風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

9月29日(火) ヨハネ黙示録8章

「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った。」 ヨハネの黙示録8章4節

 小羊が巻物の第七の封印を開きます(1節)。第七の封印は、巻物が開かないように封じていた最後の封印です。封印が開かれたとき、すぐに終末が到来することが期待されましたが、訪れたのは「半時間ほどの沈黙」(1節)でした。「半時間ほど」というのですから、その沈黙は長い時間ではありません。

 天において、その沈黙が起こったというのですから、それまでそこには、騒がしい物音があったということです。それは、次々と封印が開かれて、戦争や飢饉、疫病、地震や雹、火による災いなどが起こっていたからです。けれども、そこに沈黙が起こったのは、最後の封印が開かれたら何が起こるのかと、だれもが固唾をのんでそれを見ようとしたということなのでしょう。

 ヨハネも、天が沈黙に包まれている中で、これから何が起ころうとしているのか注目していたようです。すると、神に仕えている天使たち7人が、神の御前に立ちました。そして、彼らに七つのラッパが与えられました(2節)。

 聖書の中で、ラッパは喜びの表現や(王上1章34節、王下9章13節)、神を賛美するため(詩編47編6節、81編4節、150編3節など)、また警戒信号や(ネヘ4章12節、エレ4章5節など)戦闘開始の合図としても(ヨシュア6章5節、士師3章27節、7章18節など)用いられています。

 ここでは、神に敵対するものに対して、神の裁きが始まる合図として、ラッパが用いられています。そしてそれは、その裁きが始まることを願っていた殉教者たち(6章10節)、そして、選ばれた聖徒たちにとっては(7章3節以下)、神の救いが完成される喜びの表現として受け止められたことでしょう。

 第七の封印が開かれて、七つのラッパの災いが始まるということは、その災いが巻物に記されていたものということであり、小羊によってその封印が開かれたのだから、この災いの主導権が小羊にあるということになります。

 けれども、ラッパが与えられた7人の天使とは「別の天使」(3節)が登場します。手に金の香炉を持っています。そして祭壇のそばに立ちます。これは、「香をたく祭壇」(出エジプト記30章1節以下)です。この天使に多くの香が渡されました。それは「すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げるため」(3節)です。

 ヨハネは冒頭の言葉(4節)のとおり「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った」と記します。5章8節に「四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである」と記されていました。

 金の香炉を手に持つ天使に、聖なる者たちの祈りという多くの香が手渡され、それを玉座の前にある金の祭壇に献げようとしています。香の煙が、神の御前へ立ち上ったというのですから、それは聖なる者たちの祈りが神に届いたということを示しています。

 祈りの内容はどちらの箇所にも明示されていませんが、5章では長老たちが巻物の封印を開く小羊に対する賛美の歌を歌い、6章で封印が開き始められました。8章では七つのラッパの災いが起こされています。これらのことから、恐らく聖なる者たちを苦しめたこの世の悪に対する「血の復讐」(6章10節)を願い求める祈りといってもよいでしょう。

 続いて「天使が香炉を取り、それに祭壇の火を満たして地上に投げつけると、雷、さまざまな音、稲妻、地震が起こり」(5節)ました。雷や稲妻、様々な音などについて、4章5節に「玉座からは、稲妻、さまざま音、雷が起こった」と記されていました。

 これらのことについて、モーセがシナイ山に登って神とお会いしようというとき、同じような出来事が起こっています(出エジプト記19章16節以下)。ということは、雷鳴や稲妻、厚い雲、角笛の音、地震は、神が顕現されたしるしということです。

 祭壇の火を香炉に満たして、それを地上に投げつけたというのは、「火」がしばしば神の裁きの手段として用いられているので(創世記19章24節以下、イザヤ書66章15,16節、エゼキエル書38章19節など)、聖なる者たちの祈り(3,4節、5章8節)や殉教者たちの「血の復讐」を求める叫び(6章10節)に応えて、いよいよ神の裁きが地上に下ることをあらわしているわけです。

 ラッパが吹かれて起こる災いは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際に、モーセを通して表された災いに似ています(出エジプト記7章14節以下)。

 第一のラッパで血の混じった雹と火が地上に投げ入れられ、木や青草を焼きました(7節)。これは、出エジプト記9章13節以下の「雹の災い」に似ています。第二のラッパでは、火の山が海に投げ入れられ、海の水が血に変わって海に住む生き物が死にました(8,9節)。これは、出エジプト記7章14節以下の「血の災い」に似ています。

  第三のラッパでは、燃える星が川の水源の上に落ち、水が苦くなって多くの人が死にました(10,11節)。この星の名は「苦よもぎ」(11節)と言います。これは、出エジプト記にはない災いの表現ですが、エレミヤ書9章14節に「見よ、わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる」という言葉があり、神に背き、バアルに従って歩む頑なな者の裁きが預言されています。

 因みに、1986年4月26日(土)に、「苦よもぎ」という意味の名前を持つ町で大変な事故が起こりました。事故が起きるまで、その町の名を聞いたことはありませんでした。その名前は、ロシア語で「チェルノブイリ=苦よもぎ」と言います。

 原発事後当時、黙示録との関連を語る人が随分たくさんおられました。勿論、その事故は、黙示録の預言の成就などではありません。しかし、原発事故の恐ろしさ、被爆の深刻さという点で、無軌道な原子力開発に警鐘を鳴らしたのは確実です。

 第四のラッパでは、天体が損なわれて暗くなりました(12,13節)。これは、出エジプト記10章21節以下の「暗闇の災い」を思わせます。かくて、出エジプト記のときの災いを模して裁きが描かれていますが、その規模はずっと拡大されていて、地と海と天体の三分の一を損なうまでになっています。

 このような災いから、何を学びますか。それは、私たちが神の声に耳を傾けるべきだということでしょう。それは、神ならぬものに寄り頼んできたことを悔い改めなさいということではないでしょうか。エジプトのファラオが心を頑なにして聞くことを拒んだような愚を、繰り返してはなりません。それは、なお大きな災いが地上に臨み、破滅が人類の上に落ちかかるからです(13節)。

 今一度、神の前に静まりましょう。神の御言葉に耳を傾けましょう。御心を悟り、その導きに従いましょう。それこそ、悔い改めて福音を信ずることです。

 主よ、どうして自然災害が頻繁に起こり、さらに福島の原発事故のようなことが起きるのでしょうか。これらが黙示録の成就だとは思いませんが、重大なメッセージが語られているように思います。幸せを追求して地球規模で自然を破壊し、進歩を追及して心も体もゆとりを失っています。どうか、眠りから目覚めさせてください。何が本当に大切なものなのか、立ち止まって静かに見つめ直し、悔い改めることが出来ますように。 アーメン


9月28日(月) ヨハネ黙示録7章

「この後、わたしが見ていると、身よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊に前に立って、(大声で叫んだ。)」 ヨハネの黙示録7章9節

 巻物の六つの封印が開かれ、様々な災いが起こりました(6章)。その後ヨハネは、大地の四隅に4人の天使が立っているのを見ます(1節)。彼らは、「大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて」います。天使たちには、大地と海を損なうという災いを下すことが許されており(2節)、四隅からその風を吹かせるタイミングを計っているのです。

 そこに、神の刻印を持ったもう一人の天使が登場します(2節)。彼は四人の天使たちに「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」(3節)と大声で呼びかけます。彼は、イスラエルの子らの全部族の中から、14万4千人に刻印を押しました(4節以下)。

 この後、8章には七つ目の封印が開かれて、七人の天使が七つのラッパを持って、新たな災いの舞台の幕が上がります。7章は、巻物の七つの封印のうち六つが開かれ、残り一つとなったところで、幕間劇が始まったという場面です。そこで、上述のとおり14万4千人が神の「刻印」を受けたということでした。

 材木や家畜などには、屋号や飼い主を示す焼印が押されます。神の刻印を受けた人は、神が所有者であることを示すのです。9章4節の言葉から、額に神の刻印を押された者は、世を襲う災いから神によって守られるということが示されます。エゼキエル書9章1節以下、特に4節で語られているのも、このことでしょう。

