風の向くまま

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

8月18日(日) エレミヤ書22章

「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」 エレミヤ書22章3節

 これは、ユダの王の宮殿で語られた預言者エレミヤの言葉です(1節)。ユダの王とは、誰と特定されてはいません。注解者は多く、これはヨヤキム王に向けて語られた預言と考えているようですが、すべての王が聞くべき主の御言葉と考えてよいのでしょう。同様の言葉は、21章11,12節にも記されていました。

 冒頭の言葉(3節)で主が「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え」と言われています。「正義」は「ミシュパート(「裁き、公正」の意)」、「恵みの業」は「ツェダカー(「義、正義、正しさ」の意)」という言葉です。口語訳は「公平と正義」、新改訳は「公義と正義」、岩波訳、聖書協会共同訳は「公正と正義」と訳しています。

 「ツェダカー」でいう正しさとは、倫理道徳的な振る舞いの正しさというより、他者との正しい関係のことを表しています。主なる神との関係が正しくされるのは主の恵みによるということで、新共同訳は「恵みの業」と訳しているわけです。

 搾取されている弱い立場の者として、「寄留の外国人、孤児、寡婦」が挙げられます。申命記10章18節に「(主は)孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」とありました。ここに、「権利」と訳されている言葉が「ミシュパート」です。社会的な弱者の権利を守ることが、主なる神の望まれる「公正」な社会なのです。

 そして主なる神は、「もし、あなたたちがこの言葉を熱心に行うならば、ダビデの王位に座る王たちは、車や馬に乗って、この宮殿の門から入ることができる、王も家臣も民も。しかし、もしこれらの言葉に聞き従わないならば、わたしは自らに誓って言う、と主なる神は言われる。この宮殿は必ず廃墟となる」(4,5節)と告げられます。

 この後、3人の王たちに対する言葉が告げられます。即ち、10,11節に「ヨシヤの子シャルム」(列王記下23章30節以下ではヨアハズ)、13~19節に「ヨシヤの子ヨヤキム」(列王記下23章34節以下参照)、そして、24節以下に「ヨヤキムの子コンヤ」(列王記下24章8節以下ではヨヤキン)に対する言葉があります。

 いずれも、厳しい裁きの言葉です。彼らが冒頭の言葉で命じられているところを熱心に守り行わなかったわけです。列王記の記事によれば、3人とも、「先祖たちが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った」(列王記下23章32,37節、24章9節)と言われています。

 シャルム(=ヨアハズ)とヨヤキムの父ヨシヤは、エジプトの王ネコとの戦いで戦死しました(同23章29節)。そこで、ヨシヤの子シャルムが王となりますが(同30節)、3ヵ月後にファラオ・ネコによって退位させられ、代わってエルヤキム改めヨヤキムが即位します。一方、シャルムは、エジプトに連れて行かれ、そこで死にました(11,12節、列王記下23章34節)。

 列王記下23章35節に「ヨヤキムはファラオに銀と金を差し出したが、ファラオの要求に従って銀を差し出すためには、国に税を課さなければならなかった」とあることから、あるいは、ヨヤキムがファラオに金銀を差し出して、それによって王位を手に入れたのではないかとも考えられます。

 その上、「恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を立て、同胞をただで働かせ、賃金を払わない」(13節)と語られています。つまり、自分の王宮を建てるために民を徴用したのですが、預言者はここで、同胞をまるで奴隷のように扱ったと、王を糾弾しているわけです。

 そのような悪事のために、彼の死を悼む者はなく、遺体はエルサレム門外へ投げ捨てられると言われます(18,19節)。ただ、列王記下24章6節には、「ヨヤキムは先祖と共に眠りにつき、その子ヨヤキン(=コンヤ)が代わって王となった」とあり、この表現は、ヨヤキムは自然死で、王墓に葬られたということを示します。

 エレミヤの預言が文字通り実行されたとすれば、それは恐らく、エルサレムがバビロンの手に落ちたとき、王墓が荒らされて、ヨヤキムの亡骸が投げ捨てられたということなのでしょう。

 その子ヨヤキン(=コンヤ)は、即位3ヶ月でエルサレムを包囲したバビロン軍に投降し、捕囚となります(第一次バビロン捕囚:紀元前597年、24節以下、列王記下24章10節以下)。

 ここにその記述はありませんが、ヨヤキン(=コンヤ)がバビロンに連れて行かれた後、代わって王とされたのは、マタンヤ改めゼデキヤです(列王記下24章17節)。彼は、ヨヤキンの甥ということですから、ヨシヤの子で、ヨヤキンの父ヨヤキムやヨアハズ(シャルム)と兄弟ということになります。

 そして、主の目に悪とされることをことごとく行い続けている王たちとユダの民に対して主は憤られ、その御前から捨て去られる事態となり、ゼデキヤがバビロンに反旗を翻します(同20節)。そのために、攻め寄せたバビロン軍によってエルサレムは陥落、都は徹底的に破壊され、ゼデキヤを初め多くの者が捕囚となります(同25章1~21節)。 

 こうして、「もしこれらの言葉に聞き従わないならば、わたしは自らに誓って言う、と主なる神は言われる。この宮殿は必ず廃墟となる」(5節)と語られた主の言葉が実現することになりました。あらためて、「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」(1章12節)と告げられた主の言葉を思い起こします。

 しかし、憐れみに富む神は、切り倒したダビデの家から、御子イエスを生まれさせられました。その王宮は家畜小屋、揺り籠は飼い葉桶でした。そして、十字架の死によって、新しい契約を結ばれます。この正義と恵みの業により、主イエスを信じるすべての人々が永遠の御国の門をくぐることが出来るようになったのです。ハレルヤ!

