風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

12月13日(金) アモス書4章

「見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を乗り越えられる。その御名は万軍の神なる主。」 アモス書4章13節

 4章でアモスは、イスラエルに対して具体的な告発を行います。

 先ずサマリアの女性たちに向かって、「サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ」(1節)と呼びかけ、彼らは弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げていると、その罪を告発します。「バシャンの雌牛」とは、食用に供される牛の品種を示しており、サマリアの女性たちを侮辱して、憤らせる表現です。

 女性が、「酒を持って来なさい、一緒に飲もう」(1節)と夫に向かって言い、夫は女性に十分な酒を用意するために、弱い者、貧しい者から搾取しているということでしょう。ということは、ここで裁かれているのは、北イスラエルにおける支配者層の人々ということになります。

 その深酒と不公正のゆえに彼らは裁かれ、「ヘルモンの方へ投げ出され」(3節)ます。ヘルモン山はイスラエル北方、アラムとの国境線付近にそびえる標高2800メートルを超える高峰です。ヘルモンの方へとは、北方へということで、アラムのことを指しているのでしょうか。はたまた、さらに北方の強国アッシリアのことを考えているのでしょうか。

 「投げ出される」は、2節の「肉鉤で引き上げられ」、「釣鉤で引き上げられる」との関連で、北方の国へ捕らえ移され、捕囚とされることと読めます。

 次いで4節で、「ベテルに行って罪を犯し、ギルガルに行って罪を重ねよ」と語ります。ベテルやギルガルには、古くから聖所が置かれ、民はそこで神を礼拝していました。「罪を犯し」、「罪を重ねよ」と言われますが、ここでいう罪とは、法に触れる犯罪のことではありません。それは神に背くことです。

 それを、神殿で朝ごとにいけにえを携え、三日目には十分の一税を納め、感謝の献げ物に酵母を入れたパンを焼き、大声で随意の献げ物をすると触れ回ることによってせよというのです(4,5節)。これらの儀式に関係する行為は、通常はむしろ、神との関係を正しくするため、より確かなものとするために行われます。

 ところが、イスラエルの人々は、それらの儀式を行うことで、神からますます離れているとアモスは言うのです。それというのも、ベテルやギルガルで彼らが礼拝しているのは、万軍の主なる神ではなく、冒頭の言葉(13節)で「地の聖なる高台」と言われるような異教の神々なのです。

 「ベテルに行って罪を犯し」なさいというのは、勿論、神がそう願われての言葉ではありません。彼らがそうしていることを皮肉っているわけです。「ギルガルに行って罪を重ね」よというのも、同様です。そうすることが主なる神に対する罪であることを、明言しているわけです。  

 6節以下に、「しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」という言葉が5度(6,8,9,10,11節)繰り返されます。主なる神はそのとき、イスラエルが主に顔を向け、立ち帰るよう、様々な災いをイスラエルの上に降されました。それらによって彼らが罪を悔い改め、主を呼び求めるようになると期待されたのです。

 ところが、イスラエルの民は何度悔い改めを呼びかけても答えてくれないし、手を変え品を変えして帰り道を準備しても、帰って来ようともしません。それを見た主は、悲しくてやりきれないという思いでおられたのではないでしょうか。

 それで、堪忍袋の緒が切れたというのではないと思いますが、12節に「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」と言われます。ここにも、4節同様の皮肉があります。通常、聖地への巡礼は主なる神の救いの恵みに感謝し、祭に参加するためになされるのですが、主はイスラエルの民に決定的な裁きを告げるために、彼らを招いておられるからです。

 そして、冒頭の言葉(13節)が語られました。主なる神は山々を造り、風を創造された方です。暗闇を変えて曙となされた万軍の神なる主の御前に、どんなことも隠すことは出来ません。すべてが明るみに出されます。

 彼らがベテルやギルガルを巡りながら、あたかも主なる神を拝んでいるようにして、実際には「聖なる高台」で異教の神々に犠牲を献げている彼らの偽善が明らかにされました。そして、「聖なる高台」は踏みつけられ、乗り越えられます。

 異教の偶像が主の御前に何の力がありますか。何の助けになりますか。偶像に依り頼んでいて、真の神と対峙できますか。そうです、それら異教の神々、刻まれた神の像は、何の力にも助けにもなりません。どうすれば、主と出会う備えが出来るでしょうか。

 神は、イスラエルの民が帰ってくるのを待っておられるお方です。素直に神のもとに帰ればよいのです。神は求められること、探されること、門が叩かれるのを待っておられます。神は私たちの罪の闇を、命の光が輝き出る曙にお変えになることが出来るのです。

 「イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ書10章20~22節)と言われるとおりです。

 朝毎に慈しみ深き主に信頼し、主の御前に進みましょう。御顔を仰ぎ、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。 

 主よ、罪深い私をお赦しください。どうか私を内側から清めて、新しくしてください。清い心、新しい霊を授けてください。御救いの喜びを再び味わわせ、自由の霊によって支えてください。真心から近づくことが出来ますように。新たな恵みを得て、主に仕えさせてください。 アーメン



12月12日(木) アモス書3章

「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか。」 アモス書3章8節

 主なる神がイスラエルの人々を「わたしがエジプトの地から導き上った全部族」(1節)と呼び、「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ」(2節)と告げられます。しかしながら、その次の言葉に驚かされます。「それゆえわたしはあなたたちのすべての罪のために、あなたたちを罰する」(2節)と言われるからです。

 何をもって「罪」と言われているのか、これだけでは分かり難いですが、イスラエルは主に選ばれてエジプトの奴隷の家からの解放され、約束の地に導き入れられるという恵みに与りましたが、その選びには目的がありました(申命記6章21節以下、7章6節以下)。それはしかし、彼らに免罪という特権を与えるようなものではありません。

 2章6節以下で、イスラエルの罪として挙げられているのは、イスラエルが正義と公正を蔑ろにし、主の御声に耳を傾けないということでした。つまり、イスラエルの民は自分たちが選ばれた意味を解さず、主の御声に耳をふさぎ、正義と公正を行わなかったので、そのすべての罪のゆえに罰すると言われているわけです。

 3節以下には、疑問文が並びます。3~5節は、原因もないのにこういう結果になるだろうかと問う形式で、これを聴く者が「否」と答えることを想定しています。続く6~8節では、こういう原因があれば、こういう結果にならないだろうかと問う形式になり、それに対しては「然り」と答えることが想定されています。

 その最後に、冒頭の言葉(8節)のとおり、「主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」という一句が告げられます。主の語られる言葉を聴いたなら、誰もが預言するだろう、然り、そうだその通り。誰でも預言するということです。