 また、「刻印」はギリシア語で「スフラギス」と言います。ローマ書4章11節「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」という言葉の「印」が「スフラギス」です。また、第一コリント書9章2節「あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」では「証拠」と訳されています。

 また、「刻印を押す、封印する」という意味の「スフラギゾー」という動詞が、マタイ福音書27章66節、第二コリント書1章22節、エフェソ書1章13節、黙示録7章3,4,5,8節などにあります。

 これらの言葉遣いの中で、「神の刻印」と同様な表現として、第二コリント書1章22節、エフェソ書1章13節、4章30節に、聖霊で証印を押されるという表現があります。それは、アブラハムが信仰によって義とされた証しとして割礼という「印」を受けたように(ローマ書4章11節)、キリストを信じた者が救われて神の子とされ、新しい命が与えられた「印、証拠」を意味しています。

 第一コリント書12章13節に、一つの霊によって、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませてもらったという言葉があります。キリストを信じてバプテスマを受けた者たちは、聖霊によってキリストという一つの体になり、めいめいが聖霊を受けたということです。聖霊の証印を受けた者たちは、聖霊によってキリストの体という教会を形成するという表現でしょう。

 また、刻印を押された人の数は、とても象徴的です。14万4千人はイスラエル12部族から選ばれました。12は完全数です。キリストを信じる者の集い、つまりキリストの教会こそ、神によって選ばれた真のイスラエルだということです(ガラテヤ書3章26~29節、6章16節など)。

 そこに挙げられている部族名を読むと、笑ってしまいます。通常、レビ族(7節)が数えられることはありません。むしろ数えてはならないと言われていました。ヨセフ族(8節)があるのに、マナセ族(6節)が出るのは妙です。そして、ダン族がありません。

 ダン族がここにないのはしかし、単なる記憶違いではありません。士師記17,18章の影響だと思いますが、後期ユダヤ教の教えによれば、ダン族から反メシヤの頭が出て来ると考えられていたのです。

 そうしたことから、ヨハネがここに言う「イスラエル」というのが、正当なユダヤ民族に属する12部族というのではなく、主イエスを信じるすべての人々を「12部族」として、キリスト者こそ真の神の民イスラエルであると言い表しているわけです。

 1部族1万2千人ずつというのは、12の1000倍です。1000は完全数「10」の3乗です。つまり12も10も完全数なので、完全数に完全数の3乗を掛け合わせるということで、これは、考えられないほど大きな数という意味です。

 ということなので、キリストを信じる者の中から、より忠実な信仰者14万4千人を厳選したというようなことでは、決してありません。むしろ、神の愛と憐れみから漏れる者は一人もいない、キリストを信じる者は皆、一人残らず神のしるしが与えられているという宣言といってよいでしょう。

 即ち、冒頭の言葉(9節)の「だれにも数え切れないほどの大群衆」というのが、刻印を押された14万4千人のことでしょう。この大群衆は「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった」と言われており、まさに全世界のすべての主を信じる民、だれにも数え切れないほどの大群衆が、神と御子キリストの前に立っているというのです。

 また、「白い衣を身につけ」(9節)ていると記されています。それは、信仰の戦いを雄々しく戦って勝利を得た者であると、3章5節などに記されておりました。この人々のことについて、14節では「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言われています。

 大きな苦難とは、黙示録が書かれた当時、ローマ皇帝ドミティアヌスによる、キリスト教徒が味わっていた迫害の苦しみを指します。それはしかし、彼らが自分の力で戦いに耐え、勝利を得た、それにより白い衣を獲得したというのではありません。それは、「小羊の血で洗って白くした」と言われているからです。

 「小羊の血」と言えば、過越の出来事を思い起こします。それは、イスラエルの民がエジプトを脱出する際、エジプトに下された最大の災いでした。エジプト中の家の長子が神の御使いに打たれて亡くなりました。ただ、主なる神の命令に従い、小羊の血を家の柱と鴨居に塗っているところは、御使いがパスした、過ぎ越したというので、それを記念して過越祭を祝うのです(出エジプト記12章)。

 ということで、「小羊の血で洗って白くした」とは、小羊の血によって大きな災いから守られたという意味があります。ローマ皇帝による厳しい迫害という苦しみを味わっているキリスト信者が小羊の血で守られる、即ち主イエスが十字架に死なれ、そこで流された血潮によって救われただけでなく、その苦難の中で神に守られ支えられて、信仰を全うすることが出来るということです。

 白い衣を着た大群衆が大声で、「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(10節)と叫び、天使たちが、「アーメン、賛美、栄光、知恵、感謝、誉、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように」(11,12節)と賛美したとありますが、信仰を全うして玉座の前で神を礼拝する群れに加わることが出来ると、ここに予め約束されているのです。

 この世には様々な苦難があります。なぜこのような苦しみを味わわなければならないかと思うことがあります。そういう中で、主イエス・キリストを信じる信仰に導かれているのは、それこそ主の恵みであり、神の祝福なのだとあらためて思います。

 ヨハネが様々な苦難の中で天上を仰ぎ、約束された神の守りを信じ、天使たちと共に凱歌を歌っているように、私たちも絶えず主を仰ぎ、日々御言葉に耳を傾け、常に聖霊の導きに従って前進しましょう。

 主よ、私たちがあなたを選んだのではありません。あなたが私たちを選ばれました。それは、私たちが行って実を結ぶため、その実がいつまでも残るため、そして、皆による祈りがかなえられるためだと言われました。あなたの御心を行うことが出来ますように。そして、御名の栄光を表すことが出来ますように。そのために必要な力と知恵、助けを聖霊をとおして絶えず与えてください。 アーメン


9月27日(日) ヨハネ黙示録6章

「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」 ヨハネの黙示録6章10節

 玉座に座しておられるお方の右手にある、表にも裏にも文字の記されている、七つの封印で封じられた巻物(5章1節)を、御前に進み出た小羊が受け取り(同7節)、その封印を開き始めます。最初の封印が開かれると(1節)、白い馬が現れました(2節)。騎手は弓を持ち、冠が与えられて勝利の上に勝利を得ようと出て行きます(同節)。

 二番目の封印が開かれると(3節)、赤い馬が現れました(4節)。騎手には地上から平和を奪い取って殺し合いをさせる力、大きな剣が与えられます(同節)。

 三番目の封印が開かれると黒い馬が現れ、騎手は手に測りを持っています(5節)。すると、「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな」(6節)という声がありました。

 小麦一コイニクスは約1.1リットルで、大人一人が一日で食する量と言われ、それが一デナリオンとは、かなり高価になっていることを意味します。飢饉や戦乱などによって小麦などの収穫が落ち込み、穀物の値段が高騰しているわけです。

 四番目の封印が開かれると(7節)、青白い馬が現れました(8節)。その騎手の名は「死」といい、陰府を従えていました(同節)。死と陰府には、「地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威」(同節)が与えられます。

 剣や飢饉、疫病による裁きは、エレミヤ書14章11節、エゼキエル書5章12節、14章13節、33章27節などにも預言されています。また、主イエスも終末の徴として、戦争、地震、飢饉、信者の迫害などが起こると教えられました(マルコ福音書13章7節以下など)。

 白馬の騎手に冠が与えられて、勝利の上に勝利を得ようと出て行ったという出来事は(2節)、続く三頭の騎手たちが殺し合いや飢餓などの災いをもたらすために現れたというものと、趣を異にしています。白馬の騎手について様々な解釈がなされていますが、聖書学者の佐竹明先生が、忠実な信徒たちの象徴と見る解釈を提案しておられます。

 信徒たちの勝利とは、艱難の中にあっても最後まで信仰を忠実に守ることによって実現します(2章10節)。忠実な信徒たちの中に既に勝利を味わった者がいます(同13節、6章9~11節)。そして、更にその数が増し加えられ、満たされることが待ち望まれます(11節)。それで、「勝利の上に勝利を得ようと」(2節)と言われていると考えるのです。

