の計画を手に入れることは出来ませんし、神に代わってそれを実現することも出来ないのです。

 ところがそのとき、冒頭の言葉(5節)のとおり、長老の一人が「泣くな」と言いました。「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ」と言われるメシア・主イエスがその巻物を開くことが出来ると言われたのです。

 長老は「ユダ族から出た獅子」と言いましたが、登場して来たのは「ほふられたような小羊」(6節)でした。世の中は獅子を期待したのですが、それが神の計画でした。力で屈服させる王ではなく、人々を罪と死の恐れから解放するために自らを犠牲とされる愛の王です。

 しかし、その愛の力は、死に打ち負かされませんでした。十字架で潰えてしまいませんでした。墓を打ち破って甦られました。このお方が、神の御手にある巻物の封印を解き、救いのご計画を進められる救い主として、私たちに与えられたのです。「獅子」が「小羊」と呼ばれるところに、この箇所のメッセージがあるでしょう。最も弱いと見えるものが、実は獅子よりも強いものなのです。

 四つの生き物と24人の長老たちは、聖なる者たちの祈りである公を入れた金の鉢と、竪琴を持って、小羊の前にひれ伏し(8節)、新しい歌を歌い始めます(9節)。主イエスのなされた業をほめ讃える賛美の歌です。

 この歌を記しているヨハネは、「彼らは地上を統治します」(10節)と言われているこの地において大変な苦難を味わっています。伝説に従えば、ヨハネはパトモス島に収監されている身で、喜んで歌を歌える、自由に主を礼拝することが出来るという環境にありませんでした。

 けれども、彼はこの地上において自分たちを苦しめているローマの支配の向こうに回し、天上の神の玉座と小羊なる主イエスを見て、罪と死に打ち勝ちって私たちを信仰に生かしてくださる主を、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」(12節)と、高らかに賛美しているのです。

 私たちもこのヨハネの信仰に倣い、イエスを通して賛美のいけにえ、即ち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。

 主よ、私たちに信仰をお与えくださって、心から感謝します。あのベートーベンが、耳が聞こえないというハンディキャップに打ち勝って交響曲第9番「歓喜の歌」を生み出したのは、このような信仰に学んでのものだと思います。私たちにも常に主を仰がせ、絶えず御名をたたえる新しい歌を神に献げさせてください。 アーメン




6月24日(土) ヨハネ黙示録4章

「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」 ヨハネの黙示録4章11節

 4章で場面は天上に移り、開かれた門が見えます。ヨハネは「ここへ上ってこい。この後必ず起こることをあなたに示そう」(1節)という声を聞きます。それは「あの最初の声」というので、1章10節で聞いた声のことでしょう。「ラッパのように響く」というのがその声の特徴で、声の主は、同12節以下の描写から、神の右に座す御子キリストでしょう。

 ヨハネは霊に満たされ、玉座の前に出ます(2節)。玉座に座しているのは、碧玉や赤めのうのような方です(3節)。碧玉、赤めのうは、旧約以来宝石として尊重されていました(出エジプト記28章17節以下、エゼキエル書28章13節など)。ここでは、神の高貴さを表現するために用いられているのでしょう。

 玉座に座しているお方について、イザヤ書6章1節以下、エゼキエル書1章26節以下に前例があります。特にエゼキエルでは、王座がサファイアのように見え(同1章26節)、腰のように見えるところから上は琥珀金が輝いているように見えたとあります(同27節)。これも、神の高貴さの表現でしょう。

 玉座の周りにエメラルドのような虹が輝いているというのは、創世記9章13節の契約のしるしとしての虹を思い出させますが、エゼキエル書1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった」とあり、ヨハネもそれを考えての表現でしょう。「エメラルドのよう」というのも、神の高貴さを表しています。

 玉座から稲妻、様々な音、雷が起こったというのは(5節)、出エジプト記19章16節などにある、シナイ山における神顕現の描写を思い起こします。モーセは角笛の音が鳴らされたのに応えて山に登りました。ヨハネを天に招くラッパのような声は、それに呼応していると見ることが出来ます。

 玉座の前の七つのともし火は(5節)、聖所に置かれた七つ枝の燭台(出エジプト記25章31節以下、40章4節など)を思わせます。また、玉座の前の推奨に似たガラスの海のようなものは、ソロモンが神殿の祭司の庭に置くために作らせた青銅の海(列王記上7章23節以下)を思い起こします。いずれも、神を礼拝する場所に置かれていたものです。

 ただ、「七つのともし火」は、「神の七つの霊」(5節)と説明されます。1章7節にも「玉座の前におられる七つの霊」とあり、これは、聖霊の表現と考えられます。ゼカリヤ書4章2節以下に七つ枝の燭台の描写があり、それは「ゼルバベルに向けられた主の言葉」(同6節)で、それを「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(同6節)と説明します。

 玉座の周りの白い衣を着た24人の長老は(4節)、星座を神々とするバビロンの占星術と関係があるとする説や、神殿の祭司が24組に分けられていたことや(歴代誌上24章)聖歌隊も24組に分けられていたこと(同25章)に基づいているとする説、また、旧約の12部族、新約の12使徒の数を合わせた旧・新約聖書の代表者という節などがあります。それらが皆影響しているかも知れません。

 ネヘミヤ記9章6節には「天の軍勢はあなたを伏し拝む」と歌われており、玉座の周りに座しているのは、神に仕える天使たちと見ることもできそうです。また、イザヤ書6章2節以下、エゼキエル書1章5節以下によれば、玉座の周りの「四つの生き物」とは、セラフィムのことといってよいでしょう。そうすると、いずれも天的な生物ということになります。

 かくて、ここに描かれているすべてのものは、ヨハネを呼び出した神の御子キリストと玉座の前の「神の七つの霊」と言われる聖霊、そして玉座に座す御父なる神の権威、力、栄光を天の玉座の前で賛美する表現ということになります。

 セラフィムなる四つの生き物が8節で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」と歌います。イザヤ書6章3節でセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌った出来事の再現のようです。

 そして、24人の長老が玉座の前にひれ伏し、冠を投げ出して(10節)歌ったのが冒頭の賛美の言葉(11節)です。「ひれ伏す」のは相手への最大限の敬意を表す姿勢で、特に神礼拝を言い表すものです。「冠を投げ出す」のも、王に対する尊敬と服従を表す当時の習慣でした。

 ここで、「あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」とは、当時の賛歌の形式の一つだったと言われます。主なる神が賛美を「受けるにふさわしい方」として讃えられるということは、この地上の誰も、その栄誉を受けることは出来ないと言っていることになります。

 また、9節に「栄光と誉れをたたえて感謝をささげると」と言われていましたが、ここでは「栄光と誉れと力を受けるにふさわしい」と、感謝が力に置き換えられたようになっています。「力」は全能の神、万物の支配者としての力です。