 ところで、なぜ預言者アモスは、このようなことを記しているのでしょうか。一つには、アモス自身が何故北イスラエルで預言を語るのか、その理由、根拠を説明していると考えられます。また、獅子が吠え(4,8節)、角笛が吹き鳴らされ、災いが起こる(6節)という記述から、主の語られた言葉はアモスに脅威を与え、恐怖を呼び起こすようなものだったのでしょう。

 小国イスラエルが、アッシリアやエジプトという大国にはさまれながら自治を保ち、平和裏に発展するというのは、大変困難なことだったと思います。アモスが預言者として活動している時の北イスラエルの王は、ヨアシュの子ヤロブアム(2世)でした(列王記下14章23節以下)。

 彼は41年イスラエルを治めましたが、その間の治安は安定し、北イスラエル王国の歴史の中で最も繁栄した時代でした。だからこそ、41年も王位についていることが出来たわけです。国土も北に南に拡大して、ソロモンの時代の国土にも匹敵するほどだったと言われます。王としての手腕は、高く評価されるべきものといっても良いと思われます。

 しかしながら、イスラエルの民がヤロブアム2世の治世下で繁栄を謳歌していたとき、アモスは神の御声を聴きました。あるいは、アッシリアの迫り来る足音を「獅子の吼える声」として聞いていたのかも知れません。そしてその声を聞くことが出来たのは、アモスただ一人だけだったわけです。

 「美しい門」の傍らで物乞いをしていた足の不自由な男を立ち上がらせたペトロとヨハネが(使徒言行録3章1節以下)、サンヒドリン議会に呼び出され、尋問を受けたとき、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(同4章19節)と答えました。

 ペトロとヨハネは、十字架にかかって死なれた後、三日目に甦られた主イエスの福音を、聖霊の力を受けて大胆に語っていました。そのときペトロは、「ほかの誰によっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(イエス・キリストという)名のほか、人間には与えられていないのです」(同4章12節)という、はっきりとした確信に立っていたのです。

 それは、カイアファの官邸で主イエスが裁かれているとき、三度も主イエスを知らないと否んだペトロ(マルコ14章66節以下など参照)と同一人物とは思えない、全く変えられた姿です。ペトロの内に、確かに聖霊の力が与えられていたのです(使徒言行録1章8節、2章1節以下)。

 私たちも聖霊の力を受けて、イエス・キリストこそ私たちの主であることを宣べ伝えていきたましょう。日々聖霊に満たされて、「主の名によってこられる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ19章38節)と主をほめ歌いましょう。

 主よ、私たちは主イエスの贖いの御業によって救いに与り、神の子としていただきました。その恵みを疎かにせず、主の福音の証し人となることが出来ますように。そのために、聖霊で満たし、その力に与らせてください。この時代に世の光、地の塩としての教会の使命を果たしていくことが出来ますように。 アーメン



12月11日(水) アモス書2章

「ユダの三つの罪、四つの罪のゆえにわたしは決して赦さない。彼らが主の教えを拒み、その掟を守らず、先祖もあとを追った偽りの神によって惑わされたからだ。」 アモス書2章4節

 諸国民への裁き(1章3節以下)の最後に、モアブに対する裁きが語られます(1節以下)。「モアブの三つの罪、四つの罪」と言いながら、そこに挙げられているのは、「彼らがエドムの王の骨を焼き、灰にした」ということのみです。

 王の骨を焼いて灰にするというのが、列王記下3章27節の、王となるはずの長男を人身御供として焼き尽くすいけにえとしたようなことか、それとも、エレミヤ書8章1,2節の、王墓を荒らしてその骨を焼いたようなことなのか、論争されていると、岩波訳の脚注に記されています。ただ、モアブの罪として、エドムの王の骨を焼いたというので、エレミヤ書の方が妥当でしょう。

 エドム人は、ヤコブの兄エサウの子孫ですが(創世記36章1節以下、6,8節)、「剣で兄弟を追い、憐れみの情を捨て、いつまでも怒りを燃やし、長く憤りを抱き続けていた」(1章11節)と、イスラエルに対する暴力的な行動が断罪されていました。

 そのエドム人の王の墓を荒らしたこと、遺体を焼いたことが、モアブの罪として断罪されています。墓を荒らし、遺体を汚すことは、他者の命や宗教に対する冒涜といえます。主なる神は、異教徒だからといってエドム人の生命を軽んじ、その宗教を冒涜してよいとは言われないのです。

 諸国民への裁きに続き、4,5節に南ユダの裁きが語られます。敵対する諸国民に対する裁きを喜びながら聞いていた北イスラエルの民は、南ユダの裁きについても、気分よく耳を傾けていたのではないでしょうか。

 冒頭の言葉(4節)に述べられているユダの罪は、これまでに語られてきた諸国に対するものとはまったく違います。隣国を荒らしたなどということではありません。ユダの人々が主なる神の教えに背き、異教の神々を礼拝したというかどで、諸国民と同様の裁きを受けているのです。

 それには理由があります。南ユダ王国の人々、そして6節から裁きが語られる北イスラエル王国の人々は、主なる神から特別の恵みを得ました。彼らは、主なる神によってエジプトの奴隷の苦しみから解放され、約束の地カナンに領土を与えられました(9,10節)。

 40年の荒れ野の生活の間、服は古びず、靴も擦り切れることなく、パン(マナ)も毎日必要な分だけ与えられました(申命記8章3,4節、29章4節)。肉がほしいといえばウズラの肉が与えられ(民数記11章)、水が飲みたいといえば、岩から水が流れ出るようにされました(出エジプト記17章1節以下、民数記20章1節以下)。

 それらはすべて、神の恵みでした。エジプトの奴隷であったイスラエルの人々は、神の憐れみのゆえに、恵みによって選ばれて、神の宝の民とされたのです(申命記7章6~8節)。それにも拘らず、彼らは恩知らずにも主の教えを拒み、その掟を守ろうとしなかったというのです。そして、異教の神々を祀ることさえして、神の怒りを買ったわけです(4節、申命記7章9,10節)。

 「三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない」という言葉が、1章3節~2章5節において繰り返されてきました。「三つの罪、四つの罪」とは、三つか四つの罪という意味でしょうか、3+4=七つの罪という意味でしょうか。いずれにせよ、多くの罪という意味でしょう。

 ただ、諸国民の罪は、いずれも一つしか記されてはいませんから、繰り返し、何度も罪を犯したと読むことが出来るでしょう。そして神の選びの民、ユダは、それこそ何度も何度も神を悲しませ、繰り返し繰り返し神を憤らせてきたのです。

 6節以下には、北イスラエルの裁きが述べられます。アモスは、預言者として諸国民の裁き、そして、自分の出身地の南ユダの裁きも語りましたが、北イスラエルの罪は、かなり詳しく語られています。確かに彼は、北イスラエルに遣わされた預言者なのです。

