風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

3月22日(月) 申命記7章

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。」 申命記7章6節

 主なる神は、約束の地に入った時、「七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人」を自分たちの前から追い払えと命じられます(1節)。それは、容易いことではありません。むしろ、不可能に近いことでしょう。彼らが、ユダヤの民にまさって「数と力を持つ」民だと言われているからです(1節)。

 自分たちの数や力が「七つの民」より劣っているとなれば、どのようにしてその民を追い出すことが出来るのでしょう。かつて、約束の地を偵察した者たちが「あの民に向かっていくのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」(民数記13章31節)と報告して民の心を挫いたのは、正確な報告だったということになりそうです。

 それに対してヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは「もし我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食に過ぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる」(同14章8,9節)とイスラエルの民に訴えました。

 民はヨシュアらを石で打ち殺そうとします(同10節)。つまり、偵察して来た者たちの報告を受け入れるということです。それを受けて、主なる神は、ヨシュアとカレブの他、約束の地に入ることは出来ないと言われました(同11節以下、29,30節)。

 そのことから、ここでも、目に見える数や力などではなく、ただ、七つの民を追い払えと言われる主を信じ、その命令に従うとき、主の助けによってそれが可能になるということです。私たちは無力でも、主なる神は全能のお方だからです。

 神はイスラエルの民を、ご自身のものとしてお選びになりました。主は彼らを、冒頭の言葉(6節)のとおり、「主の聖なる民」と呼ばれ、また、「ご自分の宝の民」と言われます。勿論、主なる神はイスラエルだけを作られたのではなく、全世界のあらゆる種族、部族、民族を作られたのです。けれども、主はその中からイスラエルを選び出して、ご自身の「宝」(セグッラー)とされました。

 この「セグッラー」という言葉は経済用語で、金や銀といった非常に高価な財産、まさに「宝」を指すものだそうです。また、「主の聖なる民」とは、主がご自分のために他から区別した、とっておきの民であり、神の目的に即して職務、召しを受ける民だということです。

 そう言うと、さぞ優れた民族なのだろうと思われますが、その特別さは、イスラエルの民の特質などにはよりません。主なる神が彼らが選ばれた理由について「あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」(7,8節)と記しています。

 つまり、神がエジプトで奴隷の苦しみにあったイスラエルに目を留め、その力ある御手をもって救い出してくださるのでなければ、民の数が多くはなく、むしろ貧弱と評されたイスラエルにとって、自力でエジプトを脱出することなど、到底適わないことだったわけです。ということは、イスラエルを救い出された神は、七つの民を打ち破り、イスラエルの前から追い払うこともお出来になるのです。

 そのように数も少なく貧弱な民が、どうして「主の聖なる民」、「宝の民」と言われるのでしょう。そのことについて、出エジプト記19章5,6節に「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と記されています。

 主との契約とは、イスラエルをエジプトから救い出してくださった主をおのが神とし、イスラエルは主の民となるというものです。そして、主を神とし、主の民となるとは、主の御声に聞き従い、その掟と法を守り行うことでした(5章1節、6章1節以下)。主の掟と法を守り行うことによって「宝」とされ、神が王として治める王国の「祭司」の務めを果たすために区別された民だということです。

 宝石などが「宝」であるのは、その希少性と純粋な美しさにあるでしょう。純度99.99パーセント以上の金を純金と言います。現段階で、不純物を一切含まない純度100パーセントの純金を作ることは、未だ出来てはいないようです。

 七つの民を追い払うというのは、文字通りそれを実行するというより、イスラエルの民がその心の内より一切の不純物を取り除き、純度100パーセントの全き心で主の御言葉に耳を傾け、その契約を守るということでしょう。そのとき、彼らは主にとって、まさに宝の民となるわけです。

 言い換えれば、イスラエルの民が主によって与えられた戒め、また祭司としての使命を「宝」として受け止め、大切に守ることが求められているのです。そしてそれは、人が独りでよく行うことの出来るものではありません。

 ただ、常に主の御声に耳を傾け、導きと助けを願って祈り求めることです。そのとき、主は私たちの心を聖霊で満たし(ルカ11章13節)、聖霊を通して神の愛を豊かに注いでくださいます(ローマ書5章5節参照)。

 主に信頼し、すべてを御手に委ね、授けられた使命に喜びと感謝をもって励み仕えて参りましょう。

 主よ、あなたは私たちの弱さをよくご存じです。しかし、神の力はその弱さの中で十分に働くということを知っています。主よ、私たちの内に清い心を想像し、新しく確かな霊を授けてください。そうして、み救いの喜びを味わわせ、自由の霊によって支え、御心を行う知恵と力、信仰に与らせてください。私たちの心を聖霊で満たし、愛と平和に溢れさせてください。 アーメン


3月21日(日) 申命記6章

「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」 申命記6章16節

 6章4~9節は、旧約聖書中で最もよく知られている箇所であり、最も重要な戒めとされているところです。これは、十戒(5章6節以下)が語られた後に、部族の長と長老たちがモーセのもとに行き、主なる神と民との間に立って主の言われることを聞き、それをすべて自分たちに語ってくれるようにと要請し(同27節)、それを受けてモーセが民に語り告げた最初の言葉です。

 この箇所が、「十戒」と「掟と法」(12~28章)との架け橋の役割を果たしていると言われます。それは、この箇所が「十戒」の前文、第一、二戒を積極的に言い換えたものであり、そして、この箇所の意味、内容を、「掟と法」が民の生活において具体的に明らかにしているからです。

 後にユダヤ教は、これらの言葉をすべてのユダヤ人が毎日、朝と晩に唱えるべきものと定めました。主なる神のご支配のもとにあるイスラエルの民が、主のみ前に生活を整え、日常の行動と心の向きを決定するための真の基準と考えているのです。

 今も、信心深いユダヤ人は、これらの御言葉を、文字通り徹底的に実行しようとしています。これらの御言葉を記した巻紙を小さな容器(「聖句箱」という)に入れ、額に結びつけています。また、家の門柱には、それと似た別の容器(「メズーザー」と呼ばれる)を取り付けています。そして、子どもたちに律法教育をしっかりと授けます。

 5節の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」というみ言葉は、キリスト教会でもよく知られています。それは、主イエスが律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられたとき、申命記6章5節のこの御言葉をもって、最も重要な第一の掟であるとお答えになったからです(マタイ22章34節以下)。

 ユダヤ人のように、8,9節を厳格に実行することを、主が望んでおられるのかというと、それはそうではないのでしょう。新約聖書において、聖句箱やメズーザーが話題になったことは一度もないからです。