 栄光と誉れと力とは、いずれも神に属するもので、神にそれらを与えることができるような者は、どこにも存在しません。「受けるにふさわしい」とは、「栄光と誉れと力」の唯一の所有者であるとの告白、賛美を受けるにふさわしい方だということです。

 唯一賛美を受けるに方である根拠として、「あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」と歌います。万物を創造され、御手の内にすべてを治めておられる方だからこそ賛美すべきであり、そのお方に信頼し、従うべきだというわけです。

 万物が神によって存在し、創造されたと天の玉座の前で歌われたこの歌が、地上ではどのように歌われるでしょうか。万事が順調に運んでいるときには、高揚した思いで歌うことが出来るでしょう。しかし、八方ふさがりのとき、抵抗できない力でねじ伏せられているとき、すべてが神によって造られ、神の支配の中にあると歌うのは、思うほど易しいことではないと思われます。

 けれども、ローマ帝国の圧倒的な権力と支配の前に、八方をふさがれ、ねじ伏せられているようではあるけれども、今ヨハネは、天において、万物は神によって創造されたものであり、すべて神に支配の下にあると歌う24人の長老の姿を見、その歌声を聞いています。そしてヨハネ自らも、この歌を共に歌っているわけです。

 ヘブライ書12章1,2節に「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉があります。

 旧約の証人たち、そして先に召された信仰の先達が、私たちにエールを送っていてくださるのです。常に主を仰ぎ、主に信頼して歩むとき、天の歌声を聞くことが出来るでしょう。そして、私たちも信仰によってその歌声に和すのです。

 逆に、私たちがどのような境遇にあっても主イエスを仰ぎ、賛美を歌うとき、天の軍勢もそれに和して天上と地上で主を讃える賛美の交換がなされるということも出来そうです。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰をもって、主をほめ歌いましょう。 

 主よ、ステファノは殉教直前、天が開かれて、立ち上がっておられる主イエスを見たと言いました。確かにあなたは、信仰の戦いの中にある私たちのために、立ち上がって応援していてくださると信じます。弱い私たちを助けてください。あなたをいつも見上げることが出来ますように。すべてを委ねて主をほめ歌うことが出来ますように。 アーメン





6月23日(金) ヨハネ黙示録3章

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 ヨハネの黙示録3章20節

 14節以下は、「アジア州にある七つの教会」(1章4節)の7番目、「ラオディキアにある教会」(14節)に宛てて書き送られた手紙です。

 ラオディキアは小アジア西部,フリギア地方の主要都市の一つで、フィラデルフィアの南東70㎞、エフェソ東150㎞に位置する、メアンデル川の支流リュコス川に面した町です。リュコス流域には、コロサイ(東約15㎞)とヒエラポリス(北約10㎞)があります。

 紀元前3世紀半ばにアンティオコス2世セオスが、それまでディオスポリスまたはロアスと呼ばれていた町をヘレニズム文化の中心都市として整備し直し、自分の妻のラオディケにちなんでラオディキアと改めました。「ラオディキア」とは、「ラオス」(民)と「ディケー」(正義)を合わせた「国民の正義」といった意味になります。

 ヨセフスによれば、アンティオコス3世が多くのユダヤ人をフリギア、リディア地方に移住させました。ラオディキアの町にもかなりのユダヤ人が住むようになったと考えられます。紀元前1世紀には、この地方のユダヤ人は宗教の自由が保障され、エルサレムへ献金を送ることも許されていたようです。

 一時ペルガモン王国の支配下に移りましたが、紀元前133年以降ローマの支配下に入り、エフェソからシリアへ至る通商路に沿っていたこともあって、商業都市として発展しました。また、ラオディキアは金融都市としても知られ、その経済力は、紀元前60年の大地震で町が崩壊した時、他の町のように皇帝の援助を受けず、市民だけの富で復興したほど豊かでした(17節参照)。

 黒羊毛と毛織物の産地としても有名であり(18節参照)、また、郊外のアットゥダの町で生産されていた「フリギアの粉末」と呼ばれる目薬でもよく知られていました(18節参照)。

 ラオディキアの教会のことについては、コロサイ書2章1節、4章12~16節に既に言及されています。それによれば、コロサイ教会と同様、エパフラスという人物の特別な関心の対象となっています。同1章7節によれば、エパフラスがコロサイ教会の創設者であることが分かります。とすれば、ラオディキアも、エパフラスによって創立された可能性が小さくないでしょう。

 パウロがラオディキアの教会に手紙を書いていますが(同4章16節)、それが現在のエフェソの信徒への手紙のことであると考える学者もいます。ただ、黙示録のエフェソにある教会が、パウロによらず、ヨハネの指導によって立てられたと考えられるように、ラオディキアにもパウロやエパフラスたちの働きによらない、ヨハネによる教会があったとあったと考えてよいでしょう。

 ラオディキアには4世紀までフリギアの司教座がおかれていましたが、中世に入ってイスラムとの戦いで破壊されました。現在のエスキ・ピッサルという小村(トルコのデニズリの西)がラオディキアに当ると考えられています。

 7つの教会に宛てて記された手紙には、語り手を紹介する言葉に続いてそれぞれの教会を賞賛する言葉が添えられていますが、ラオディキアだけは例外で、「わたしはあなたを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15,16節)と言われます。

 ラオディキアの信徒の信仰の「なまぬるさ」に失望したという表現です。そのなまぬるさは、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)と言われるほどです。生活の上で不足がないことに満足して、霊的なこと、信仰のことが全く分かっていないというのです。

 冒頭の言葉(20節)は、キリスト教会の集会などでは、まだ信仰の道に入っていない方々に、主イエスを信じましょう、主イエスとの親しい交わりに入りましょうと勧める言葉として、よく読まれます。しかし、この言葉は、ラオディキアにある教会の信徒たちに向かって語られているのです。これは、どういうことなのでしょう。

 「戸を叩く」のは、受け入れることを求める意思表示ですが、ここでは、キリストが再臨される合図のことでしょう。「食事を共にする」とは、最も親密な交わりの表現です。キリストが、その声を聞いて従う者たちと食事を共にするという約束が与えられるということは、やがて来るべき栄光の座に、キリストと共に座に就くことが出来るという約束にほかなりません。

 ここで重要なことは、再臨されるキリストの声を聞き分けて戸を開くことが出来るよう、常日頃から備えておくことです。言い換えれば、忠実な信仰生活を守り続けることが重要だと言われているのです。となれば、「戸を開く」というのは、再臨されたキリストを迎え入れる行為ですが、再臨を待ち望みながら忠実な信仰生活を送ることを、そう表現しているということでしょう。