 ここに、終末を来たらせる神の御業が始まったわけです。そのとき、信徒たちは塗炭の苦しみをなめていました。信仰のゆえに殉教した人々の魂が祭壇の下から叫んだというのが、冒頭の言葉(10節)です。これは、彼らの魂が陰府に捨て置かれず、神の御前にあることを表しています。

 彼らには「白い衣が与えられ」(11節)ました。3章5節に「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる」とあります。彼らは殺されるという苦しみを受けても、忠実に信仰の証しを立てたのです。だから、神の御前で身にまとう白い衣が与えられたわけです。

 既に勝利を得た者たちが「いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」(10節)と叫んだというのは、今もなお戦いの内にあり、自分たちと同じように殺されようとしている信徒たちために、執り成して叫び祈っているわけです。

 これは、迫害され殺されることは、敗北ではなく勝利だということを味わった人々の祈りです。ということは、主イエスの祈りであるとも言えるでしょう。勝利であるから、苦しんでもよいなどとお考えになっているのではないのです。迫害される者の苦しみをご自分のものとして受け止めながら、いつまでですかと、神の御心を尋ねられたのです。

 それに対する答えは、「殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なおしばらく静かに待つように」(11節)というものでした。その苦痛は永遠のものではないこと、もうすぐ終わるということです。

 試練の内に、苦しみの中にいる人々にとって、この答えは満足出来るものではないでしょう。納得のいく答えであるとは思われません。しかし、この答えにおいて最も苦しんでおられるのが、神ご自身であると思います。ご自分を信じる者が苦しんでいるのです。殺されているのです。

 なぜ、神は待っておられるのでしょうか。なぜ、すぐに裁きを始められないのでしょうか。御国の福音が全世界に宣べ伝えられるのを待っておられるのです(マタイ福音書24章14節)。神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられるわけです(第一テモテ書2章4節)。

 この神の憐れみにより、迫害者であったパウロが伝道者に変えられました。そのパウロも迫害を受け、殉教しました。パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(第二コリント書4章17節)と語り、艱難を恐れないで絶えず主を仰ぎ、信仰に生きよう教えています。

 私たちも神の憐れみに与った者です。絶えず主を信じ、常に主の御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、どうか今苦しみの中にいる方を慰め、励ましてください。私たちが互いに愛し合い、主のご愛を証しすることが出来ますように。あなたから頂いた恵みがいかなるものであるか、いつも思い起こし、救われた原点をしっかりと見つめ、主の御声に従って前進させてください。主の御名が崇められますように。 アーメン


9月26日(土) ヨハネ黙示録5章

「泣くな。見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」 ヨハネの黙示録5章5節

 ヨハネの黙示録を読み、理解する一つの方法は、天上の出来事と地上の人々の状況を対比して考えてみることです。たとえば、4,5章には、天上の玉座の間で行われている礼拝の様子が描かれていますが、地上では、ローマ皇帝ドミティアヌスを神として崇めさせる皇帝礼拝が、皇帝自らの発令で帝国内の民に強要されていました。

 2章13節に「サタンの王座」という言葉がありますが、皇帝礼拝を強要し、それを拒否する者を殺すというのは悪魔的な所行であり、それを命じた皇帝を神として拝ませているという非難の思いを込めた表現です。このような言葉遣いで、皇帝を神として礼拝することを拒否する姿勢を鮮明にしています。

 そして、4章11節で「あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」と賛美をささげて、本当に賛美されるべき方、信じて従うべき方は、天地を創られた唯一の神のみであるという信仰の宣言をしているのです。

 5章では、一つの巻物が話題になります。その巻物は、玉座に座っておられる方の右の手に握られており、表にも裏にも文字が書いてあると、1節に述べられます。そこに何が書かれているのか、本章では明らかになりません。巻物は「七つの封印で封じられて」(同節)いるので、巻物の表裏両面に文字が書かれていると分かったのは何故か、不明と言わざるを得ません。

 6章以下に、巻物の封印を一つずつ解く度に、起こる出来事が描写され、事態が進展していきます。そのことから、本章はその導入の場面として、非常に重要な位置を占めているということになります。

 玉座に座す神の右の手に握られた、表にも裏にも文字が記されている巻物について、エゼキエル書2章9,10節にその表現があり、ヨハネがここにそれを援用したわけです。エゼキエル書の巻物に書かれているのは、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(同10節)で、それはイスラエルの反逆の民に対する神の裁きを意味しています。

 その点は黙示録も同様で、封印が解かれるにつれて、不信の者たちに下される災いが現れます。一方、神の裁きは、信仰者にとっては、救いに近づくしるしとなります。その意味で、神の手に災いの記された巻物が握られているというのは、迫害下にあるキリスト教会にとっては、大いなる希望であり、励ましです。

 ところが4節に、封印された巻物を開くことの出来る者が見当たらないというので、「(著者の)わたし(ヨハネ)は激しく泣いた」という言葉があります。その巻物を封じている七つの封印は(1節)、玉座に座しておられる方の権威の完全さ、だれもそれを犯すことが出来ないということを示しています。

 封印を解いて巻物を開く者がいないことを嘆き悲しむのは、巻物が開かれないので、そこに記されている神の業が現実化しないということだからでしょう。ということは、ローマ皇帝によって迫害されているクリスチャンたちの苦難が、今後も続くことになると考えられ、ヨハネは全信徒を代表するかのようにして、泣いているのです。

 しかし、それは神の権威をもって封じられているのですから、人間がそれを勝手に開くことは許されていません。人間が神の計画を手に入れることは出来ませんし、言うまでもないことですが、神に代わってそれを実現することなど、とうてい出来はしないのです。

 ところがそのとき、冒頭の言葉(5節)のとおり、長老の一人がヨハネに「泣くな」と言いました。「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ」と言われるメシア・主イエスがその巻物を開くことが出来ると言われたのです。

 長老は「ユダ族から出た獅子」と言いましたが、そこに登場して来たのは「屠られたような小羊」(6節)でした。世の中は「獅子」を期待したのですが、「屠られたような小羊」の登場、それが神の計画でした。力で屈服させる王ではなく、人々を罪と死の恐れから解放するために、自らを犠牲とされる愛の王です。

 その愛の力は、死に打ち負かされたりしません。十字架で潰えてしまいませんでした。墓を打ち破って甦られました。このお方が、神の御手にある巻物の封印を解き、救いのご計画を進められる救い主として、私たちに与えられたのです。

 上述の通り、「獅子」ではなく「小羊」が登場してくるところに、この箇所のメッセージがあるでしょう。最も弱いと見えるものが、実は獅子よりも強いものなのです。

 四つの生き物と24人の長老たちは、聖なる者たちの祈りである公を入れた金の鉢と、竪琴を持って、小羊の前にひれ伏し(8節)、新しい歌を歌い始めます(9節)。主イエスのなされた業をほめ讃える賛美の歌です。

 この歌を記しているヨハネは、「彼らは地上を統治します」(10節)と言われているこの地において大変な苦難を味わっています。伝説に従えば、ヨハネはパトモス島に収監されている身で、喜んで歌を歌える、自由に主を礼拝することが出来るという環境にありませんでした。

 けれども、彼はこの地上において自分たちを苦しめているローマの支配の向こうに回し、天上の神の玉座と小羊なる主イエスを見て、罪と死に打ち勝ちって私たちを信仰に生かしてくださる主を、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」(12節)と、高らかに賛美しているのです。

 私たちもこのヨハネの信仰に倣い、イエスを通して賛美のいけにえ、即ち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。

 主よ、私たちに信仰をお与えくださって、心から感謝します。あのベートーベンが、耳が聞こえないというハンディキャップに打ち勝って交響曲第9番「歓喜の歌」を生み出したのは、このような信仰に学んでのものだと思います。私たちにも常に主を仰がせ、絶えず御名をたたえる新しい歌を神に献げさせてください。 アーメン