 ただ、腕や額、門や柱に書き記すというのは、単にそうすればよいということではなくて、いつも神の御言葉が目につくところにあるというほどに、主の御言葉が私たちに生活の中に息づき、常に神が神として崇められ、注意深くその御言葉を聴く心の姿勢が求められているのです。

 勿論、順調な日々ばかりではありません。逆風にさらされているようなときもあります。そんなとき、私たちの心はどうなっているでしょう。じっと主を信頼し、御言葉に耳を傾け続けることが出来るでしょうか。

 イスラエルの民はそんなとき、主なる神に不平を言い、呟きました。時には強く反発し、こんな荒れ野で死にたくない、約束の地を目指すよりも、エジプトに帰った方がよいと言い出しました。

 冒頭の「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」という言葉(16節)は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、シナイ山を目指してレフィディムに宿営していたとき、飲み水がなくて不平を言ったときの出来事を指しています(出エジプト記17章1節以下)。

 そのときモーセが「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」(同2節)と言っています。それは同7節にあるように、イスラエルの民が「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、主を試したからでした。

 水が与えられれば、主がイスラエルの民と共におられるしるし、水が与えられなければ、主はおられないしるしだということでしょう。それも、水が与えられなければ、モーセを石で打ち殺すといっているような、大変緊迫した状態です。つまり、モーセが神を騙ってこんな荒れ野に連れて来て、自分たちに水も与えず、ここで殺そうとしているのだろうと、モーセに詰め寄ったわけです。

 そのとき主はモーセに、「ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て」(同5,6節)と命じられ、そこから水が出るようにされました。その場所をモーセは、「マサ(試し)とメリバ(争い)と名付け」(同7節)ました。

 このように名付けられたことで、民の不信仰が重大視されていることが分かります。それは、苦難のときに主なる神が自分たちを救ってくださるかどうかを試すこと、あるいは、どこまで主が自分たちの不信仰、不従順、わがままを許されるのかと、主の忍耐を試すようなことでしょう。

 いずれにせよ、主なる神の愛を疑い、試すということは、イスラエルの民はそのとき、主を愛し、主に信頼する心を持っていなかったということです。もしも主の民が主への信頼を失い、その恵みのみ業を忘れ去るなら、やがて彼らも主に忘れられ、その恵みを失うことになるでしょう。バビロン捕囚が起こったのは、まさしく彼らの不信仰、不従順の故だったのです(15節、4章26節以下)。

 日々主の御言葉に耳を傾け、その教えを心に留め、主の目にかなう正しいことを行いましょう。主が幸いをさずけてくださるからです。

 主よ、あなたこそ私たちの神です。全身全霊をもってあなたを愛します。あなたに信頼し、御言葉に聴き従います。すべてを明け渡します。委ねます。どうか弱い私たちを試みに遭わせず、悪しき者からお救いください。み名が崇められますように。 アーメン


3月20日(土) 申命記5章

「どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守る心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。」 申命記5章29節

 モーセが語り伝えた「掟と法」の表題としての4章に続いて、5章から、イスラエルの民が約束の地において守り行うべき定め、掟と法が語られました。その前半部(5~11章)は、主なる神とイスラエルの民との間に結ばれた契約の基本箇条である十戒とシェマーが告げられ、後半部(12~28章)は、民が従順に聞き従うべき掟、および祝福と呪いの宣言が記されています。

 5章に「十戒」(6~21節)が記されています。これは、出エジプト記20章にも記されています。シナイ山で受けた戒めを、今ここにもう一度、記しているわけです。それは、約束の地に向かって進軍しようとしているイスラエルの民に、主なる神との契約を結ばせるためでした(3節)。

 イスラエルの民は、ホレブにおいて神と契約を結んでいました(2節)。しかしながら、イスラエルの民は神に背き、御言葉に従おうとしなかったため、約束の地を見ることなく、荒れ野で死んでしまいました(1章35節、民数記14章35節、26章64節)。その子らが同じ轍を踏むことがないように、改めて十戒が語り聴かされているのです。

 4章44節以下に「律法のまえがき」が記されています。その中に、この十戒を教えた場所について、「ヨルダン川の東で、ヘシュボンに住むアモリ人の王シホンの領土にあるベト・ペオルの前に広がる谷」(同46節)と告げています。

 3章27,29節との関連から、ベト・ペオルは、モーセが約束の地を眺めたピスガ=ネボ山に近く、ネボ山の北、シティムの南東4キロのキルベト・エ・シーク・ジャーイルがそれであろうと考えられています。

 主なる神は、かつてホレブの山に降られたのと同様、ペオルの山(民数記23章28節参照)に降り、火の中から民に語られました(4,5,22,23節)。22節に「火と雲と密雲の中から」と言い、23節でも「山は火に包まれて燃え上がり、あなたたちが暗闇からとどろく声を聞いたとき」と語られているように、それは本当に恐ろしい光景だったことでしょう。

 民は畏れて、「これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます」(25節)といい、「どうか、あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください」(27節)とモーセに求め、「我々はそれを聞いて実行します」(同節)と約束しました。

 これらの言葉を主が聞かれ、冒頭の言葉(29節)をモーセに告げられました。彼らの信仰を祝福してくださったのです。私たちも、主が語られたとおり、初心を忘れず信仰に固く立ち、真理の言葉に従って命の道をまっすぐに歩み、常に主の恵みと慈しみに与ることが出来るようにと祈ります。

 あらためて、ベト・ペオルとは、イスラエルの民がかつてモアブの神バアル・ペオルを拝んだところではないか、とも言われます(民数記25章3,5,18節)。ベト・ペオルとは「ペオルの家」という意味で、ペオルの神殿があったと思われます。

 そうであれば、まさに民の父らが異教の神を拝む罪を犯し、神を怒らせたその場所で、自分たちをエジプトの国、奴隷の家から導き出した主なる神を、おのが神として忠実に従うように、改めて命じているわけです。

 それは、主イエスが、フィリポ・カイサリアという、ヘロデ大王がローマ皇帝の像を安置する大理石の神殿を建てた町で、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16章15節)と尋ねられ、シモン・ペトロが「あなたはメシア、神の子です」(同16節)と答えたという出来事を思い起こさせます。

 それは、ローマ皇帝を神とするのではなく、主イエスこそ我が神とするというのです。主イエスはペトロの信仰告白を喜ばれ、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。キリストはご自身を信じる者たちと新しい契約を結ばれ、その信仰を土台とするご自分の教会を築かれるのです。

