風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

7月25日(火) 創世記13章

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」 創世記13章14,15節

 新共同訳聖書は13章に「ロトとの別れ」という小見出しをつけています。ロトは、アブラムの兄ナホルの子、つまりアブラムの甥にあたります。これから、アブラムとロトが別れ別れになるということです。
 1節に「アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった」と記されています。12章10節以下、イスラエル南部のネゲブ地方にいたアブラムは、ひどい飢饉にあってエジプトに逃れました(同10節)。

 そのときアブラムは、妻サライが美しいので(同11節)、殺されてしまうかもしれないと考え(同12節)、「妻」という代わりに「妹」と言います(同13節)。すると、エジプトの王が彼女を王宮に召し入れ(同15節)、アブラムにたくさんの贈り物をしました(同16節)。アブラムは自分の命を守るため、妻サライをエジプトの王に差し出し、引き換えに贈り物を受け取ったのです。

 このままでは、「あなたの子孫にこの土地を与える」(同7節)と言われた主の約束は、台無しになってしまいます。そこに主なる神が介入され、王と宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせました(同17節)。それで、王はサライをアブラムに返し、エジプトを去らせました(同19節)。

 神がアブラムとサライを守ってくださったので、何の害を受けることもありませんでした。それだけでなく、アブラムは王様から妻サライを返してもらいましたが、贈り物として与えられた羊や牛の群れ、ロバ、雌ロバ、ラクダに男女の奴隷などを王様に返さなくてもよかったので、資産を増やしてネゲブに戻って来たのです。

 3,4節に「ネゲブ地方から更に、べテルに向かって旅を続け、べテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」と記されています。これは、12章8節から10節までの箇所に書かれていた旅路の逆コースです。

 そして、飢饉を逃れるためにエジプトに下って以来、しばらく忘れたかのようになっていた、主の御名を呼ぶ、神を礼拝することを回復する道でした。それはまた、アブラムがサライとの仲を回復するための道でもあったでしょう。神の御許に戻って来る以外になかった、神の恵みを受けずして、自分たちを取り戻すことは出来なかったのです。

 それはしかし、元通りということではありません。1~4節に、「戻る、帰る」(シューブ)という言葉は用いられていません。ここにあるのは、「上る(アーラー)」、「行く、歩く(ハーラク)」という、足を踏み出して前進する姿勢を表す言葉が使われています。

 つまり、過去を懐かしむ道、思い出の場所に逃げ込むための道ではなく、目を将来に向け、約束の土地を目指して新しい思いを抱きながら、エジプトを出立し、ネゲブからべテルまでやって来たということになるのではないでしょうか。

 ところが、アブラムとロトの家畜が多くなって、問題が発生します。7節に「アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた」とあるとおりです。カナン人、ペリジ人の住む地に寄留している二人にとって、現在の牧草地や水場だけでは、各々の群れを維持することが出来なくなってしまったのです。

 かつて、「わたしが示す地に行きなさい」と主から示されたとき、主はアブラムに「生まれ故郷、父の家を離れて」(12章1節)と言われていました。それは、アブラムを目に見える形で守り支えるものから引き離すことでした。そのとき、アブラムは甥のロトを連れて出発しました(同4節)。それは、子が授からなかったときの保険にしようということだったでしょう。

 財産が増えたことは神の祝福と言ってもよいと思いますし、ロトを保険とすることで、アブラムの将来はいよいよ安泰ということになるはずでしたが、それが親族間に争いをもたらすことになりました。人間関係はなかなか一筋縄ではいかず、思うに任せません。エジプトで資産を増やして戻って来たことが、仇になったかたちです。

 そこで、家長として身内の争いを避けるために、アブラムは一つの決断をします。それは9節で、「あなたの前にはいくらでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」というものです。

 ここでアブラムは、土地の選択権を甥のロトに譲っています。ロトは、周りを見渡して、よく潤っているヨルダンの低地を選び、さっさと荷物をまとめ、東へ移って行きました(11節)。ロトには、年長者を立てて、先によいところをとってもらおうという考えは無かったようです。

 あるいは、牧者間の争いの背後に、ロト自身が叔父アブラムとは一緒にやって行けないという思いがあったのかも知れません。エジプト滞在時の、妻サライよりも自分の命の保全を優先したアブラムの身の処し方に、その原因があるとも思われます。

 「ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていた」と10節後半に記されています。ソドム、ゴモラの位置は不明ですが、死海の南岸にあったのではないかと考えられています。

 19章にソドムとゴモラ、低地一帯の滅亡が記録されています。その原因が13節に「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」と記されているのです。豊かに繁栄することが罪を犯すことに直結しているわけではありませんが、神に依り頼むよりも富に信頼を置くという、私たちには、目に見えるもので安心しようとする傾向があることを否むことが出来ません。

 一方、ロトに選択権を譲ったアブラムは、西へ移って行きます。18節に、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに住んだと記されています。ヘブロンは、死海(塩の海)の西方、ユダの山地南部、海抜930メートルの高さにある町です。

 かくてアブラムは、「父の家」の残りの者、ロトと分かれ、また、良い地を離れて、南方の山地に住むことになりました。その時、アブラムに主なる神が声をかけられました。それが、冒頭の言葉(14,15節)です。

 ここで「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われているのは、アブラムがこの時、うなだれていたのでしょう。それは、甥のロトと別れた結果、将来の保険を失うようなことになったからです。また、よく潤ったヨルダンの低地を離れることで、増えた家畜の群れを維持していくことに不安を覚えていたかも知れません。

 10節に「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は…見渡す限りよく潤っていた」と記されていたように、甥ロトの希望に満ちた有様とは全く好対照です。

 けれども、詩編145編14節に「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」と詠われているように、主はうなだれているアブラムに「目を上げよ」と呼びかけ、立ち上がる勇気を与え、子のないアブラム、今ロトと別れて保険を失ったばかりのアブラムに、見える限りの土地をアブラムと子孫に与えるという祝福を告げられます。

 しかも「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう」(16節)と言われました。

 先には、自分で自分の命を守るために、詭弁を用い、妻をファラオに差し出しました。それが、ロトと袂を分かつ原因となりました。ここでアブラムは、自ら考えて行動するのではなく、「わたしが与える」と告げられる神の言葉に従うのです。

 何よりの祝福は「見渡す限りの土地すべて」(15節)というより、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(16節)という言葉でしょう。子孫がいなければ、ここに嗣業の地が与えられても、アブラムの死後、また他人のものになってしまいます。

 今はまだ、畳一枚分の土地も持っていません。それを受け継ぐ子もいません。しかし、アブラムは主の言葉に従って目を上げました。彼が見たのは、他人の土地ではなく、主が自分にくださると言われた土地です。そして何よりも、それをくださると約束された主を仰いだのです(18節)。

 アブラムは「信仰の父」と言われますが、それは主の恵みによるものでした。ローマ書8章30節に、「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」というとおりです。アブラムは、罪深い自分を義とし、さらに栄光をお与えくださる主を仰ぎ、問題のただなかで、神は万事を益とされるお方だと信じたのです。

 私たちも、御言葉に従って目を上げましょう。示されるところを見渡しましょう。縦横に歩き回りましょう。主が語られた御言葉の力、その恵みに与らせて頂きましょう。

 主よ、アブラムは人間的な希望を失ったとき、御言葉に促されてあなたを仰ぎました。そうしてアブラムは、再び立ち上がる力を得、希望をもって出発することが出来ました。私たちも主の御言葉に信頼し、導きに従って歩みます。耳を開いて御言葉を聞き、目を開いて主の御姿を拝することが出来ますように。 アーメン





7月24日(月) 創世記12章

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』」 創世記12章1節

 11章10節以下にノアの子セムの系図が記されていますが、セムから数えて9代目に、テラがカルデアのウルで生まれ(11章24節)、テラにはアブラム、ナホル、ハランが生まれました(同26節)。恐らく長男であろうハランは、ロトをもうけた後、亡くなりました(同28節)。一方、末息子と思われるアブラムには、子どもが出来ませんでした。

 ハランの死後、テラは息子アブラムとその妻サライ、ハランの息子ロトを連れてカルデヤのウルを出発し、ハランまでやって来ました。ウルは、チグリス、ユーフラテス川の河口付近に位置し、ハランは、その上流に位置する町です。ウルからハランまで、約900㎞の距離です。東京~広島、大牟田~静岡といったところでしょうか。

 なぜ、テラがウルからハランまで移動することにしたのか、理由は聖書に記されておりませんが、アブラムが誕生した紀元前2000年頃、東のエラムがウルに侵攻し、ウル第三王朝を滅ぼすという事件がありました。もしかすると、その難を逃れるための移動だったのかも知れません。

 テラは、205年の生涯をハランで閉じることになりました(同32節)。アブラムが生まれたのは、テラ70歳の時ですから(同26節)、テラが召天したのは、アブラムが135歳のときということになります。

 冒頭の言葉(1節)で、主なる神がアブラムに、「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」と命じられました。「生まれ故郷、父の家」について、「生まれ故郷」は「カルデアのウル」(11章28,31節)ですが、「父の家」は、主の呼びかけを受けた時、アブラムは父テラに連れられて、ハランの地に来ていました(同31節)。