 この恵みを無駄にせず、すべての人々がその恵みに与り、信仰によって神の公正と正義を豊かに味わうことが出来るよう、聖霊に満たされ、力を受けて、主の証人として用いていただきましょう。絶えず主の御言葉に耳を傾け、託されている主の御業に励む者となりましょう。

 主よ、あなたに背く罪を犯したのは、王だけではありません。その家臣も民もそうです。そして私たちも。けれども、計り知れない御愛により、罪赦され、永遠の命に与り、天に国籍を持つ神の子とされました。今、主イエスを心の王座に迎え、その御言葉に従います。聖霊に満たし、宣教の業に励む者としてください。御名が崇められますように。御心が行われますように。 アーメン




8月17日(土) エレミヤ書21章

「あなたはこの民に向かって言うがよい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデヤ人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる。」 エレミヤ書21章8,9節

 ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルとマアセヤの子、祭司ゼファニヤを預言者エレミヤのもとに遣わし(1節)、「どうか、わたしたちのために主に伺ってください。バビロンの王ネブカドレツァルがわたしたちを攻めようとしています。主はこれまでのように驚くべき御業を、わたしたちにもしてくださるかもしれません。そうすれば彼は引き上げるでしょう」(2節)と言わせています。

 ここに言われる「マルキヤの子パシュフル」は、20章1節の「主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフル」とは別人です。マルキヤの子パシュフルは、ゼデキヤ王に仕える役人でした。彼は後に、他の役人たちと共にゼデキヤにエレミヤを処刑するよう進言しています(38章1,4節)。

 また「ゼデキヤ」は、第一次バビロン捕囚(紀元前597年)で捕囚となったヨヤキン王の叔父で本名をマタンヤと言います。ヨヤキンに代わり、バビロンの王ネブカドレツァルによって王位につけられ、ゼデキヤと名を改めさせられました(列王記下24章17節)。所謂、バビロンによる傀儡政治が行われることになったわけです。

 ところが、やがてゼデキヤはバビロンに反旗を翻します(同20節)。それは、重い税負担のためと、エジプトの援軍に期待してのことでした。しかし、列王記の記者は、「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった」(同20節)と、その理由を説明しています。

 イスラエル軍は、エルサレムを包囲したバビロン軍の攻撃によく耐えて戦いましたが(同25章1,2節)、兵糧がつきて(同3節)都の一角が破られて(同4節)、ゼデキヤは捕えられ(同6節)、町は焼かれ(同9節)、民は捕囚とされました(同11節)。これが、第二次バビロン捕囚(紀元前587年)です。

 ということは、ゼデキヤ王がエレミヤに使いを送ったのは、エルサレム陥落直前の、エジプトが頼りにならず、万策尽きたときだったということではないでしょうか。そこで、溺れる者は藁をも掴む、苦しいときの神頼みとばかり、預言者エレミヤを頼み、主に縋ろうとしたのです。

 それは、ヒゼキヤの代に、アッシリア軍がエルサレムを囲んだとき、イザヤに執り成しを頼むと、主なる神がヒゼキヤの願いを聞いてくださり、アッシリア軍は壊滅したという出来事の再現を求めているかのようです(列王記下19章参照)。

 しかしながら、主は既にユダを断罪して「疫病に定められた者は、疫病に、剣に定められた者は、剣に、飢えに定められた者は、飢えに、捕囚に定められた者は、捕囚に」(15章2節)と判決が言い渡されています。だから「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい」(同1節)とさえ語られていました。

 それを確認するかのように、冒頭の言葉(8,9節)のとおり、主はエレミヤに「あなたはこの民に向かって言うがよい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデヤ人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる」と言われました。

 15章2節の言葉と語順は異なるものの、エルサレムを襲う災いは同じです。つまり、主なる神はゼデキヤ王の苦しいときの神頼みを突っぱねられたのです。主がエルサレムの民の前に置かれた二つの道、バビロンに降伏するという命の道と、エルサレムに留まって戦いと飢饉と疫病によって死ぬ道、この二者択一は、どちらを選んでも「幸い」とは程遠いものがあります。

 エレミヤは、バビロンによってエルサレムの都が剣で打たれ、火で焼き払われてしまうことが、主なる神の御心と信じており、それゆえ、バビロンに降伏し、捕囚とされることこそが、生き残る唯一の道と考えているのです。

 バビロンに行けば、何とかなるということではありません。そうすることが、悔い改めて主に立ち帰り、御心に従って歩むことであり、それによって、命の恵みに与らせて頂く道が開かれるということです。そう信じるからこそ、このように語っているのです。

 言うまでもなく、バビロン行きが幸せを約束してくれるわけではありません。捕囚の生活が安楽であるわけがありません。それは、彼らの背きの結果だからです。だから、火事場で焼け出された人のようにというのは、語弊があるかも知れませんが(第一コリント書3章15節参照)、まさに、命だけは助かるという状況です。

 その苦境の中で、もう一度主なる神を信じ、その御言葉に聴き従うことが求められます。そのように、試練を通して謙遜を学び、主の力強い御手の下で自分を低くすれば、キリストの日に、高めて頂くことが出来ます(第一ペトロ書5章6節)。

 日々主の御言葉に耳を傾けましょう。御心を弁えてそれを実行する者となれるよう、聖霊の導きを祈り求めましょう。

 天のお父様、主イエスと共にその軛を負い、キリストの柔和と謙遜を学ばせてください。そうして、主にある平安と喜びを得させてください。いつも目覚めて信仰にしっかり立ち、悪しきものの誘惑に陥ることがありませんように。主の口から語られる言葉で生きる者としてください。栄光と誉れが世々限りなく神にありますように。 アーメン





8月16日(金) エレミヤ書20章

「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕えられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。」 エレミヤ書20章7節

 預言者エレミヤが、主の神殿の最高監督者の祭司パシュフルによって鞭打たれ、拘留されました(2節)。それは、トフェトばかりでなく神殿の庭でも、エルサレムとそれに属するすべての町々に災いが下されると告げたからです(19章10節以下、15節)。パシュフルは、神殿警護のため、主の霊によって語る預言者をも監督する権限を有していたわけです(29章26節も参照)。

 それに対してエレミヤは、「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。主はこう言われる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。お前も、お前の親しい者も皆。彼らは敵の剣に倒れ、お前は自分の目でそれを見る。わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す」(3,4節)と語ります。

 エレミヤ書で「バビロンの王」への言及は、ここが初めてです。神殿の秩序維持のために権力を行使するパシュフルに対し、主なる神の御言葉に耳を傾けないエルサレムの町は破壊され、パシュフルら宗教指導者たちのみならず、ユダの人々がバビロンの捕囚となるというのです。 

 本来、主なる神がその御名をおき、民のための執り成しの祈りが捧げられる神殿、そして、神の御言葉が説かれるべき場所で、真の神を知り、その御言葉に耳を傾けることが出来ないという状況が、そこにあります。だから、エレミヤは、王や祭司、預言者たちを糾弾する言葉を語らざるを得ないのです。

 それは、神殿でなされていることが、真の神を信じる信仰を妨げるものになってしまっているからです。主がパシュフルを「恐怖が四方から迫る(マーゴール・ミッサービーブ)」に改名されるというのは、何らかの語呂合わせがあるのではないかと思われますが、よく分かりません。パシュフルの存在、その務めが、エルサレムの脅威、恐れを引き起こすものとなっているわけです。