9月25日(金) ヨハネ黙示録4章

「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」 ヨハネの黙示録4章11節

 4章で場面は天上に移り、開かれた門が見えます。ヨハネは「ここへ上ってこい。この後必ず起こることをあなたに示そう」(1節)という声を聞きます。それは「あの最初の声」というので、1章10節で聞いた声のことでしょう。「ラッパのように響く」というのがその声の特徴で、声の主は、同12節以下の描写から、神の右に座す御子キリストでしょう。

 ヨハネは霊に満たされ、玉座の前に出ます(2節)。玉座に座しているのは、碧玉や赤めのうのような方です(3節)。碧玉、赤めのうは、旧約以来宝石として尊重されていました(出エジプト記28章17節以下、エゼキエル書28章13節など)。ここでは、神の高貴さを表現するために用いられているのでしょう。

 玉座に座しているお方について、イザヤ書6章1節以下、エゼキエル書1章26節以下に前例があります。特にエゼキエルでは、王座がサファイアのように見え(同1章26節)、腰のように見えるところから上は琥珀金が輝いているように見えたとあります(同27節)。これも、神の高貴さの表現でしょう。

 玉座の周りにエメラルドのような虹が輝いているというのは、創世記9章13節の契約のしるしとしての虹を思い出させますが、エゼキエル書1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった」とあり、ヨハネもそれを考えての表現でしょう。「エメラルドのよう」というのも、同様に神の高貴さを表しています。

 玉座から稲妻、様々な音、雷が起こったというのは(5節)、出エジプト記19章16節などにある、シナイ山における神顕現の描写を思い起こします。モーセは、角笛の音が鳴らされたのに応えて山に登りました。ヨハネを天に招くラッパのような声は、それに対応していると見ることが出来ます。

 玉座の前の七つのともし火は(5節)、聖所に置かれた七つ枝の燭台(出エジプト記25章31節以下、40章4節など)を思わせます。また、玉座の前の水晶に似たガラスの海のようなものは、ソロモンが神殿の祭司の庭に置くために作らせた青銅の海(列王記上7章23節以下)を思い起こします。いずれも、神を礼拝する場所に置かれていたものです。

 ただ、「七つのともし火」は、「神の七つの霊」(5節)と説明されます。1章7節にも「玉座の前におられる七つの霊」とあり、これは、聖霊の表現と考えられます。ゼカリヤ書4章2節以下にも七つ枝の燭台の描写があり、それは「ゼルバベルに向けられた主の言葉」(同6節)で、それを「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(同6節)と説明します。

 玉座の周りの白い衣を着た24人の長老は(4節)、星座を神々とするバビロンの占星術と関係があるとする説や、神殿の祭司が24組に分けられていたことや(歴代誌上24章)聖歌隊も24組に分けられていたこと(同25章)に基づいているとする説、また、旧約の12部族、新約の12使徒の数を合わせた旧・新約聖書の代表者という説などがあります。それらが皆影響しているかも知れません。

 ネヘミヤ記9章6節には「天の軍勢はあなたを伏し拝む」と歌われており、玉座の周りに座しているのは、神に仕える天使たちと見ることもできそうです。また、イザヤ書6章2節以下、エゼキエル書1章5節以下によれば、玉座の周りの「四つの生き物」とは、セラフィムのことといってよいでしょう。そうすると、いずれも天的な生物ということになります。

 かくて、ここに描かれているすべてのものは、ヨハネを呼び出した神の御子キリストと玉座の前の「神の七つの霊」と言われる聖霊、そして玉座に座す御父なる神の権威、力、栄光を、天の玉座の前で賛美する表現ということになります。

 セラフィムなる四つの生き物が8節で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」と歌います。イザヤ書6章3節でセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌った出来事の再現のようです。

 そして、24人の長老が玉座の前にひれ伏し、冠を投げ出して(10節)歌ったのが冒頭の賛美の言葉(11節)です。「ひれ伏す」のは相手への最大限の敬意を表す姿勢で、特に神礼拝を言い表すものです。「冠を投げ出す」のも、王に対する尊敬と服従を表す当時の習慣でした。

 ここで、「あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」とは、当時の賛歌の形式の一つだったと言われます。主なる神が賛美を「受けるにふさわしい方」として讃えられるということは、この地上の誰も、その栄誉を受けることは出来ないと言っていることになります。

 また、9節に「栄光と誉れをたたえて感謝をささげると」と言われていましたが、ここでは「栄光と誉れと力を受けるにふさわしい」と、感謝が力に置き換えられたようになっています。「力」は全能の神、万物の支配者としての力です。

 栄光と誉れと力とは、いずれも神に属するもので、神にそれらを与えることができるような者は、どこにも存在しません。「受けるにふさわしい」とは、「栄光と誉れと力」の唯一の所有者であるとの告白、賛美を受けるにふさわしい方だということです。

 唯一賛美を受けるに方である根拠として、「あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」と歌います。万物を創造され、御手の内にすべてを治めておられる方だからこそ賛美すべきであり、そのお方に信頼し、従うべきだというわけです。

 万物が神によって存在し、創造されたと天の玉座の前で歌われたこの歌が、地上ではどのように歌われるでしょうか。万事が順調に運んでいるときには、高揚した思いで歌うことが出来るでしょう。しかし、八方ふさがりのとき、抵抗できない力でねじ伏せられているとき、すべてが神によって造られ、神の支配の中にあると歌うのは、思うほど易しいことではないと思われます。

 けれども、ローマ帝国の圧倒的な権力と支配の前に、八方をふさがれ、ねじ伏せられているようではあるけれども、今ヨハネは、天において、万物は神によって創造されたものであり、すべて神に支配の下にあると歌う24人の長老の姿を見、その歌声を聞いています。そしてヨハネ自らも、この歌を共に歌っているわけです。

 ヘブライ書12章1,2節に「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉があります。

 旧約の証人たち、そして先に召された信仰の先達が、私たちにエールを送っていてくださるのです。常に主を仰ぎ、主に信頼して歩むとき、天の歌声を聞くことが出来るでしょう。そして、私たちも信仰によってその歌声に和すのです。

 逆に、私たちがどのような境遇にあっても主イエスを仰ぎ、賛美を歌うとき、天の軍勢もそれに和して天上と地上で主を讃える賛美の交換がなされるということも出来そうです。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰をもって、主をほめ歌いましょう。 

 主よ、ステファノは殉教直前、天が開かれて、立ち上がっておられる主イエスを見たと言いました。確かにあなたは、信仰の戦いの中にある私たちのために、立ち上がって応援していてくださると信じます。弱い私たちを助けてください。あなたをいつも見上げることが出来ますように。すべてを委ねて主をほめ歌うことが出来ますように。 アーメン


9月24日(木) ヨハネ黙示録3章

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 ヨハネの黙示録3章20節

 3章には、「サルディス」、「フィラデルフィア」、「ラオディキア」という三つの町にある教会への手紙が記されています。14節以下は「アジア州にある七つの教会」(1章4節)の7番目、「ラオディキアにある教会」(14節)に宛てて書き送られた手紙です。

 ラオディキアは、小アジア西部フリギア地方の主要都市の一つで、フィラデルフィアの南東70㎞、エフェソ東150㎞に位置し、メアンデル川の支流リュコス川に面した町です。リュコス川流域には、コロサイ(東約15㎞)とヒエラポリス(北約10㎞)があります。

 紀元前3世紀半ば、セレウコス朝シリアのアンティオコス2世セオスが、ディオスポリスまたはロアスと呼ばれていた町をヘレニズム文化の中心都市として整備し直し、自分の妻のラオディケにちなんでラオディキアと改めました。「ラオディキア」は「ラオス」(民)と「ディケー」(正義)を合わせた「国民の正義、正義の民」といった意味になります。

 ヨセフスによれば、アンティオコス3世が多くのユダヤ人をフリギア、リディア地方に移住させました。ラオディキアの町にも、かなりのユダヤ人が住むようになったと考えられます。紀元前1世紀には、この地方のユダヤ人には宗教の自由が保障され、エルサレムへ献金を送ることも許されていたようです。

