風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今日の御言葉

7月12日(日) ガラテヤ書5章

「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」 ガラテヤの信徒への手紙5章25節

 16節以下に、肉と霊の対立が出てきます。新共同訳はこの段落に「霊の実と肉の業」という小見出しをつけています。パウロはこれまでの「律法か、信仰か」の議論を、「肉か、霊か」に置き換えて展開しています。

 パウロにとって、律法の行いというのは、人間の努力によって神の義を獲得しようとする営みであり、それは肉の支配を免れません。「聖書(律法のこと)はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めた」(3章22節)といい、人が律法の行いによっては、神の義を獲得することは出来ず、むしろ罪の支配下にあることが明らかにされたのです。

 一方、信仰とは、自分の努力ではなく、神の恵みに信頼し、御子の霊の力に自分を委ねることです。そして恵みの神は、信じる者に神の義=救いを賜るのです。「正しい者は信仰によって生きる」(3章11節)からです。

 この段落で「肉」というのは、肉体とか肉欲ということというよりも、神に従わないで生きる生き方を指していると言ってよいと思います。人間は、本来自分ひとりで生きることが出来るように造られてはいません。神に造られた者として、神に仕え、隣人に仕えるように造られたのです。

  だから、神に従わないで生きる生き方を選んだとき、その人は、神ならぬ者を主人として、その縄目に縛られてしまうのです。4章8節で「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました」というのはそのことでしょう。

 1節で「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」というのは、発言や行動、選択の自由などではありません。罪の束縛から解放されて、神の主権と支配のもとで生きるようにされたことです。それは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生活から解放されて、まことの神に仕えて生きるように選ばれたというところに示されています。

 そして、まことの神に仕えて、その主権と支配の下で生きる生き方について、13節では「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と言い、さらに14節で「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と語っています。つまり、この自由は、罪からの自由であり、愛をもって神と人に仕える自由なのです。

 パウロは、この「罪から解放され、愛をもって神と人と仕える自由」に生きる生き方を「霊」という言葉で表現しています。それは、「主の霊のおられるところに自由がある」(第二コリント書3章17節)からです。

 冒頭の言葉(25節)で「霊の導きに従って生きている」というのは、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって罪の呪いから解放されたこと、神の子どもとされたこと、永遠の命をいただいたことを指します。

 そして、イエス・キリストが神の子、救い主であることを私たちに証しし、信じるように導いてくkださったのがキリストの霊です。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(第一コリント書12章3節)というのは、このことです。

 ガラテヤの人々も、キリストの十字架の福音を聞いたとき、聖霊の働きによって主を信じました(3章1,2節)。また、御霊の働きによって奇跡を体験しました(同5節)。彼らは確かに、律法の行いによらず、神の恵み、御霊の導きにより、信仰によって生きる者とされたのです。

 御霊は、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(22,23節参照)という実を結ばせます。一つ一つを見ると、これはいずれも、交わりを育み、共に生きる集まりを造り上げるために与えられる恵みです。

 「霊の結ぶ実」は、上述の通り九つの徳性を持っていますが、「実」(カルポス)は単数形です。霊による一致と読むことも出来るでしょう。そしてそれは、聖霊の働きを通して私たちの教会の交わりのうちに現されるキリストの御心といってよいでしょう。

 御霊は、他者との関わりにおいて実を結ぶように、働かれます。それは、自分の欲を満足させるような関わり方を許しません。聖霊は私たちを内側から変革し(第二コリント書3章18節、5章17節)、そして、私たちと他者との関係を新しくするのです。それは、「互いに愛し合う」という関係です(ヨハネ福音書15章12節ほか)。

 「前進しましょう」(ストイケオー)と訳された言葉は、もともと、「同じ列に属する」という意味で、そこから「同調する、一致する」という意味になりました。そして「従う」という意味も生じます。だから、「(霊の)導きに従って前進しましょう」という訳語になっているわけです。

 私たちを信仰に導き、生かしてくださっている聖霊の働きを喜び、感謝しつつ、傍らに固く立っていてくださる聖霊の導きに従って、信仰の正道を歩ませていただきましょう。

 主よ、私たちの内に絶えず神の御霊が働き、私たちを主と同じ姿に造り変えてくださいますように。主を愛し、隣人を愛して仕えることを喜びとする教会としてください。聖霊に満たされて常に神の愛を証しし、その恵みをほめたたえる教会となりますように。御言葉と祈りを通して、日毎に導いてください。 アーメン