 その備えとして、「火で精錬された金」、「身に着ける白い衣」、「目に塗る薬」をキリストから買うようにと勧告されています(18節)。これは、17節に挙げられたラオディキアの人々の問題を、神によって解決するためのものです。

 神から離れてどっちつかずの生ぬるさの中にいては、自分の姿をはっきりと知ることが出来なくなります。自己満足と怠惰の中に眠り込んでしまいます。だから「熱心に努めよ。悔い改めよ」(19節)と言われるのです。

 再臨される主を待望することを忘れ、戸を叩いておられる主の御声が分からず、扉を開き損なった者は、やがて天の扉が閉ざされるとき、締め出される者となってしまいます。絶えず目覚めて主の御声を聴き、悔い改めて主の御言葉に聴き従いましょう。主との親しい交わりのうちに、主の祝福が注がれてきます。主に栄光を帰し、御名を高らかに賛美しましょう。

 主よ、あなたの深い恵みと憐れみを心から感謝します。戸を叩かれる主の御声を聞き逃すことがないよう、日々あなたの御言葉に耳を傾けます。聖霊の導きのもと、御言葉の恵みを味わいます。そして、祈りと賛美をささげます。弱い者ですが、主を知る者とされたことを喜び、その恵みを証しし続ける者とならせてください。 アーメン




6月22日(木) ヨハネ黙示録2章

「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」 ヨハネの黙示録2章10節

 2,3章には、「アジア州にある七つの教会」(1章4節)に宛てた手紙が記されています。これは、ヨハネの指導している教会が七つあり、そして、「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(同11節)と命じられていました。

 ラオディキアのそばにコロサイの町があり、そこにも教会がありますが(コロサイ書参照)、それがここに数えられていないのは、ヨハネの指導する教会ではないからです。その点では、「エフェソにある教会」(1節)も、パウロの教会とは別のものと言ってよいでしょう。

 「七」は完全数で、これで全世界の教会を代表しているのではないかという節もありますが、それは上記の通り、コロサイが挙げられていないなど、問題があります。ヨハネにとって、アジア州の七つの教会が彼の指導するすべてであり、それでこの世における完全な教会を形成しているものと考えていたのでしょう。

 エフェソ、スミルナ、ペルガモンは地中海沿岸の港町で、南から順にその名が挙げられています。そして、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアは内陸部の町で、ペルガモンから南東にのびる街道沿いにあり、北から順に並べられています。

 パトモス島から一番近いところにエフェソがあり、ここから時計回りに七つの教会を巡ることが出来ます。七つの教会がこの順番に並べられているということは、本書がこの順序で回覧されることを念頭に置いているということでしょう。

 七つの教会に宛てて書かれる手紙には、共通の特徴があります。それは、最初に語り手の神の御子キリストのことが、様々な言葉で紹介されます。次いで「知っている」(2節など)という言葉で綴られる賞賛の言葉が記されます。

 次に「しかし、あなたに言うべきことがある」(4節など)と、叱責の言葉が述べられます。ただし、初めから二番目のスミルナと、終わりから二番目のフィラデルフィアには、叱責の言葉がありません。

 その次は、悔い改めを勧告する言葉です。ただ、スミルナには、苦難を恐れず、死に至るまで忠実であれと命じ(10節)、フィラデルフィアには、持っているものを固く守れと勧めています(3章11節)。

 そして、悔い改めないときの裁きの言葉が語られます。だから、スミルナとフィラデルフィアにはこれがありません。それから最後に、「勝利を得る者には」(7節など)で始まる祝福の約束が告げられます。

 これらのことから、黙示録において神が教会に望まれること、そして、神に裁かれないよう教会が避けるべきことを学ぶことが出来ます。

 冒頭の言葉(10節)は、「スミルナにある教会」(8節)に書き送られた手紙の一節です。スミルナはエーゲ海に面した港町で、現在はイズミルと呼ばれています。ギリシアの植民地として建設された後、リュディア王アリュアッテスによって滅ぼされたのを、紀元前290年頃、アレキサンダーの後継者リュシマコスにより現在の位置に再建されました。

 スミルナは、紀元前195年にローマの女神のための神殿を建設するなどローマに忠誠を尽しており、ローマが東部地中海沿岸で権力を持つ以前から忠実な同盟国としてその保護を受けていました。公共建築物、医学、科学などが栄え、小アジアで重要な、美しい商業都市の一つとなりました。現在でも、アジアの宝石と評されると聞いたことがあります。

 スミルナにある教会の信徒たちは、苦難と貧しさの中にいたと、9節に記されています。ローマ時代、多くのキリスト者は下級の貧しい階層に属していました。そして、ローマによる弾圧、異教徒による迫害などの苦しみを受けていました。

 黙示録が書かれた当時、ローマ帝国の皇帝ドミティアヌスは自分を神として拝むよう、帝国中で皇帝礼拝を強制していました。スミルナでも皇帝礼拝が盛んになされるようになっていました。そして、皇帝を拝まない者は不忠者として迫害されたのです。キリスト者にとって、大変な受難の時代が始まったわけです。

 パウロの時代には、上に立つ権威に従えといった勧めがなされていますが(ローマ書13章1節など)、黙示録でははっきりとローマ帝国、皇帝と戦う姿勢が打ち出されてきます。戦うといっても武器を取るというのではなく、帝国の命令に不服従、皇帝礼拝に加わらないという戦いです。

 そのため、厳しく迫害されたようです。にも拘らず、そのような弾圧の苦しみの中でも、スミルナ教会の人々は信仰を失うことはありませんでした。むしろ霊的に豊かであり、賞賛に値する信仰生活を守り通したのです。

 どのようにして、スミルナの人々は苦難と貧しさを克服することが出来たのでしょうか。それはまず、彼らの上に主イエスの目が注がれていたからです。9節に「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」と記されています。主が「知っている」と仰っているのです。私たちの苦しみ、悲しみ、困難な状況を、主が知っていてくださるのです。

 主はそれをどのように知られたというのでしょうか。それは、単なる情報としてではありません。8節に「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」と言われます。「最初の者にして、最後の者」というのは、初めから終わりまでずっとおられる方、歴史全体を支配しておられるお方ということです。歴史の支配者として、私たちのことを知っていてくださるのです。

 それだけではありません。「一度死んだが、また生きた方」です。肉体の死を味わわれ、そして甦られたのです。その死も、尋常なものではありませんでした。主イエスは、十字架で肉を裂き、血を流されました。イザヤ書53章3~5節の預言の通り、主イエスが御自分の体で私たちの痛みを負い、病を知られ、そして死なれたのです。

 私たちの苦難を知り、貧しさを知っておられる主イエスが、冒頭の言葉で「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」と語られました。「恐れてはいけない」というのは、私たちが苦難を恐れているからです。「恐れるな」というのは、聖書の中で繰り返し語られるメッセージです。