 パシュフルがエレミヤを鞭打ち、拘留したのは、エレミヤに預言することをやめさせるため、屈辱を味わわせようとしてのことです。それは勿論、エレミヤが望んでいることではありません。エレミヤの望みは、彼が語る預言を民が受け入れて、悔い改めることです。

 しかしながら、そういう結果を見ることが出来ません。むしろ、エレミヤが主の預言を民に告げれば告げるほど、民はますます頑なになっていくようです。冒頭の言葉(7節)の通り、語れば語るほど民に嘲られ、罵られ、苦しめられるのです。

 「あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて」という言葉から、あるいは、自分は主なる神に欺かれているのではないか、御用預言者を偽物だと糾弾している自分が、もしかすると偽物なのではないかと疑う思いが窺えます。 

 10節には「わたしには聞こえています、多くの人の非難が。『恐怖が四方から迫る』と彼らは言う。『共に彼を弾劾しよう』と。わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えている」とあります。

 パシュフルに向けて語った言葉が、多くの人々からエレミヤに向かって投げ返されています。つまり、イスラエルの民は、まさにエレミヤこそ偽りの預言者と考え、主の呪いはむしろエレミヤの上に臨むと考えているわけです。

 そのような民の反応を受けて、エレミヤは、もう主の預言を語り告げるのはよそう、彼らに主の御言葉を伝えても無駄になるだけだと考えるようになります。9節に「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい」という言葉が記されています。

 「口にすまい」、「語るまい」というところに用いられているのは、いずれも未完了形の動詞です。つまり、エレミヤはこれまで何度も、もう口にすまい、語ることはやめようと考えたのです。民の拒絶に合う度にその思いは強まって、ここまで来たのです。

 それなのに、黙っていられません。語るまいと思うエレミヤを、その都度主がせっつき、語らずにはおれなくするのです。だから、「主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります」(9節)というのです。

 「わたしの負けです」は、7節の「あなたの勝ちです」を受けて語られているのですが、用いられているのは、「ヤーコール」(「出来る、耐える、獲得する、勝利する」の意)という同じ動詞です。あなたは出来る、わたしは出来ない、あなたは勝利する、わたしは勝利しないといった言葉遣いです。

 語るまいという思いと、語らざるを得ないという思いの板挟みにあって、預言者エレミヤは、「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない」(14節)と語ります。

 この言葉は、ヨブ記3章3節以下の言葉を思い起こさせます。このような事態に陥って、エレミヤは、これでは死んだ方がましだと考えたのでしょう。だからといって、自殺を考えているわけではありません。消極的ながら、自分の思いもすべて、神に委ねているのです。

 M.ルターが若い頃、「わたしには説教者は務まりません。三ヶ月以内に死ぬでしょう」と言ったところ、先輩のシュタウピッツ教授が「君がそれで死ぬというなら、死んだ方がよかろう。ただ、神に対する務めを忠実に行い、生き死にも神の御手に委ねるべきである」と忠告しました。それ以来、務めに忠実に歩み、あの偉大な宗教改革を成し遂げる者となったということです。

 エレミヤも、このような経験から、自らに絶望することによって、もう一度主なる神に従い、御言葉の務めに生きる道を見出したのでしょう。それが、「あなたの勝ちです」(7節)、「わたしの負けです」(9節)という言葉になったのです。

 日ごとに主の御言葉に耳を傾けながら、自分に委ねられている主の使命に、喜びと感謝をもって忠実に仕えて参りましょう。

 主よ、あなたとあなたの御言葉を信頼し、その導きに従います。どうか弱い私たち、不信仰な私たちを憐れんでください。喜びと感謝をもって信仰に歩むことが出来ますように。信仰の創始者であり、完成者である主を常に仰ぎ見て、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜かせてください。 アーメン




8月15日(木) エレミヤ書19章

「それゆえ、見よ、と主は言われる。このところがもはやトフェトとか、ベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る。」  エレミヤ書19章6節

 新共同訳聖書は、19章1節から20章6節までの段落に、「砕かれた壺」という小見出しを付けています。

 1~3節に、「行って、陶工の壺を買い、民の長老と、長老格の祭司を幾人か連れて、陶片の門を出たところにある、ベン・ヒノムの谷へ出て行き、そこでわたしがあなたに語る言葉を呼ばわって、言うがよい」と主がエレミヤに告げられました。

 これは、以前行われた「麻の帯」を用いた預言(13章1~11節)や「妻をめとらない」ということで示す預言(16章1~13節)などと同じく、象徴的な行為で主なる神の御言葉を告げる「行動預言」と呼ばれるものです。

 「壺」はヘブライ語で「バクブーク」といいますが、壺の中のものを注ぎ出すときの「ドクドク、ゴボゴボ」といった擬声音が器の名となったようです。

 「陶片の門」は聖書中、ほかに言及がなく、どこにあったのか不明です。ネヘミヤ2章13節などに言われる「糞の門」と同じではないかと考える学者も多いと、岩波訳の脚注に記されています。「陶片の門」という名がついたのは、門の近くに「陶工の家」(18章1節)があり、陶片が捨てられる場所がその側にあったからだろうと想像されます。

 冒頭の言葉(6節)で、「トフェト」とは「燃やす」という言葉と関連して、暖炉とか火の祭壇という意味に解釈されます。7章31節に「彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた」と記されていました。

 このことについて、列王記下23章10節に「(ヨシヤ)王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、誰もモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした」という記事があります。モレクとは、ヘブライ語の「王」(メレク)に「恥ずべきもの」(ボシェト)の母音をつけて発音したもので、「恥ずべき王」という意味であろうと思われます。

 列王記上11章7節に「アンモン人の憎むべき神モレク」とあり、モレクがアンモンの国家神であることを示しています。同11章33節には「アンモン人の神ミルコム」と記されています。この「ミルコム」というのが本来の呼び名なのでしょう。イザヤ章57章9節に「メレク神」とあり、イスラエルの人々は「メレク」と呼んでいたのではないでしょうか。 

 「息子たちを火で焼く」とは、最も高価な犠牲を捧げて、神に自分たちの祈りを是非とも聞き届けて欲しいと願う行為です。特にそれは、危機的な状況からの救いを求めるようなときに行われます。いわゆる「人身御供」の一形態ということです。

 列王記下3章27節に「そこで彼(モアブ王)は、自分に代わって王となるはずの長男を連れて来て、城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてささげた」とありました。モアブの神ケモシュへの人身御供が「イスラエルに対する激しい怒り」となって、イスラエル軍が撤退することになり、モアブ王は危機を脱することが出来ました。