 フィリポ・カイサリアは、ヨルダン川の水源地、ヘルモン山の雪解け水が泉となって湧き出すところです。そこから流れ出した水が、流域を潤しながら死海まで流れ下るヨルダン川となります。

 主イエスを信じる者は、その腹から生きた水が川となって流れ出ると、ヨハネ7章38節に記されています。フィリポ・カイサリアでのペトロの信仰の告白は、主イエスの福音が全地を潤すようになるということを象徴的に表しているようです。

 ベト・ペオルは、そのヨルダン川が死海に注ぎ込む河口の東に位置しています。そこにいる民が主イエスを信じる信仰に固く立つならば、彼らから流れ出た生きた水が周囲を清め、そこは命に溢れるところとなることでしょう。

 私たちも主によって祝福の源となるようにアブラハムの子として選ばれました(創世記12章2,3節、ヨハネ福音書15章16節)。隣人のために祝福を祈り、主の福音を証しする者とならせていただきましょう。そのために、聖霊の導きに与りましょう(使徒言行録1章8節、ヨハネ7章38,39節)。

 主よ、あなたは私たちを罪の縄目から解放し、永遠の御国に入る導きに与らせてくださいました。その恵みに感謝し、日々御言葉に耳を傾けます。その導きに従って歩みます。聖霊に満たされ、その力を受けて主の御業に励む者としてください。 アーメン


3月19日(金) 申命記4章

「イスラエルよ、今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。」 申命記4章1節  

 4章は、28章まで続く、モーセが語り教えた主なる神の「掟と法」(1節)の序文という役割を果たしています。

 アルノン川からヘルモン山に至る、ヨルダン川東部全域を占領したイスラエルの民は、すぐにも約束の地に進軍して行こうとしています。しかし、モーセはヨルダンを渡ることが出来ません(3章27節)。そこで、イスラエルの民が約束の地において守るべき「掟と法」を、ここに語り聞かせているのです。

 3章28節に主がモーセに告げた、「ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう」という言葉が記されています。それで、「掟と法」が語り出されているので、ヨシュアとイスラエルの民を力づけ、励ますのは、「掟と法」なる主の教えだとモーセは考えているのです。

 冒頭の言葉(1節)に、「(掟と法を)聞きなさい」(シェマ)という言葉があります。新共同訳は「忠実に」と意訳して、「忠実に行いなさい」と、実行することに重きを置く文章にしています。

 原文を直訳すると「今イスラエルよ、実行するためにわたしがあなたがたに教えるところの掟と法を聞きなさい」(新改訳参照)となります。掟と法が与えられるのは実行するためですが、命じられているのは、それを「聞く」ことです。

 4章を読んで気がつくのは、「主は火の中からあなたたちに語りかけられた」という言葉が何度も繰り返されていることです(12,15,33,36節)。これは、エジプトを脱出したイスラエルの民がシナイの荒れ野にいて、シナイ山に降られた主が民に語りかけたときのことと言われています(11,15節、出エジプト記19章18節)。

 火は一般に、調理、暖房、灯火、金属の精錬などに用いられますが、ときに破壊や裁きのためにも用いられます(創世記19章24節、出エジプト記32章20節、レビ記20章14節、申命記9章3節など)。特に、神の幕屋では、祭壇でいけにえを献げ、香を炊くために欠かせません。

 アロンが祭司として最初に献げ物を献げたとき、「主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くし」(レビ記9章24節)ました。それは、祭壇のいけにえを神が受け取られたしるしであり、祭壇の火は本来神から出たものということを示しているわけです。祭壇の火は絶やさず燃やし続けるようにという規定があるのは、そのためかも知れません(同6章5,6節)。

 火の中にご自分を顕され、火の中から語りかけられた主なる神の教えは、イスラエルの民に「知恵と良識」を与えるものでした(6節)。その知恵の内容は、いつ呼び求めても、主が近くにおられるということであり(7節)、また、その神から正しい掟と法が与えられているということでした(8節)。

 つまりそれは、主なる神とイスラエルの民との間に深い交わりがあるということです。それゆえ、イスラエルの民は正しい教えを聞くことが出来るというのです。

 火の中から語りかけられたという言葉に続いて、「声のほかには何の形も見なかった」(12節。15節も)と言われています。そこで、神の形を見てはいないし、地上の獣、空の鳥、海の魚、天の万象などすべてのものは神に造られたもの、被造物なのだから、それで像を造り、それらにひれ伏し仕えてはならないと、16節以下で命じられています。

 これが、十戒の第1戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節、第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」(同4節)、「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(同5節)の根拠といって良いのでしょう。

 さらに、神とイスラエルの民とは、神の御声を通して信仰の交わり、その関係を結んでいるということです。御声は、文字ではありません。読めば分かるという、自分の主体的な営みではありません。声を出されるお方(神)がおられ、その御声を聞く者(イスラエルの民)がいて、「御声を聞く」ということになるわけです。その意味で、「聞く」というのは、受動的な営為ということになります。

 そして、7節の「いつ呼び求めても、近くにおられる神」とは、神が近くにおられて、民の呼び求める声を聞いてくださるということですから、声を聞くということが双方向でなされることになります。また、「近くにおられる」とは、その関係の近さ、深さを示しています。

 私たちが聖書を読んだり、祈りをささげているとき、主なる神と私たちの双方向の会話が行われているということです。御心を求めて御言葉を読み、御言葉に信頼し、従うことができるように祈り求めるのです。

 パウロが、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10章16節)と言っているのは、このことだと思います。今、私たちに語りかけられる神の御声に耳を傾けましょう。神に聴いて従う者となりましょう。

 主よ、今日も命の言葉に与らせてくださり、有り難うございます。常に近くにおられる生ける神の御言葉を日々聴くことが出来ますように。聴いた御言葉に喜びと感謝、信仰をもって従うことが出来ますように。信仰はキリストの言葉を聴くことによって始まるからです。御旨を行う者とならせてください。御名が崇められますように。 アーメン


3月18日(木) 申命記3章

「ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。」 申命記3章26節

 ヘシュボンの王シホンを打ち破り、アルノン河畔のアロエルからギレアドまで、すべての町を手に入れたイスラエルは(3章36節)、さらに北へ、バシャンに至る道を上って行きます(1節)。バシャンは、ギレアドからヘルモン山に至るガリラヤ湖東部の地を指します。約束の地に入るのに、ギレアドからバシャンに上って行く必要はないと思われます。