 そして、父テラはアブラム135歳の時に召されたということですから、主がアブラムに語りかけられたとき、父はまだ存命だったのです(同26,32節,12章4節参照)。

 ということで、「生まれ故郷、父の家を離れて」とは、「ハランの地を離れて」ということになりますが、これはしかし、アブラムを愛し、養い育て、守り支えてくれるものの総称と考えたらよいでしょう。神は、それなしに生きることは出来ないと考えているものから、アブラムを引き離そうとされたのです。

 アブラムがハランに何年住んでいたのかは不明ですが、慣れ親しんだ場所、愛され、養い育てられたところを離れ、守り支えてくれた家族、親族から別れて旅立つというのは、大変なことだったでしょう。

 その上、「わたしが示す地に行きなさい」と言われていますが、それがどのようなところなのか、明示されてはいないのです。75歳という年齢に達して、見知らぬ地に出て行くことを選び取るというのは、決して容易いことではありません。簡単にやり直しの聞く年齢とは考えられないからです。思えば、とても勇気のいる決断だったでしょう。

 しかし、アブラムはその命令に従って旅立ちます。ここに信仰の基本があります。信仰とは、神の語りかけ、その御言葉を聞いて、それに応答することです。アブラムは主の御言葉に従いました。即ち、アブラムは自分の親族や竹馬の友、家、財産などではなく、主なる神に信頼し、その導きに従うことにしたのです。

 「わたしが示す地に行きなさい」という命令には、祝福の言葉がつけられていました。それは、2,3節の「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」という言葉です。

 ここに、「祝福する」(バーラフ)という言葉が4回、「祝福(の源)」(ベラカー)が1回用いられています。アブラムが家を出るのは、「大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2,3節)と言われる主の祝福に与るためです。

 12章1節以前の状況であれば、アブラムの家系は、彼の死をもって途絶えてしまいます。しかし、そこに状況を変える祝福の言葉が、主なる神によって語られたのです。故郷にいれば、自分たちは安全に守られるかもしれませんが、妻サライの不妊という状況を変えることは出来ません。

 神に従って旅立てば、旅の危険、そして見知らぬ土地、見知らぬ人々の間での新しい生活の不安はあるものの、「大いなる国民とする、あなたの名を高める」という、将来の希望を手にすることが出来るかもしれないのです。アブラムは、それに懸けてみることにしたわけです。

 旧約学者の浅見定雄先生がこの箇所を註解して、「信仰は、服従としての冒険を回避しない。しかし、信仰の決断は、『やけくそ』や『当てずっぽう』の別名ではない!」と記しておられます。上述のとおり、確かにアブラムは、ここで主の言葉に従う信仰の決断をしたのです。

 「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(2節)というのは、バベルの人々が、高い塔のある町を建てて獲得しようとしたものでした(11章4節)。バベルの人々が獲得に失敗したものを、主なる神はアブラムに祝福としてお与えくださるというのです。

 しかも、アブラムに与えられる祝福は、彼一人のものではありません。アブラムの祝福は、地上のすべての氏族に及びます。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(3節)と言われているからです。一人の祝福がすべての民の祝福となるのです。

 何故アブラムが、地上のすべての氏族の祝福の源とされるのでしょうか。その理由は誰にも分かりません。アブラム自身にすら分からないでしょう。ただ、アブラムを祝福の源とし、アブラムによって地上の氏族をすべて祝福に入らせたいという主なる神の御意志、恵みの御心によって、アブラムが選ばれたのです。

 アブラムは、特別な存在ではありません。アブラムが自分で神の祝福を造って人々に配れるわけではありません。ただ、「あなたを祝福の源とする」と言われる神を信じたのです。アブラムは、そのように神を信じる者の代表として、私たちの前に立っています。私たちも、祝福をお与えくださる神を信じる信仰において、その祝福に与っているのです。

 ただ、4節に、「ロトも共に言った」と言われています。主から、「父の家を離れて」と言われていたのに、アブラムは甥のロトを連れて行ったのです(4節)。アブラムは、自分に子が出来なかった場合の保険と考えて、甥ロトが同行させたのではないかと思われます。

 やがて、カナンの地、「シケムの聖所、モレの樫の木まで来た」ところ(6節)、主がアブラムに現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました(7節)。「わたしが示す地に行け」という御言葉に従ったアブラムに、「これがその土地だ、これをあなたに与える」と言われているわけです。

 主とその御言葉に信頼して行動するとき、主は御言葉に伴うしるしをもって、御言葉の真実を示してくださいます(マルコ福音書16章20節参照)。アブラムは、そこに祭壇を築きました(7節)。また、そこからベテルの東の山に移った時も、主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました(8節)。即ち、アブラムはカナンの地で主なる神に礼拝をささげ、主の御名を呼んで祈ったのです。

 主の示された地に到着して、「あなたの子孫にこの土地を与える」(7節)と言われた主に、感謝と喜びをもって2,3節で語られた祝福の実現を祈り願ったのでしょう。
 
 私たちも信仰によって救いに与ったアブラハムの子として(ルカ福音書19章9節参照)、主の御言葉にしっかりと耳を傾け、御言葉を信じて立ち上がり、前進させて頂きましょう。地上のすべての人が主の祝福に入るため、主の恵みを力強く証ししましょう。

 主よ、アブラムは御言葉を信じて行動しました。主はその信仰を確かなものとしてくださいました。今、私たちもあなたの御言葉を聞いています。私たちの耳を開いてください。ただ聞くだけの者でなく、聞いて行う者とならせてください。御言葉の真実を見ることが出来ますように。聖霊に満たされて、主の証人として用いられますように。 アーメン







7月23日(日) 創世記11章

「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」 創世記11章9節

 洪水の後、箱舟を出たノアの子孫たちは、世界全地に広がって行きました(9章19節)。ノアの息子ら、その子孫は、それぞれの地に、言語、氏族、民族に従って住むようになったと、10章5節、20節、31節に記されていました。どのように氏族、民族が別れ、違う言語で話すようになったのか、その原因を説明しているのが、1節以下の段落です。

 1節には「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」と言われています。「同じ言葉を使って」は「ひとつの唇(サーファー・エハート)」、「同じように話して」は、「同じ(ひとつの)言葉(ドゥバリーム・アハディーム)」という言葉遣いです。どこでも同じ言葉で話していて、思いを通わせ合うことが出来ます。

 2節に「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた」とあります。「シンアルの地」とは、10章10節の「彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった」という言葉からも、メソポタミア平野南部から中風にかけてのバビロニア地方を意味するヘブライ語の表現と考えられます。

 いずれにせよ、シンアルの地に住み着いた人々は、「れんがを作り、それをよく焼こう」(3節)といって、素焼き煉瓦造りを始めます。パレスティナでは、建築に石材や木材を用いますが、メソポタミアでは、石材や質のよい木材に恵まれなかったので、煉瓦を作っていました。

 紀元前4千年から1千年間は、粘土を乾燥させただけの日干し煉瓦を使っていましたが、紀元前3千年ごろ、粘土を焼いて素焼き煉瓦を作るという技術が生み出されて、壁の内部には日干し煉瓦を用い、素焼き煉瓦はそれを保護するために用いられたようです。そして、漆喰の代わりに、大量にあるアスファルトを用いられました(3節)。

 紀元前3千年ごろといえば、ジグラットと呼ばれる塔が造られるシュメール・アッカド時代にあたります。ジグラットとは、アッカド語で「高いところ」を意味しているそうです。ジグラットの最上部には月神ナンナルを祀る神殿が載せられています。ジグラットは、神が訪れる人工の山として建造され、そこで人が神と出会うことが出来ると考えられていました。

 4節に「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った」と記されています。高い塔を建てる目的は、名声を得て、全地に散らされることのないようにするということでした。

 シンアルの地に住み着いた人々が「東の方から移動してきた」理由が、より有名な強い民に追い払われた結果だとすると、この地から余所に移動させられずにすむように、堅固な町を建てたいという願いは、分からないではありません。

 ここで「天まで届く塔」を建てるのは、外敵から町を守るためであり、それがどこよりも高い塔であれば、それを建てた人々の威信を内外に示すことが出来ると考えたわけです。その意味で、ここに示されているのは、所謂「ジグラット」のような宗教施設ではありません。

 けれどもそれは、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」(9章7節)と言われた主の御命令に背くことになりました。また、自分たちの力を周囲の人々に誇示しようとすることは、他の人々よりも自分たちを上に置き、神に近い存在として「ジグラット」を造りたいと考える傾向を示しているとも言えるでしょう。

 主なる神は、高い塔のある町を建てようとしている人々の振る舞いを御覧になるため、天から降って来られます(5節)。勿論、申し上げるまでもないことですが、主なる神は、天から降って来られなければ、人間のしていることが分からないような、近視眼的なお方ではありません。

 これは、天まで届く塔のある町を建てて名をあげようと考えている人々に対し、天は途方もなく高いところにあり、一方、人間の業はあまりにも小さいので、それを見るために近寄って来る必要があるという、ある種の皮肉を、ここに込めているわけです。

 皮肉と言えば、高い塔が石造りではなく煉瓦で築かれるというのも、弱くて不十分なものであると言おうとしているということも出来るでしょう。2年前のトルコ東部地震では、煉瓦積みの家の崩壊で犠牲となった方が多くあったと報道されていました。

 塔を建てようとしている人々の振る舞いをご覧になった主が「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」(6節)と言われました。

 一つの民で、一つの言葉を話しているから、何を企てても、妨げることができないということで、一致の大切さ、その力強さを教えられます。それは、主なる神ですら妨げられないことだというのです。人々はそれを知っており、一致が乱され、全地に散らされることを恐れます。自分たちの名をあげたいという野望が妨げられてしまうからです。