 先ず、「正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売った」(6節)とは、裁判官が賄賂を取って法を曲げ、貧しい者を罪に定める判決を下したということです。また、「弱い者の頭を地の塵に踏みつけ」(7節)とは、弱者を虐待したということもあるでしょうが、弱い者、貧しい者から搾取しておのが腹を肥やそうとしているということです。

 また、「父も子も同じ女のもとに通い」(7節)は、近親相姦というようなことではなく、何世代にもわたって異教の神殿娼婦のところに通い、まことの神への信仰を捨てたということです。

 さらに、神が立てたナジル人に、禁じられている飲酒を強要し(民数記6章3節)、預言者に預言するなと命じたと言われます(11,12節)。徹頭徹尾神に背き、その御言葉に耳を傾けることを拒否しているわけです。これらのことは、4節に掲げられたユダの罪を詳述したものといってよいでしょう。

 そこで、「わたしは麦束を満載した車がわだちで地を裂くように、お前たちの足もとの地を裂く」(13節)と、その裁きが告げられます。「地を裂く」は「ウーク(押しつぶす、砕くの意)」 という言葉です。口語訳、新改訳は「圧する」、「押さえつける」と訳しています。岩波訳は「轟かす、轟音を立てる」と訳し、脚注に「地震を考えたい(1章1節、6章11節参照)」と記しています。

 轟音を立てて地が引き裂かれるような地震に襲われれば、14節以下に言われるとおり、だれもその激しい揺れから逃れることができず、剣や弓、馬も、地震から勇者を守り助けることはできません。そのように、主の裁きは突如として襲い来り、すべてのものを飲み込むというのです。

 主イエスも「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(マタイ24章38,39節)と教えておられます。 

 ローマ書11章22節に「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」とパウロが記しています。神の慈愛にとどまらなかった者、信仰に躓き倒れた者には、神の厳しさが臨むというのです。これは心したい言葉です。

 私たちもいつしか恵みに慣れ、感謝を忘れてつぶやくことが少なくありません。神の御言葉よりも自分の事情のほうが大事だと考えてしまいます。あらためて、私たちが神の子と呼ばれるために、どれほどの愛を神からいただいていることか、よく考えて見ましょう。主から賜った恵みをもう一度思い起こし、数えてみましょう。そして、心から神に感謝しましょう。

 主よ、私たちはあなたの憐れみによって恵みのうちに選ばれ、神の宝の民としていただきました。私たちの心に主の教えを刻み込んでください。キリストの言葉を豊かに宿らせ、すべての者が主を知ることが出来るように、喜びと感謝をもって主をほめたたえさせてください。 アーメン



12月10日(火) アモス書1章

「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。」 アモス書1章1節

 本日から、アモス書を読み始めます。アモス書の著者アモスについては、本書で紹介されていること以外は、ほとんど何も分かりません。アモスの生い立ちや系図なども全く記されていません。

 冒頭の言葉(1節)に「テコアの牧者であったアモス」と記されていて、アモスがテコア出身で、羊飼いをしていたようです。といっても、ここに使われている「ノーケード」という言葉はあと一回、列王記下3章4節でモアブの王メシャが羊の飼育者だというところに用いられています。つまり、雇い人としての羊飼いではなく、牧場主といった資産家だったと思われます。

 出身地「テコア」は、エルサレムの南方20km、標高850mの丘の上にあります。イスラエルが南北に分裂したとき、ユダの王レハブアムは、砦の町(要塞)を15建てました。その一つがテコアです(歴代誌下11章5,6節)。エレミヤ書6章1節に「テコアで角笛を吹き鳴らし」というのもテコアが砦の町で、南方からの敵の侵入を防ぐ役割を担っていたことを示します。

 サムエル記下14章1,2節に、ダビデ王の軍の司令官ヨアブが王とその子アブサロムの仲を取り持つのに、テコアに使いを送り、一人の知恵ある女を呼び寄せたと記されています。 女性の名が記されないことから、彼女に固有のというより、テコアにおいて、ある職業的な知恵者、知識人が養われていて、そのことが広く知られていたのではないかと考えられます。

 また、アモスは「いちじく桑を栽培する者」(7章14節)でした。上述のとおり、彼は貧しい遊牧民などではなく、広い牧場の他に農園も所有する資産家、有力者なのでしょう。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない」(7章14節)とアモス自身が語っているので、預言者としての訓練を受けたということもないようです。

 けれども、主に命じられて、預言者として働きます。「わたしは預言者ではない」というのは、農業に従事しながら、主の言葉を伝える務めを果たしているだけで、王に仕える職業的預言者ではないということです。イスラエルに職業的預言者が不在だったわけではないでしょう。むしろ多数いたと考えられますが、しかし、主なる神はアモスを、ご自分の預言者として召されたのです。

 アモスの語る預言の内容は、「イスラエルについて示されたもの」(1節)です。「示す」と訳されている原語(ハーザー)の本来の意味は、「見る、予見する、知覚する、見て取る」です。70人訳は「見る」(エイドン)という訳語を当てています。アモスには、イスラエルについて主から見せられたものがあり、それをイスラエルに告げるようにと命じられたわけです。

 アモスが預言者として立てられたのは、「ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代」です。ウジヤの在位は紀元前783~730年、ヤロブアムは紀元前786~746年、外交的にも内政的にも安定した時代です。ということは、アモスが活動したのは、ホセアとほぼ同時代ということになります(ホセア書1章1節参照)。

 「あの地震の2年前」について、ゼカリヤ書14章5節にも「ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように」と言われているので、大きな被害を出したものだったようです。考古学者は紀元前760年頃に発生したものと定めています。その「地震の2年前に」ということですから、アモスの預言した主なる神の裁きが、地震というかたちで実行されたということを暗示しているようです。 

 アモスという名前は、「重荷」とか「負担」という意味を持っています。どうしてそのような名前がつけられたのでしょうか。親がその子に「お前は私の重荷だ、お前は私の負担だ」などという名前をつけると思われません。そうではなくて、「人の重荷を負いなさい、隣人の負担を軽くしてやりなさい」というメッセージと受け止めるべきなのでしょう。

 上述のとおり、アモスは南ユダはテコアの出身ですが、北イスラエルのベテルで、預言者として活動しました(7章10節以下)。家畜を伴ってベテルまでやって来て、預言活動が終わると、またテコアに戻るということだったかも知れません。

 けれども預言者として主から召されたことは、アモス自身にとって、喜ばしいことであったとは思われません。彼の語るメッセージは、聞く者を喜ばせるものではなく、むしろ恐怖を与えるようなものだったからです。

 2節に「主はシオンからほえたけり、エルサレムから声をとどろかされる」という言葉がありますが、「ほえたける」、「声がとどろく」というのは、家畜を飼っていたアモスにとって、戦慄を覚えるものだったに違いありません。主の示されたことが、アモスには、ライオンの咆哮のように迫ってきたのでしょう(3章8節参照)。