 しかるに主なる神は、「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない」(レビ記18章21節)と、律法で明確に禁止しておられます。ゆえに、それを行う行為は子ども殺しにすぎず、まさにそこは、冒頭の言葉のとおり、「殺戮の谷」と言わざるを得ないところになっているというわけです。

 そのような場所が、エルサレム神殿のすぐ傍らにあるというのは、実に驚きです。これは、ごく一部の人が、そのような主に背く行為をしていたというのではなく、王がそれを禁止しなければ止められない、否むしろ王自らそれを行っていたというほどの影響力を持っていたわけです(列王記下16章3節、17章17節、21章6節)。

 それは逆に、まことの神を信じる信仰が失われて来ていることを、如実に表していると言えます。そこで、神はエレミヤに壺を買わせ(1節)、それをベン・ヒノムの谷まで持って行かせ(2節)、そして共に連れて行った民の長老や、長老格の祭司たちの前でその壷を砕かせました(10節)。

 そして、「陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く。人々は葬る場所がないのでトフェトに葬る。わたしはこのようにこのところとその住民とに対して行う、と主は言われる。そしてこの都をトフェトのようにする。エルサレムの家々、ユダの王たちの家々は、トフェトのように汚れたものとなる」(11節以下)と言わせました。

 ベン・ヒノムの谷は、エルサレムの都の南にあるヒノムの谷のことで(ネヘミヤ記11章30節)、東の端がケデロンの谷に接しています。ヒノムの谷をヘブライ語で「ゲー・ヒノム」と言います。

 マタイ5章22節に「火の地獄」という言葉があります。新改訳は「燃えるゲヘナ」と訳しています。新共同訳聖書は「ゲヘナ」を「地獄」と訳しているのですが、この「ゲヘナ」は、ヘブライ語の「ゲー・ヒノム」のギリシア語音写なのです。

 ヨシヤ王の宗教改革で、ベン・ヒノムの谷にあるトフェトが汚されました(列王記下23章10節)。それは、その場所で二度と息子・娘を燃やして献げる儀式を行うことが出来ないように、そこを町の廃棄物や罪人の遺体の焼却場にされたということです。そうしたことから、「ゲヘナ」が永遠の刑罰を受ける場所を表すようになりました。

 12節に「この都をトフェトのようにする」とあります。エルサレムの都がトフェトのようになるとは、トフェトのある場所がヒノムの谷、ゲヘナなのですから、エルサレムの都がゲヘナになるということです。神がご自身の名を置かれた永遠の都エルサレムが、永遠の刑罰が降る地獄となるというのです。それが、人間の罪なのだと思います。

 人間は、神聖なものを汚します。そして、清めることは出来ません。最も神聖なもの、それは神の御名です。主の祈りにおいて「御名を崇めさせたまえ」と祈りますが(マタイ6章9節)、原語は「あなた(主)の名が清められますように、聖なるものとされますように」という言葉です。清めれらるように、ということは、御名が汚されているということです。

 誰がどのようにして、主の御名を汚したのでしょうか。それは、私たちの不従順、不信仰です。だから「御名が清められるように」と祈るのです。それでは、誰が清めるのですか。それは、御名を汚した私たちに出来ることではありません。主ご自身が清められるのです。だからこそ、天の父なる神にそう祈り願っているのです。

 神はご自分の御名をどのようにして清められるのでしょうか。それは、神の御子イエス・キリストが私たちのすべての罪の呪いをご自身の身に受け、血を流されることによってです。それによって、私たちは罪赦され、神の子どもとされ、永遠の御国に本籍を持つ者として受け入れられるのです。だから、神を「わたしたちの父」と呼ばせていただくことが出来るのです。

 慈しみ深く憐れみ豊かな主に信頼し、謙虚に主の御言葉を受け入れ、喜びと感謝をもってその導きに従いましょう。

 主よ、私たちの傲慢と不信仰の罪をお赦しください。御名が清められますように。御国が来ますように。うなじを柔らかくし、主の御言葉に聞き従わせてください。私たちを試みに遭わせず、悪しきものからもお救いください。力も御国も栄光も、すべてあなたのものだからです。 アーメン


8月14日(水) エレミヤ書18章

「彼らは言った。『それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから。』」 エレミヤ書18章12節

 1節以下に、主なる神とイスラエルの関係が、陶工と粘土というたとえで語られます。陶工が主、粘土がイスラエルというわけです。これは、イザヤ書29章16節、45章9節、64章7節、そして、新約聖書ローマ書9章20節以下にも取り上げられている表象です。

 陶工は、粘土をよくこねた後ろくろで思うままに成形し(3節)、それに上薬をかけて窯で焼き、器を作ります。気に入らなければ何度でも壊し、作り直します(4節)。これは、神が繰り返し背き続けるイスラエルを、ご自身の望まれる理想的なかたちに作り変え、再生されると解釈することが出来ます。

 ただし、この箇所では想定されていませんが、作り直せるのは窯で焼く前までの段階で、薬をかけて火を入れてしまえば、もう後戻りは出来ません。温度の加減で思う色が出なかったり、変形してしまったようなものは、砕かれ、捨てられるほかないのです。

 最も強調されるべき解釈は、陶工と粘土の関係です。つまり、陶工は、自分の思いのままに粘土を扱い、土器を作ります。気に入らなければ、壊して作り直します。この関係が逆転することはありません。陶工の作風が気に入らないので、陶工を取り替えるとか、はたまた陶工が粘土にこびて、粘土が願う通りの形に仕上げるなどということは、あり得ません。

 主なる神とイスラエルの関係はどうでしょうか。主は「わたしの民はわたしを忘れ、むなしいものに香をたいた。彼らは自分たちの道、昔からの道につまずき、整えられていない、不確かな道を歩んだ」(15節)と言われます。

 「むなしいもの」(シャーヴェ)は、「むなしさ、偽り」という普通名詞で、口語訳はこれを「偽りの神々」と訳しています。エレミヤ書にシャーヴェが5回用いられていますが。異教の偶像を意味する言葉として用いられるのはここだけです。真の神ならぬ、異教の偽りの神々に頼るのは空しいことだという表現と言ってよいでしょう。

 この箇所は、2章13節の「生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを」という言葉と同様に、主なる神との確かな関係、その生活を捨てて、空しい異教の偶像に依り頼んだ結果、主の保護を失い、途方に暮れる結果となるということです。

 かつて、ヒゼキヤの代にアッシリアの大軍にエルサレムの都が包囲され、絶体絶命の危機に陥ったとき、主が御使いによってその大軍を打たれ、一夜にして解放されたという出来事があり、人々の心にエルサレムの都の不滅神話が宿っていました。だから、主の裁きによってユダとエルサレムが滅亡し、多くの人々が捕囚となると語るエレミヤの言葉は、聞き捨てならないものでした。