7月11日(土) ガラテヤ書4章

「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」 ガラテヤの信徒への手紙4章6節

 キリストを信じる信仰により、キリストに結ばれて神の子とされた者は(3章26節)、アブラハムの子孫であり、約束の相続人でもあります(同29節)。即ち、神の子どもとして、神の持てるすべてのものを受け継ぐ資格が与えられているということです。

 当然のことながら、私たちは「神の子」ではありません。ですから、相続人になれるはずもありません。神が私たちを養子にしたくなるような才能や特質を備えているわけでもありません。その行いが倫理道徳的に、宗教的に聖く正しいわけでもありません。むしろ、神を知らず、神に背いて歩き続けている存在でした。そんな私たちが神の子とされるのは、神の一方的な恵みです。

 ガラテヤの人々は、どのようにして神の子になったのでしょうか。それは、私たちとなんら違いはありません。彼らは、アブラハムの子孫ではありません。旧約聖書の律法とも無縁の生活をしていた人々です。その人々に、パウロがキリストの福音を伝えました。そして、導かれて彼らはキリストを信じる者となったのです。そして、その導きをお与えくださったのが、恵みの神ご自身なのです。

 初めてキリストの話を聞いて、すぐに信じることが出来る民族、氏族というものなどありません。なぜキリストを信じることが出来たのか、理路整然と話せる人のほうが少ないと思います。大多数の人が自分でキリストを信じたくて、信じようとして信仰に入ったのではなく、様々な人や出来事との出会いの中で、信仰を持つように導かれたとしか言いようがないという状況だと思います。

 イスラエルの人々は、アブラハムの子孫たるしるしに割礼を受け、律法を守ります。しるしが与えられることは、悪いことではありません。けれども、私たち人間には、そのしるしを他の人よりも大きく見せたいという誤った思いが働きます。神の子とされている喜びよりも、だれよりも律法を熱心に守っている自分の行いを誇り、律法を守ろうとしない者を裁こうとします。

 ガラテヤの人々を惑わしているのも、そのような思いです。自分の救いをより確かにするために、割礼を受け、律法を厳格に守れと教える人が教会にやって来て、それに従う人々が出て来たわけです。律法が生活の基準になるとき、自分の行いが律法に適っているかどうかが誇りの基準となります。律法の行いによって、むしろ神に目を向けることが妨げられてしまいます。

 冒頭の言葉(6節)で「御子の霊を、わたしたちに送ってくださった」(God has sent forth the Spirit of His Son into your hearts)という表現は、4節の「御子を・・お遣わしになりました」(God sent forth His Son)という表現と非常によく似ています。どちらにも、「遣わす」(アポステッロー)の過去形の動詞が、「神」(ホ・セオス)という主語の前にあります。

 御子キリストをこの世に遣わされた神が、私たちの心に御子の霊を遣わされたという表現で、あのゴルゴタの丘でキリストが十字架につけられた出来事が、私たちを贖う神の救いの御業であるということを示し、私たちが神の子とされる保証として、「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊をいただきました。聖霊の働きで、私たちは御子キリストを信じることが出来たのです。

 私たちを贖ってくださった神は、私たちを奴隷、下僕とされたのではなく、神の子としてくださいました(7節、ローマ書8章15節)。これは、考えられない恵みです。理解を超えています。どうして、人間が神の子になることが出来るのでしょうか。理屈は分かりませんが、そのように神は私たちに愛を示されました。「神は愛です」と言われる通りです(第一ヨハネ書4章7~10,16節)。

 神の愛を受け、キリストの御霊に覆われた私たちの心から、「アッバ、父よ」(6節)という叫びが生じます。「アッバ」とは、「父よ」というアラム語です。これは、父上様というような格式ばった表現ではなく、幼児が父親を「父ちゃん」と呼ぶ言い方です。

 「アッバ」は、主イエスが父なる神を呼ばれる際の、親密さを表す表現だったので、当時の信徒たちはそれをそのまま自分たちの祈りのときに用いたようです。そして、それは「父よ」という意味だということがアラム語を理解していない人々にも分かるように、原典ギリシア語の「ホ・パーテール」と併せて「アッバ、父よ(ホ・パーテール)」という表記になったわけです。