 主なる神は7節で、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われ、それを実行されました。その結果を言い表しているのが、冒頭の言葉(9節)です。

 人々は、同じ言葉を話しながら、素焼き煉瓦とアスファルトを得て、天にまで達する高い塔のある町を建てようとしました。しかし、主によって言葉が乱され、話が互いに通じ合わなくなって、町が建設出来なくなりました(8節)。それで、その町は「バベル」と呼ばれるようになったと説明されます。

 「バベル」とは、「バビロン」の古い名前で、バビロニアの言葉で「神の門」という意味です。しかし、ここでは「混乱」を意味する「バラル」という言葉に由来する名前だと紹介されています。これは、アダムとエバが、神のようになろうとして禁を犯した結果、神との関係が壊れ、夫婦関係もおかしくなったことを思い出します。

 人がいかに高い技術や知識を獲得し、それによって神のようになろうとしても、実際に神の門に到達することなど出来ないのです。恐怖心で人の心を縛り、一つになって突き進んでいるつもりでも、そこにはしかし、混乱しかないのです。

 言語が混乱させられたというのは、今まで日本語を話していた人が急に英語を話し始めたというような、全く違う言語に変わったということでしょうけれども、あるいは同じ日本語を話していながらも、自分の考えに固執しているため、相手の話が全く理解出来ないという事態を示しているのかも知れません。

 言葉が乱されて、思いの通じなくなった人々は、町を建てることが出来ず、そこから全地に散らされて行きました。しかしながら、全地に広く散らされて行くこと自体は、刑罰などではありません。そもそも神は「産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と命じられていたのであり、それが実行されたということだからです。

 とはいえ、互いに言葉が通じない、きちんとコミュニケーションが出来ないというのは、多くの問題を生じさせます。背き合うことを、聖書は「罪」と言います。罪のゆえに、私たちは神の恵みを失い、その栄光を受けることが出来なくなってしまいました(ローマ書3章23節)。

 ゼファニヤ書3章1,2節に「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。この都は神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった」と言われ、そのため6節で「わたしは諸国の民を滅ぼした。彼らの城壁の塔は破壊された。わたしは彼らの街路を荒れるにまかせた。もはや、通り過ぎる者もない。彼らの町々は捨てられ、人影もなく、住む者もない」と告げられています。

 ところが9節には「その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える」と預言されています。罪と罰が宣告された後、神は救いを用意されるということですが、諸国の民がかつてのように「一つとなって主に仕える」と言われています。

 私たちは、聖霊の働きによってイエスを救い主、主と信じる信仰に導かれました。信仰によって私たちには永遠の命が授けられ、神の子どもとされる特権に与りました。神に対して「アッバ」、お父ちゃんと呼ぶ資格が与えられたというのです。それは、私たちの功績によって獲得したなどというものではありません。主がお与えくださった恵みです。

 聖霊は私たちを祈りに導きます。どう祈ればよいか分からない弱い私たちのために、呻きをもって執り成してくださいます(ローマ書8章26節)。それによって、どんなマイナス状況をもプラスに変えてくださるのです(同28節)。

 また、聖霊は私たちに、主の恵みを証しする力を与えてくださいます(使徒言行録1章9節)。常に主を仰いで祈りましょう。そして、聖霊に満たされた主の証人にならせて頂きましょう。

 主よ、私たちの家庭や地域、国の至るところで、御言葉が語られ、その権威が回復しますように。国の指導者たちが、主を畏れ、主に仕える真実な心と考えをもって、国の将来に資する正しい政治を行うことができるよう、上よりの知恵と力を与えてください。私たちを聖霊に満たし、主の恵みを証しする力を与えてください。 アーメン






7月22日(土) 創世記10章

「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。」 創世記10章32節

 10章には、ノアの息子たち「セム、ハム、ヤフェトの系図」が記されています。その最後に冒頭の言葉(32節)のとおり「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た」と語られています。ノアの子孫が全世界に増え広がって行ったわけです。

 それは、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(9章1節)と神がノアたちを祝福してくださった結果です。ということで、この系図は、すべての民族が一つの家系から出たということを表わしているのです。

 ノアの三人の息子たちの系図について、ヤフェトの子孫(2節以下)は、パレスティナ北方並びに地中海沿岸の国々に広がっています。ハムの子孫(6節以下)は、パレスティナの南方の国々に広がっています。セムの子孫(21節以下)は、「エベルのすべての子孫の先祖」と記されています。

 「エベル」とは、ヘブライ人(イブリー)を指していると思われます。もともと「渡って来た」という言葉で、海や川の向こう側から移住してきた人々を意味します。地域的には、パレスティナ東方に広がっています。また、「セム、ハム、ヤフェトの系図」と言っておいて、セムが最後に取り上げられています。これは、セムの系図が最も重要なものであることを示しています。

 とはいえ、目につくのは、ハムの系図です。一番大きな分量を占めています。特に、ニムロドに注目させています。彼は「地上で最初の勇士となった」(8節)、「主の御前に勇敢な狩人であり」(9節)と言われます。動物を屠って食べることが許されて(9章3節)、狩人を生業とする者が登場したわけです。

 ただ、「最初の勇士」、「勇敢な狩人」で連想されるのは、猛獣と戦って町を守るという人物像です。町を守る者というイメージは、やがて「王」を示すようになります。10節に、「彼の王国の主な町は」と記されているように、ニムロドは彼の王国の権力的支配者となっています。

 ニムロドの出身地クシュはエチオピアを指していますが、支配地域は、「シンアルの地」(10節)、即ちバビロニアです。そこから、「アッシリアに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンを建てた」と言われます(11,12節)。これは、歴史的な事実というよりも、イスラエルを苦しめた存在として、エチオピヤやバビロン、アッシリアなどの名が挙げられているのです。

 ニムロドに、「主の御前に勇敢な狩人」という形容詞がつけられているのは、アッシリア、バビロンの王がイスラエルを苦しめるのが、主の御心という表現だと考えると、大変興味深いところです。それは、シンアルの地が、11章でバベルの塔の物語と結び付けられているからです(10節、11章2,9節参照)。

 6節に、ハムの子孫として「カナン」の名が挙げられています。民族的には、カナンはセムの中に入れられるべきですが、カナンがエジプトの支配下に置かれていたということや、イスラエルと覇権を巡って争っていたこと、特に、カナン人のバアルやアシュラという異教の神礼拝がイスラエルの純粋な信仰を迷わせたという点で、イスラエルを苦しめたハムの子孫のグループに入れられたのでしょう。

 21節に、セムが「ヤフェトの兄であった」と記されています。敢えてハムの兄であることが伏せられているのは、9章20節以下の出来事、ノアによる呪いが関係しているのでしょう。それ以外に注目すべき点はありません。

 11章10節以下のセムの系図に「アブラム」(26節)が登場して来ます。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ福音書3章9節)と言われますが、確かに神は、血筋や能力などではなく、恵みによっておのが民を選び、イスラエルを作り出されたのです。そして、その恵みによって、私たちも選ばれたのです。

 神は、洪水によってすべて完璧になったとは言われませんでした。洪水の前も後も不完全なまま、人は幼いときから心に思い図ることは悪いことばかりと言われたのです(8章21節、6章5節)。しかし、そこに慈しみ深き主なる神がおられ、私たちに恵みを与えていてくださいます。不完全な、ただの人である私たちを選び、キリストの教会を建て上げるために用いてくださいます。

 私たちが住んでいる町とその周辺、私たち信徒一人一人が置かれている家庭や職場、学校、地域が、私たちの宣教の最前線です。主イエスは、世界宣教のために宣教師を海外に派遣されたように、私たちをこの静岡周辺の宣教のために選び立てておられます。家族の救いのため、近隣への伝道の進展のために祈りましょう。

 命が親から子へ、子から孫へとつながれていくように、永遠の命、信仰の恵みも、主によって人から人へとつなげられていきます。そうした営みの背後に、世界宣教を祈る世界中の人々の祈りがあって、至るところに実を結んでいるのです。

 私たちも常に主を仰ぎ、共に御言葉に耳を傾け、御霊の力を受けて、主の教会を建て上げる働きのために熱く祈り、自らを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげて参りましょう。それこそ、私たちのなすべき霊的な礼拝だからです(ローマ書12章1節)。

 主よ、セムの子孫としてアブラハムが生まれ、ダビデが生まれ、ダビデの子孫としてキリストが世に来られました。すべてが主の深い憐れみによるものでした。私たちも恵みによって救いに与り、神の民として頂きました。聖霊に満たされ、その力を受けて、主の証人としての召しにふさわしく歩み、この地にキリストの教会を建て上げる働きのため用いてくださいますように。 アーメン





7月21日(金) 創世記9章

「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なる者との間に立てた永遠の契約に心を留める。」 創世記9章16節

 箱舟を出たノアとその家族が祭壇を築いて供え物をし(8章18節)、その香りをかいで「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」(同21節)と言われた主なる神が、更に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(1節)と祝福されます。

 これは、神が最初に人を創造されたときに祝福して言われた「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1章28節)という言葉とほぼ同じです。ここに神は、洪水後、世界を改めて祝福され、神の御旨にかなう、「極めて良かった」(1章31節)と評価される世界を再創造され、その地で人々が、産まれ、増え、地に満ちることを神が望んでおられるということになります。