 一時、ペルガモン王国の支配下に移りましたが、紀元前133年以降、ローマの支配下に入り、エフェソからシリアへ至る通商路に沿っていたこともあって、商業都市として発展しました。また、ラオディキアは金融都市としても知られ、その経済力は、紀元前60年の大地震で町が崩壊した時、他の町のように皇帝の援助を受けず、市民だけの富で復興したほど豊かでした(17節参照)。

 黒羊毛と毛織物の産地としても有名であり(18節参照)、また、郊外のアットゥダの町で生産されていた「フリギアの粉末」と呼ばれる目薬でもよく知られていました(18節参照)。

 ラオディキアの教会のことについては、コロサイ書2章1節、4章12~16節に既に言及されています。それによれば、コロサイ教会と同様、エパフラスという人物の特別な関心の対象となっています。同1章7節によれば、エパフラスがコロサイ教会の創設者であることが分かります。とすれば、ラオディキアの教会もエパフラスによって創立された可能性が小さくないでしょう。

 パウロがラオディキアの教会に手紙を書いていますが(同4章16節)、それが現在のエフェソ書のことであると考える学者もいます。ただ、黙示録のエフェソにある教会が、パウロによらず、ヨハネの指導によって立てられたと考えられるように、ラオディキアにもパウロやエパフラスたちの働きによらない、ヨハネによる教会があったと考えてよいでしょう。

 ラオディキアには、4世紀までフリギアの司教座がおかれていましたが、中世に入ってイスラムとの戦いで破壊されました。現在のエスキ・ピッサルという小村(トルコのデニズリの西)が、ラオディキアに当ると考えられています。

 他の町の教会への手紙と異なり、ラオディキア教会宛の手紙にだけは教会を賞賛するがなく、「わたしはあなたを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15,16節)と言われます。

 ラオディキア教会の信徒の信仰の「なまぬるさ」に失望したという表現です。そのなまぬるさは、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)と言われるほどです。生活の上で不足がないこと、むしろ豊かに富んでいることに満足して、霊的なこと、信仰のことが全く分かっていないというのです。

 冒頭の言葉(20節)は、現代のキリスト教会の集会などでは、まだ信仰の道に入っていない方々に、主イエスを信じましょう、主イエスとの親しい交わりに入りましょうと勧める言葉として、よく読まれます。しかし、この言葉は、ラオディキアにある教会の信徒たちに向かって語られているのです。これは、どういうことなのでしょう。

 「戸を叩く」のは、受け入れてくれることを求める意思表示ですが、これは、キリストが再臨される合図のことでしょう。「食事を共にする」とは、最も親密な交わりの表現です。キリストが、御声を聞いて従う者たちと食事を共にするという約束をお与えになるということは、やがて来るべき栄光の座に、キリストと共に座に就くことが出来るという約束にほかなりません(21節参照)。

 ここで重要なことは、再臨されるキリストの声を聞き分けて、戸を開くことが出来るように、常日頃から備えておくことです。言い換えれば、忠実な信仰生活を守り続けることが重要だと言われているのです。となれば、「戸を開く」というのは、再臨されたキリストを迎え入れる行為ですが、主の再臨を待ち望みながら忠実な信仰生活を送ることを、そう表現しているということでしょう。

 その備えとして、「火で精錬された金」、「身に着ける白い衣」、「目に塗る薬」をキリストから買うようにと勧告されています(18節)。これは、17節に挙げられたラオディキアの人々の問題を、神の助け、導き、恵みによって解決するためのものです。

 「買う」というのは代価を支払うことですが、キリストに支払う代価とは、キリストを信じること、御言葉に聴き従うことでしょう。キリスト者として歩むことによって、迫害を受けることになるかも知れません。それに耐え忍ぶことも、代価の支払いといって善いでしょう。それはしかし、嫌々の支払いではなく、神の恵みに対する感謝の応答なのです。

 神から離れてどっちつかずの生ぬるさの中にいては、自分の姿をはっきりと知ることが出来なくなります(ヤコブ書1章23,24節参照)。自己満足と怠惰の中に眠り込んでしまいます。だから「熱心に努めよ。悔い改めよ」(19節)と言われるのです。

 再臨される主を待望することを忘れ、戸を叩いておられる主の御声が分からず、扉を開き損なった者は、やがて天の扉が閉ざされるとき、締め出される者となってしまいます。絶えず目覚めて主の御声を聴き、悔い改めて主の御言葉に聴き従いましょう。主との親しい交わりのうちに、主の祝福が注がれてきます。主に栄光を帰し、御名を高らかに賛美しましょう。

 主よ、あなたの深い恵みと憐れみを心から感謝します。戸を叩かれる主の御声を聞き逃すことがないよう、日々あなたの御言葉に耳を傾けます。聖霊の導きのもと、御言葉の恵みを味わいます。そして、祈りと賛美をささげます。弱い者ですが、主を知る者とされたことを喜び、その恵みを証しし続ける者とならせてください。 アーメン


9月23日(水) ヨハネ黙示録2章

「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」 ヨハネの黙示録2章10節

 2,3章には、「アジア州にある七つの教会」(1章4節)に宛てた手紙が書き記されています。ヨハネの指導している教会がアジア州に七つあり、「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(同11節)という神の御声を聴いたのです。

 ラオディキアの近くにコロサイがあり、そこにも教会がありますが(コロサイ書参照)、それがここに数えられていないのは、ヨハネの指導する教会ではないからです。そういう点では、「エフェソにある教会」(1節)も、パウロが設立した教会とは別のものと言ってよいでしょう。

 「七」は完全数で、これで全世界の教会を代表しているのではないかという説もありますが、それは上記の通り、コロサイが挙げられていないなど、問題があります。アジア州の七つの教会がヨハネの指導するすべてであり、ヨハネが、それらによってこの世における完全な教会を形成しているものと考えていたのでしょう。

 エフェソ、スミルナ、ペルガモンは地中海沿岸の港町で、南から順にその名が挙げられています。そして、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアは内陸部の町で、ペルガモンから南東にのびる街道沿いにあり、北から順に並べられています。

 パトモス島から一番近いところにエフェソがあり、ここから時計回りに七つの教会を巡ることが出来ます。七つの教会がこの順番に並べられているということは、本書がこの順序で回覧されることを念頭に置いているということでしょう。

 七つの教会に宛てて書かれる手紙には、共通の特徴があります。それは、最初に語り手の神の御子キリストのことが、様々な言葉で紹介されます。次いで「知っている」(2節など)という言葉で綴られる、教会に対する賞賛の言葉が記されます。

 次に、「しかし、あなたに言うべきことがある」(4節など)と、叱責の言葉が述べられます。ただし、初めから二番目のスミルナと、終わりから二番目のフィラデルフィアの教会への手紙には、叱責の言葉がありません。

 その次は、悔い改めを勧告する言葉です。ただ、叱責の言葉が記されなかった二つの教会のうち、スミルナには、苦難を恐れず、死に至るまで忠実であれと命じ(10節)、フィラデルフィアには、持っているものを固く守れと勧めています(3章11節)。

 そして、悔い改めないときの裁きの言葉が語られます。勿論、スミルナとフィラデルフィアには、これはありません。それから最後に、「勝利を得る者には」(7節など)で始まる祝福の約束が告げられます。

 これらのことから、黙示録において神が教会に望まれること、そして、神に裁かれないよう教会が避けるべきことを学ぶことが出来ます。

 冒頭の言葉(10節)は、「スミルナにある教会」(8節)に書き送られた手紙の一節です。スミルナはエーゲ海に面した港町で、現在はイズミルと呼ばれています。ギリシアの植民地として建設された後、リュディア王アリュアッテスによって滅ぼされましたが、紀元前290年頃、アレキサンダー大王の後継者リュシマコスにより、現在の位置に再建されました。