 「恐れてはいけない」と言われるのは、そう言われる主イエスが、常に私たちと共にいてくださるからです。怖がって泣いている子どもをあやす母親のような、不安で顔を覗き込む子どもたちの前で毅然としている父親のような、平安と希望をお与え下さる主イエスの言葉です。

 スミルナの教会は、信仰に堅く立って試練に立ち向かい、勝利することが出来ました。ドミティアヌスの時代に、教会は信徒の数を3倍にしたという記録もあるそうです。ということは、試練にじっと耐えた、じっと我慢の子であったということではありません。むしろ迫害に毅然と立ち向かい、大胆に主イエスの福音を告げ知らせたのです。

 ところで、スミルナとは没薬という意味です。没薬は、ミルラというカンラン科の潅木の樹幹から滲み出る黄色の樹液を乾燥させて作ります。できあがった没薬を砕き、磨り潰します。すると素晴らしい薫りを放つ没薬になるそうです。そして、良い香りを放つミルラの粉は、没薬として葬りのときに用いられます。

 これは、私たちのことを語っているのではないでしょうか。私たちの中に強い圧迫を感じている人、プレッシャーに押し潰されそうになっている人はいないでしょうか。粉々に打ち砕かれたように感じている人はいないでしょうか。あるいは、死に対する恐れのようなものを感じている人もいるかもしれません。

 なぜ、そのような苦しみを味わわなければならないのでしょうか。どうして神は、そこからすぐに救い出して下さらないのでしょうか。その理由のすべてを知ることは出来ませんが、一つ大切なこととして、私たちがよい香りを放つためであるということが示されます。

 第一ペトロ書5章6節に「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」という御言葉があります。神の強い腕で無理やり頭を抑えられるということです。しかし、それを神の御手の業と信じて、抵抗しないで自らを委ねましょう。神がその御手をもって私たちを高く挙げてくださるからです。

 主よ、黙示録の御言葉を通して、初代のキリスト者がどのような境遇におかれていたか、そこでいかに戦い、勝利したかを学ぶことが出来ます。私たちも主の御言葉に固く留まり、苦難を恐れず命の冠を授けられる勝利者とならせてください。 アーメン



6月21日(水) ヨハネ黙示録1章

「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、さらに、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」 ヨハネの黙示録1章4~5節

 今日からヨハネの黙示録を読み始めます。本書は、旧約聖書のダニエル書と同様、黙示文学と呼ばれる文学形式や思想的内容を持っています。「黙示」とは、「啓示」(アポカリュプシス)という言葉で、神の力によって隠されていたものが露わにされることです。本書は「キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」(1節)です。

 著者は「僕ヨハネ」と自己紹介しています。ヨハネ福音書にも第一から第三のヨハネの手紙にも、署名はありませんでした。福音書や手紙は誤りのないギリシア語で記されているのに対し、黙示録は文章が粗野で文法違反が多々あること、およそ同一人物の著述では有り得ないと言わざるを得ません。

 本書の著者は、小アジアにある七つの教会で指導的な立場にいる預言者です(4節)。その言葉遣いから、ユダヤ人キリスト者でパレスティナ出身の人物でしょう。聖書学者の佐竹明先生は「ヨハネ」は本名だろうと言われました。

 本書が書かれたのは、ローマ皇帝ドミティアヌスの統治時代(紀元81~95年)の終わり頃であったと、イレナエウスの著書『異端者たちへの反論』に記しています。帝国中のすべての民に皇帝礼拝を要求したのはドミティアヌスが最初でしたが、ヨハネは激しく圧迫されている小アジアの諸教会に宛てて、慰めと警告の言葉としてのメッセージを書き送ったのです。

 黙示録の中に「幸い」(マカリオス)という言葉が7回出て来ます(1章3節、14章13節、16章15節、19章9節、20章6節、22章7,14節)。それは、神の祝福は完全だという表現でしょう。

 言い換えれば、私たちはこの神の宣言される「幸いなるかな」という祝福の宣言を聞くために、本書を朗読し、その中に書かれていることを守り行うのです。不従順によって「災い」(黙示録中に16回)を刈り取るのではなく、真理に従って祝福と力を頂きましょう。

 あらためて1節に「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」と記されています。

 本書は、この表題にも拘らず、ずっと誤解されてきました。最大の誤解は、これが遠い未来の終末を見通して預言した書物であるという誤解です。ヨハネは非常に近い未来、「すぐにも起こるはずのこと」というキリストの啓示を天使から受けたと言っているのです。

 上述のとおり、本書の執筆当時、ローマ皇帝ドミティアヌスが帝国中で皇帝礼拝を強制していました。キリスト教徒は皇帝を神として礼拝することを拒否して、大変厳しい迫害を受けていました。男性は処刑され、女性はアフロディテの神殿で娼婦として売春を強要され、子どもは奴隷に売られるという酷い目に遭わされたようです。

 そのような時代に、最後に神が勝利を取られるという信仰のメッセージを伝えて、迫害下にある信徒たちを励まそうとしているのです。

 2節に「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」とあります。「神の言葉とイエス・キリストの証し」とは、ヨハネに伝えられた啓示の内容を示しているとも考えられますが、神の語られた言葉がイエス・キリストにおいて実現した、神の言葉をキリストが証明されたとも解釈出来ます(ルカ福音書1章20,45節、イザヤ書55章11節)。

 主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(ヨハネ福音書18章37節)と言われましたが、その証しをこの世は受け入れず(同1章1節)、十字架につけられました(同19章17節)。けれども、三日目に死を打ち破って甦られたのです(同20章9節など)。

 十字架にかかられる前、主イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(同16章33節)と仰っていました。世に勝ち、罪と死に打ち勝たれたこの主イエスをあらためて思い起こし、信仰を最後まで固く守ろうと励ましているわけです。

 冒頭の言葉(4,5節)のギリシア語原文は、「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」と言ったあとに「恵みと平和があなたがたにあるように」と語られ、それから「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、その御座の前の七つの霊から」と記されています。ここまでが4節です。

 そして5節に「更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから」となっています。このままではあまりに直訳的なので、4節と5節をあわせて、新共同訳にあるような訳文になっているわけです。

 ここで「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(4節)とは、黙示録において父なる神のことを言い表したものです(8節、4章8節など参照)。これは、出エジプト記3章14節の「わたしはある」という言葉を展開したもので、神が過去、現在、未来に存在されるということと共に、不動不変というのではなく、働き続けておられるお方であるという宣言です。

 「七つの霊」とは、「7」が完全数であることから、完全な神の霊、つまり聖霊を指しているものと考えられます(4章5節参照)。また、7という数字で、聖霊の働きの多様さ、あるいは教会に与えられた聖霊の賜物の完全さ、また教会に聖霊が満ちている有様を示しているとも考えられます(5章6節も参照)。