 続いて、「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(2,3節)と語られます。

 かつて人と動物に与えられていた食物は、木の実や青草だけでした(1章29,30節)。肉食は許されていませんでしたが、ここでは肉食が許され、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(3節)と言われています。

 それでも、「ただし、命である血を含んだまま食べてはならない」(4節)と、注意書きが記されています。この箇所を岩波訳では、「肉は命あるまま、すなわち血のまま、食べてはならない」と訳しています。つまり、血は命そのもの、命は血の中に宿っていると考えられているのです。

 申命記15章23節にも「ただし、その血を食べてはならず、水のように地面に注ぎ出さねばならない」と記されています。1章24節によれば、神は動物を地から造られました。そこで、屠られる動物の血は、大地に戻されるのです。

 また、レビ記17章11節には「血はその中の命によって贖いをするのである」と記されています。血は命そのものなので、屠られた動物の血を神に献げることで、それを献げた人の贖いをしているというわけです。

 ですから、動物の血を飲むことは許されませんし、人の血を流し、命を奪うことも、勿論許されません。5節に「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する」と言われます。

 続く6節でも「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」と言われています。これは、人の命が神のものであり、神にかたどって造られているから、不可侵なのであり、エデンの園の善悪の知識の木の実を食するのが禁じられたのと同じく、神の主権に関わる事柄だということです。

 こうした言葉に続いて、神は8節以下に契約の言葉を告げられます。6章18節で「わたしはあなたと契約を立てる」と言われていました。ここに来て、その調印が行われるのです。

 「契約」というのは、ヘブライ語の「ブリート」という言葉です。これは、「結ぶ、定める」という動詞から出て、足かせや軛などの意味となり、対人関係における約束を示す言葉になりました。

 契約の内容は11節に「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と記されます。これは、神がノアとその家族を初めとする、人類の保護を約束したものです。神に対するノアたちの忠誠などは、ここに求められてはいません。神が一方的に宣言された契約ということです。

 13節で神は「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」と言われました。虹は、神と私たちの間に契約が結ばれたという証拠、契約書に押された証印のようなものでしょう。

 ご承知のように、虹の色の数は一般的に七色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)と考えられていますが、これは、物理学者ニュートンの虹の研究に由来するものです。イギリスでは、虹の基本色は「赤、黄、緑、青、紫」の5色と考えられていましたが、ニュートンは柑橘類のオレンジの橙色と植物染料インディゴの藍色を加えて、7色としました。

 勿論、虹の色は無段階に変化しています。色の種類は無限にあるわけです。そのことをニュートンも知っていましたが、それにも拘わらず、虹を7色としたのは、7が神聖な数、聖書における完全数だからだそうです。音楽のオクターブも、ドレミファソラシの7音からなっています。ニュートンは、虹の美しさを、七つの基本色から出来ているその神聖さ、完全さによるとしたわけです。

 ところで、「虹」は原語でケシェットと言います。ケシェットは、本来「弓矢」と訳される言葉です。創世記21章16節では「矢」、27章3節、48章22節、49章24節では「弓」と訳されています。つまり、虹は神の武器なのです。だから、神は、「わたしの虹」(13節)と言われています。英語で「レインボウ(雨の弓)」というのは、この箇所に由来しているのかも知れませんね。

 神はここで、御自分の武器である弓を、雲の中に虹として置いて、和解のしるし、契約のしるしとされ、二度と大地を洪水で滅ぼすことはしないと約束されたのです。神の武器は、人の手の届かない雲の中に置かれています。この宣言によって、神の恵みは常に人の意志に先行していることを示しています。

 冒頭の言葉(16節)に「永遠の契約」と記されています。二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはない(11節、8章21節も)という約束が、永遠のものであるということです。

 8章22節に「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」と言われていました。春夏秋冬、一年365日、神が再構築された天地は、再びリズムを取り戻して、夕となり朝となる毎日のリズムが繰り返されるのです。

 雲が湧き、雨が降り出すことがあるでしょう。川が溢れるようになることがあるかも知れません。しかし、それで地が裁かれ、滅ぼされるということはありません。雲の上には太陽が照っており、やがて虹を見せるのです。

 そして、「虹が現れると・・・永遠の契約に心を留める」(16節、14,15節も)と言われています。虹が現れる度に、私たちに神との契約を思い出せと言われているのではありません。神が永遠の契約に「心を留める」(ザーカール:覚える、思い起こすの意)と言われているのです。それはどういうことでしょうか。

 神が虹を見て契約に心を留められるのは、当然のことながら、神が忘れっぽいので、虹を見て契約を確認するということではありません。箱船のノアたちに「心を留め」(ザーカール)、それで水が引き始めたように(8章1節)、心に思うことは幼いときから悪いと言われる私たちを神が忍耐し続け、深い憐れみと慈しみの心で愛し、恵みを与え続けるため、虹を見るようにするということです。

 その上、永遠の契約は、「地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた」と言われています。ノアとその家族だけでなく、人類だけでもなく、すべての生き物との間に立てられました。人がした悪で滅びを招いた自然界の生きとし生けるものに対して、契約を立てて、人の悪のゆえに洪水をもって自然界を滅ぼすことは二度としないと言われているのです。

 悪をなす人に対し、神はその悪に悪をもって報いるというのではなく、御自分の武器を放棄し、世界の平和を守り、人に恵みをお与えくださいます。私たちは、その恵みを携えて全世界に増え広がるよう、神に祝福されているのです。

 その精神が日本国憲法第9条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という条文に見事に言い表されているといえるのではないでしょうか。

 世界中の国々が、この条文をその憲法に書き込めば、世界から戦争をなくすことが出来るでしょう。やがて、戦争が野蛮な行為として、国際的な法律で断罪される時代を迎えることが出来るように、神の導きと助けを祈りたいと思います。

 そのために、私たちも契約のしるしである虹を見て、主が私たちにお与えくださった恵みに心を留め、喜びと感謝の賛美と祈りを捧げながら、愛と赦しに歩ませて頂きたいと思います。

 主よ、あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう。人の子は何者なのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。私たちは主の御顔を拝し、御言葉に耳を傾けます。御霊の導きに与り、心から御名を崇めます。聖霊に満たされて、主の証人としての務めを全うすることが出来ますように。 アーメン






7月20日(木) 創世記8章

「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」 創世記8章1節

 冒頭の言葉(1節)に「地の上に風を吹かせられた」という言葉があります。「風」はヘブライ語で「ルーアッハ」と言います。1章2節に「神の霊が水の面を動いていた」とありましたが、「霊」が同じ言葉の「ルーアッハ」です。

 天地創造の初め、まだすべてが混沌として、闇が大いなる深淵の面にあり、水の面を神の霊が動いていて、そこに秩序が造り出されていったわけです。それと同じように、深淵の源が裂け、天の窓(複数)が開いて、大空の上と下の水が一つとなり、一切が初めの混沌とした状況に戻されたところに、風が吹き、秩序が回復されていくのです。

 そのきっかけとなったのが、「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を心に留め」(1節)というところです。あらゆる命を奪い去った水の面をさまよう箱舟が、そのままの状態で放置されるならば、水と食料を失って、彼らも死に絶えることになったでしょう。神はそのようになることを望まれませんでした。風を吹かせ、水を追い遣られます。

 3節に「百五十日の後には水が減って」とあり、4節で「第七の月の十七日に箱舟はアララト山の上に止まった」と言われます。7月17日というのは、2月17日に洪水が起こって(7章10節)「150日」、ちょうど5か月たった期日です。その日、アララト山に箱舟が漂着したのは、すべて神の導きです。箱舟には舵も動力もありません。すべて風任せ、波任せです。

 山頂より15アンマ上に水面があり、そこを漂流しているわけで、仮に、太平洋上に箱舟があれば、とめどなく船は動かされて、水が減り始めているという実感を持つことは、殆ど出来なかったことでしょうし、また水が元どおりになっても、箱船から出ることが出来なくなっていまいます。山にぶつかって船が止まったことで、そこに陸があるということを、はっきり感じ取ることが出来たでしょう。

 それから2か月と2週間経過した10月1日に、山の頂が水面に顔をのぞかせるようになりました(5節)。そして、40日後、すなわち11月10日になって、ノアは、水が引いたかどうかを確かめようと、まず烏を放します(7節)。続いて、鳩を放します(9,10,12節)。それで、水が引いたかどうかを確かめていたわけです。

 この出来事から、6節でノアが開いた箱舟の窓は、箱舟の側面ではなく、明かり取りとして設けられた屋根の窓であったことが分かります。側面に窓があれば、鳥を放さなくても、自分たちの目で水が減っていることを確認出来たでしょう。

 反面、窓があって外の状況をつぶさに見ることが出来たなら、雨の降り始めから地上の命が絶やされるところを目撃することにもなったでしょうし、何日も雨が降りやまず、何か月も水が減らない状況に、希望を失うような事態になったかも知れません。

 側面の出入り口は神によって閉ざされたまま、屋根に取り付けられた明かり取りだけが外の世界を知る手掛かりということは、ノアたちはいつも天を仰いでいたということ、それによって引き起こされる出来事にすべて身を委ねるほかはなかったということ、言い換えれば、神にすべてを委ねていたということです。そして、主なる神も、そのノアたちに目を留めてくださったのです。