 バシャンの王オグは、上って来るイスラエルを迎え撃つために全軍を率いて出撃し、エドレイに陣を敷きます。今回モーセは、シホンの時のように予め領地通過の許可を求める友好使節を送るなどのことをしていません。バシャンもアモリ人の王国ですから、撃ち払えということだったのでしょう。また、バシャンの王オグも、ヘシュボンを滅ぼしたイスラエルを見過ごしには出来なかったのでしょう。

 この戦いにおいて、バシャンはイスラエルの前に完全に打ち破られ(3節)、その結果、アルノン川からヘルモン山に至るヨルダン川東部地域がイスラエルの手に渡ることになりました(8節)。モーセはその地を、求めに従ってルベンとガド、そしてマナセの半部族に与えました(12節以下、民数記32章33節以下)。

 つまり、「アルノン川沿いにあるアロエルからギレアドの山地の半分、およびそこにある町々」(12節)、即ちヘシュボンの王シホンの支配地域はルベンとガドの子孫に、そしてマナセの子孫のうち、ヤイルには北部のアルゴブ(即ちバシャンの全土、13節)、マキルには南部のギレアドが(15節)、嗣業の地として与えられたのです。

 その後、ヨルダン川を渡って約束の地を獲得するよう、進軍の命令(18節以下)を与えたモーセは、主の前に祈りました(23節)。その祈りは、24,25節に記されています。そこにおいてモーセは、「あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました」(24節)と言います。

 今神は、イスラエルを解放し、カナンの土地を与えるという約束の実現に向けて、端緒を開かれました。当然、その結末を知りたい、神の約束が実現しているところを見たいと思うでしょう。だから、「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」(25節)と祈り願ったわけです。

 このように祈り求めているということは、当然、モーセ自身、ヨルダン川を渡って約束の地に入れるとは考えていないということになります。それは、1章34節以下で、モーセは良い土地に入ることは出来ないと言われていたからです(同37節)。

 ただし、その理由は、民数記20章1節以下の「メリバの水」の出来事で、モーセの過ちの故ということではないようです。「主は、あなたたち(イスラエルの民)のゆえにわたし(モーセ)に向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった」(26節)と記されていて、イスラエルの民との連帯責任というか、監督責任のために約束の地には入れないようになったということでしょう。

 そうであれば尚更、モーセは約束の地を見たかったでしょう。そもそも、彼が自ら願ってイスラエルの指導者になったわけではありませんでした。主に命じられて、民を約束の地に導き入れるために40年間苦労し続け、ようやくそれが叶うところまでやって来たのです。

 前に斥候たちが探ってきた良い地(民数記13章参照)に、足を踏み入れてみたかったでしょう。そこで生活してみたかったことでしょう。それが出来ないというのは、どんなに心残りだったことでしょうか。

 「あなたたちのゆえに」ということは、何か責任転嫁の言葉のように思われますが、しかしながら、神はそれをお咎めにはならなかったようです。イスラエルの民に対して「わたしが与えると先祖に誓った良い土地を見る者はない」(1章35節)と言われていましたが、モーセには、冒頭の言葉(26節)のとおり、ピスガの頂上から約束の地を見渡すことが許されているからです。

 ピスガについて34章1節に、「ネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った」と記されています。ネボ山は、ヨルダン川東方のアバリム山脈の峰の一つで、ヨルダン川河口から東19キロメートルに位置する、標高802メートルのジェベル・エン・ネバと同定されています。

 ここからイスラエルの全地を見渡すことは、事実上不可能です。けれども、そのとき主なる神が御力をもって、モーセがイスラエル全地を見渡すことが出来るようにしてくださったわけです。人には出来ないことも、神に出来ないことはありません(マタイ19章26節ほか)。

 「もうよい」(26節:口語訳「おまえはもはや足りている」、新改訳「もう十分だ」)とは、主がモーセに委ねた働きは、既に十分なものになっているということでしょう。主イエスが「タラントンのたとえ」で、主人の期待に応えた僕に、「忠実な良い僕だ。よくやった」(マタイ25章21,23節)と告げたのと同じ意味といってもよいでしょう。

 そこで、モーセに委ねられていたイスラエルの民を率いて約束の地に入るという使命は、ヌンの子ヨシュアに引き継がれます(28節)。モーセの最後の務めは、神が啓示してくださった約束の地を見渡しながら、イスラエルの民に「神の掟と法」を語り告げることです(4章以下)。約束の地に生きる術を、荒れ野から神の言葉として語るのです。

 荒れ野で悪魔に試みられた主イエスが、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ福音書4章4節)と答えられました。これは、申命記8章3節からの引用です。

 主にあってこの世に生きる者として、日々主の御言葉に耳を傾け、その導きにまっすぐに従って参りましょう。

 主よ、あなたの御言葉こそ、私たちの道の光、私たちの歩む道を照らす灯火です。仰せの通り、私たちの足取りを確かなものとしてください。私たちの耳を開き、日毎に主の御声に耳を傾けさせてください。私たちの目を開き、御業を清かに拝させてください。御名が崇められますように。 アーメン


3月17日(水) 申命記2章

「しかし、ヘシュボンの王シホンは、我々が通過することを許さなかった。あなたの神、主が彼の心をかたくなにし、強情にしたからである。それは今日、彼をあなたの手に渡すためであった。」 申命記2章30節

 2章でモーセは、カデシュ・バルネア(14節、1章46節)からゼレド川(13節)、アルノン川(24節)を越えてアモリ人の地に至り、ヘシュボンの王シホンと戦ったところを語っています(32節以下)。

 ゼレド川は死海南端に流れ込む川で、死海南部に住むエサウの子孫、即ちエドム人と、死海東部に住むロトの子孫、即ちモアブ人との国境線になっています。また、アルノン川はヨルダン川の支流で、モアブ人の地と、アモリ人、アンモン人の地の国境線となっています。

 神は、ヤコブ=イスラエルの兄エサウの子孫のエドムの領地、イスラエルの父祖アブラハムの甥ロトの子孫のモアブとアンモンの領地は、イスラエルには領有させない、親族であるこれらの民族に戦いを挑んではならないと言われました(4,9,18節)。

 エドムやモアブ、アンモンは、イスラエルの神、主を拝むわけではありません。しかし、彼らにその領地を与えたのはイスラエルの神、主(ヤハウェ)であって、エドムやモアブ、アンモンの人々が礼拝している神々ではないということが、ここに明確に述べられています(5,9,18節)。

 興味深いことに、エサウやロトの子孫は、主なる神に従わなくてもその領地が与えられていますが、主を信頼せず、御言葉に従わなかったイスラエルの民は、約束の地に入ることを許されませんでした(14,15節)。