 スミルナは、紀元前195年にローマの女神のための神殿を建設するなど、ローマに忠誠を尽しており、ローマが東部地中海沿岸で権力を持つ以前から、忠実な同盟国としてその保護を受けていました。発展した科学とぶどう酒の貿易などで繁栄し、小アジアで重要な、美しい商業都市の一つとなりました。現在でも、アジアの宝石と評されると聞いたことがあります。

 スミルナにある教会の信徒たちは、苦難と貧しさの中にいたと、9節に記されています。ローマ時代、多くのキリスト者は下級の貧しい階層に属していました。そして、ローマによる弾圧、異教徒による迫害などの苦しみを受けていました。

 黙示録が書かれた当時、ローマ帝国の皇帝ドミティアヌスは自分を神として拝むよう、帝国中で皇帝礼拝を強制していました。スミルナでも皇帝礼拝が盛んになされるようになっていました。皇帝を拝まない者は、不忠者として迫害されたのです。キリスト教会にとって、大変な受難の時代が始まったわけです。

 パウロの時代には、上に立つ権威に従えといった勧めがなされていますが(ローマ書13章1節など)、黙示録でははっきりとローマ帝国、皇帝と戦う姿勢が打ち出されてきます。戦うといっても武器を取るというのではなく、帝国の命令に不服従、皇帝礼拝に加わらないという戦いです。

 そのため、厳しく迫害されたようです。にも拘らず、そのような弾圧の苦しみの中でも、スミルナ教会の人々は信仰を失うことはありませんでした。むしろ霊的に豊かであり、賞賛に値する信仰生活を守り通したのです。

 どのようにして、スミルナの人々は苦難と貧しさを克服することが出来たのでしょうか。それはまず、彼らの上に主イエスの目が注がれていたからです。9節に「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている」と記されています。主が「知っている」と仰っているのです。私たちの苦しみ、悲しみ、困難な状況を、主が知っていてくださるのです。

 主はそれをどのように知られたというのでしょうか。それは、単なる情報としてではありません。8節に「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」と言われます。「最初の者にして、最後の者」というのは、初めから終わりまでずっとおられる方、歴史全体を支配しておられるお方ということです。歴史の支配者として、私たちのことを知っていてくださるのです。

 それだけではありません。「一度死んだが、また生きた方」です。肉体の死を味わわれ、そして甦られたのです。その死も、尋常なものではありませんでした。主イエスは、十字架で肉を裂き、血を流されました。イザヤ書53章3~5節の預言の通り、主イエスが御自分の体で私たちの痛みを負い、病を知られ、そして死なれたのです。

 私たちの苦難を知り、貧しさを知っておられる主イエスが、冒頭の言葉で「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」と語られました。「恐れてはいけない」と言われるのは、私たちが苦難を恐れているからです。「恐れるな」というのは、聖書の中で繰り返し語られるメッセージです。

 そう言われて、恐れずにいられる私たちではありません。主イエスがそう言われるのは、主イエスが常に私たちと共にいて、不安や恐れから解放してくださるということです。さながら、怖がって泣いている子どもをあやす母親のような、不安で顔を見合わせている子どもたちの前で毅然としている父親のような、平安と希望をお与えくださる主イエスの言葉です。

 スミルナの教会は、信仰に堅く立って試練に立ち向かい、勝利することが出来ました。ドミティアヌス帝の時代に、教会は信徒の数を3倍にしたという記録もあるそうです。ということは、試練にじっと耐えた、じっと我慢の子であったということではありません。むしろ迫害に毅然と立ち向かい、大胆に主イエスの福音を告げ知らせたのです。

 ところで、スミルナとは没薬という意味です。没薬は、ミルラというカンラン科の潅木の樹幹から滲み出る黄色の樹液を乾燥させて作ります。できあがった没薬を砕き、磨り潰します。すると素晴らしい薫りを放つ没薬になるそうです。そして、良い香りを放つミルラの粉は、没薬として葬りのときに用いられます。

 これは、私たちのことを語っているのではないでしょうか。私たちの中に強い圧迫を感じている人、プレッシャーに押し潰されそうになっている人はいないでしょうか。粉々に打ち砕かれたように感じている人はいないでしょうか。あるいは、死に対する恐れのようなものを感じている人もいるかもしれません。

 なぜ、そのような苦しみを味わわなければならないのでしょうか。どうして神は、そこからすぐに救い出してくださらないのでしょうか。その理由のすべてを知ることは出来ませんが、一つ大切なこととして、私たちがキリスト者としてのよい香りを放つためであるということが示されます。

 第一ペトロ書5章6節に「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」という御言葉があります。神の強い腕で無理やり頭を抑えられるということです。しかし、それを神の御手の業と信じて、抵抗しないで自らを委ねましょう。神がその御手をもって私たちを高く挙げてくださるからです。

 日ごとに、聴くべき主の御言葉に耳を傾けましょう。御言葉を通して自分に語りかけられている主の御心を弁え、それを忠実に守り行うことができるよう、聖霊の導きを祈りましょう。 

 主よ、黙示録の御言葉を通して、初代のキリスト者がどのような境遇におかれていたか、そこでいかに戦い、勝利したかを学ぶことが出来ます。私たちも聴いた主の御言葉に固く留まり、どんなときにも苦難を恐れず忠実に歩んで、命の冠を授けられる勝利者とならせてください。 アーメン


9月22日(火) ヨハネ黙示録1章

「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、さらに、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」 ヨハネの黙示録1章4~5節

 今日からヨハネの黙示録を読み始めます。本書は、旧約聖書のダニエル書と同様、黙示文学と呼ばれる文学形式や思想的内容を持っています。「黙示」とは「啓示」(アポカリュプシス)という言葉で、神の力によって隠されていたものが露わにされることです。

 本書は、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも怒るはずのことを、神がその下織部たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」(1節)だと言います。

 本書の著者は「僕ヨハネ」と自己紹介し、2節で「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」と告げています。ヨハネ福音書やヨハネの手紙一、二、三に、署名はありません。また福音書や手紙は誤りのないギリシア語で記されていますが、黙示録は文章が粗野で文法違反が多々あり、およそ同一人物の著述では有り得ません。

 本書は、「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」(4節)宛てられた手紙という体裁をとっており、著者が七つの教会で指導的な立場にいることが分かります。その言葉遣いから、ユダヤ人キリスト者でパレスティナ出身の人物と考えられます。聖書学者の佐竹明先生は、「ヨハネ」は本名だろうと仰っています。

 本書が書かれたのは、ローマ皇帝ドミティアヌスの統治時代(紀元81~95年)の終わり頃であったと、イレナエウスの著書『異端者たちへの反論』に記されています。帝国中のすべての民に皇帝礼拝を要求したのはドミティアヌスが最初でしたが、ヨハネは激しく圧迫されている小アジアの諸教会に宛てて、慰めと警告の言葉としてのメッセージを書き送ったのです。

 黙示録の中に「幸い」(マカリオス)という言葉が7回出て来ます(1章3節、14章13節、16章15節、19章9節、20章6節、22章7,14節)。「7」が完全数であることから、神が授けてくださる「幸い」、お与えくださる祝福は、完全なものだという表現でしょう。

 言い換えれば、私たちは主なる神が告げられる「幸いなるかな」という祝福の宣言を聞くために、本書を朗読し、その中に書かれていることを守り行うのです。不従順によって「災い」(黙示録中に16回)を収穫するのではなく、真理に従って祝福と力に与りましょう。

 あらためて1節に「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」と記されています。

 本書は、この表題にも拘らず、ずっと誤解されてきました。最大の誤解は、これが遠い未来の終末を見通して預言した書物であるという誤解です。ヨハネは非常に近い未来、「すぐにも起こるはずのこと」というキリストの啓示を、主イエスが遣わされた天使から受けたと言っているのです。

 上述のとおり、本書の執筆当時、ローマ皇帝ドミティアヌスが帝国中で皇帝礼拝を強制していました。キリスト教徒は皇帝を神として礼拝することを拒否して、大変厳しい迫害を受けていました。男性は処刑され、女性はアフロディテの神殿で娼婦として売春を強要され、子どもは奴隷に売られるという酷い目に遭わされたようです。