 18節に「エレミヤに対する計略」が記されています。これは、11章19節以下などにも記されていたことですが、同じ事件というよりも、エレミヤに危害を加えよう、いや殺してしまおうという策動が、繰り返しなされていたということを示しているのでしょう。

 イスラエルの民は、「祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい」(18節)と語ります。これは、自分たちは御言葉に従っている。エレミヤの方が、まるでバビロンの御用預言者でもあるかのごとき空しい預言を繰り返して、神に背いている。それに耳を貸すわけにはいかないということです。

 しかし、そのような民の態度こそ、主が「見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ」(11節)と言われるのに対して、冒頭の言葉(12節)のとおり、「それは無駄です。我々は我々の思い通りにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから」と答えていることなのです。

 自分で「おのおのかたくなな悪い心のままに振る舞いたい」という言い方をするとは思えませんが、しかし、主の御言葉に耳を傾けず、その導きに従おうとしない態度は、頑なな悪い心のままに振る舞うことだと示しているのです。このように、自分をわきまえず、主に対して誤った態度、思い上がった心の姿勢でいることを、聖書は「罪」と呼んでいます。

 主なる神は罪を裁かれますが、イスラエルを断罪し、災いを下すと宣告した「その民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる」(8節)と言われます。11節は、まさにその悔い改めを呼びかける、主の招きの言葉です。

 悔い改めの呼びかけを拒絶するならば、宣告どおりの裁きが自らの上に下されることになります。そして、民の罪を裁く災いが臨んだときに主の助けを叫び求めても、それはもはや手遅れです。

 パウロがローマ書11章20節で「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と告げ、同22節に「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」と記しています。

 主は、不信仰不従順のイスラエルの民をその幹から切り離し、かわりに私たち異邦の民を接ぎ木してくださいました。本来の枝であるイスラエルに厳しい姿勢で臨まれた主は、接ぎ木された枝である私たちをも厳しく取り扱われることでしょう(同21節)。

 パウロの告げるとおり思い上がらず、主を畏れ、主の慈しみの御手の下に身を低くし、朝ごとに御言葉に耳を傾け、常にその導きに従って歩みましょう。

 天の父よ、主イエスはまことのぶどうの木、私たちはその枝です。主イエスにしっかりとつながり、豊かに実を結ぶことが出来ますように。そのために、私たちの心を探り、御前にふさわしくないものを取り除いてください。そして、聖霊を通して注がれる神の愛と恵みで私たちの心を常に満たしてください。御名が崇められますように。 アーメン





8月13日(火) エレミヤ書17章

「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」 エレミヤ書17章7,8節

 17章の最初の段落(1~4節)では、バアルの祭壇やアシェラ像という異教の神々を祀るユダの人々の罪が指摘されています。それは、鉄のペン、ダイヤモンドのたがねで民の心の板、その意識に深く刻み込まれていて、容易に消し去ることが出来ません(1節)。それゆえ、富と宝を敵に奪われ(3節)、嗣業の地を失い、敵の奴隷とされる(4節)と、その罰が語られます。

 次の段落(5~8節)は、新共同訳聖書では「主に信頼する人」という小見出しのつけられています。ここでは、「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主から離れ去っている人は」(5節)と語られ、一方、「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる」(7節)と言われます。

 イザヤも、「人間に頼るのをやめよ」(イザヤ書2章22節)、「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」(同31章3節)と語っていました。それは、主に信頼せず、軍事力に頼ることで、危機に際して主の保護を失うことでした。

 エレミヤは、あるいは、ヨシヤ王の宗教改革のことを言っているのかも知れません。確かに、それは主を喜ばせるものだったでしょう。そのことに加え、アッシリアの弱体化もあって、ヨシヤは国力を増大させることが出来ました。だからといって、ヨシヤを信仰の対象にすることなど出来はしません。

 ヨシヤ王がエジプトのファラオ・ネコとのメギドの戦いにおいて戦死したのは、「神の口から出たネコの言葉を聞かなかった」(歴代誌下35章22節)からです。そして、その背後にヨシヤの高ぶりが窺えます。

 そのことが、「荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする」(6節)と語られています。それが、生ける水の源である神から離れ去り(12節、2章13節)、その保護を受けられなくなってしまった結果なのです。

 それに対して、主に信頼する人は、冒頭の言葉(7,8節)のとおり、主がその人のよりどころとなり、それゆえ、「彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」という祝福に与ることが出来るのです。

 このことについて、詩編1編にも同様の対比があります。そこでは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(同2節)が幸いとされています。

 そして、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」(同3節)と詠われていて、与えられる祝福も酷似していることから、主を信頼するとは、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむことと解釈してもよさそうです。

 このように、主を信頼する者とそうでない者との相違は歴然というところですが、事態はそんなに単純でないことは、エレミヤも知っています。12章2,3節で「なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って実を結んでいます」と語っていました。

 ここに来て、エレミヤがこのように語るのは、主が15章19節で「もし、あなたが軽率に言葉をはかず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする」と語られたので、彼の信仰が目覚めたということを示しているのではないでしょうか。あるいは、主を信頼するという言葉を語ることで、もう一度、エレミヤ自身の信仰が奮い立たせられているといっても良いのかも知れません。

 使徒パウロが、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント書4章17,18節)と記しています。

 そのころパウロが見、また味わっていた艱難は、決して「一時の軽い」ものではなかったと思いますが(同11章23節以下)、パウロはしかし、それによって心萎えてしまうことはありませんでした。彼の目には、永遠の重い栄光が見えていたからです。

 それこそ、エレミヤが「水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」と語っている祝福の姿ではないでしょうか。

 主を信頼して、その教えを絶えず口ずさみましょう。主に堅くつながり、豊かに実を結ぶ枝となるよう、手入れしていただきましょう。 

 主よ、私たちに信仰の恵みをお与えくださり、感謝致します。絶えず感謝と喜びをもって、御言葉を聴き、信仰の言葉を昼も夜も口ずさみます。私たちの耳を開いてください。御心を弁えることが出来ますように。キリストの言葉を豊かに宿らせてください。御名の栄光をあらわし、主にあって実を結ぶことが出来ますように。 アーメン





8月12日(月) エレミヤ書16章

「『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。」 エレミヤ書16章15節

 14節以下の段落には、「新しい出エジプト」という小見出しがつけられています。これは、前の段落で民が神の裁きにより、「わたしはお前たちをこの地から、お前たちも先祖も知らなかった地へ追放する」(13節)と言われていたことを受けて、バランスを取るかのような配置です。