 イスラエル人だから特別な恵みが与えられ、そうでない民には祝福を与えないということではありません。だからたとえば、主なる神が、キリスト教徒ないしキリスト教国家にはあらゆる人生の成功を自動的に授けようとするとか、非キリスト教徒の必要と権利を無視されるという考え方に対して、警告を与えているわけです。

 神の恵みは、一方的な選びによって与えられますが、それは、すべての人々に恵みが与えられるというしるしです。イスラエルは、神の恵みを証しするという使命を果たすために、神に選ばれたのであり、そのために恵みに与っているのです。

 エドムやモアブ、アンモンの領地は与えないと言われた神ですが、アルノン川の北に住むアモリ人の国はあなたの手に渡したので、戦いを挑み、占領を開始せよとイスラエルに命ぜられます(24節)。エサウやロトは、イスラエルとは親戚関係にありますが、アモリ人はそうでないので、パレスティナから追放されるべき存在だということなのでしょうか。

 とはいえ、アモリ人とて神によって作られた人間、その民です。彼らにも住むべき場所があり、生きていく道、生活していく権利を持っています。だからモーセも、ヘシュボンの王アモリ人シホンに対し、先ず友好使節を送りました(26節)。

 「領内を通過させてください。右にも左にもそれることなく、公道だけを通ります。食物は金を払いますから、売って食べさせ、水も金を払いますから、飲ませてください。徒歩で通過させてくださればよいのです。セイルに住むエサウの子孫やアルに住むモアブ人が許可してくれたように、ヨルダン川を渡って、わたしたちの神、主が与えてくださる土地に行かせてください」(27~29節)と伝えさせます。

 初めからけんか腰、有無を言わさぬ宣戦布告などということではなかったのです。イスラエルに与えると言われた嗣業の地は、ヨルダン川を東境として、アモリ人の地を取る必要はなかったからです。ですから、ヘシュボンの王シホンが「それならばどうぞ」と答えていれば、イスラエルと友好関係を保ち、ヨルダン川東部の地に住み続けることも出来たかも知れません。

 しかしながら、シホンは全く頑迷になって、冒頭の言葉(30節)の通り、イスラエルの通過を許さず、その上、イスラエルを迎え撃つために全軍を招集しました(32節、民数記21章23節)。そして、イスラエルはシホンの全軍を打ち破り、男も女も子どもも一人残らず滅ぼし尽くし、すべての町を占領しました(33,34節)。 

 異邦人の習慣や異教の教えを持ち込ませないために、7章1節以下で、「七つの民を滅ぼせ」と命ぜられることの先取りとして、男も女も、子どもでさえも、一人残らず滅ぼし尽くすということが行われました。

 「滅ぼし尽くす」というのは、「ハーラム」という言葉です。これは、自分たちの激情にまかせて流血の欲望を満足させる、ということではありません。この動詞の名詞形は「ヘーレム」といい、7章26節に「滅ぼし尽くすべきもの」と訳されています。

 この「ヘーレム」が、レビ記27章28節では「奉納物」と訳されています。つまり、焼き尽くす献げ物のように、すべてのものを滅ぼし尽くすことが、その血(=命)のすべてを神にささげ尽くす行為と考えられているというような言葉遣いで、そこから神の名による、神のための「聖戦」という思想が生まれて来た、と考えても良いのでしょう。

 あらためて、冒頭の言葉(30節)で「あなたの神、主が彼の心をかたくなにし、強情にした」というのは、シホンの意志とは無関係に、なぜか突然頑固にされたというようなことではないでしょう。シホンの不寛容さが戦闘の原因となったことで(30節)、それを「かたくなさ」として、主がイスラエルに勝利を賜ったと説明しているわけです(出エジプト記7章3節なども参照)。

 ここでシホンのかたくなさが語られるのは、むしろ、イスラエルの民が主なる神の教え、定め、掟に対して素直に聞き従わず、主の目に悪とされる道を離れようとしなかった不信仰を、「かたくなさ、強情」として、それがアッシリア、バビロンとの戦いに敗れ、嗣業の地を失う結果につながるということを、ここに予め示しているのでしょう。

 ただ、シホンがイスラエルに道を譲らず、戦いを挑んで敗れたために、イスラエルの民はヨルダン川の東部にも嗣業の地を獲得することになりました。シホンの頑迷さがイスラエルの民のために用いられたかたちです。

 思うに任せない現実に道が閉ざされるとき、そのこともプラスとしたもう主を信じ、すべてを主の御手に委ね、感謝と喜びをもって主の御名をほめ讃えましょう。私たちの思いをはるかに超えた道が、主によって開かれることになるでしょう。

 主よ、私たちの中には、あなたを悲しませるものが随分たくさんあります。御言葉によって清めてください。御霊の力で主への信仰を妨げるすべてのものを追い払ってください。常に主を拝し、主に信頼して歩む心を与えてください。その恵みに与り、主の栄光を証しする者とならせてください。 アーメン


3月16日(火) 申命記1章

「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた。それは、ヨルダン川の東側にある荒れ野で、一方にパラン、他方にトフェル、ラバン、ハツェロト、ディ・ザバブがあるスフに近いアラバにおいてであった。」 申命記1章1節

 今日から、申命記の学びに入ります。申命記は、紀元前8世紀から6世紀に亘る、即ち分裂王国時代から捕囚時代にかけて、複雑なプロセスを経て形作られたと考えられています。

 ホセア書や、五書の中のE典(エロヒスト資料)と言われる、北王国で成立した資料との類似性から、申命記資料の一部は、北王国で成立した可能性が指摘されています。そうであれば、それは北王国が滅亡した8世紀末に南ユダ王国に持ち込まれたと考えられ、そのことは、申命記が成立した最初の段階と符合しています。

 列王記下22,23章に描かれるヨシヤの宗教改革との関連性から、申命記が基本的なかたちをなしたのは、ヨシヤの宗教改革時代だと思われます。その時期に、少なくとも申命記4章44節~28章68節がその基本的な形を取ったようです。

 「申命記(Deuteronomy)」という名前は、70人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)の申命記17章18節に出てくる「デウテロノミオン(第二の律法)」という単語から来ています。もとのヘブライ語は「ミシュネ」(第二の、二倍の、写し)で、口語訳や新共同訳聖書では、文脈から「律法の写し」と翻訳しています。

 「申」という漢字には、「重ねる、繰返す」という意味があり、申命記とは、命令が繰り返されている書物ということになります。つまり、申命記は、シナイ山で与えられたものとは別の(第二の)律法ではなく、同じ律法が、約束の地を前にして、もう一度モーセの口を通して語られている(律法の写し)というわけです。