 そのような時代に、最後に神が勝利を取られるという信仰のメッセージ(18章1節以下)を伝えて、迫害下にある信徒たちを、最後まで主に忠実たれ、命の冠を勝ち取れと励しているのです(2章10節など参照)。

 2節に「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」とあります。「神の言葉とイエス・キリストの証し」とは、ヨハネに伝えられた啓示の内容を示しているとも考えられますが、神の語られた言葉がイエス・キリストにおいて実現した、神の言葉をキリストが証明されたとも解釈出来ます(ルカ福音書1章20,45節、イザヤ書55章11節)。

 主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(ヨハネ福音書18章37節)と言われましたが、その証しをこの世は受け入れず(同1章1節)、十字架につけられました(同19章17節)。けれども、三日目に死を打ち破って甦られたのです(同20章9節など)。

 十字架にかかられる前、主イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(同16章33節)と仰っていました。世に勝ち、罪と死に打ち勝たれたこの主イエスをあらためて思い起こし、信仰を最後まで固く守ろうと励ましているわけです。

 冒頭の言葉(4,5節)のギリシア語原文は、「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」と言ったあとに「恵みと平和があなたがたにあるように」と語られ、それから「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、その御座の前の七つの霊から」と記されています。ここまでが4節です。

 そして5節に「更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから」となっています。このままではあまりに直訳的なので、4節と5節をあわせて、新共同訳にあるような訳文になっているわけです。

 ここで「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(4節)とは、黙示録において父なる神のことを言い表したものです(8節、4章8節など参照)。これは、出エジプト記3章14節の「わたしはある」という言葉を展開したもので、神が過去、現在、未来に存在されるということと共に、不動不変というのではなく、働き続けておられるお方であるという宣言です。

 「七つの霊」とは、完全な神の霊、つまり聖霊を指しているものと考えられます(4章5節参照)。また、「7」という数字で、聖霊の働きの多様さ、あるいは教会に与えられた聖霊の賜物の完全さ、また教会に聖霊が満ちている有様を示しているとも考えられます(5章6節も参照)。

 そして、「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」として、イエス・キリストを紹介します。主イエスは、再臨によって、神が「やがて来られる方」であることを見える形で具現されます。

 また、「(小羊の)七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」という5章6節の表現で、完全な神の霊とはキリストの霊であることを示します。こうして、ヨハネは絵心たっぷりに三位一体の神を描き出しています。

 ヨハネは、黙示録が私たちに祝福を告げる書であることを、その初めから示しているわけです。これらのことを心に留めて冒頭の言葉を言い換えてみれば、「ヨハネから、全世界の主にある教会へ。父なる神と、玉座の前におられる聖霊と、真実な預言者、祭司、王として君臨されるイエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」という祝祷になります。

 あらためて、三位一体なる神の恵みをいつもどのように感じているだろう、味わっているだろうと思いました。神はありとあらゆる方法を通して、私を祝福しようとしてくださっています。

 それは、楽しいこと、嬉しいことばかりではないでしょう。しかし、どんなときにも主を仰ぎ、主の祝福を信じたいと思います。今の苦しみも主の恵みに変えられる、いえ、苦しみも主の恵みのうちと信じることが出来れば、本当に幸いです。

 主よ、私たちに真実な助け主として主イエスをお遣わしくださり、さらに、聖霊をお遣わしくださって、私たちの信仰を導き助けていてくださることを感謝します。すぐに御言葉に背いてあなたの愛から離れようとする私たちです。日々御言葉を聴き、御旨に従う幸いを絶えず味わわせてください。 アーメン


9月21日(月) ユダ書

「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」 ユダの手紙20,21節

 本書は、著者の「イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダ」から、「父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たち」に宛てて差し出された書簡です。この宛名から見ると、全キリスト教会に向けて書かれたものという印象を受けます。

 著者について、「ヤコブの兄弟であるユダ」と自己紹介しています。ここに言う「ヤコブ」とは、主イエスの兄弟ヤコブを指していると考えられています。すると、ヤコブの兄弟であるユダも、主イエスの兄弟ということになるでしょう(マルコ福音書6章3節)。

 しかしこの著者は、主イエスの「兄弟」とは名乗らず、「僕(ドゥーロス:奴隷の意)」と言います。本書が見事なギリシア語で書かれていること、ユダヤ教の黙示文学に由来する表現が用いられている(6,7,14,15節『エノク書』、9節『モーセの昇天』)ことなどから、主イエスの兄弟ユダの名を借りた偽書であろうと考えられています。

 ただ、主イエスの兄弟ユダに関して、分かっていることは殆どありません。ユダは使徒ではありませんでしたし、エルサレム教会の柱として重んじられた兄弟ヤコブ(ガラテヤ書1章19節、2章9節、使徒言行録15章13節以下など参照)とは違い、教会で重要な役割を担っていたという記録もありません。

 17節の言葉から、本書の著者は「使徒」に敬意を持っている人物と考えられます。その意味で、本書を権威づけるものとして、使徒たちの名ではなく、主の兄弟ユダの名を借りることにしたのは何故か、納得のいく説明を得るのは容易ではありません。

 この手紙も、偽教師たちについて警告するために記されています。偽教師たちについて、「裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している」(4節)と言います。

 「ひそかに紛れ込んで来」たということから、彼らはキリスト者で、他所からやって来た巡回伝道者だったようです。彼らのことを、霊の働きによって獲得したと主張する「知識」(グノーシス)によって諸教会を惑わしたグノーシス主義者と確定出来るかどうか分かりませんが、それでも、本書がグノーシス主義者たちとの戦いに有益な働きをしたことは、事実です。

 17節以下に、読者に対する「警告と励まし」が記されます。先ず注目させたのは、著者が尊敬の意を示している主イエス・キリストの使徒たちが語った言葉で(17節)、「終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう」(18節、使徒言行録20章29,30節、第一テモテ4章1節以下、第二テモテ3章1節以下参照)というものです。

 「あざける者ども」について、「分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者」(19節)だと言われます。「この世の命のままに生き」は、「プシュキコイ(生まれながらの肉に属する人)」という言葉です。そのように偽教師たちを非難しているということは、彼ら自身は「霊の人(プネウマティコイ)」と自称し、他の人々を「プシュキコイ」と嘲っていたのでしょう。

 彼らが「霊の人」でないこと、霊を持たない者であることは、彼らの生活ぶりを見れば分かります。彼らは神の霊の導きに従って生きているのではなく、自分の欲望の赴くままに動いています。だから、自らを「霊の人」であるというのは、教会を惑わし、分裂を引き起こすための嘘言だというのです。

 そして冒頭の言葉(20節)で「最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい」と語ります。「聖なる信仰」とは、聖なる者たちが伝えた信仰、使徒たちが前もって語った言葉のことです(3,17節)。それを、「神聖にして侵すべからざる教え」という意味で、「最も聖なる信仰」と語っているのです。その信仰に土台して、神の御心に適う真の教会が建てられるからです。

 このことについて、エフェソ書2章20~22節に「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」と語られています。

 このような信仰を土台として、神の御心に適うキリストの体なる教会を建て上げて行くのです。信仰生活の拠り所として使徒たちが語ったのは、三位一体の神のことです。著者は、ここに「聖霊の導きの下に祈りなさい」(20節)、「神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(21節)と記しています。

 ここで「神の愛によって自分を守る」が主文です。「守れ(テーレーサテ)」というのは、「守る、見張る(テーレオー)」のアオリスト(不定過去)時制の命令形です。アオリスト時制の命令形とは、ギリシア語文法の約束として、継続的な命令ではなく、点的、一回的な命令だということです。

 つまり、守り続けなさいというのではなく、人生に一度なすべきこととして「自分を守れ」と命じられているので、これは、神の救いに与りなさいということでしょう。救われた者が神の愛から漏れることはありませんが、しかし、自ら神に背いて神の恵みを損なうことがあり得るので、自分を守れと言われるのです。