 まず14節で、「見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、『イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる』とは言わず」と言い、続けて冒頭の言葉(15節)のとおり、「『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる。わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる」と告げています。

 イスラエルの人々は、かつてはエジプトの奴隷でしたが、主の憐れみにより、モーセに率いられてエジプトを脱出、400年あまりの奴隷生活にピリオドを打ちました。彼らは40年間荒れ野を旅した後、約束の地に導き入れられ、自分たちの国を建設することが出来ました。

 イスラエルをエジプトから解放するためになされた主なる神の偉大な救いの御業を記念するために、過越祭をはじめ(出エジプト記12,13章)、七週祭、仮庵祭を守ることが定められました(レビ記23章、申命記16章など)。十戒は、荒れ野を旅している途中で与えられました(出エジプト記20章)。

 イスラエルの民は、自分たちをエジプトから解放してくださった主と契約を結びました(同24章)。その契約とは、イスラエルの民が主に聴き従うなら、主がイスラエルの神となられ、イスラエルの民をご自分の宝、祭司の王国、聖なる国民となるというものです(同19章4~6節)。ここから、神の民イスラエルの歴史が始まったと言ってよいでしょう。

 それがここで、人々が自分たちの主なる神を呼ぶのに、「エジプトから導き上られた主」と言うのではなく、「北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主」(15節)と言うようになると言われるのです。

 「北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られる」とは、第二の出エジプトというべき出来事で、北の国バビロンに追いやられたユダの民が、捕囚の苦しみから解放されて、エルサレムに帰ることが出来るということです。

 15章2節に「捕囚に定められた者は、捕囚に」とありました。疫病や剣、飢えに定められたとは、死を意味したことでしょう。しかし、捕囚に定められた者には、希望があります。「生きて虜囚の辱を受けず」とは東条英機陸相の戦陣訓の一節ですが、しかし、生きていればこそ、明日に希望を持ち、新たな恵みを味わうことが出来ます。

 イスラエルの民がバビロン捕囚の憂き目を見るのは、彼らが他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、主を捨て、主の律法を守らなかったという罪と悪のゆえでした(11,12節)。主は「わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる」と言われます(18節)。

  現実には、第一次バビロン捕囚(列王記下24章14節以下)が紀元前597年、第二次バビロン捕囚(同25章6,11節)が前587年に起こり、ペルシアのキュロス王による解放が前538年のことですから、先の者は60年間、後の者たちは50年間、バビロンで捕囚として過ごしました。

 「人生50年」と考えると、バビロンに捕囚として引いて行かれた第一世代がエルサレムに帰って来くるとは、なかなか考え難いところです。帰国を果たせるのは、子あるいは孫ということになります。とき満ちて解放の恵みを味わうまで、民が神の言葉に耳を傾け、落ち着いて捕囚の地で家庭を築き、子をなし、孫を持つようにと、イスラエルの民に求めておられるわけです(29章4節以下参照)。

 19~20節に「あなたのもとに、国々は地の果てから来て言うでしょう。『我々の先祖が自分のものとしたのは、偽りで、空しく、無益なものであった。人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか』」とあります。

 バビロンから解放されるのは、イスラエルの民だけではなく、様々な国の人々がいます。彼らは、偶像の空しさ、無益さを知り、天と地を造られたまことの神を求めてやってくるのです(10章11節、32章17節参照)。

 エレミヤは31章で「新しい契約」について語ります。この契約は、イエス・キリストの十字架の贖いによって実現しました。そして、主イエスを信じる者は誰にでも、神の子となる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。今日、私たちもその恵みに与ったのです。まさに、「あなたのもとに、国々は地の果てから来て言う」という御言葉が、ここに成就しているのです。

 イスラエルの不従順の結果、神の恵みと憐れみがイスラエルの民から異邦の民にまで広げられました(ローマ書11章30~32節)。イスラエルが捕囚から解放されるのと同様、私たちが神の子とされることも、まさに一方的な神の恵みでした。

 この恵みに感謝し、日々新たな思いで神の前に進み、その御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、恵みと導きを感謝します。絶えず新しい聖霊の油を受け、心に喜びと感謝の火を燃やし、周りの人々に主の愛と恵みを力強く証しすることが出来ますように。日々新しい恵みを受けて、絶えず新しいほめ歌を歌わせてください。軽率に言葉を吐かず、熟慮して、信仰に基づく言葉で語ることが出来ますように。 アーメン





8月11日(日) エレミヤ書15章

「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする。」 エレミヤ書15章19節

 1節で「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい」と、災いを下す決定はもはや変更されないことを確言されます。

 モーセは、荒れ野の旅において主なる神の前に呟き、背いて怒りを買ったイスラエルの民のために、何度も執り成しの祈りをし、主はその祈りを聞いて災いを思い返されていました(民数記11章、14章、17章など)。

 また、ミツパで聖会を開いていたイスラエルにペリシテ軍が襲いかかろうとしたのを、サムエルの執り成しを受けて、主がペリシテを討たれ、サムエルの時代を通じてペリシテが抑えられたということが、サムエル記上7章5節以下、13節に記されています。

 モーセとサムエル、イスラエルを代表する祈り手二人の、イスラエルのための執り成しの祈りを聞いてくださらないということは、もはや主が災いを下されるのを止めることは出来ないということです。

 主は、疫病か剣か飢えか、もしくは捕囚によって、イスラエルを罰すると言われます(2節)。最初の三つは、14章12節にも挙げられていました。そしてこれらは、民の命を奪うものです。

 最後に「捕囚」と言われ、それは過酷な運命に違いありませんし、国が滅びることではありますが、しかし、民は捕囚の地で生きることになります。彼らがやがてイスラエルを再建するのですが、今はまだ、そのことが明らかにはされていません。

 エレミヤの告げるこの預言はまったく不人気で、「争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている」(10節)と言われるほどに民の間に物議を醸し、それによって迫害を受けました(15節参照)。

 ここに来てエレミヤは、「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」(10節)と、あのヨブのように、自分の運命を呪う言葉を口にします(ヨブ記3章1節以下参照)。そう語るのは、1章19節で「わたしがあなたと共にいて、救い出す」と言われた主の言葉が履行されていないとエレミヤが考えたからでしょう。

 新共同訳、口語訳は11節をエレミヤの言葉としていますが、原文は、冒頭に「主は言われる(アーマル・ヤハウェ)」と記されています。つまり、11~14節はエレミヤが主の言葉を引用して語ったことと解釈すべきではないでしょうか。であれば、訳文が少々違ってきます。