 そして、「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」として、イエス・キリストを紹介します。主イエスは、再臨によって、神が「やがて来られる方」であることを見える形で具現されます。

 また、「(小羊の)七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」という5章6節の表現で、完全な神の霊とはキリストの霊であることを示します。こうして、ヨハネは絵心たっぷりに三位一体の神を描き出しています。

 ヨハネは黙示録が私たちに祝福を告げる書であることを、その初めから示しているわけです。これらのことを心に留めて冒頭の言葉を言い換えてみれば、「ヨハネから、全世界の主にある教会へ。父なる神と、玉座の前におられる聖霊と、真実な預言者、祭司、王として君臨されるイエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」という祝祷になります。

 あらためて、三位一体なる神の恵みをいつもどのように感じているだろう、味わっているだろうと思いました。神はありとあらゆる方法を通して、私を祝福しようとしてくださっています。

 それは、楽しいこと、嬉しいことばかりではないでしょう。しかし、どんなときにも主を仰ぎ、主の祝福を信じたいと思います。今の苦しみも主の恵みに変えられる、いえ、苦しみも主の恵みのうちと信じることが出来れば、本当に幸いです。

 主よ、私たちに真実な助け主として主イエスをお遣わしくださり、さらに、聖霊をお遣わしくださって、私たちの信仰を導き助けていてくださることを感謝します。すぐに御言葉に背いてあなたの愛から離れようとする私たちです。日々御言葉を聴き、御旨に従う幸いを絶えず味わわせてください。 アーメン










6月20日(火) ユダ書

「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」 ユダの手紙20,21節

 本書は、著者の「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダ」から、「父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たち」に宛てて差し出された書簡です。この宛名から見ると、全キリスト教会に向けて書かれたものという印象を受けます。

 著者について、「ヤコブの兄弟であるユダ」と自己紹介しています。ここに言う「ヤコブ」とは、主イエスの兄弟ヤコブを指していると考えられます。すると、ヤコブの兄弟であるユダも、主イエスの兄弟ということになるでしょう(マルコ福音書6章3節)。

 しかしこの著者は、主イエスの「兄弟」とは名乗らず、「僕(ドゥーロス:奴隷の意)」と言います。本書が見事なギリシア語で書かれていること、ユダヤ教の黙示文学に由来する表現が用いられている(6,7,14,15節『エノク書』、9節『モーセの昇天』)ことから、主イエスの兄弟ユダの名を借りた偽書であろうと考えられています。

 ただ、主の兄弟ユダに関して、分かっていることは殆どありません。使徒ではありませんでしたし、重要な役割を担っていたという記録もありません。。17節の言葉から、本書の著者は「使徒」に敬意を持っている人物と考えられます。本書を権威づけるものとして、使徒たちの名ではなく、主の兄弟ユダの名を借りることにしたのは何故か、納得のいく説明を得るのは容易ではありません。

 この手紙も、偽教師たちについての警告のために記されました。偽教師たちについて、「裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している」(4節)と言います。

 「ひそかに紛れ込んで来」たということから、彼らはキリスト者で、他所からやって来た巡回伝道者だったようです。彼らが、霊の働きによって獲得したと主張する「知識」(グノーシス)によって諸教会を惑わしたグノーシス主義者と確定することは出来ませんが、しかし、本書がグノーシス主義者たちとの戦いに有益な働きをしたことは事実です。

 17節以下に、読者に対する「警告と励まし」が記されます。先ず注目させたのは、著者が尊敬の意を示している主イエス・キリストの使徒たちが語った言葉です(17節)。

 それは、「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう」(18節、使徒言行録20章29,30節、第一テモテ4章1節以下、第二テモテ3章1節以下参照)というものです。

 「あざける者ども」は、「分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者」(19節)だと言われます。「この世の命のままに生き」は、「プシュキコイ(魂の人、生まれながらの肉に属する人)」という言葉です。このように非難しているということは、彼ら自身は「霊の人(プネウマティコイ)」と自称し、そうでない人々を「プシュキコイ」といって軽蔑していたのでしょう。

 彼らが霊の人でないこと、霊を持たない者であることは、彼らの生活ぶりを見れば分かる。彼らは神の霊の導きに従って生きているのではなく、自分の欲望の赴くままに動いている。だから、自らを霊の人であるというのは、教会を惑わし分裂を引き起こすための嘘言だというのです。

 そして冒頭の言葉(20節)で「最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい」と語ります。「信仰」とは、聖なる者たちが伝えた信仰、使徒たちが前もって語った言葉です(3,17節)。それを、「神聖にして侵すべからざる教え」という意味で、「最も聖なる信仰」と語っているのです。その信仰に土台して、神の御心に適う真の教会が建てられるからです。

 このことについて、エフェソ書2章20~22節に「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」と語られています。

 このような信仰を土台として、神の御心に適うキリストの体なる教会を建て上げて行くのです。

 信仰生活のよりどころとして使徒たちが語ったのは、三位一体の神のことでした。著者はここに「聖霊の導きの下に祈りなさい」(20節)、「神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(21節)と記しています。

 ここで「神の愛によって自分を守る」が主文です。「守れ(テーレーサテ)」というのは、「守る、見張る(テーレオー)」のアオリスト(不定過去)時制の命令形です。アオリスト時制の命令形とは、継続的な命令ではなく、点的、一回的な命令だということです。

 つまり、守り続けなさいというのではなく、人生に一度なすべきこととして「自分を守れ」と命じられているので、これは、神の救いに与りなさいということでしょう。救われた者が神の愛から漏れることはありませんが、しかし、自ら神に背いて神の恵みを損なうことがあり得るので、自分を守れと言われるのです。

 そのために、聖霊において祈ることと、イエス・キリストの憐れみを待望することが語られます。「祈りなさい」、「待ち望みなさい」は、現在分詞が用いられています。これは、ギリシア語文法で継続的な動作を表します。現在進行形と言ったらよいでしょう。

 つまり、「聖霊において祈りながら」、「イエス・キリストの憐れみを待ち望みながら」、「神の愛によって自分を守りなさい」と命じられていることになります。祈ること、そして主を待ち望むことが、自分を守ることになるわけです。

 あらためて、「聖霊の導きの下に祈れ」と言われます。聖霊の中で、聖霊との交わりのうちに祈りが導かれ、神の恵みに与ります。そして、「主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」と言われます。これは、主イエスが再臨されるとき、憐れみによって救いを完成してくださるという希望を堅く持ち続けるとき、永遠の命の恵みに導かれるのです。