 アモスは、北イスラエルに恐怖と戦慄を与えるために吼え猛る声として、エルサレムから遣わされて行きます。はじめは、ダマスコ(アラムの首都、3節以下)、ガザ(ペリシテの都市国家、6節以下)、ティルス(フェニキヤの都市国家、9節以下)、エドム(11節以下)、アンモン(13節以下)と、諸国民に対する裁きが告げられます。

 この裁きの告知は、それを聞く北イスラエルの人々に快く受け入れられたことでしょう。というのは、これら周辺諸国の民がイスラエルに敵対して、嗣業の地とその民を蹂躙して来たからです。

 けれども、2章4,5節は南ユダの、同6節以下からは北イスラエルの裁きが告げられます。民に耳を傾けさせておいて、それは特にイスラエルの裁きを告げるための序章だったわけです。

 裁きを告げる預言は、なかなか受け入れられません。実際、喜んで耳を傾ける者はいなかったようです。7章10節で祭司アマツヤが、「アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません」とヤロブアム王に訴えています。人に受け入れられない仕事をしなければならないということで、それはまさしく主から与えられた重荷、負担だったことでしょう。

 何故アモスは、家畜を飼い、いちじく桑を栽培する仕事に従事する傍ら、そのような重く苦痛の多い使命を担ったのでしょうか。それは、彼を召した主を畏れたからです。そして、御言葉に聴き従うことを主が喜んでくださると、彼は知っていたのです。さらに、彼は同胞を愛しています。悔い改めが起こされること、そして神の国イスラエルの回復を期待していたのです。

 私たちも主を畏れ、謙ってその御言葉に耳を傾けましょう。委ねられた務めを全うできるよう、主の知恵と力を求めましょう。聖霊に満たされ、常に主の御業に励むものとしていただきましょう。 

 主よ、私たちもアモスのようにあなたを畏れ、御言葉に聴き従うことが出来ますように。委ねられた主の使命を果たすことが出来ますように。必要な知恵と力を授けてください。聖霊に満たされ、御業に励む者としてください。御名が崇められますように。御心が行われますように。 アーメン



12月9日(月) ヨエル書4章

「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え。」 ヨエル書4章10節(口語訳・新改訳では3章10節)

 新共同訳聖書の4章は、口語訳、新改訳では3章になっています。

 主なる神は4章1節以下に「諸国民の裁き」を語られます。彼らは、ユダとエルサレムの繁栄が回復される日に、「ヨシャファト(主の裁き)の谷」に召集されます(2節)。それはまさに裁きのためです。

 主が諸国民を裁かれるのは、「わたし(主なる神)の民、わたしの所有であるイスラエルを、彼らは諸国の民の中に散らし、わたしの土地を自分たちの間に分配したから」(2節)であり、また、「わたしの民の運命をくじで定め、遊女を買うために少年を売り渡し、酒を買うために少女を売った」(3節)からであると言われています。

 諸国の民について、4節に「ティルスとシドンよ、ペリシテの全土よ」とあります。「ティルスとシドン」はフェニキヤ人の町で、イスラエルの北に位置しています。一方、「ペリシテの全土」はイスラエルの南西に位置しています。

 彼らが金や銀の神殿祭具を運び去り(5節)、ユダとエルサレムの人々をギリシア人に売り渡した(6節)と言われますが、歴史的にどの出来事を指すのか、よく分かりません。ただ、地中海沿岸に位置する彼らの港から、少年少女をはじめとする主の民が奴隷として、ギリシアに向けて運び出されたのでしょう。 

 9節に「諸国の民にこう呼ばわり、戦いを布告せよ」と語られています。主が諸国の民に宣戦布告しておられるわけです。そして冒頭の言葉(10節)のとおり、「お前たちの鋤を剣に打ち直し、鎌を槍に打ち直せ、弱い者も、わたしは勇士だと言え」(10節)と言われます。

 ここで、「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」とは、イザヤ書2章4節やミカ書4章3節で「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と語られている言葉の逆です。戦いを止めて平和を造れというのではなく、イスラエルを踏みつけて繁栄を手にし、平和を謳歌している者たちに、平和の道具を武器に変えよというわけで、彼らの平和と繁栄は終わりを告げたという表現と考えることが出来ます。

 実際に「ヨシャファトの谷」(2,12節)で、主と諸国の民との間にどのような戦いが展開されるのか、何も記されていません。そもそも、「ヨシャファトの谷」なるものがどこにあるのか分かりません。イスラエルに、その名で呼ばれる谷はないのです。つまりそれは、固有名詞ではないということです。伝統的にケデロンの谷のことと言われますが、しかし、それを示すものはありません。

 「ヨシャファト」とは、新共同訳聖書に括弧書きで記されているように、「主の裁き」という意味です。ヨシャファトの谷とは、主の裁きの谷ということになります。ユダとエルサレムの繁栄が回復される日に、周囲のすべての民を裁く「主の裁き(ヨシャファト)の谷」という法廷が設けられ、そこで諸国の民が裁かれるということです。

 諸国の民を待っているのは、勇壮な戦いなどではありません。「鎌を入れよ、刈り入れのときは熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶね満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい」(13節)と言い、「裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく」(14節)と語って、諸国の民の罪過、その悪が頂点に達しているので、今にも裁きがなされようとしてることを示しています。

 ところで、「弱い者も、わたしは勇士だと言え」(10節)とはユーモラスな表現で、弱腰の兵士が「わたしは勇士だ」と震え声で言うという図を思い浮かべてしまいます。それでは戦いになりません。イスラエルを踏みつけた諸国の軍隊は、決して弱い者などではありませんでした。

 しかし、この言葉から教えられるのは、「わたしは勇士だ」と語る者は、実は弱い者だというメッセージです。自分の弱さを他人に見せることが出来ず、常に虚勢を張り、弱さがあることを隠して「わたしは勇士だ」と語っているということです。武器を取るとはそういうことでしょう。武装しないと不安なのです。

 そのように読んだとき、これは、諸国民に向けて語られているようだけれども、実際には、イスラエルの民に向かって語られているのではないか、ユダヤとエルサレムの繁栄が回復されるのは、彼らの武力、王の力などによるのではないと言おうとしているのではないかと気づかされました。

 主なる神の前には、どんな武装も役には立ちません。主は、天地万物を創造されたお方です。一瞬のうちに、すべてを過ぎ去らせてしまうこともお出来になるでしょう。一方、主が味方でいてくださるなら、兵力が貧弱なこと、武装が十分でないことなど、問題ではありません。主ご自身が避け所、砦となってくださるからです(16節)。

 イザヤ書30章15節に「お前たちは、立ち帰って,静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」とあります。イスラエルはこの言葉に耳を傾けることができず、滅びを招きました。目に見える力、兵馬の数に頼らず、目に見えない神、主に頼るというのは、なかなか困難なことでしょう。それには、常日頃の主なる神との交わりが不可欠です。