 雨の降り始めから1年後、最初の月の一日に完全に水が引き(13節)、第2の月の27日、つまり、1年と10日が経過した後、地はすっかり乾きました(14節)。そこで、神はノアに箱舟から出よと促されます(15節以下)。そこで、ノアと家族、動物たちは、神に告げられた通り、箱舟から出ました。(18,19節)。

 それからノアは、主のために祭壇を築き、清い家畜と清い鳥のうちから焼き尽くす献げ物をとって献げました(20節)。「祭壇」(ミズベーハ)は、いけにえの動物を「屠殺する」(ザーバー)という言葉から来ており、聖書中に403回出て来ますが、ここで最初に用いられています。

 ノアは、そのようにすることを何時何処で学んだのか分かりませんが、箱舟を出て飲み食いしたり、住み着く場所を探すよりも先に、神にいけにえをささげて礼拝したのです。主に従う正しい人は、「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ福音書6章33節)という御言葉を実践する者であることが、ここに明確に示されているわけです。

 焼き尽くす献げ物の芳しい香りをかいだ主が、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(21節)と語られました。

 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と主なる神が決意を述べられたのは、洪水を経験した人々が、徹底的に悔い改めて二度と悪を行わないという決意をしたからなどということではありません。というのは、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と、その理由の言葉が記されているからです。

 「常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」(6章5節)というのが、神が洪水によって地の面から人をぬぐい去ろうとお考えになった理由でした。しかし、洪水後も、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と言われるということは、人間は、洪水の前と後で何ら変わっていないということになります。

 それならばなぜ、「呪うことは二度とすまい」ということになるのでしょうか。その問いの答えは、冒頭の言葉の「ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め」という言葉にあるということでしょう。つまり、神がノアたちに御心を留めてくださらなければ、地上に人類が生き残ることは出来なかったのです。

 宗教改革者カルヴァンは、創世記を註解して、「もし人々がそれにふさわしく扱われねばならぬとすれば、毎日毎日洪水が必要であろう」と記しています。確かに、私たちは、自分の心に思い計る悪のゆえに、毎日洪水によって神の裁きを受けなければならないでしょう。

 義なる神の御前に、自分一人で立つことの出来る人間など、存在しません。皆、神の憐れみを必要としています。即ち、神が、その憐れみによって私たちに御心を留めて下さるのでなければ、誰も生きられないということです。

 それは、ノアにとってもしかりです。神がノアを御心に留められ、風を吹かせられたからこそ、水が減り始めたのです(1節)。そうでなければ、永遠に大水の上を漂っていなければならなかったことでしょう。そして、結局滅びを招くほかなかったと思われます。

 時折、私たちの周りで、思いがけない出来事が起こります。災害に見舞われる人がいます。悲惨な事件に巻き込まれる人がいます。それはしかし、神の呪いや罰などではありません。大規模災害を神の裁きのように言う人が時折ありますが、神は「呪うことは二度とすまい」と仰っています。

 神は、ノアとその家族、家畜に目を留められたように、そのような被害を蒙った人やその家族を心に留め、愛のまなざしを向けてくださるでしょう。そして、神に代わったつもりで被害を被った人を断罪するようなら、他者を量った計りで自分も量り返され、それこそ、神の裁きを被ることになるでしょう。その人は無事では済むでしょうか。

 忍耐と慰めの源であり、また希望の源である神に信頼し(ローマ書15章5,13節)、聖霊の導きに従って共に歩みましょう。

 主よ、罪のもとにあり、滅びを刈り取るほかなかった私たちに目を留め、救いへと導いてくださったことを感謝します。私たちにキリスト・イエスに倣って同じ思いを抱かせ、私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてください。どんな時にも、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてください。 アーメン





7月19日(水) 創世記7章

「水は勢いを増して更にその上15アンマに達し、山々を覆った。」 創世記7章20節

 1節に「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」という主なる神の御言葉が記されています。ここに、ノアとその家族が箱舟に乗り込むことの出来る理由が語られます。当時の世の中で、ノアだけが主に従う人だと主から認められているからというのです。

 「従う人」は「ツァディーク(正しい)」という言葉です。口語訳と新改訳は直訳的に「正しい」と訳しています。ただ、この言葉は法律的に「正しい」という意味の言葉ではありません。これは、関係を表す言葉で、その人が置かれている関係の中で正しく振る舞う人という意味です。

 人が神との正しい関係にあれば、その人は神を信じ、依り頼み、御言葉に従うでしょう。そこで、新共同訳は「従う人」と意訳しているわけです。主なる神との関係に正しく立つ者、主に従う者に対して、主もまた恵み深く関わってくださいます。それで、ノアは箱舟に入れと言われるのです。

 そして、ノアの妻子や嫁たちも、箱舟に入ることが許されます。ノアの従順と主の憐れみによって、その家族も救いに与るのです。これは、フィリピの獄吏に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒言行録16章31節)と告げたパウロの言葉を思い起こさせます。一人の人物の信仰、その正しい振る舞いにより、彼との親しい関係にある者にも神の恵みが及ぶのです。

 神は、清い動物7つがいずつ、清くない動物1つがいずつ、鳥も7つがいずつ船に乗せるよう命じられます(2,3節)。清くない動物については、レビ記11章にそのリストが示されます。因みに、そこで不浄とされている動物の多くは、パレスティナ先住民や周辺諸国民の祭儀の中で聖なるものとして高く評価されています。異教の祭儀や呪術的な習慣から離れるために、不浄と定められたようです。

 ノアと妻子、嫁たち、清い動物、清くない動物、鳥も地を這うものもすべて、箱船に入りました(7節以下、13節以下)。すると「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされ」(16節)ました。主が門番となり、主に認められたものが計画通りに箱船に入って洪水から守られ、そうでないものたちが乗り込むことのないように、主がその戸を閉ざしてしまわれたのです。

 洪水について、4節で「わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした」と言われ、12節に「雨が四十日四十夜、地上に降り続いた」、そして17節後半、「水は次第に増して箱船を押し上げ、箱船は大地を離れて浮かんだ」と言われます。それで、地上に残されたものはすべて死に絶えました(22,23節)。これは、J典の記述です。

 一方、11節では「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」と言います。これは、P典の記述です。「大いなる深淵」(テホーム)は、1章2節の「深淵」と同じ言葉で、それが裂けて洪水となったということは、地上に水が溢れたというレベルではなく、宇宙的な破局を意味するものでしょう。

 「洪水」(6節など:マッブール)という言葉は、「本来、『洪水』や『氾濫』という意味ではなく、『滅ぼし』という意味ですらなく、宇宙の一部分、即ち、天上の大洋を意味する特殊用語であった」と、ATDという注解書に記されていました。ギリシア語訳旧約聖書(七十人訳)はそれを「カタクリュスモス」と訳しています。英語のカタクリズム(cataclysm)の語源となる言葉です。

 創世記1章6,7節において、大空(ラキーア)で水(マイム)が二つに分けられました。大空の上の水と大空の下の水で、下の水は海(同10節:ヤーミーム)と呼ばれました。上の水をどう呼ばれたのか1章には記されていませんが、大空の上の水がマッブールで、天の窓が開くと、洪水となって流れ落ちてくるというわけです。

 それは、大空によって分けられていた上の水と下の水が一つとなって、すべてのものが1章2節の「深淵」(テホーム)に沈み込むことになるということです。つまり、地球のみならず、宇宙全体に背きの罪による破局が及んだということでしょう。

 洪水が40日間地上を覆い(17節)、さらに勢力を増して箱船は水の面を漂います(18節)。天の下にあるものはすべて覆われてしまいました(19節)。そのことを強調するかのように、冒頭の言葉(20節)で「水は勢いを増して更にその上15アンマに達し、山々を覆った」と告げます。

 この記事、考えてみると実に不思議な言葉です。そもそも、あらゆる高い山の上15アンマに水面があるということですが、いったい誰がその水深を計測したのでしょうか。そして、そのことに、どんな意味があるというのでしょうか。

 勿論、意味のないことが聖書に記されているはずはありません。天が裂けて宇宙全体の破局が起こっているという状況で、水の深さを測ることが出来るのは、神とその御使いたちだけです。神が無意味なことをされるはずがありません。

 それで考えつくのは、箱舟との関係です。箱船は、高さが30アンマでした(6章15節)。15アンマは、箱舟の高さの半分、ちょうど真ん中ということになります。舟を水に浮かべると、喫水線は舟の中央よりも上にあります。つまり、浮いている部分よりも水に沈んでいる部分の方が大きいということです。

 水面から一番高い山の頂上までの水深が15アンマなので、15アンマ以上水面下に沈んでいる箱舟の底が、一番高い山の上に引っ掛かるということです。主なる神は、初めから水の量を測って、ちょうど舟が高い山の上に止まるようにされたわけです。

 8章4節に、「箱舟はアララト山の上に止まった」と記されています。洪水が収まり、水が引いたら、たまたまイスラエルの人々が知っているこの地方の最高峰(標高5,144メートル)のアララト山だったというのではなく、初めからきちんとそこに漂着するように、主は計算しておられたというわけです。

 主なる神はそのことを悟らせるために、水深を測り、それを創世記の記事に記させておられたのです。そのことは、私たちの目に、直面している事柄、その状況がどのように見えているとしても、神は絶えずそこで私たちに配慮して最善のことをなし、私たちを恵みへ、救いへ導こうとしていてくださるということでしょう。