 申命記の原題は、「ハ・ドゥバリーム」と言います。これは、冒頭の言葉(1節)で「これらの言葉」と訳されているものです。「ハ」は定冠詞、「ドゥバリーム」は「ダーバール」という単語の複数形で、意味は「言葉」 word です。定冠詞つきの「言葉」 the words で、「神の御言葉」ということになります。申命記は、モーセの口を通して語られた、神の御言葉の書なのです。

 さらに、「ドゥバリーム」は、「行動」 acts、「出来事」 events,things という意味にもなります。つまり、語られた言葉がそのまま行動、出来事になるというのです。それは、語られた言葉が、力ある神の言葉、真実な言葉だからです。

 神は、その口でお語りになられたことを、御手をもって実行されます(列王上8章20節、24節)。「光あれ」と神が言われると、光が出来ました(創世記1章3節)。

 そして神は、ご自身の愛を私たちに伝えるために、主イエスをお遣わしになりました。そのことについて、ヨハネによる福音書1章14節には、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記してあります。

 ここで「言(ことば)」に、「葉」をつけていないのは、「言(こと)」が「事(こと)」に通じ、神の言葉が現実のものとなるということを、その文字で伝えようとしているのです。そうして、主イエスこそ、神の愛を伝えるための神の言葉であり、神の愛の言葉が姿を取って現れたのが、主イエスなのです。

 それは、逆に言えば、私たちが通常用いる「言葉」は、「葉」を茂らせているけれども、「事」に通じていない、実を結ばない、空しいものになっていないかという問いかけでもあります。これは、主イエスがエルサレムに入城される前、葉ばかり繁らせて、実のなかったいちじくを呪われ、根元から枯れてしまうという出来事を思い起こさせます(マルコ11章12節以下、20節以下)。

 柏井宣夫先生が著書『真実の言葉を求めて』(新教出版社,1980年)の序文に、「話すとは、沈黙を破って言葉を発することである。しかし、言いっぱなしということもある。語るとは、時に『だます』という意味にもなる。これは、言葉が不十分な道具である以上に、言葉を使う人間の側に問題がある」と述べておられますが、考えさせられる言葉です。

 言葉の真実さということで思い起こすのは、「一切誓いを立ててはならない」(マタイ5章34節)と言われた主イエスの言葉です。「誓い」は、神に対して、ある行為の実行を決意し、約束することです。神と約束するのですから、誠実に履行すべきなのは言うまでもありません。

 それを主イエスが「一切誓いを立ててはならない」と言われたのは、「誓う」と言わなければ、有言不実行でもよいということではありません。日頃から、言行が一致していれば、特に「誓い」も「保証」もいらないでしょう。

 主イエスは「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(第一ペトロ書2章22節)のです。確かに、主イエスこそ誓いも保証も必要とされない、真実なお方でした(第二テモテ書2章13節)。

 絶えず真実をもって語りかけてくださる主イエスの御言葉に耳を傾け、キリストの言葉が私たちの内に豊かに宿るようにし、何を話すにせよ、行うにせよ、すべて主イエスの御名によって行い、感謝して心から神をほめたたえましょう(コロサイ書3章16,17節)。

 主よ、私たちがいかに不真実な人間であるか、あなたが一番よくご存知です。しかるに、あなたは私たちに対して、絶えず真実を語り、真実を示し続けておられます。その計り知れない愛と恵みのゆえに、心から感謝し、御名をほめたたえます。私たちは今、真実な方なる御子イエス・キリストの内にいるのです。ハレルヤ! アーメン


3月15日(月) 民数記36章

「イスラエルの人々の嗣業の土地が一つの部族から他の部族に移ることはなく、イスラエルの人々はそれぞれ、父祖以来の部族の嗣業の土地を固く守っていかなければならない。」 民数記36章7節

 いよいよ、民数記最後の章です。1章1節に、「イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった」とありました。マソラ本文(ヘブライ語原典)では「荒れ野にいたとき」(ベ・ミドゥバル in the wilderness)が冒頭にあって、民数記の原題とされています。

 そして、36章13節に「以上は、エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野で、主がモーセを通してイスラエルの人々に命じられた命令と法である」と記されています。つまり、シナイ山のふもとに広がっていたシナイの荒れ野から、もう一歩でカナンというヨルダン川の東側、モアブの平野まで、約39年に及ぶシナイ半島の荒れ野の旅において起こった出来事が本書に記されていたわけです。

 1章と26章に「民数記」という題がつけられる根拠となった、イスラエルの人口調査の記事があります。1章でエジプトを脱出した民の、兵役に就くことの出来る男子の数が数えられます。そして、彼らはモーセに不平を言い、神に背いたため、ユダ族エフネの子カレブとエフライム族ヌンの子ヨシュアの二人を除き、この第一世代の人々は荒れ野で死に絶えてしまいました。

 26章で数えられたのは、約束の地に入ることが出来る民のうち、1章と同様、兵役に就くことの出来る男子の数で、彼らは荒れ野で死に絶えた民の子どもたち、つまり第二世代の人々です。言ってみれば、25章までの荒れ野の旅で、世代交代がなされたわけです。

 36章には、「相続人が女性である場合の規定」が記されています。これは、27章の「ツェロフハドの娘たちの申し出」と関連があります。26章でその人口が確認された新世代の人々に命じられた様々な規定(27章12節~35章34節)が、ツェロフハドの娘たちの土地取得と相続に関する物語で挟み込まれたかたちです。

 マナセ族のヘフェルの子ツェロフハドには、娘は5人いますが、息子はいませんでした。父の死後、この娘たちがモーセのところに来て、「男の子がないからといって、どうして父の名が氏族の中から削られてよいでしょうか。父の兄弟たちと同じように、わたしたちにも所有地をください」(27章4節)と申し出て、それが了承されました(同7節以下)。

 36章では再度そのことを取り上げ、神はツェロフハドの嗣業の地を娘たちに与えるようにされたけれども、娘たちが他の部族の男子と結婚すると、その土地は他部族に移ってしまい、マナセ族の嗣業の地が削られてしまうではないかという訴えが、マナセ族の家長たちによってもたらされたのです(2節以下)。

 それに対するモーセの回答は、「娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい。ただ、父方の部族の一族の者とだけ結婚できる」(6節)というものです。通常、結婚相手を同族の者に限るというのは、劣性遺伝を出現させる確率が高まるので、歓迎されません。だから、そのような制限を設けずに、「娘たちは自分を気に入ってくれた男と結婚してよい」というのが大原則です。