 朝毎に主の御名を呼び、御言葉に耳を傾けましょう。主の御心をわきまえることができるよう、聖霊の導きを祈り求めましょう。肩の力を抜き、リラックスして、私たちに委ねられている大切な仕事を、精一杯心を込めて行いましょう。周りの人々、お互いのことを認め合い、協力し合いましょう。平和の主が共にいてくださいます。

 主よ、朝毎にあなたの御言葉に耳を傾けます。私たちが行うべきことを教えてください。実行する知恵と力を授けてください。平和が私たちの家庭に、静岡、周辺の町々、日本の国、そして世界中に豊かにありますように。あらゆる紛争が平和裏に解決されますように。互いに赦し合い、助け合うことが出来ますように。 アーメン






 

12月8日(日) ヨエル書3章

「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」 ヨエル書3章1節(口語訳、新改訳は2章28節)

 新共同訳はヘブライ語原典どおりに3章1~5節を訳出していますが、口語訳、新改訳はこれが2章28~32節となっています。

 冒頭の言葉(1節)で「その後」とは、2章18節以下で神の憐れみによって祝福がもたらされた後ということでしょう。主なる神は、悔い改めて立ち帰ったイスラエルの民に祝福を与えた後、更なる祝福を与えようと言われるのです。ここに「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と約束されています。「霊」は「息、風」とも訳されます。ここで「わが霊」というのは、主なる神の息と解することが出来ます。

 創世記2章7節によれば、人は神の息によって生きる者となりました。神の霊は、命を与える神の力なのです。ですから、「すべての人にわが霊を注ぐ」とは、罪に死んでいたイスラエルの民を再び生き返らせるということになります。

 そうすると、これは、エゼキエル書37章1節以下の「枯れた骨の復活」と同様の預言ということです。これは勿論、死者が蘇生するということではありません。主の霊によって、主を信じ、御言葉に聴き従う神の民が再創造されるということです。

 そして、霊が注がれることと、預言することや夢・幻を見ることが関連付けられています。民数記12章6節に「あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る」とあります。ここで、主なる神が夢や幻を、預言者と語る手段として用いられるということが分かります。

 ということは、霊を受けて預言することと、夢、幻を見ることとは、本質的に同じことと言ってもよいでしょう。サムエル記上10章には、サウルが王となる油注ぎを神の人サムエルから受けた後、神の霊が彼の上に激しく降って、彼が預言する状態になったということが記されています(同10節)。つまり、霊は、人に神の言葉を告げ知らせる力を与えるのです。

 かつて、そのようなことは預言者や王など、神によって特別に選ばれた者に限られていました。けれども、ここには「すべての人にわが霊を注ぐ」とあります。息子にも娘にも、老人にも若者にも、神の力が与えられます。2節では、男女の奴隷にも注ぐと言われます。

 男も女も、老いも若きも、自由人も奴隷も、すべての人の上に分け隔てなく、主の霊が注がれます。そして、彼らは預言をし、夢、幻が与えられます。主なる神はすべての人々に主の御声を聞かせ、その御言葉を告げ知らせる力を与えたいと願っておられるわけです。

 主イエスが召天された後の五旬祭(ペンテコステ)の日に、聖霊が降り、その力を受けた主イエスの弟子たちが、祭りを祝うためにエルサレムの都に集まっていた多くの人々に、それぞれの母国の言葉で福音を告げ知らせました(使徒言行録2章1節以下)。

 そのことについて主イエスが、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(同1章8節)と語っておられました。即ち、主イエスが約束しておられた通りのことがペンテコステの日に起こったわけです。

 そしてペトロが、このペンテコステの日の出来事こそ、ヨエルの預言が実現したことなのだと、ヨエル書3章を引用しつつ語っています(同2章14節以下)。

 ペトロは続けて、ユダヤ人に十字架につけて殺されたイエスこそ主であり、メシアであること、神は主イエスを死の苦しみから解放して復活させられたことを、詩編16編8~11節を引用しながら、語り教えました(使徒2章22節以下)。

 このペトロのメッセージを聞いたその日、教会の仲間に加わった者、即ちクリスチャンになった人が、3000人もありました(同41節)。それも、ペトロの説教が分かり易かったから、感動的な話だったからということではなく、聖霊の導きによって説教を聞いていた人々に信仰が与えられたということでしょう。

 また、聖霊の力を受けたペトロとヨハネは、生まれながら足の不自由な男を主イエスの名で立たせました(同3章1節以下)。それに驚いた人々が彼らのところへ集まってくると、そこで福音を告げ知らせました(同11節以下)。 

 使徒たちの目覚ましい働きを見て脅威に感じた宗教指導者たちは、ペトロとヨハネを捕らえて牢に入れ(同4章1節以下)、イエスの名によって話したり教えたりしてはならないと命じました(同16~18節)。それを受けて、信徒たちが主に向かって声をあげ、更に大胆に御言葉を語ることができるように祈り求めると(同24~30節)、彼らは聖霊に満たされました(同31節)。

 そして、聖霊に導かれたクリスチャンたちは、福音宣教の働きをエルサレムからユダヤとサマリアの全土に(同8章1,4節、9章31節)、さらに地の果てにまで、拡大して行きました。

 その後、異邦人にも聖霊が注がれます。ペトロがカイサリアのコルネリウスの家に招かれて福音を告げ知らせていると(同10章34節以下)、聞いている一同に聖霊が降りました(同44節以下)。それは、異邦人を神の民に加えるために与えられたしるしといってよいでしょう。パウロの第三回伝道旅行中、エフェソでも聖霊が降り、異言を話したり、預言をしたりしました。

 この日本でも、私たちの住むこの町に、私たちの教会からヨエルの預言が実現するよう祈り求めましょう。御霊に満たされて、主イエスの福音を宣べ伝えましょう。

 主よ、私たちの町に、日本中、さらに地の果て、海の果てにまで、ペンテコステの出来事を起こしてください。すべての人々に新しい命が与えられますように。キリストにある平和を実現してください。すべての人が聖霊によって夢、幻を見、信仰と希望と愛に生きることが出来ますように。 アーメン





12月7日(土) ヨエル書2章

「『衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け』。あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ。」 ヨエル書2章13節

 1節に「シオンで角笛を吹き、わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく」とあります。「角笛」は、敵の侵入の警報として(エレミヤ書4章5節)、また、戦いに備えるために吹き鳴らされます(士師記3章27節)。ここでは、「主の日」の到来を告げ知らせ、備えのために吹き鳴らされるのです。

 「主の日」とは、「恐るべき日」、「全能者による破滅の日」(1章15節)です。11節にも、「主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう」とあります。本来、主なる神の訪れは、イスラエルにとって救いの完成を意味したはずですが、神に背いて罪を重ねた結果、その日は、恐るべき裁きの日、刑罰の下る日となったわけです。