 ノアは、そのように神を信じ、その御言葉に信頼して箱舟を造り、家族で箱舟に入りました。そうして、神の恵みを得ました。ノアの信仰によってその家族も恵みに与りました。

 私たちも日々主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、導きに素直に従いましょう。主が最善をなしてくださり、限りなく豊かな恵みに与らせてくださると信じましょう。

 主よ、あなたの恵みに依り頼みます。弱い私たちです。自分の信仰ですら、固く保たせることが出来ません。慈しみの御手の下に、絶えず私たちを守り支えてください。聖霊の執り成しにより、万事が益となるように共に働いてくださることを感謝します。日々御言葉に聴き、導きに従って歩ませてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン




7月18日(火) 創世記6章

「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」 創世記6章9節

 1~4節は、「神の子ら」(2節)と言われている神の御使いたちと「人の娘たち」(2節)の結婚によって、「ネフィリム」と呼ばれる巨人種族(民数記13章33節参照)が生まれたという話が記されています。4節には、「大昔の名高い英雄たち」と紹介されています。

 しかしながら、主なる神は、その結婚やそれによって生まれたネフィリムの存在を喜ばれません。3節に「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」という主の言葉が記されています。

 「とどまるべき」と訳されているのは、聖書中ここにしか出て来ない「ドゥーン」という言葉ですが、この言葉には、「治める、強くある」という意味があります。神の子らの生命力で、肉に過ぎない人間、即ち、土から作られ、死ぬべき運命にある人間が、生命力を強め、永遠に生きるようになることを、主はお許しにならないのです。

 それは、神が創造された世界の秩序を破壊するものだからです。関係の破壊、それが罪の本質だと教えられて来ましたが、御使いたちと人の娘たちの結婚は、その最たるものと考えられています。アダムが神に背いて以来、その罪は増大の一途をたどり、天と地の秩序を破壊するまでになったことを、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」(5節)と言われます。

 このような、神の人間に対する評価については、「少しは良いことも考え、計画している」と反論したい人も、少なからずおられると思います。にも拘わらず、主なる神は人の罪をとても厳しく深刻に見ておられます。そして、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ」(6節)ているのです。

 ギリシアの哲学者ならば、神という存在は、人間をはるかに超越し、すべてのことをご存じなのだから、人がすることで後悔されたり、心を害されたりすることはないというのでしょうけれども、しかし、主なる神は、哲学者が考えて定義するようなお方ではありません。そのような超越性をお持ちでないとは言いません。

 サムエル記上15章29節に、預言者サムエルがサウル王に対して、「イスラエルの栄光である神は、偽ったり気が変わったりすることのない方だ。この方は人間のように気が変わることはない」と告げた言葉が記されています。

 しかし、同じサムエル記15章35節には「サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた」とあります。

 人を造られた神は、人を機械仕掛けの人形のようには造られませんでした。知恵があり、感情を持ち、意志を持った存在として造られたのです。その心を、お互いを一人ぼっちにしない、むしろ助け合い、愛し合うために用いることを、神は期待されていました。何より神ご自身が、愛と慈しみに満ち、常に私たちに慰めや平安、希望を与えたいと考えておられる方だからです。

 だからこそ、私たち人間が神の御心に背き、自ら関係を破壊して不幸になる様子をご覧になって、心を痛められ、人間を造ったことを後悔されるほどに苦しまれるのです。神が「心を痛められた」というのは、「アーツァブ」という言葉ですが、この言葉の名詞形が人間に与えた「苦しみ=イッツァーボーン」(3章16,17節、5章29節)という言葉です。

 この言葉の用い方を見ると、人が関係を破壊し、その罰を負わなければならない様子を見て、神が最も痛みを覚え、苦しんでおられるのです。さながら、人の罰を神が背負っておられるかのような用語です。

 主なる神はここで、一つの決意をされます。それは7節に「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」というように、地上から生けるものをすべて拭い去るというものです。

 家畜や這うもの、空の鳥が罪を犯したわけではないのでしょうが、人や神の子らによってすべてが呪われたものとなったということでしょう。「拭い去る」(マーハー)には、洗い流すという意味もあり、水による破滅という意味が暗に示されているのかも知れません。

 1章31節で「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と言われていたこの地上世界の生きとし生けるものを、すべて「拭い去る」と言われます。なんという結末でしょうか。神が後悔されたという言葉の意味、その重さ、深さがここにはっきりと示されます。

 神が天地を創造された時、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いて」(創世記1章2節)いるだけでした。ご自分が創造されたものをすべて拭い去って、もとの混沌の世界に戻そうと言われるのです。なんと辛く悲しい決意でしょうか。

 もしもそれだけだったら、私たちは今ここに存在していなかったでしょう。神は、辛く悲しい決意をされただけではなかったのです。8節に「しかし、ノアは主の好意を得た」と記されています。アダムから10代目の子孫ノアに主が目を留められました。

 その選びは、「好意」(ヘーン:「恵み、行為、受容、魅力」の意)即ち、神の恩恵以外では説明出来ないものでした。神は、恐るべき裁きを実行される前に、「好意」によって救いの御業を始めるために、一人の人に目を留められたのです。

 ノアの人となりを、創世記の記者は冒頭の言葉(9節)で「その世代の中でノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」と記しています。「神に従う」とは「正しい」(ツァッディーク)、「無垢な人」とは「公正な」(ターミーム)という言葉です。

 正義と公正というのは、聖書を貫く中心的な用語ですが、絶対的な意味での「完全さ」をあらわすものではありません。人が、そしてその献げ物が祭儀的に正常で、神に受け入れられる状態にあるということを意味するものだと、注解書に記されていました。そのように献げ物が神に受け入れられるというのも、恵みによるということです。

 ノアは、神に造られた人として、罪を犯す前のアダムのように神に従い、神と共に歩むことを喜びとしていたのですが、神の恵みが、ノアにそのように歩むことを可能にした、神の恵みによってそのように歩むことが許されたということでしょう。

 神はノアに対して、これからご自身が実行しようとしておられる胸の内を明かされ、それに備えるように命じられます。それは、「すべて肉なるものを終わらせる時が来ている」(13節)ということです。「終わらせる時」(ケーツ)とは、預言者たちの終末を語る言葉として極めて重く用いられた言葉です(アモス8章2節、ハバクク2章3節、エゼキエル21章30,34節など)。

 そしてそれは、「地上に洪水をもたらし、命の霊を持つ、すべての肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える」(17節)という恐るべき計画でした。それが実行されることは、確かに世の終わりを迎えることです。

 すべての肉なるものを滅ぼし、地上のすべてのものが息絶えるということですが、しかし、神はノアに、「ゴフェルの木の箱舟を造りなさい」(14節)と命じられました。この箱舟で、ノアとその家族は洪水を逃れるのです。

 神は、ノアに箱舟の設計図を示しました。それは、長さ300アンマ(約135メートル)、幅50アンマ(約23メートル)、高さ30アンマ(約14メートル)、総排水量が4万トンを越えるという、とてつもなく大きなものです(15節)。

 40年ほど前、私は神戸から沖縄に船で旅したことがあります。それは、1万トン級のとても大きな船でしたが、ノアが作ることになった箱舟は、その4倍を優に超えるサイズなのです。

 箱舟の内部は、3階建てになっており(16節)、そして、各階ごと、小部屋に仕切られ、内側にも外側にもタールが塗られます(14節)。これは、どこか一箇所に穴が開き、浸水しても、すぐには舟が沈まないための工夫で、現代の船の建造にも通用するものです。

 この船の大きさから考えると、神は、ノアとその家族だけを洪水から守りたいと考えておられたのではなく、もっと多くのものを救いたいと考えておられたことが分かります。ここに、神の愛と憐れみの大きさ、豊かさが示されています。

 ここに全くその記述はありませんが、あるいは、ノアとその家族は、神に命じられて巨大な箱舟を建造する傍ら、周囲にいる人々に向かって、「主が洪水でこの地上を滅ぼし尽くすことに決められましたた。私たちと一緒に、この箱舟を造って乗り込み、生き延びられるようにしましょう」と訴え、箱舟造りに協力を求めたり、あるいは箱舟に共に乗り込むように勧めてていたのではないでしょうか。

 しかしながら、ノアの言葉に耳を貸し、箱舟造りに協力したり、一緒に舟に乗り込もうという人はいませんでした。だからこそ、滅びを刈り取ることになるわけですね。ノアたちの行動は、周囲の人々には全く理解出来ないことだったわけです。恐らく、人々はノアの言葉に耳を傾けなかったというだけじゃなく、悪口雑言を浴びせ、嘲笑したのではないでしょうか。

 22節に「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」と語られているとおり、ノアは神に徹底的に従いました。ヘブライ書11章7節にも「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」と記されています。

 この世に倣わず、むしろ心を新たにして自分を変えて頂き、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにならせていただきましょう(ローマ書12章2節)。

 主よ、あなたの深いご愛に感謝します。御子の命をもって贖いの業を成し遂げ、私たちすべての者が御子を信じる信仰により、救いの恵みに与ることが出来るようにしてくださいました。日々御言葉に耳を傾け、聖霊の導きによって御心をわきまえることが出来ますように。そうして、いつでもどこでも大胆に主の恵みを証しすることが出来るようにしてください。 アーメン





7月17日(月) 創世記5章

「彼は、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。」 創世記5章29節

 5章には「アダムの系図」が記されています。これはP(祭司)典で、もともと2章4節aの「これが天地創造の由来である」という言葉に続けて記されていたものと考えられます。1章1節~2章4節aもP典なのです。