 しかしながら、それでは、マナセ族の嗣業の地が損なわれてしまいます。冒頭の言葉(7節)に言うとおり、「イスラエルの人々の嗣業の土地が一つの部族から他の部族に移ることはなく、イスラエルの人々はそれぞれ、父祖以来の部族の嗣業の土地を固く守っていかなければならない」ということです。

 そこで、「嗣業の土地を相続している娘はだれでも、父方の部族の一族の男と結婚しなければならない」(8節)という制限が設けられるのです。それほどに、主から賜った嗣業の地を守ることが重要だということです。

 ただ、イスラエルの民は、ヨルダン川東部のギレアドの地を手に入れたものの、約束の地カナンにはまだ一幅の土地も手に入れてはいません。「エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野」にいるのです。

 けれども、27章と36章のツェロフハドの娘たちへの嗣業の地の分配と、他部族への移動を禁じる規則を通して、イスラエルの民が必ず嗣業の地を得ることが出来ることを確証するとともに、男子のみが遺産を相続するという旧来の伝統に対して、嗣業の地分配の公平性が性差によって侵されないようにしたことで、聖書世界における女性の地位を高める小さな一歩を踏み出したのです。

 イスラエルの民は、神の御言葉に信仰をもって忠実に聴き従うよう、荒れ野で訓練されて来ました。そしてまた、伝統にはなかった女性の相続を認めるなど、信仰の恵みを堅持しつつ、状況に応じて柔軟に対応することも学んだのです。

 日々主の御前に進み、謙ってその御言葉に耳を傾け、聖霊の導きによって主の御心をわきまえ、信仰をもって行動しましょう。

 主よ、私たちは勿論、神の子として生まれた者ではありません。しかしながら、主イエス・キリストにより、天に国籍を持つ者として頂きました。御国に生きる者として、御言葉に誠実に聴き従うように、今この地で訓練を受けています。愛する子として訓練して頂けることを、感謝します。御心をわきまえることができるよう、聖霊の導きに与らせてください。主の霊のおられるところに自由があるからです。 アーメン


3月14日(日) 民数記35章

「共同体は、人を殺してしまった者を血の復讐をする者の手から救い出し、共同体が、彼の逃げ込んだ逃れの町に彼を帰さなければならない。彼は聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにとどまらねばならない。」 民数記35章25節

 34章にイスラエル諸部族の土地の配分について記されていましたが、35章では「レビ人の町」について言及されています。レビ人は、12部族の一つですが、約束の地に土地の配分を受けません。嗣業の地を所有することが許されていないのです(18章24節、26章62節)。だから、レビ人に代わって、ヨセフの子らマナセとベニヤミンが配分を受けています。

 ゆえに、レビ人たちの居住地を、諸部族の所有地から提供してもらう必要があるのです。それで、主なる神がイスラエルの民と共に住まわれるために臨在の幕屋が設けられたように、主に仕える人々が諸部族の中に住むための町が設けられました。レビ人にとってそれは、神と人に仕える生活を送ることであり、人々にとっては、神に仕える人々の聖なる生活の手本を身近に垣間見ることでした。

 レビ人の町は、人を殺した者が逃れるための逃れの町6つと、その他に42の町、合わせて48の町が設けられることになります(6節)。「大きい部族からは多く取り、小さい部族からは少なく取り、それぞれ受ける嗣業の土地の大きさに応じて」(8節)レビ人に提供するのです。

 町の外側には放牧地が設けられることになっています(2節)。レビ人の家畜やその他の動物が、そこで飼育されるのです(3節)。ただ、4節で「町の城壁から外側に向かって周囲一千アンマとする」とされているのに、5節では「町の外から東側に二千アンマ、南側に二千アンマ、西側に二千アンマ、北側に二千アンマ測り、町をその中央に置かねばならない」と言われます。

 このことについて、古くから様々な解釈がなされていますが、レビ人の住む町が2千アンマ四方、その外側に1千アンマの幅で放牧地が取られ、4千アンマ四方の土地がレビ人に提供されることになると考えるのが、一番妥当なのではないかと思われます。 

 9節以下に「逃れの町」の規定が記されています。これは、出エジプト記21章12,13節で「人を討って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる」と定められていたものを、具体的に実施するための施行細則のようなものです。

 逃れの町は、「誤って人を殺した者が逃げ込むことができ」(11節)、「共同体の前に立って裁きを受ける前に、(復讐する者の手に落ちて)殺されることのないため」(12節)に設けられます。

 故意に、殺意を持って暴力を振るう者は、必ず死刑に処せられることになっていました(出エジプト記21章12,14節)。故意に、殺意をもってなされた殺人かどうか、16節以下に判例が示され、それに基づいて、共同体が当事者を裁くわけです(24節)。

 また、認定に当たって、複数の証人の証言が必要とされていますが(30節)、これは、冤罪を防ぐ工夫と言ってよいのでしょう。あるいはまた、どのような理由であれ、人を死に至らしめることには慎重であるべきだということでしょう。

 冒頭の言葉(25節)に「彼(逃れの町に逃げ込んだ者)は聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにとどまらねばならない」と記されています。共同体の前で裁きを受けて、故意の殺人とされた者は処刑されてしまいますから、町に留まっているのは、故意ではないと認定された殺人者たちのことです。彼らはしかし、無罪放免ということにはならなかったのです。

 「血の復讐をする者」は、「人を殺した者」を殺すことで、自身の近親者の血の贖いをする責任がありました(33節参照)。そこで、故意でない殺人者は、逃れの町で身の安全を図ったわけです。その規定を守らずに町の外に出れば、復讐する者から殺されても止むを得ないとされたのです(27節)。

 一方、大祭司が死ねば、誤って人を殺した罪は赦されて、自分の所有地に帰ることが出来るとされています(28節)。大祭司は神と民との仲保者で、大祭司の死が身代わりの死、贖いの死と見なされるわけです。

 ヘブライ書9章11,12節に「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」と記されています。

 これは、主イエスが私たちの身代わりに贖いの死を遂げてくださったことにより、私たちは罪赦され、神の子とされて天に国籍を持つ者となり、永遠の御国に迎えられるということです。逃れの町の規定、そして、大祭司の死による贖いは、後に永遠にメルキゼデクと同じようになられた大祭司と称された主イエス(同5章5節以下10節)の御業、予め表しているようです。