 主の日の到来が告げ知らされ、裁きに備えるようにと角笛が吹き鳴らされたとき、イスラエルの民は何をすればよいのでしょうか。それが、12節以下に記されていることです。

 まず、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(12節)という主なる神の招きの言葉があります。「立ち帰る」とは、方向を変えること、神に向かって歩き始めることです。まっすぐに神の言葉を聴くことです。

 続いて「断食し、泣き悲しんで」(12節)と語られます。「断食し、泣き悲しむ」のは、罪の悔い改めを表明することです。神に背いた罪を悔いて、神に向かって歩み出せ、神の御言葉に聴き従えと言われているのです。

 1章14節に「断食し、聖会を招集し、長老をはじめこの国の民をすべて、あなたたちの神、主の神殿に集め、主に向かって嘆きの叫びを上げよ」と言われていました。断食し、泣き悲しんで悔い改めを表明することが「主に立ち帰る」道ということです。それが、15節以下にも記されています。

 さらに、冒頭の言葉(13節)のとおり、「衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」と言われます。衣を裂くのは、悲しみ、嘆きの表現ですが、神が望んでおられるのは、外側に見える形で表現されることではありません。むしろ、「心を引き裂く」こと、つまり、根本的に心を造り替えることです。

 ダビデも、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と詠います(詩編51編18,19節)。

 ヨエルはここに、心から主に立ち帰ることこそ、私たちの救われる唯一の道だと語っているのです。さらに言えば、イスラエルの民が心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なる神を愛することです(申命記6章5節)。

 神が私たちを「主に立ち帰れ」と招かれるのは、私たちの側に救われる根拠や資格などがあるからではありません。「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」(13節)、と言われるとおりです。

  「恵みに満ちる」(ハーヌーン)とは、一方的に与えられる神からの賜物です。「憐れみ深い」(ラフーム)という言葉の名詞形(レヘム)は「子宮」を表しますので、母親のような慈愛を示しています。

 「忍耐強い」は「怒るに遅い」(エレフ・アパイム)という言葉で、神の愛の広さ、長さ(エフェソ書3章18節参照)を表現しています。「慈しみ」(ヘセド)は、神が人間を愛する、堅固で誠実な愛を表すのに用いられる言葉です。

 私たちは、このような神のご愛に幾重にも包まれ、守られているのです。そのことを忘れ、あるいは無感覚になっているのが、私たちの罪です。聖書で言う罪は、必ずしも犯罪を意味しません。罪とは「的外れ」という意味だと学びますが、神に呼ばれているのに答えない、神の言葉を無視する、神に背く、神に近づこうとしない、そうしたことを「罪」というのです。

 主なる神は今日も私たちを招かれます。父が放蕩息子の帰りを待ちわびているように(ルカ福音書15章11節以下)。そうして、帰ってきた息子に最上の衣を着せ、指輪をはめ、靴を履かせ、肥えた子牛を屠って宴会を開かれました。それは、父に背いて家を出た息子の復権、息子であることの証明です。神は、私たちの背きの罪を赦し、神の子としてくださるのです。

 日々、主なる神の御前に進みましょう。主の御言葉に耳を傾けましょう。そして、主のご愛に感謝と賛美をささげましょう。

 主よ、導きを感謝します。恵みを感謝します。憐れみを感謝します。私たちを神の子として再び生み出すために、独り語を犠牲にするという、考えられない産みの苦しみをしてくださいました。そのご愛に応えることが出来ますように。主の導きにいつも素直に従うことが出来ますように。 アーメン



12月6日(金) ヨエル書1章

「酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。」 ヨエル書1章5節

 本日から、ヨエル書を読み始めます。ヨエルとは「主(ヤハウェ)は神である」という意味の名前です。旧約聖書中にヨエルと呼ばれる人物は、十数名います。勇士、祭司、レビ人など様々ですが(サムエル記上8章2節、歴代誌上4章35節、5章4節、6章36節など)、預言者ヨエルについては、ヨエル書に記されている彼の父親の名がベトエルということ以外、ほとんど何も分かりません。

 最近の研究では、紀元前515年ごろ、つまりバビロン捕囚後の比較的早い時期、エルサレム第二神殿が完成した頃に、その周辺で活動した預言者ではないかと考えられているようです。しかし、これについて確実なことは何も言えません。

 ただ言えることは、1節の言葉から、ヨエルは預言者であり、ヨエル書は預言者ヨエルに臨んだ主の言葉であるということです。ですから、この書から学ぼうとする者は、現在、自分のいる場所に向けて語られた主なる神の言葉として、それを聴くことになります。

 ヨエル書の中心主題は「主の日」です。この短い預言書の中に何度も登場してきます。「主の日」は、主なる神に背いて悪を行う人々、民族に主の裁きが下り、それを通して神の義による支配が確立する日という意味で用いられます。ヨエルが何をもって「主の日」のしるしと考えているのかを読み解くことが、その預言を解釈する上で重要な鍵となります。 

 ヨエルは、長老や全住民に呼びかけて、「あなたたちの時代に、また、先祖の時代にも、このようなことがあっただろうか」(2節)と問い、そしてそのことを子々孫々に語り伝えよと告げます(3節)。 

 それは、かみ食らうイナゴ(ガーザーム)、移住するイナゴ(アルベー)、若いイナゴ(イェレク)、食い荒らすイナゴ(ハーシール)という4種類のイナゴによって、農作物が被害を受けたということです(4節)。

 この4種類のイナゴについて、種類の違いなのか、卵から成虫になるまでの成長段階を示しているのか、議論されているようですが、決め手はありません。ただ、農作物がイナゴによって繰り返し壊滅的打撃を受けたのは、確実です。

 冒頭の言葉(5節)は、酒に酔い痴れている者、酒に溺れる者に呼びかけた言葉です。ヨエル書が「酔える者たち」に呼びかけているのは、面白い洒落だといってすませられることではありません。主なる神は彼らに、「目を覚ませ、泣け」と命じられます。

 それは、強大で数知れない大軍が雄獅子、雌獅子のようにイスラエルに攻め上って来るからであり(6節)、イスラエルを象徴するぶどうの木、いちじくの木を食い荒らしてしまうからです(7節)。

 もしかすると、ヨエルの時代、多量に酒を飲み、酔いしれる人々が少なからずいたということが、その背後にあるのかも知れません。13節で祭司に呼びかけて、「献げ物の穀物とぶどう酒は、もはやあなたたちの神の宮にもたらされることはない」と語られていることから、5節で酒に酔い痴れ、酒に溺れているのは、あるいは、この祭司たちのことではないかとも思われます。