 1,2節に「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された」とあり、これは、1章27節の「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」という言葉を要約したものでしょう。

 3節には「アダムは130歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」と言われます。アダムが神にかたどって造られたように、セトはアダムをかたどった男の子ということですから、セトも神にかたどって造られたということで、それによって、セト以下の子孫も神にかたどって造られたものだと言おうとしているわけです。

 ところで、4章のカインの系図には、この表現がありません。本来、カインはアダムの長男であり、カインこそ、アダムをかたどった男の子と言われるべきでしょう。そう言われない理由は、4章と5章では、もともとの資料が違うというのが、学者の説明です。即ち、4章はJ典、神様の名前をアルファベットでYHWH=ヤハウェと記している資料です。邦訳では、「主」と訳される言葉です。

 資料が違うのだから、同じ表現が出て来ないのは当たり前と言ってしまえば、身もふたもないということになるかも知れません。ただ、創世記の大枠は、ダビデ・ソロモン時代、即ち紀元前950年ごろ、J資料の著者が書きました。

 それに対して、P資料は、紀元前500年ごろ、つまりバビロン捕囚後に書かれたと言われます。そして、紀元前450年以降に、J資料、D資料、E資料、P資料を編集して、モーセ五書が出来たと考えられています。つまり、四つの資料を組み合わせる編集作業が行われたわけです。

 その編集作業を行った編集者の意図を考えると、5章でアダムの子セトについて語られている「自分にかたどった男の子」といった表現が、4章17節以下のカインの系図に出て来ないのは、神をかたどるということが、神の御心に従うということを示しているからではないかと思われます。

 つまり、神の御心は、神に似せて人が男と女に創造されたということから、神にあって男と女が一つになること、そして命を生み出すことにあると思われます。ところが、兄カインが、神の警告にも拘らず、それに耳を貸そうともせずに弟アベルの命を奪ってしまったので、神のかたちを失ってしまったということだろうと思うのです。

 3節以下には、アダムからノアまでの十代の系図が記されており、そこに長子誕生のときと生涯の年齢が示されています。それによれば、アダムからノア誕生までが1056年、ノアの子セムたちの誕生まで1556年という計算になります。

 これは、どのように計算したのかというと、子どもが生まれた年を順番に足し合わせただけです。つまり、セトが生まれた時、アダムは130歳、そして、セトが105歳のときエノシュが生まれたので、130に105を足す。アダムが235歳の時、エノシュが生まれたということです。

 次に、エノシュの子ケナンはエノシュの90歳の時の子だから、235に90を足して、アダムは325歳。同様にして、ケナンの子マハラルエルが生まれた時、アダムは395歳、その子イエレドが生まれた時、アダムは460歳、その子エノクが生まれた時、アダムは622歳、メトシェラが生まれた時、アダムは687歳、レメクが生まれた時、アダムは874歳。

 アダムが息を引き取ったのは、930歳の時なので、何とアダムは、孫やひ孫どころではない、セト以下レメクまでの8代の子孫を見ることが出来たわけで、もう少し長生きしていれば、ノアの誕生に立ち会うことも出来たかもというような年齢なのです。

 系図で目につくのは、何と言ってもその長寿ぶりです。最長寿は8代目のメトシェラで969歳(27節)、最も短命のエノクでも365歳です(23節)。長寿第二位は6代目のイエレドで、962歳でした(20節)。エノクは7代目なので、最も短命のエノクを、長寿1位と2位のメトシェラ(8代目)とイエレド(6代目)が挟み付けるかたちになっています。

 さらに、子をもうけた時の年齢の高さは、どう考えてよいのか分からないほどです。系図の最後に記さているノアは、500歳になってセム、ハム、ヤフェト、三人の男の子の父親になりました(32節)。なんという生命力でしょうか。

 ここに示されているのは、長寿が神の祝福だということです。長く生き、生を全うして死ぬこと、それが神の祝福であり、充実した人生と考えられていたのです。

 最長寿のメトシェラのこと、187歳のときにレメクが生まれ(25節)、レメクは、182歳でノアの誕生を見ました(28節以下)。それは、メトシェラ369歳の時ということになります。ノアが500歳で子をなした時、ノアの祖父メトシェラは869歳です。先にも申し上げた通り、メトシェラは969歳まで生きています。つまり、ひ孫の誕生を見たのち、さらに百年生きていたのです。

 そのひ孫誕生から百年後、ノアが500歳で子をなしてから百年後、即ち「ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり、云々」と、7章6節に記されています。少々ややこしいことを申し上げておりますが、何が言いたいのかといいますと、メトシェラが死んだのは、洪水が地上に起こったと言われる年で、だからメトシェラの死因は、洪水が起こったためと考えられるということです。

 同じように、メトシェラの子レメクがあと5年以上長生きしていれば、彼も洪水の犠牲になるところでした。そうならないで済むように、父祖たちよりかなり若い777歳で天に召されたというかたちです。

 ところで、4章のカインの系図と5章のアダムの系図の双方に、レメクの名があります。4章では、カインの末のレメクが二人の妻に、「わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」(4章23,24節)と言います。

 ここで、レメクが人を殺すのは正当防衛であり、そして、受けた傷害の77倍も徹底的に復讐すると宣言されます。この言葉から、カインの兄弟殺しも、謂わば正当防衛、あるいは蒙った被害の報復だったと、レメクが言おうとしているようにも思われます。

 それに対して5章では、セトの末のレメクに与えられた男の子を「ノア」と名付けたその理由を、冒頭の言葉(29節)のとおり、「『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた」と記しています。

 「主の呪いを受けた大地で働く」とは、アダムが神に背いたために、土が呪われ、収穫を得るために労苦しなければならないということでした(3章17節以下)。レメクの家に生まれた子が彼らを慰めるとは、ノアが癒しをもたらす者になるということでしょう。

 「ノア」は「休息」という意味です。呪われた大地で苦労している人々に休息を与えて労うといった役割を果たすよう、期待されているわけです。それはしかし、ノアに大地の呪いを解く力があるということではありません。

 ローマ書15章5節に「忍耐と慰めの源である神」とあり、また第二コリント書1章3節には「慰めを豊かにくださる神」という言葉があります。つまり、神ご自身が慰めに満ち満ちているお方であり、人々に慰めを与えるため、ノアを授けられたということなのです。

 6章9節に「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」と言われます。アダムが神に背いて大地が呪われましたが、10代目の子孫ノアが、神と共に歩んで、大地に休息と慰めをもたらすのです。

 いかにすれば、「神と共に歩む」ことが可能になるのでしょうか。私たち人間の側に、その条件を満たすことの出来る者がいるとは思えません。人が神と共に歩むということが可能になるのは、神が人と共に歩んでくださるからです。

 それは、実に忍耐のいることです。自分に背くような相手、自分に反抗する者と一緒にいることは、なかなか困難なことです。けれども神は、愛のゆえに、深い憐みのゆえに、忍耐をもって私たちと共に歩んでくださるのです。

 神は今も私たちと共にいてくださいます。マタイ福音書1章23節に「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」とあります。主イエスこそ、私たちと共にいてくださる神だというのです。同じマタイ28章20節でも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言しておられます。

 主を喜び、主の御声に聴き、導きに従って歩む祝福に、皆で共に与らせて頂きましょう。

 忍耐と慰め、希望と平安の源である主よ、私たちに慰めや励まし、希望、平安を与えようと、御子イエスを遣わし、また、聖霊を遣わしてくださり、感謝します。キリストを心の王座にお迎えし、力と愛に満たされ、委ねられている主の御業に励む者とならせてください。私たちと歩みを共にしてくださる主の愛に感謝し、常に主を喜び、主の御言葉に耳を傾け、導きに従って歩む者であらせてください。全世界に主の慰めと平和が豊かにありますように。 アーメン





7月16日(日) 創世記4章

「主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる』。」 創世記4章10節

 1節に、「アダムは妻エバを知った。エバは身ごもってカインを産み」と記されています。「知る」(ヤーダ)という言葉は、客観的な知識を得ることではなく、出会いの中で認識する、知り合うということを指します。そこから、この箇所のように、夫婦の性を伴う深い交わりを表すようにもなりました。

  アダムは、禁断の木の実を食べた後、その罪を女に所為にして、夫婦の関係に亀裂を生じさせていたものと思われます。その二人の関係が、回復したのです。どのようにしてそれが可能になったのか、聖書に明言されてはいません。

 もしかすると、神によって与えられた皮の衣、それは神の憐れみ、罪の贖いを示しているものですが、その皮の衣を身にまとい、さながら神の愛に包まれたようになって、二人の関係が改善したといってもよいのかも知れません。

 善悪の知識の木の実を食べることは、それを禁止された主との関係、そして、「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(2章23節)と喜んでいた夫婦の関係を壊し、大切なものを失わせました。関係の破壊、これが罪の本質です。しかし、主はその罪を贖い、もう一度夫婦が深く交わり、心と体で互いに深く知り合うこと、愛し合うことが出来るようにしてくださったのです。

  そして、エバは身ごもり、長男のカインを産みました。「カイン」という名前について、聖書は、「得る、獲得する」(カーナー)という言葉に由来するものと紹介しています。神は、二人の関係を回復させ、二人に大切な命のつながり、「カイン」という跡取りを獲得させたのです。