 三位一体なる神に祈りをささげ、救いの完成を待ち望みつつ、神の愛の内を歩ませていただきましょう。

 主よ、御子がこの地上にこられ、十字架によって神の愛を示されました。ここに、私たちの拠り所があります。いつも信仰の原点を見つめ、主の御言葉を聴きます。あなたの愛から離れることがありませんように。御言葉に背くことがありませんように。聖霊の助けと導きをお願いします。主の豊かな憐れみを待ち望みながら。 アーメン



6月19日(月) 第三ヨハネ書

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」 ヨハネの手紙三2節

 第三ヨハネ書は、「長老」ヨハネから「愛するガイオ」に宛てて書かれた私信です。しかしながら、古くからこれも公同書簡に入れられて来ました。「ガイオ」について、新約聖書には、使徒言行録19章29節の「マケドニア人ガイオ」、同20章4節の「デルベのガイオ」、第一コリント書1章14節の「(コリント人)ガイオ」の三人がいます。

 ローマ書16章23節の「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオ」は、コリント人ガイオと同一人物でしょう。本書の宛先となっている「ガイオ」がその三人のうちの一人なのか、それとも4番目のガイオなのか、はっきりしたことは何も分かりません。

 5節に「よそから来た人たち」という言葉があります。これは、単なる旅行者、転入者ではありません。7節に「御名のために旅に出た人たち」とあるように、彼らは各地の教会を旅しながら伝道牧会する巡回伝道者です。第二の手紙12節、第三の手紙14節の言葉から、長老ヨハネ自身も巡回伝道者の一人だったと考えられます。

 当時の教会は、現在のように屋根に十字架のついた礼拝堂が持っていたわけではありません。有力な信徒の家に集まって集会する、「家の教会」だったのです。

 第二の手紙10節に「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません」とありますが、これは、信仰のない人を家に入れるなということではありません。そんなことをすれば、近所づきあいも出来ません。

 そうではなく、キリストの真理の教えを携えて来ない偽預言者を教会の中に迎え入れてはいけないということです。それは、巡回伝道者の中に偽預言者がいて、偽預言者に惑わされる教会があったわけです。だから、第二の手紙7節以下でそのことを警告していたのです。

 9節に「ディオトレフェス」という名前があります。前後の文脈から、彼も家の教会の家主の一人だと考えられます。彼が指導者になりたがっていること、長老ヨハネを受け入れようとせず(9節)、悪意に満ちた言葉でそしるばかりでなく、兄弟たちを受け入れないと言います(10節)。

 この兄弟たちは、5節の「兄弟たち、それもよそから来た人たち」のことで、彼らはヨハネが遣わした巡回伝道者たちでしょう。彼らを受け入れ、世話をしようとしている人たちの邪魔をし、自分の意に沿わない者を追い出しているということですから(10節)、偽預言者に惑わされ、強い影響を受けているのでしょう。

 ヨハネはこの状況を放置することが出来ず、彼の指導に忠実なガイオに宛てて、この手紙を書いたわけです。ガイオはヨハネから「愛する(もの)」(ホ・アガペートス)と呼ばれ、「わたしは、あなたを真に愛しています」(1節)とその信頼ぶりが表現されています。

 冒頭の言葉(2節)は、ガイオのためにささげられた長老ヨハネの祈りです。先ず、「あなたの魂が恵まれているように」と語られます。これは、ヨハネがガイオのために祝福を祈る根拠です。

 魂が恵まれているとはどういうことでしょうか。それは、信仰によるキリストの救いを受けて、神の霊的な祝福に与っていることです。罪が赦され、神の子とされ、永遠の命をいただきました。そこに希望があります。平安があります。

 主イエスを信じたと言いますが、それは私たちの自発的な思いや考えから始まったことではありません。生まれながら主イエスを信じている人、キリストを信じてクリスチャンになりたいと思って生まれてくる人はいません。私たちを信仰に導いたのも神の働きです。

 第一コリント書12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と記されています。「イエスがわたしの主、わたしの神である」という信仰に導いたのは、聖霊と呼ばれる神であるということです。

 主イエスを信じ、受け入れた者には、神の子となる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。だから、神を「父」と呼び、御子イエス・キリストの名で「父」なる神に祈るのです。聖霊は、私たちが神の子であることを保証してくれます。

 ローマ書8章14~16節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神のことする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と言われているとおりです。

 続いてヨハネは、魂に恵みを受けた者が「すべての面で恵まれるように」(2節)と祈ります。「すべての面」に含まれないものはありません。魂や体という私たちの内側のことだけでなく、日常生活、家庭や職場の人間関係、教育の問題、経済の問題などあらゆる面を網羅しています。

 「恵まれる(エウオドオー)」とは、「よい道」という言葉で、もともと旅が無事に終わることを意味し、「成功する、うまくいく」という意味で用いられます。ローマ書1章10節(新改訳)に「道が開かれる」と訳されて用いられています(新共同訳は訳出していないようです)。魂が神の恵みで満ちているように、すべての面で成功するように、うまくいくようにと祈っているのです。

 清貧に甘んずることを尊しとする流れがあり、それを否定するものではありませんが、しかし、聖書の中に、すべての面で成功するように、恵まれるようにという祈りがあることも憶えておくべきです。勿論それは、私たちが誇るためではなく、神の御名が崇められるためです。

 聖霊は、私たちのために、言葉に表せない切なるうめきをもって執り成し祈ってくださるお方です(ローマ書8章26節)。その執り成しの故に、父なる神が万事益となるように働いてくださる(同28節)と言われます。「益となる」のは、神のご計画の中で、神にとって良いことだからです。

 次にヨハネは、魂に恵みを受けた者が「健康であるように」(2節)と祈っています。体を健康に保つことも、信仰の重要な部分であることを知ります。魂が神の恵みで満ちているように、体が健康で満ちているようにと祈ります。ということは、体を欲に任せ、不義の道具として用いるということは、魂が恵まれていないということを表しているのです。

 世界最大規模の教会(信徒数約70万人)を牧会するチョー・ヨンギ牧師は、冒頭の言葉を「三拍子の祝福」と呼び、「三拍子の祝福は、私自身の信仰思想であり、福音宣教の哲学的土台でもあるのです」とその著書で言われています。御言葉と祈りの力です。主の御名を崇めます。

 主よ、私たちが絶えずあなたを仰ぎ、御言葉と祈りを通して、心と魂を恵みで満たしていただくことが出来ますように。そしてその恵みが生活のすべてを潤しますように。また、心と体に健康の恵みをいただくことが出来ますように。その恵みが福音宣教の前進のために用いられますように。そうして主の御名が崇められますように。 アーメン




6月18日(日) 第二ヨハネ書

「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。」 ヨハネの手紙二5節

 第二ヨハネ書は、「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ」(1節)という言葉で始まり、「あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたたちによろしくと言っています」(13節)という結びの言葉で閉じられています。第一の手紙とは違い、初代キリスト教会の手紙の特徴を備えています。