 岩波訳によれば、11節は「ヤハウェは言われた、『必ずわたしは、よきことのために、あなたを解き放つ。必ずわたしは、災いのときに、また苦難のときに、敵をして、あなたに執り成しをさせる」とされます。新改訳、聖書協会共同訳もほぼ同様です。この言葉によると、エレミヤは上記1章19節とともに、11~14節の主の御言葉の実現を求めて、現状を訴えていることになります。

 そして、主がこの御言葉の約束をいつ実行してくださるのか、いつまでも果たされないのは、もしや主に見捨てられたのか、主に欺かれたのかとさえ考えてしまったのです。18節に「なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました」と語っています。

 ここで「当てにならない流れ」とは、パレスティナに見られる水の流れていないワーディといわれる川のことです。主なる神を「生ける水の源」(2章13節)と呼んでいたのに、ワーディのようになられたと言わなければならないのは、なんと皮肉なことでしょう。

 16節の「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました」という言葉は、恐らく、エレミヤの召命の出来事を指していると思われます。1章6節では「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と、預言者就任を拒むような姿勢を見せていました。

 それをここで、「わたしはそれをむさぼり食べました」と語って、預言者として嫌々働いて来たのではない、むしろ喜んで仕えて来たことを、「あなたはご存じのはずです」(15節)と言い、故に「わたしを思い起こし、わたしを顧み、わたしを迫害する者に復讐してください」と願うのです。つまり、喜び躍っているはずの心に、主に対する不信や不満が燻っているわけです。

 主から見捨てられたと考えているエレミヤに、冒頭の言葉(19節)のとおり「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう」と主は言われます。主なる神は決してエレミヤを見捨ててはいないゆえに、主への信仰とその使命に固く立つようにと招いているのです。

 「帰ろうとする」、「帰らせ」は、「向く、帰る(シューブ)」という言葉です。エレミヤは、民に向かい、神に対か得るように、神の方を正しく向くようにと呼びかけていました(4章1節など)。いつの間にか、エレミヤもずれてしまっていたのでしょうか。

 けれども、イスラエルの民の罪をおのが罪として告白していたエレミヤに対し、改めて主のもとに帰れと言われているのではないかとも思われます。そしてそれは、捕囚とされる人々に対しても、悔い改めを呼びかける言葉として告げられているのではないでしょうか。

 御言葉を聴いたとき、心燃やされて立ち上がっても、この世の現実にぶつかってその炎が吹き消され、情熱が冷めてしまうというのは、私たちがよく経験するところです。しかし、私たちに求められているのは、情熱や熱心さなどではありません。主なる神とその御言葉に信頼する信仰です。

 「あなたが軽率に言葉を履かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする」(19節)と言われているごとく、私たちの心から御霊の火を消さないように、むしろ新たな御霊の油が注がれるように、信仰に固く立ち、聖霊を通して示される主の言葉を信仰をもって語りましょう。

 主よ、あなたは私たちの弱さをよくご存知です。いつも心が聖霊に満たされ、喜び、心躍らせて主にお仕えすることが出来ますように。絶えず御言葉に基づく信仰の言葉を語らせてください。常にあなたが共にいて、私たちを助けてくださることを信じ、感謝ます。御心が行われますように。 アーメン




8月10日(土) エレミヤ書14章

「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ。」 エレミヤ書14章14節

 1節に「干ばつに見舞われたとき」とあります。イスラエルはこれまで度々干ばつに見舞われました(創世記12章10節、26章1節、41章54,57節、ルツ記1章1節など)。その度に、イスラエルの民は主なる神に救いを求めたことでしょう。

 けれども、今回エレミヤに臨んだ主の言葉は、「ユダは渇き、町々の城門は衰える。人々は地に伏して嘆き、エルサレムは叫びをあげる」(2節)というものでした。即ち、今回エルサレムが干ばつに見舞われたのは、主によるということです。

 エレミヤは、「我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。我々の背信は大きく、あなたに対して罪を犯しました」(7節)と、エレミヤ自身がイスラエルの一員として、イスラエルを代表するようにして、主に向かって罪責を告白しています。

 「御名にふさわしく行ってください」と語り、続く8節で「イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ」と呼びかけ、「なぜあなたは、とまどい、人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください」(9節)と、主の憐れみを願い求めます。

 2章13節に「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」という言葉がありました。救いを求める声に主が答えてくださらないのは、イスラエルの民が、生ける水の源である主を捨てたからです。それこそ、干ばつを招いた行為だったのです。

 11,12節に「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」と記されています。

 この民のために祈ってはならないというのは、7章16節、11章14節についで3度目です。3度目の正直ということでしょうか。主なる神はイスラエルの祈りを聞かず、献げ物を受け入れず、「剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」という決意をされたのです。

 エレミヤが、偽りの預言者たちの告げたイスラエルの民への言葉を取り上げて、「預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』と」(13節)と主に告げます。

 冒頭の言葉(14節)は、それに対する主の答えです。主は、「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない」と言われました。

 「わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」(12節)と言われる主の言葉が真実なら、そして勿論、主は真実であられるので(申命記32章4節、詩編89編9節、イザヤ書25章9節など)、「お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない」(13節)という預言者たちの言葉は、まさに「偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によって」語られたことになります。

 ただ、イスラエルの民にとって、滅びを語るエレミヤの預言と、主の名によって「確かな平和を与える」と告げる預言者たちの預言、どちらが真実な主の言葉であるか、見分けがつくでしょうか。実際には、とても難しい問題だと思います。

 預言者たちの預言が真実であれば、真に幸いですが、エレミヤの預言が真実であれば、イスラエルに災いが下されることになります。そうなったとき、預言者たちに欺かれたと悟っても、もはや手遅れということになってしまいます。

 しかし、預言者たちの数の上から、そして語られる言葉から、エレミヤの預言を真実と受け止めることは、決して容易いものではありません。「こっちの水は苦いぞ」という言葉よりも、「こっちの水は甘いぞ」という言葉の方に誘われてしまうからです。常日頃から、主の御言葉を聴き、その真実、神の御心をわきまえる訓練が必要でしょう。

 主イエスが、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」(ヨハネ福音書7章16,17節)と言われました。

 さらに、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同37,38節)と語られました。

 絶えず主の御言葉に耳を傾け、主が約束された「生きた水が川となって流れ出るようになる」という恵みに与らせて頂きましょう。

 主よ、私たちは生ける水の源であるあなたを離れて、生きることは出来ません。絶えず私たちを御言葉と御霊によって、正しい道に導いてください。主がお与えくださる命の水に与り、私たちの内から永遠の命に至る水が泉となってわき上がりますように。聖霊に満たされて、主の恵みを証するものと慣らせてください。弱い私たちを試みに遭わせないでください。悪しきものから絶えずお救いください。御名が崇められますように。 アーメン