 余談ながら、ここで興味深いのは、名づけがアダムではなく、エバによってなされていることです。イスラエルの父祖の一人ヤコブの12人の子らも、それぞれ母親が名をつけました。神の人サムエルも、母のハンナが名づけをしました(29章31節以下、35章18節、サムエル記上1章20節など)。古代世界では、母による名づけに象徴される、母系的な系図が普通だったのかも知れません。

 カインに続いて、弟アベルが生まれました。そして、アベルは羊を飼う者になり、兄のカインは土を耕す者となりました(2節)。弟アベルを先に紹介することが、次の節の導入となっています。時が経ち、兄カインは土の実りを主への献げ物とし(3節)、弟アベルは肥えた初子を献げ物としました(4節)。

 この時、どのように献げ物をするのかという律法は、まだありませんでした。二人はそれぞれ自発的に神に献げ物をしたわけです。土の実りを得ることも、また羊を飼うことも、苦労の多い働きだったと思いますが、土の実りや、肥えた初子をお与えくださった神に感謝して、二人とも、それぞれの献げ物を捧げたのでしょう。

  ところが、何故か、主は弟アベルの献げ物には目を留められ、兄カインの献げ物には目を留められませんでした(5節)。その理由、根拠はそこに示されてはいません。

  ヘブライ書4章4節に「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に捧げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」と記されています。アベルの献げ物が選ばれるべくして選ばれた、それは、信仰による優れた献げ物だったからというのです。

 しかしながら、創世記の記述によれば、アベルの献げ物の方が優れていたとか、カインはつまらないものを捧げたとか、はたまた、彼らの献げ物をする心、その思いに優劣があったと受け取れるような表現はありません。

 解釈の鍵となるのは、二人の名前です。弟「アベル」、原典では「ヘベル」といいますが、これは、「息、はかなさ、空虚さ、無意味、無価値、虚無」といった意味の言葉です。親が子にそんな名をつけるだろうかと考えてしまいます。ある注解者は、その名が示しているように、アベルは実在の人物ではなく、物語のために登場させられた架空の人物ではないかと言っています。

 その根拠として、アベルは羊を飼う者となったと2節に記されているのですが、4章17節以下に記されているカインの系図で、カインから数えて7代目のヤバルについて、「ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった」と記していることです。家畜を飼う先祖が、アベルではなくカインの子孫のヤバルだと言っているわけですね。

 一方、「カイン」という名前は、本来は「槍」を意味する言葉です(サムエル記下21章16節)。「槍」という意味のカインと、「はかなさ、空しさ」という意味のアベル、つまり、この二人の名前が、この後の二人の運命を示唆するものとなっているのです。

  なぜ、神がアベルの献げ物には目を留められたのに、カインの献げ物に目を留められなかったのか、そして、そのことを、カインがどのようにして知ったのか、よく分かりません。創世記の記者は、そのことについて、全く何も語らないまま、話をどんどん先に進めます。どうしてかは分かりませんが、とにかく神は、カインの献げ物に目を留められず、そして、カインはそのことで激怒します(5節)。

 彼の怒り方、憤った様を見ると、カインはやはり最上のものを神に献げたつもりだったと思われます。いい加減に考えて、残り物、余り物、どうでもよいものを神に捧げたのであれば、そこまで憤ることはなかったでしょう。

 カインは、神のなさり方に合点がいかなかったのです。神は間違っている、自分の方が正しいと考えたのではないでしょうか。そして、神の賞賛を独り占めしたアベルに対する嫉妬の念に駆られ、狂わんばかりになってしまいました。

 その時、主なる神がカインに向かって語りかけ、自分が本当に間違ったことをしていないなら、正々堂々顔を上げ、胸を張ればよいではないか(6節)。しかし、自分を義として、怒りに身を任せるなら、そこに罪が待ち伏せしていると、神は言われます(7節)。

 けれども、カインは激しく憤っていて、神の言葉に耳を貸すことが出来ません。そして、弟アベルに声をかけ、野原で弟を殺してしまいます(8節)。自らの手で兄弟の関係を破壊してしまったのです。「襲って殺した」という言葉遣いで、この殺人が偶発的に起こったものではない、故意の殺人であることを示しています。

 一方、殺されたアベルは、なぜ兄カインが自分に突然襲い掛かって来たのか、なぜ兄から殺されなければならなかったのか、全く合点がいかなかったことでしょう。

 神の忠告にも拘わらず、カインは自分の心の戸口で待ち伏せしている罪を支配することが出来ず、弟の命を奪う者となってしまいました。その殺人が行われると、すぐに主なる神が現れ、カインに「お前の弟アベルはどこにいるのか」(9節)と尋ねられます。

 この言葉は、アダムとエバが禁断の木の実を食べて隠れた時、「どこにいるのか」(3章9節)とアダムを呼ばれた言葉を思い出します。それに示されるアダムの罪は、神との関係を壊したことでしたが、ここで神は、弟に対する責任、その関係を壊した罪を問われているのです。

 「お前の弟アベルはどこにいるのか」という質問に対して、カインは、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えます(9節)。カインの父アダムは、神の「どこにいるのか」という問いに対して正直に答えていますが、カインはしらばっくれて、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(9節)と偽りの返答をしました。

 しかも、弟アベルは羊飼い、羊の番をする者ですから、「わたしは羊飼いの番人をしなければならないのでしょうか」という、神に対してふてぶてしくも皮肉たっぷりのダジャレで、自分の罪をはぐらかそうとしているのです。

 勿論、主をだますことなど出来ません。冒頭の言葉(10節)のとおり、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(10節)と言われました。ここで、「血」は複数形で記されており、まるで、地に流された血の一滴一滴が叫んでいるかのようです。

 そして、「今、お前は呪われる者となった」(11節)と語られます。不当に殺されたアベルの一滴一滴の血が、不当に自分の命を奪った兄カインに対する呪いを声高に叫んでいたのでしょう。そして、その声が、主の耳に届いていたのです。

 9章5節に「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する」とあります。これは、血は命であり、その命は神のものであるということ、だから、人の血を流し、その命を奪う者は、神からその命を要求されるということです。

 そう考えると、流されたアベルの血が、兄カインの命を要求したのではないかとも考えられます。その意味で、神は一人一人の命を見守り、番をしておられるので、その神の目と耳を盗んで人の命を奪うことなど、全く出来ない相談だということになります。その上、流された血が、神による復讐、呪いを求めて叫び声を上げます。神の御前に、完全犯罪を目論むような行為は、全く無意味です。

 血を流した罪を糾弾した神は、「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(11,12節)と、判決を言い渡されます。

 アダムに対して「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」(3章17節)と言われていました。それに対して、カインに対する判決は、カイン自身がさらに呪われて、彼がどんなに労苦しても、もはや作物を産み出すことはないと言われるのです。

 カインは土を耕す者でした。土から実りを得ることが出来たのに、罪に流された結果、それを完全に失ってしまったのです。農耕で生きることが出来ません。だから、彼は地上をさまよいながら生きる、放浪者となるほかなかったのです。

 16節に「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」と記されています。放浪者に相応しいさすらいの地ノドが、彼の生きていく場となったのです。パレスチナの東方には、アラビアの砂漠が広がっています。あるいは、その砂漠地帯をさまよう様を思い描いての「ノドの地」という表現かも知れません。

 そこは、まさに農耕には適さない、土の実りを産み出すことのない、常に死と隣り合わせの世界です。そのようなところを、水を求め、食物を求めてさまよい、さすらうのです。

 主イエスがタラントンのたとえ話の最後に「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタイ25章30節)と語られました。ノドの地とは「外の暗闇」であり、「泣きわめいて歯ぎしりする」、どんなに悔やんでも悔やみきれない、「後悔先に立たず」という言葉を噛みしめながらさまようしかない場所でしょう。

 ところで、ヘブライ書12章24節に「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」という言葉があります。キリストが十字架で流された血が、アベルの血よりも立派に語ると言われています。

 それは、キリストの流された血が、自分を十字架につけて殺した者たちに対して、恨み言、呪いの言葉などではなく、罪の赦しを求め、救いを願って叫ぶからです。そして、神の御心は、私たちがキリストを信じて、皆救われることにあるのです。

 アダムの罪によって土が呪われ、そのコカインは弟アベルの血を流して更に呪いを身に受けることになりましたが、人の罪の呪いを身に受けて十字架に死なれた主イエスの血は、すべての罪を赦し、呪いから解放して、救いを完成してくださったのです。

 私たちは、キリストを信じ、バプテスマによってキリストの甦りの命の中に入れられました。私たちが神の子とされ、御国を受け継ぐ者とされている保障として、聖霊で証印を受けたと、エフェソ書1章13,14節に記されています。

 聖霊は真理の御霊として、私たちに対し、主イエス・キリストについて証言します(ヨハネ15章26節)。私たちがキリスト・イエスは私たちの主であると言い表すことで、確かに聖霊の証印を受け、御国を受け継ぐ者とされていることが保証、確認されるのです。

 主の恵みと導きに感謝し、日々主を仰ぎ、賛美しましょう。イエス・キリストが私たちの主であることを、その生活を通して証ししましょう。そのために、聖霊の導きと力に与りましょう
  
 主よ、あなたは互いに愛し合えと命じられました。周囲の人々と互いに怒りではなく、愛と平和の関係を築き、守り、支え合うことが出来ますように。あなたが私たちの内に住まわせておられる聖霊を通して、私たちの心に神の愛が注がれています。常に御霊に満たされて、主の愛と恵みの証し人として日々歩むことが出来ますように。 アーメン



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