 著者は「長老のわたし」(ホ・プレスビュテロス)と自己紹介していますが、名前を記していません。伝統的に使徒ヨハネとされてはいますが、それならばなぜ「長老」というのか、説明がつきません。使徒とされたゼベダイの子ヨハネではなく、小アジア地方に広く名が知られた「長老ヨハネ」としておきます。第一の手紙と一致する表現が多くあることから、同一著者とされます。


 「選ばれた婦人とその子たちへ」(1節)と宛先が指定されていることから、厳密には「公同書簡」ではないといえそうです。しかし、「選ばれた婦人と子たち」が特定できません。また、宛先の場所が特定されません。そういうことで「公同書簡」とされているのでしょう。

 結びの言葉(13節)の中にも「選ばれた婦人」という表現が用いられています。13節では「あなたの姉妹、選ばれた婦人」というのですから、1節の「選ばれた婦人」とは別の「選ばれた婦人」(13節)がいて、その婦人をあなたの姉妹と呼んでいるわけです。

 「婦人」とは「キュリア」というギリシア語で、ここ以外には出てきません。通常は「グネー」(ヨハネ福音書2章4節など)という言葉が用いられます。宛先の「選ばれた婦人とその子たち」が母親とその子たちという、いわゆる家族を指すとするなら、冒頭の言葉(5節)でその「婦人」に対し、「互いに愛し合いなさい」という掟を守るように「あなたにお願いしたい」とは言わないでしょう。

 この「婦人とその子たち」は一家族ではなく、主にある家族、つまり教会を指すと考えられます。「教会」を意味する「エクレシア」という言葉が女性名詞なので、信徒の集まりである教会を擬人化して「婦人」とよび、教会を構成する信徒たちを「その子たち」と表現したわけです。「選ばれた(エクレクトス)」というのも、「教会(エクレシア)」を連想させる語呂合わせでしょう。

 13節を原文で読むと、そこに「婦人」(キュリア)という言葉はありません。口語訳の「選ばれたあなたの姉妹の子供たちが」というのが直訳的です。それを、宛先への挨拶と似た結びの言葉とするために、「あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たち」と意訳しているのでしょう。いずれにせよ、これは姉妹教会の信徒たちが、よろしくと挨拶を送っているということになります。

 あらためて、冒頭の言葉で著者が教会に要請しているのは、「新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです」。第一ヨハネ書2章にも、このような表現がありました。なぜ単刀直入に、「互いに愛し合いなさい」と言わずに、「新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟」と付け加えるのでしょうか。

 それは、この表現の仕方に著者の意図があるわけです。つまり、自分たちが守るのは、新しく受けたと主張されるようなものではない。キリストの教えに直結し、そこから離れないということです。さらにいうならば、新しく受ける必要はない、互いに愛し合えという教えで十分だということです。というのは、そこに真理があるからで(4節)、真理は不変だからです(2節)。

 真理に歩むとは、主イエスと共に歩むとも言い換えることが出来ます(ヨハネ福音書14章6節参照)。そしてそれが、4,5節で「互いに愛し合いなさい」という掟と関連付けられているというのは、主イエスが新しい掟として与えられたからです(ヨハネ福音書13章34節)。

 そして、そのように命じられただけでなく、十字架で私たちの罪を贖うことにより、主イエスは私たちに愛を示されました。ですから、主の御言葉に従い、主と共に歩む者は、互いに愛し合うのです。

 著者はヨハネ福音書で自分のことを、「イエスの愛しておられた弟子」(13章23節など)と紹介しています。確かにヨハネ文書(福音書、手紙、黙示録)ほど、主イエスの愛を、率直に表現している文書はありません。

 その長老ヨハネに導かれている群れの中から、主イエスの愛から逸脱する者が出るのは、悲しいです。誰よりも愛されたいという思いがエゴとなり、あるいは誰よりも愛されているという驕りが主と主の教会に背く結果となってしまったのでしょうか。

 「キリストの教えを超えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」(9節)と忠告し、「その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます」(9節)と告げるとおり、御言葉に留まり、絶えず十字架の主を拝しましょう。主を愛し、隣人を自分自身のように愛しましょう。互いに愛し合うことが出来るように、御霊の導きと助けを祈り求めましょう。

 主よ、私たちを選び、神の家族としてその交わりの内に入れてくださったことを感謝致します。絶えず目覚めて真理の内を歩むことが出来ますように。世の惑わしや苦難に遭って、御言葉から迷い出ることがありませんように。御言葉にしっかりと踏み留まらせてください。御霊の導きと助けをいつもお与えください。 アーメン




6月17日(土) 第一ヨハネ書5章

「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」 ヨハネの手紙一5章5節

 1節の「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」という言葉は、4章7節で「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」と、愛について語っていたことを、信じるという言葉で語り直したものです。

 イエスがメシア、キリストであると信じる人は、神から生まれたと言われるということは、その認識、信仰は、神がお与えくださったものということです。その認識、信仰を持たない者は、偽り者であり、反キリストだと、2章22,23節に語られていました。

 子どもは、自分を生んでくれた親と、同じ親から生まれてきた兄弟姉妹を愛するもので、それが正常な家族の関係です。だから、神への愛から兄弟姉妹に対する愛が生まれてくるわけです(1節)。4章20,21節では、兄弟姉妹を愛せない者が神を愛せるはずがないと語られていました。

 「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(3節)と言います。「神の掟」とは、「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」(4章21節)という戒めのことです。マタイ22章34節以下に語られていた旧約聖書中「最も重要な掟」として語られていた、神を愛することと隣人を愛することを結び合わせ、「隣人」を「兄弟」と言い換えています。

 「世に打ち勝つ」という言葉が、4,5節に3度語られています。世に打ち勝つというのは、どういうことでしょうか。一度も「世を打ち負かす」と言われていないので、相手をねじ伏せることではないようです。以前の訳は、「世に勝つ」という言葉でしたが、新共同訳は「打ち勝つ」と訳語を変えています。

 「打ち勝つ」には、自分より強い相手に勝つ、困難や苦しみに堪えてそれを乗り越える、克服するという意味があります。ということは、世は自分よりも強い相手であるけれども、世がもたらす困難や苦しみを乗り越えることが出来るということになります。

 世がもたらす困難や苦しみとはどういうものでしょうか。ヨハネは、どのようなことを考えているのでしょうか。前後の文脈から、信仰の弾圧や迫害というものではなさそうです。

 3節で、「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」と語った後、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです」(4節)と、神の掟を守ることが易しいことの根拠として、世に打ち勝つという表現が出て来ます。ということは、神の掟を守らせないように世が働くと考えたらよいでしょう。