 8節で「泣き悲しめ、いいなずけに死なれて、粗布をまとうおとめのように」と言われます。祭司らが酔い痴れている結果、主の祝福を失い、感謝のしるしとして地の産物を献げたくても、献げるものが何もないのです。

 地の産物は、農夫たちの勤勉な労働なしには得られないものですが、彼らの労苦は空しいものとなりました(11,12節)。それゆえ、彼らは泣き叫ぶのです。イナゴが畑の作物だけでなく、果樹園の実りも、そして果樹そのものも食い荒らしてしまいました。神の恵みとしての地の産物がイナゴに奪われるということは、そこに主の御手が働いていると考えざるを得ません。

 そうすると、酒が飲めないから泣けと言われているのではなくて、主に仕えている者が酒に酔い痴れていることに対する警告、酒に溺れて神の宮でよい務めが出来ないために、大変な国難が襲おうとしているという警告ではないでしょうか。

 だから、「断食を布告し、聖会を召集し、長老をはじめこの国の民をすべて、あなたたちの神、主の神殿に集め、主に向かって嘆きの叫びをあげよ」(14節)と命じ、「ああ、恐るべき日よ、主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る」(15節)と告げます。およそ、酒に酔い痴れているときではない。目を覚まして神に祈るとき、訴えるときだ。泣いて悔い改めるときだと語っているのです。

 何をもって主の裁きが行われるのか、未だ詳らかではありませんが、ヨエルはイナゴの襲来による農作物の被害に主なる神の裁きのしるしを見て取ったわけです。ヨエルの預言を、当時の人々はどのように聞いたのでしょうか。真剣に聞こうとしないからこそ、恐るべき主の日、破滅の日がやって来ると言われるのではないでしょうか。

 考えてみるまでもなく、これは確かに、二千数百年前のイスラエルのことではなく、今日の私たちに語りかけられた主の言葉ではないでしょうか。私たちが目を覚まして周りを見回してみるならば、嘆かずにはおれない、祈らずにはおれない状況が広がっています。

 政治家や役人らが法を犯す行為をしていても、記録がないことを理由に誰も処罰されず、失政、失策などについて誰も責任をとらないまま、事態が放置されます。福島原発事故後の対応などにおいて、それを如実に見ることが出来ます。事故から8年余りが経過していますが、放射能汚染を止める手立ては、未だに何もとられていないという有様です。

 年金が株価を上げるためにつぎ込まれ、何兆円もの損失を出しています。消費税は福祉目的で上げられたはずなのにその予算は削られ、防衛費のみが増大しています。大企業、富裕層に手厚い政策の結果、貧富の差が拡大の一途で、子どもの7人に1人は貧困の状態と言われ、心身の成長に大きく影響を及ぼしています。そしてそれは、社会的損失につながります。

 問題が山積みで、どう祈ったらよいのかも分からないほどです。しかし、預言者ヨエルはそのような状況を前に、手をこまねいているわけではありません。穀物は枯れ、牧草もなく、家畜が呻く中、「主よ、わたしはあなたを呼びます」(19節)と、祈りの手を挙げます。 

 パウロが、「被造物は、神の子たちの現れるのを節に待ち望んでいます」(ローマ書8章19節)といい、「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(同23節)と続けました。

 さらに、「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(同26節)と語り、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(同28節)と記します。

 被造物のうめきを受けて、祈りの手を挙げたヨエルのその祈りは、聖霊の切なるうめきによって執り成され、どんな苦難の出来事も、主にあって益と変えられたことでしょう。

 主の御前に心を開き、思いのままに祈りましょう。御霊に満たしていただきましょう。時を生かして用い、主の御心が何であるかを悟らせていただくためです(エフェソ書5章16~18節)。

 主よ、今繰り返されている自然災害は、何かの前兆なのでしょうか。あなたの御心が示されているのでしょうか。そうでなるならば、御旨をわきまえることができますように。あなたの御声をさやかに聞く開かれた耳を授けてください。私たちを御霊に満たし、光の子として歩ませてください。この国を清め、愛と平和の国としてください。 アーメン


12月5日(木) ホセア書14章

「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。」 ホセア書14章5節(口語訳・新改訳聖書は4節)

 ホセア書最後の章でホセアは、「サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ。住民は剣に倒れ、幼子は撃ち殺され、妊婦は引き裂かれる」(1節)と告げます。ついにサマリアがアッシリアの前に陥落します(紀元前722年)。背きの罪が主なる神に裁かれたのです。

 しかしながら、それで終わりというわけではありません。ホセアは続けて、「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」(2節)と招きます。それは、悔い改めへの招きです。悔い改めとは、罪の懺悔ということもありますが、方向転換して、何よりもまず心を主なる神に向けること、そして、主の御言葉に聴き従うことです。

 そしてホセアはイスラエルの民に、悔い改めの言葉を教えました。初めに「すべての悪を取り去り、恵みをお与えください」(2節)と、赦しを請う祈りの言葉を口にします。イスラエルの民にとって悔い改めとは、主なる神の前にいけにえを献げることではなく、主の恵みを慕い求める心からの祈りを捧げることなのです。

 そして、「この唇をもって誓ったことを果たします」(2節)と、誓いの言葉を口にします。その誓いは「アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません」(4節)というもので、アッシリアやエジプトという大国の力に頼ることをやめ、戦車や騎馬など、軍事力に頼って国を守ろうとすることをやめるという宣言です。

 また「自分の手が造ったものを、再びわたしたちの神とは呼びません」(4節)と言い、ダンとベテルに置かれた金の子牛の像を拝み、またバアルに仕えるという偶像礼拝と訣別することを宣言することで、主なる神の裁きを招いたヤロブアムの罪から離れ、主に信じ従うことを表明するのです。

 そこで主は、素晴らしい約束を与えてくださいました。それが冒頭の言葉(5節)です。主は、「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」と告げられ、「まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った」と宣べられました。民の悔い改めに対する応答として、主の愛がここに示されています。

 その愛を「露のようにわたしはイスラエルに臨み」(6節)と、乾いた地を潤して草木に生命を与える「露」として表現し、「彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る」(6,7節)と言います。

 また「その陰に宿る人々は再び、麦のように育ち、ぶどうのように花咲く」(8節)と、照りつける太陽から守る「陰」として、主の愛を表現します。主の愛の翼の陰(ルツ記2章13節)に守られたイスラエルの人々は「レバノンのぶどう酒のようにたたえられる」(8節)と言われ、主の良き香りを放つものとされています(第二コリント書2章14節)。

 このように、イスラエルの民に祈りの言葉を教え、「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」(5節)と言われるのは、悔い改めを口にすれば赦してやるぞということではありません。既に主はイスラエルを赦しておられるのです。癒やしを用意しておられるのです。そうする以外に、イスラエルの民が主に立ち帰り、恵みを得る道はないからです。