 大祭司なるイエス・キリストにつながり、その御言葉に留まっていれば、イエス・キリストの弟子として真理を知り、真理は私たちを自由にします(ヨハネ8章31,32節)。また、望むものを何でも願えば、それがかなえられ、豊かに実を結び、主イエス・キリストの弟子となることで、父なる神が栄光を受けると教えられます(同15章7,8節)。

 「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」(詩編34編9,10節)、「主に逆らう者は災いに遭えば命を失い、主に従う人を憎む者は罪に定められる。主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は、罪に定められることがない」(同22,23節)。

 日々、御言葉の恵みに与り、真理の内を共に歩ませていただきましょう。

 主よ、私たちをあなたの慈しみの御翼のもとに守り、慈しみをお与えくださリ、感謝致します。絶えず慈しみ深い御手のもとに留まります。その恵み深さを味わいます。私たちをあなたの恵みと慈しみをあかしする証人として、御言葉をもって整え、用いてください。御名があがめられますように。 アーメン


3月13日(土) 民数記34章

「東境は、ハツァル・エナンからシェファムに線を引き、シェファムからアインの東側のリブラに下る。更に境界線は、キネレト湖の東斜面を経て、ヨルダン川を下り、塩の海に達する。以上の境界線の内側があなたたちの土地である。」 民数記34章10~12節

 約束の地カナンを望むことの出来るモアブの平野までやって来て、主なる神は「イスラエルの嗣業の土地」について、境界線を示し(2~15節)、次にその土地を分配する責任者を各部族から一人ずつ、計10名を指名します(17節以下)。ルベン族、ガド族は、ヨルダン川の東、アモリ人の地に既に分配を受けているため、責任者が呼び出されていません。

 指名された10名のうち、ユダ族の責任者エフネの子カレブ以外に(19節)、予め知られている名前はありません。しかし、その名の意味は、興味深いものです。特に、エルやエリというのは、神を意味する言葉です。彼らに名をつけた親たちが、主なる神にどのような思いを持っていたのかを、その名前から窺い知ることが出来ます。

 シェムエル(20節)は「神の名」、エリダド(21節)は「わが神は愛する」、ブキ(22節)は「試みる」、ハニエル(23節)は「神の恵み」、ケムエル(24節)は「神の会衆」、エリツァファン(25節)は「わが神は守る」、パルティエル(26節)は「私を救う神」、アヒフド(27節)は「威厳ある兄弟」、そしてペダフエル(28節)は「神は贖う」というものでした。

 彼らは、荒れ野において様々な試みを受けていましたが、そこに神の愛と恵みを感じ、また御翼の下に守られる安心感のようなものを感じていたようです。そしてまた、主がそのような名を持った者たちを、土地分配の責任者として指名されたということは、約束の地に民を迎え入れようとしておられる主のメッセージと受け止めることも出来ます。

 ただ、カレブだけは、その意味が「犬」という言葉です。何故そのような名前なのか、よく分かりません。しかし、カレブの信仰、勇敢さは、これまでの彼の言動によく表れています。

 イスラエル諸部族の指導者のリストを見るのは、これで3度目です(1,13章)。1章では、指導者たちが最初の人口調査の監督をしました。13章では、約束の地を偵察に向かいます。ここで、最初に数えられた世代が主に決定的な反逆をして、第二世代に取って代わられることになります。それによって新しくなった世代が、約束の地分配の責任者を立てることになったのです。

 ところで、冒頭の言葉(10~12節)は、イスラエルの東の境界線を示しています。北境がかなりシリア領に食い込んでいますが、ヨルダン川の水源地からキネレト湖すなわちガリラヤの湖を経、ヨルダン川を下って塩の海すなわち死海に達するという線です。

 レバノンに降り積もった雪や雨がフィリポ・カイサリアなどから湧き出し、それらがフーレ湖に流れ込み、そこからガリラヤ湖に上ヨルダン川が流れ、ガリラヤ湖から下ヨルダン川を下って死海に至ります。死海は、海抜マイナス392メートルにあり、ここから流れ出るところはありません。

 流れ込む水の量と、水面から蒸発する量がほぼ等しいため、死海の水量は一定に保たれています。しかし、流れ込む水が蒸発して塩分が濃縮されていきますので、通常の6倍という塩分濃度になり、とても生物の住めない世界です。だから「死海」と言われるのです。魚が豊かに生息して周辺の漁師たちの生計を立てさせることの出来る、ヨルダン川上流のガリラヤ湖とはまったく対照的です。

 水は高いところから低いところへと流れます。恵みもそうです。御前に謙る者に、神の恵みは豊かに注がれます。しかし、受けるだけで与えることを学ばなければ、その恵みは価値を失い、死んでしまいます。

 イスラエルの民は、主に愛され、その恵みを豊かに受けました。彼らにそれを受ける資格があったというのではありません。神が貧弱なイスラエルの民を憐れみ、文字通り恵みとしてお与えになったのです。それは、神の愛と恵みを証しするため、すべての人が神の愛と恵みを味わえるようにするためです。その御心を悟らず、恵みを私し、徒に自ら誇り高ぶるなら、御前から退けられてしまいます。

 アブラハムは「祝福の源」と言われました。彼は祝福を自分のために受ける者ではなく、アブラハムを通して地上のすべての氏族が祝福に入るようにするのです(創世記12章2,3節)。

 ヨルダン川の水源地の一つフィリポ・カイサリアは、もともとパニアスと呼ばれ、自然神パンを祀る祠がありました。紀元前20年、ヘロデ大王が皇帝アウグストゥスからこの町を与えられた記念に、皇帝の像を安置した神殿を建てました。

 その後、息子のヘロデ・フィリポが町を拡張美化し、皇帝ティベリウスに敬意を表して町の名をカイサリアと改めました。父へロデ大王が建てた地中海沿岸のカイサリアと区別するため、フィリポ・カイサリアと呼ばれます。ここは古くから自然神パンやローマ皇帝を神として礼拝する偶像礼拝の町だったのです。

 主イエスが弟子たちを連れてこの町に来て、彼らに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16章13節以下、15節)と尋ねられました。そこで、ペトロが弟子たちを代表するようにして「あなたはメシア、生ける神の子です」(同16節)と答え、主イエスを喜ばせました。いつでもどこでも、この信仰が求められているのです。

 常に聖霊に満たされ、イエスを主と告白する信仰に堅く立ち、委ねられた福音宣教の使命、主イエスの証人としての務めを全うさせて頂きましょう。

 主よ、私たちも主イエスを信じて、アブラハムの子となりました。信仰に堅く立ち、聖霊に満たされて、主の愛と恵みの証し人として用いられますように。主の御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン


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