 神の掟とは、上述のとおり「兄弟を愛すべきです」(4章21節)という命令であり、主イエスが新しい掟として告げられた「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)という戒めです。この掟に背いて、兄弟を愛することを困難にし、互いに愛し合うのを妨げるのが、世の働きということになります。

 ヨハネが問題にしているのは、教会の外のことではありません。4章4節で「あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました」と言い、同5節に「偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます」と言っています。

 互いに愛し合うことを困難にする偽預言者が教会の中に侵入しており、「偽預言者たちに打ち勝ちました」ということは、この戦いが困難なもの、むしろ自分たちの方が劣勢であったということになります。そして、「世は彼らに耳を傾けます」ということは、彼らの偽の預言に耳を傾ける者が少なくない、むしろ惑わされる者が多かったということです。

 より強く、より賢く、より大きく、より多くを求めて進む競争の中で、勝利者の言葉に人は耳を傾けるでしょう。敗北者の言葉に耳を傾ける人は少ないことでしょう。しかし、多くの者たちを引き連れて出て行った偽預言者、反キリストに惑わされず、キリストの言葉に留まり、その指導者の導きに忠実に、従った人々がいたのです。

 勿論、それは嬉しいことではありません。自分たちの勝利を声高に喧伝するようなことではありません。むしろ痛みです。悲しみです。その痛み、悲しみこそ、主イエスの十字架に通じるものです。

 主イエスの心には、悲しみがありました。ゲッセマネの園で祈りをささげられる際、ペトロたちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ14章34節)と告げられました。主イエスが弟子たちに裏切られ、愛を注いでおられたイスラエルの民に殺されることになるからです。それは、主イエスがイスラエルの民に代わって神の呪いを身に受けること、神に捨てられることでした。

 そして、主イエスの十字架は、自分を裏切り、自分を殺そうとする者に対して、その罪を赦し、人々に神の愛を示すものです。その主イエスこそ神の御子であると信じる信仰に立つ者だけが、世に打ち勝つことが出来る、これが、冒頭の言葉(5節)で告げていることです。

 私たちも主イエスを、神の御子、キリストであると信じました。いつも主に目を留め、主のご愛に心満たされ、それによって愛し合うことを喜びとする者にならせていただきましょう。愛が壊され、信頼が傷つけられるようなこの時代に、この世にねじ伏せられず、むしろ信仰によって悪魔の策略に打ち勝たせていただきましょう。

 主よ、弱い私たちを助けてください。いつの間にか妬みや憎しみが心を満たします。愛すること、信じることが苦しくなります。主の十字架を仰がせてください。私たちを命がけ愛しておられる主の御声をいつも聞かせてください。そこに留まり、愛の光のうちを歩ませてください。神から生まれた者だけが世に打ち勝つからです。 アーメン




6月16日(金) 第一ヨハネ書4章

「イエスが神の子であることを公に言い表す人は誰でも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」 ヨハネの手紙一4章15節

 4章には、「公に言い表す」という言葉が3度出て来ます。初めが2節で「イエス・キリストが肉となってこられたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです」と語られています。次は3節で「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません」と言われます。3度目が冒頭の言葉(15節)です。

 「公に言い表す」は、「ホモロゲオー」(「告白する」の意・口語訳参照)という言葉ですが、「保証する、約束する、同意する、認める、知らせる、公表する」という意味もあります。ここでは、「同意する、認める」あるいは「告げ知らせる」という表現ではないかと思われます。

 イエス・キリストが肉となって来られたということを認めず、ナザレのイエスが神の独り子、メシアであることを告げ知らせない、「反キリストの霊」(3節)によって語る「偽預言者」(5節)がいたようです。2章22,23節でも偽預言者たちが、イエスが神の御子、キリストであることを否定していることが分かります。

 これは、神が罪ある人間になられるはずがない、全知全能の神が苦しまれたり、死なれたりするはずはないという考えに基づく、グノーシス主義と呼ばれる思想でしょう。それは、キリストの十字架の死による贖いや、死からの甦りというキリスト教の福音の中心メッセージを否定するものです。ですから、このような教えを告げ知らせる者が、神の霊によって語る預言者であるはずがないのです。

 著者は彼らを「偽り者」と呼びます(2章22節)。真理なる主イエス・キリスト(ヨハネ福音書14章6節)を否み、その御言葉に留まらないからです。彼らは「自分には罪がない」(1章8節)、「罪を犯したことがない」(同9節)と言っていたようです。そして、彼らの内に真理、神の言葉はないと告げています。

 ということですから、冒頭の言葉(15節)で、「イエスが神の子であることを公に言い表す」というのは、この地上をナザレのイエスとして生き、十字架に贖いの死を遂げられ、三日目に死を打ち破って甦られた方、そして天に上げられ、神の右に座しておられる方が、神の御子であり、私たちのメシアであると認め受け入れること、そしてそれを告げ知らせることということが出来ます。

 この信仰は、勉強すれば分かるというものではないでしょう。どうして、2千年前、イスラエルのベツレヘムに生まれ、エルサレムで十字架に処刑された人が、現代に生きる私たちと関係のあるメシア、救い主であると認識することが出来るでしょう。そして、死人が生き返ったということを科学的に証明するのは不可能です。

 けれども、キリスト者はイエスの贖いの死と甦りを信じ、そして、イエスこそ神の独り子、自分たちの救い主と信じ、告白することが出来るのは、学識などではなく、神の霊の働き、導きなのです(2,13節、第一コリント書12章3節も参照)。

 パウロが「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ書10章9,10節)と言っています。心で信じることも、口で公に言い表すことも、神の霊の導きです。

 エフェソ書1章13節に「真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」とあります。約束された聖霊で証印を押されるとは、聖霊の導きによって信じた主イエスを、神の御子、メシアと告白出来ること、告白し続けることではないかと示されました。

 神の霊の働きを受けて、イエスを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださっているということ、そしてそれは、その人も神の内にとどまっていることなのだと教えられています。

 私たちが神の霊の働きを受けることが出来たのは、そして、それによってイエスを公に言い表すことが出来たのは、それゆえに私たちの内に神が留まってくださり、そして、私たちが神の内に留まらせて頂けるというのは、すべて、神の深い愛のゆえ、憐れみのゆえです。

 16節で「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と言っているのは、そのことです。

 キリストの御言葉の上に信仰によってしっかり立ち、そこから動かされることがないように御霊の助けと導きを祈りましょう。

 主よ、今日も御言葉を知らせ、その教えを頂くことが出来て感謝致します。私たちはいつも主イエスの贖いを必要としている罪人です。絶えず主の十字架を仰がせて下さい。そして、罪赦された喜び、今も生きておられる主と共に歩むことが出来る平安、それをお与えくださる神のご愛を、いつも公に言い表すことが出来ますように。 アーメン




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