8月9日(金) エレミヤ書13章

「あなたたちが聞かなければ、わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ。」 エレミヤ書13章17節

 主なる神がエレミヤに、「麻の帯を買い、それを腰に締めよ」(1節)と言われます。エレミヤはその通りにします(2節)。次に、「あなたが買って腰に締めたあの帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい」(4節)と命じられます。エレミヤはその通りにしました(5節)。

 暫くして、「立って、ユーフラテスに行き、かつて隠しておくように命じたあの帯を取り出しなさい」(6節)と告げられます。エレミヤは言われたとおりに出かけて行き、帯を取り出しました。すると、それは腐ってしまっていました(7節)。

 これは、エレミヤに与えられた最初の行動預言(19章10節以下、27~28章参照)で、その行動が神から与えられた預言になっているものです。8節以下に、その意味が解説されています。帯はイスラエルで、神の民としての名声、栄誉、威光を示そうと思ったのだが、傲慢にも彼らが聴き従わないので、神にとって全く役に立たないものになったというわけです(10節)。

 ここで、帯を「ユーフラテス(原語:ペラート)」に行って隠せと言われています(4節)。しかしながら、行動預言として、千km以上も離れているユーフラテス河畔に隠すところをイスラエルの民に見てもらい、さらにもう一度行って、それを掘り出すのを見せるというのは、想像しにくいところです。民が預言者と共に4千kmを移動するとは、およそ考えられないからです。

 そこで、エレミヤの出身地アナトトの北数kmのところにあるアイン・ファラーでそれを行い、それをユーフラテスに見立てたのではないかという説が有力ではないか思われます。ギリシア語訳旧約聖書(アクィラ訳)が「フーラー」としているのも、この説を後押ししています。

 これは、イスラエルの民がバビロンに連行され、そこで異教の神々に仕えて駄目になったということではなく、ヒゼキヤの代にアッシリアに降伏し、賠償金を支払ったことがありますが、そうした折りに、アッシリアの宗教に大きな影響を受け、それ以降、主なる神に従わなくなったことを言っているものと思われます(11節)。

 既に裁きは確定し、災いが降されることになったので、執り成すこと能わずと言われておりました(11章11節以下、14節)。その災いは、異教の神々によって役立たずにされたイスラエルの民を、主の嗣業の地から抜き取って捕囚の地ユーフラテスへ連れ去ることです。

 そのことについて、12節以下に理由が示されます。主が「かめにぶどう酒を満たすべきだ」と言われると、イスラエルの民は「かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでも言うのか」と応えるだろうと言われます(12節)。

 ヘブライ語の「かめ」(ネベル)と「愚か」(ナバル)が似ているので、掛け言葉として「大酒飲みの愚か者」といった意味が込められているのでしょう。また、「かめにぶどう酒を満たすべきだ」とは、酒飲みが酒席で戯れに自分たちを「かめ」に譬えて語ったことわざと言われます(岩波訳注参照)。

 ここでは、王や祭司、預言者を含め、イスラエルの民が神に聴き従わず、おのが欲を満たすことに営々としていることを表し、その結果、神の怒りの杯を飲み干さなければならなくなったわけで(13節)、神の怒りが注がれたかめは、回復不可能なまでに粉微塵に砕かれるのです(14節)。

 15節以下は、あらためてイスラエルの民を悔い改めへと招いているかのようです。ただしかし、そのときエレミヤは、民がその言葉に耳を傾けると期待していたとは思えません。彼らの前に横たわっているのは、「光」ではなく、「死の陰」(詩編23編4節参照)であり、「暗黒」です(16節)。

 民は愚かにも、自分たちに運命が破滅的であることを悟らず、前途に栄光が待ち受けているように思い上がっていて、災いを語る預言者の言葉に耳を傾けません。だから、結局、滅びを刈り取らなければならないのです。

 冒頭の言葉(17節)で預言者が嘆き、涙するのは、同胞に災いが下されるからですが、やがて民も、おのが傲慢さ、愚かさを悟って嘆き、涙するときがやって来ます。しかしながら、そのときにはもはや後の祭りです。

 それが、18節で語られる、王と太后への告知で明らかになります。この「王と太后」とは、列王記下24章8節に記されているヨヤキン王とその母ネフシュタのことでしょう。王冠が頭から落ちたとは、即位後三ヶ月でバビロン軍に包囲され(同10節)、退位させられたということです(15節)。バビロン王ネブカドネツァルは、ヨヤキンに替えてマタンヤを王としました(同17節)。

 エルサレムが包囲されたということは、南ユダの町々はバビロンに攻め落とされたということで、それが、「ネゲブの町々は閉じられて開く者はなく」(19節)と言われています。そして、「ユダはすべて捕囚となり、ことごとく連れ去られ」(同)ます。

 それで、イスラエルの人々は涙をもって悔い改めるかといえば、そうはなりません。傀儡の王となったマタンヤあらためゼデキヤは、主の目に悪とされることをことごとく行い(列王記下24章19節)、その結果、神に捨て去られることになります(同20節)。彼はバビロンの王に反旗を翻し、破滅を迎えます(同25章1節以下)。

 「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか」(23節)という問いは、変えることは出来ないという答えを予想させます。そして、イスラエルの罪深さは変わらない、自らそれを変えることは出来ないと告げるのです(27節)。

 その背きの罪のゆえに、災いが降るのは確定しています。けれども、預言者が同胞イスラエルの民を思うに、憐れみの涙を禁じ得ないのだとすれば、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださる憐れみ豊かな神が(エフェソ書2章4節以下)、エレミヤの涙に目をつぶり、イスラエルの嘆きの声に耳を貸さないということがあるでしょうか。

 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ書49章15節)と言われる主です。

 「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ書5章8節)。その深い憐れみが、私たちを真の悔い改めへと導くのです(同2章4節)。

 自分を変えることの出来ない私たちのため、キリストがすべての罰と呪いをその身に引き受けて死に、私たちを救ってくださいました。その豊かな憐れみに感謝しつつ、その導きのもとに留まり、キリストとともに歩ませていただきましょう。

 主よ、愚かな私たちを憐れみ、絶えず悔い改めへと導いてくださることを感謝致します。聞く耳を開かせてくださり、常に御言葉に耳を傾けさせてください。心の目を主に向け、御足跡に従って歩ませてください。この喜ばしい音信を、私たちの家族、隣人に語り伝えることが出来ますように。聖霊を通して、私たちの心に主の愛を満たしてください。 アーメン

 
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