 ここに、主なる神の深い憐れみが示されます。主は「咎につまずき、悪の中にいる」(2節)イスラエルの人々、裁かれてアッシリアによる首都サマリアの陥落、滅亡を招いたイスラエルの民に、悔い改めて主のもとに立ち帰るようにと招き、そして、帰ってきた民に豊かな恵みを与えようとしておられるわけです。

 しかしながら、この預言がいまだ実現していないことを、私たちは知っています。むしろ、アッシリアに滅ぼされて以来、北イスラエル10部族は完全に失われてしまいました。とすれば、この預言は当たらなかったということになるのでしょうか。悔い改めへと招いたのに、彼らがそれに従わなかったから、滅ぼされてしまっても仕方がなかったということでしょうか。

 そうかもしれません。けれども、これは、もっと広い約束なのではないでしょうか。神は石ころからでも、アブラハムの子たちを造ることがお出来になります(マタイ3章9節)。自らの背きの罪を刈り取らなければならなかったイスラエル、滅ぼされてしまった神の選びの民を、神は癒し、その繁栄を回復されるということであり、その希望が未来に置かれているのです。

 そればかりでなく、かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民を憐れみ、ご自分の宝の民として選び出されたように(申命記7章6節以下)、罪の奴隷となっていた異邦人の私たちを、ご自分の民に加えることがお出来になります。そのために主なる神は、主イエスの十字架の贖いを通して、私たちが神の御前に進む道を開いてくだいました。

 だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づくことが許されるのです(ヘブライ書4章16節)。

 ヤコブ書4章8~10節に「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」と記されています。

 「喜んで彼らを愛する」と宣言される主を仰ぎ、神に従って「主の道」(10節)を歩ませていただきましょう。主に信頼し、大胆に恵みの座に近づきましょう。

 主よ、背き続けてきた私たちをも悔い改めへと招き、救いと癒しをお与えくださる御愛と御恵みに、心より感謝します。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。「アバ、父よ」と呼ぶ神の霊の導きにより、万事が益となるように共に働くという恵みに与らせてください。主に選ばれた者として、御旨を行う者としてください。主の御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン



12月4日(水) ホセア書13章

「エフライムは兄弟の中で最も栄えた。しかし熱風が襲う。主の風が荒れ野から吹きつける。水の源は涸れ、泉は干上がり、すべての富、すべての宝は奪い去られる。」 ホセア書13章15節

 エフライムは、ヨセフの2番目の息子であり、ヨセフは、イスラエルの父祖ヤコブの12人中11番目の息子です(創世記41章52節)。ヤコブが子らのために祈るにあたり、ヨセフに最大の祝福を与えました(同49章参照)。それに先立って、ヤコブはヨセフの息子たちのために祈りましたが、長男マナセよりも次男のエフライムを祝福しました(同48章12節以下)。

 出エジプトの民が約束の地を分配したとき(ヨシュア記13章以下)、マナセとエフライムは約束の地の中央部分を分け与えられています。エフライムとは、「実り豊かな地」という意味ですが、その名のとおり、エフライムは豊かな山林地帯でした。今でもぶどうやザクロ、オリーブなどが穫れます。

 特に、エフライムの嗣業の地は、宗教的、政治的に重要なところで、預言者サムエルは、エフライム山地のシロで祭司エリに仕えました(サムエル記上1章21節以下)。シロには、サムエルの時代までイスラエルの神の契約の箱が置かれていました(同3章3節)。

 また、エフライムの南境にあるベテルは、ヤコブが主なる神と出会った場所であり(創世記28章19節、31章3節)、イスラエルにとって神を礼拝する重要な場所です。士師時代には、ベテルに神の箱が置かれていて(士師記20章18節以下、27節)、イスラエルの人々は礼拝のため、また主の御旨を問うためにベテルを訪れました。

 また、モーセの後継者ヌンの子ホシェア(=ヨシュア)がエフライム族出身であり(民数記13章8,16節、27章15節以下)、イスラエルが南北に分裂したとき、北イスラエルの最初の王となったのが、エフライム族出身のネバトの子ヤロブアムです(列王記上11章26節、12章25節)。

 かくて、ヤコブの祝福の祈りは、確かに適えられたのです。けれども、エフライムは今や、その祝福を失おうとしています。それは、彼らが満ち足りて高慢になり(6節)、恩を忘れて神の忌み嫌われる異教の神の像を造ることに没頭し、「子牛に口づけ」、即ち、偶像礼拝への愛を表してさえいるからです(1,2節)。

 主が国を二分され、北10部族をヤロブアムに預けられるとき、「あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目に適う正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする」(列王記上11章38節)と言われていました。

 しかるにヤロブアムは、王となると直ぐベテルとダンに金の子牛の像を置き、ベテルで自らいけにえを献げ、香を炊きました(同12章25節以下)。彼に続く北イスラエルの王たちは、その罪から離れませんでした(同15章25,33節など)。

 それゆえ、冒頭の言葉(15節)のとおり、イスラエルを裁く熱風が襲い掛かります。「主の風」(ルーアッハ・ヤハウェ)は、「主の息」と訳すことも出来、人を生かすためにその鼻から吹き込まれた命の息が(創世記2章7節)、ここでは、イスラエルを滅ぼす熱風となったわけです。

 熱風で水が涸れたということは、命を守ることが出来ないということであり、あとは荒れ廃れるばかりだということです。自然現象による東からの熱風は、イスラエルに干魃をもたらしますが、「すべての富、すべての宝は奪い去られる」ということから、荒れ野から吹き付ける熱風とは、アッシリアを指していると考えることが出来ます。

 エレミヤが「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたし(神)を捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることの出来ない壊れた水溜めを」(エレミヤ書2章13節)と預言していますが、それはホセアの預言と同じ消息を物語っているわけです。ということは、南ユダは北イスラエルの滅亡に学ばず、その罪から離れられなかったわけです。

 「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか」(14節)とは、死の呪い、陰府の滅びがエフライムの上に早く来るようにということです。けれどもパウロが「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(第一コリント書15章55節)というとき、それはどこにもないということを示しています。

 誰も自分で罪に打ち勝つことは出来ませんでしたが、主イエスによって神は私たちに勝利をお与えくださったのです。それは、一方的な神の恵みです。主イエスを信じるだけで、その恵みに与ることが出来ます。

 あらためて、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言われるように、神の恵みを受けるほどに絶えず謙り、その神の恵みを無駄にしないようにしなければなりません。神に聴き、神に従いましょう。御声がかけられたら、いつでも「はい」と応答する者でありたいと思います。

 主よ、御名が崇められますように。御国がきますように。御心が行われますように。私たちは、主の贖いの御業のゆえに救いの恵みに与りました。、その深い愛と憐れみのゆえに心から感謝します。私たちを神の御霊に満たし、福音の前進のために用いられる器としてください。 アーメン



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