 そのために、聖霊において祈ることと、イエス・キリストの憐れみを待望することが語られます。「祈りなさい」、「待ち望みなさい」は、現在分詞が用いられています。これは、ギリシア語文法で継続的な動作を表します。現在進行形と言ったらよいでしょう。

 つまり、「聖霊において祈りながら」、「イエス・キリストの憐れみを待ち望みながら」、「神の愛によって自分を守りなさい」と命じられていることになります。祈ること、そして主を待ち望むことが、自分を守ることになるわけです。

 あらためて、「聖霊の導きの下に祈れ」と言われます。聖霊の中で、聖霊との交わりのうちに祈りが導かれ、神の恵みに与ります。そして、「主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」と言われます。これは、主イエスが再臨されるとき、憐れみによって救いを完成してくださるという希望を堅く持ち続けるとき、永遠の命の恵みに導かれるのです。

 三位一体なる神に祈りをささげ、救いの完成を待ち望みつつ、神の愛の内を歩ませていただきましょう。

 主よ、御子がこの地上にこられ、十字架によって神の愛を示されました。ここに、私たちの拠り所があります。いつも信仰の原点を見つめ、主の御言葉を聴きます。あなたの愛から離れることがありませんように。御言葉に背くことがありませんように。聖霊の助けと導きをお願いします。主の豊かな憐れみを待ち望みながら。 アーメン


9月20日(日) 第三ヨハネ書

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」 ヨハネの手紙三2節

 第三ヨハネ書は、「長老」ヨハネから「愛するガイオ」に宛てられた私信です。しかしながら、古くからこれも公同書簡に入れられて来ました。「ガイオ」について、新約聖書には、使徒言行録19章29節の「マケドニア人ガイオ」、同20章4節の「デルベのガイオ」、第一コリント書1章14節の「(コリント人)ガイオ」の三人がいます。

 ローマ書16章23節の「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオ」は、コリント人ガイオと同一人物でしょう。本書の宛先となっている「ガイオ」がその三人のうちの一人なのか、それとも4番目のガイオなのか、はっきりしたことは何も分かりません。ただ、長老ヨハネとの関係で、第4のガイオの可能性が最も高いと思われます。

 5節に「よそから来た人たち」という言葉があります。これは、単なる旅行者、転入者ではありません。7節に「御名のために旅に出た人たち」とあるように、彼らは各地の教会を旅しながら伝道牧会する巡回伝道者です。第二の手紙12節、本書14節の言葉から、長老ヨハネ自身も巡回伝道者の一人で、その中で指導的立場だったと考えられます。

 当時の教会は、現在のように屋根に十字架のついた礼拝堂が持っていたわけではありません。有力な信徒の家に集まって集会する、「家の教会」だったのです。

 第二の手紙10節に「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません」とありますが、これは、信仰のない人を家に入れるなということではありません。そんなことをすれば、近所づきあいも出来ません。

 そうではなく、キリストの真理の教えを携えて来ない偽預言者を教会の中に迎え入れてはいけないということです。それは、巡回伝道者の中に反キリスト、偽預言者がいて、偽りの教えに惑わされる信徒たちがいたわけです。だから、第二の手紙7節以下でそのことを警告していたのです。

 9節に「ディオトレフェス」という名前があります。前後の文脈から、彼も家の教会の家主の一人だと考えられます。彼が指導者になりたがっていること、長老ヨハネを受け入れようとせず(9節)、悪意に満ちた言葉でそしるばかりでなく、兄弟たちを受け入れないと言います(10節)。

 この兄弟たちは、5節の「兄弟たち、それもよそから来た人たち」のことで、彼らはヨハネが遣わした巡回伝道者たちでしょう。彼らを受け入れ、世話をしようとしている人たちの邪魔をし、自分の意に沿わない者を追い出しているというのですから(10節)、ヨハネの指導から離れ、教会を自分の意のままにしたかったのでしょう。あるいは、偽預言者の強い影響を受けていたのかも知れません、

 ヨハネはこの状況を放置することが出来ず、彼の指導に忠実なガイオに宛てて、この手紙を書いたわけです。ガイオはヨハネから「愛する(者)」(ホ・アガペートス)と呼ばれ、「わたしは、あなたを真に愛しています」(1節)とその信頼ぶりを表明されています。

 冒頭の言葉(2節)は、ガイオのためにささげられた長老ヨハネの祈りです。先ず、「あなたの魂が恵まれているように」と語られます。これは、ヨハネがガイオのために祝福を祈る根拠です。

 魂が恵まれているとはどういうことでしょうか。それは、信仰によるキリストの救いを受けて、神の霊的な祝福に与っていることでしょう。罪が赦され、神の子とされ、永遠の命をいただきました。そこに希望があります。平安があります。

 主イエスを信じたと言いますが、それは私たちの自発的な思いや考えから始まったことではありません。生まれながら主イエスを信じている人、キリストを信じてクリスチャンになりたいと思って生まれてくる人はいません。私たちを信仰に導いたのも、主なる神の働きです。

 第一コリント書12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と記されています。「イエスがわたしの主、わたしの神である」という信仰に導いたのは、聖霊と呼ばれる神であるということです。

 主イエスを信じ、受け入れた者には、神の子となる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。だから、神を「父」と呼び、御子イエス・キリストの名で「父」なる神に祈るのです。聖霊は、私たちが神の子であることを保証してくれます。

 ローマ書8章14~16節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神のことする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と言われているとおりです。

 続いてヨハネは、魂に恵みを受けた者が「すべての面で恵まれるように」(2節)と祈ります。「すべての面」に含まれないものはありません。魂や体という私たち自身のことだけでなく、日常生活、家庭や職場の人間関係、仕事や教育、経済の問題などあらゆる面を網羅しています。

 「恵まれる(エウオドオー)」とは、「よい道を行く」という言葉で、もともと旅が無事に終わることを意味し、「成功する、うまくいく」という意味で用いられます。新改訳聖書のローマ書1章10節に「道が開かれる」と訳されて用いられています(新共同訳は訳出していないようです)。魂が神の恵みで満ちているように、すべての面で成功するように、うまくいくようにと祈っているのです。

 清貧に甘んずることを尊しとする流れがあり、それを否定するものではありませんが、しかし、聖書の中に、すべての面で成功するように、恵みで満たされるようにという祈りがあることも、憶えておくべきです。勿論それは、私たちが自分の業績、持ち物など誇るためではなく、恵みを豊かにお与えくださる神の御名が崇められるためです。

 聖霊は、私たちのために、言葉に表せない切なるうめきをもって執り成し祈ってくださるお方です(ローマ書8章26節)。その執り成しの故に、父なる神が万事益となるように共に働いてくださる(同28節)と言われます。「益となる」のは、神のご計画の中で、神にとって良いことだからです。

 次にヨハネは、魂に恵みを受けた者が「健康であるように」(2節)と祈っています。体を健康に保つことも、信仰の重要な部分であることを知ります。魂が神の恵みで満ちているように、体が健康で満ちているようにと祈ります。ということは、体を欲に任せ、不義の道具として用いるということは、魂が恵まれていないということを表しているのです。

 世界最大規模の教会(信徒数約70万人)を創立されたチョー・ヨンギ牧師は、冒頭の言葉を「三拍子の祝福」と呼び、「三拍子の祝福は、私自身の信仰思想であり、福音宣教の哲学的土台でもあるのです」とその著書で仰っています。この御言葉と祈りの力で、教会が形成されたというのです。主の御名を崇めます。

 恵みを豊かに注ぎ与えてくださる主を仰ぎ、魂が恵みで満ちあふれるごとく、あらゆる面で祝福に与り、心も体も霊も常に健やかで充実した日々を過ごせるよう祈りましょう。

 主よ、私たちが絶えずあなたを仰ぎ、御言葉と祈りを通して、心と魂を恵みで満たしていただくことが出来ますように。そしてその恵みが生活のすべてを潤しますように。また、心と体に健康の恵みをいただくことが出来ますように。その恵みが福音宣教の前進のために用いられますように。そうして主の御名が崇められますように。 アーメン


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