 これは、単に神をそう呼ぶということ以上の、重い意味があります。というのは、父親に対して「アッバ」と呼べるのは、実の子どもだけだからです。私たちは、自分で神を「父」とは呼べません。しかし、神が遣わしてくださった御子の霊が、私たちに「アッバ゙、父よ」と神を呼び求める叫びを与えてくださいました。

 そして、その叫びが与えられたということは、その叫び声を上げることが許される親密な関係に入れられたということであり、神がその叫びに耳を止めて、「子よ、なにか用か」とその叫びの祈りに答えて、私たちに必要な一切のものを豊かに授けてくださるということです。

 このことは、上記ローマ書8章15節に「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記されています。

 そして、同26節で「同様に、霊もわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」という御霊の執り成しの祈りについて言及しています。

 さらに同32節には「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言われるのです。

 私たちが心から、「アッバ、父よ」と叫ぶとき、私たちは神の子であり、だから、神の恵みの資産を受け継ぐ相続人であることになります(7節、ローマ書8章17節)。神の資産は無限大です。無限大は、どれほど多くの人と分け合っても無限大です(∞/n=∞)。その恵みに与らせようと、主なる神はこの世に御子を遣わし、御子の霊を送って私たちを信仰に導いてくださいました。

 主の恵みに感謝し、その恵みを無駄にしないように、「アッバ゙、父よ」と神を呼び求めつつ、その御旨を行う者にならせていただきましょう。

 天のお父様、資格のない者に対して一方的な恵みをもって「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を授けてくださり、心から感謝します。しかし、そのためにキリストが贖いの供え物となられたことを厳粛に受け止めます。どうか私たちを、神の子どもに相応しく、恵みによって整えてください。信仰によって福音に生きることが出来ますように。 アーメン


7月10日(金) ガラテヤ書3章

「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした。」 ガラテヤの信徒への手紙3章14節

 新共同訳聖書は最初の段落(1~14節)に「律法によるか、信仰によるか」という小見出しをつけています。パウロはこの段落を「ああ、物分かりの悪いガリラヤの人たち」(1節)という言葉で語り始めます。

 その物分かりの悪さは、単なる無理解、無分別というのではありません。「だれがあなたがたを惑わしたのか」(1節)と言われます。正しい判断を失わせるという言葉です。キリストの恵みから「ほかの福音」に乗り換えようとしていること、即ちキリストを信じる信仰による救いを、律法の行いと取り替えようとしていることを、そのように言い表しているのです。

 その際、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(同節)と言います。「十字架につけられた」(エスタウローメノス)は現在完了分詞ですから、正確に訳せば「十字架につけられてしまったままの」(岩波訳)ということになります。2章19節の「共に十字架につけられています」(シュネスタウローマイ)も現在完了形でした。

 十字架につけられてしまったままのキリストは、律法の呪いそのものです。「木にかけられた者は皆呪われている」(13節)と書かれてあるからです。これは、申命記21章23節からの引用です。つまり、キリストは、私たちのために「呪い」そのものとなられたということです。

 「呪い」そのものとなられた主イエスは、その命をもって私たちを律法の呪いから贖い出し、解放してくださいました。主イエスを信じる信仰に生きる者は、アブラハムの子として(7節)、義とされる恵みに与ることが出来ます(8節)。

 そのことが、冒頭の言葉(14節)で「アブラハムに与えられた祝福が、イエス・キリストにおいて異邦人に及ぶ」と表現されています。神がかつてアブラハムと結ばれた約束が、いまだ反故にされてはいない、いえ、有効に働いているということです。

 その約束とは、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12章2,3節)というものです。

 パウロは最後の「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という言葉を、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」(8節)と引用しながら、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、アブラハムに予告されたのだと語っています。ところが、そのような約束にも拘らず、異邦人は割礼がなく、律法を守らない「罪人」として、ユダヤ人によって神の祝福から締め出されて来ました。

 ところが、割礼を受け、律法を与えられているユダヤ人も、律法の行いによっては義とされませんでした(2章16節)。パウロは、「律法の実行に頼る者は誰でも、呪われています」(10節)と言います。

 律法を文字通りに行うという点では、パウロは自分でも「非のうちどころのない者」(フィリピ書3章6節)と語ることができました。しかしながら、その行いによって教会の迫害者となり、神のみ旨に背くものとなったのです。パウロは11節で「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)との預言を引用して、人を義とするのは、神への信仰だけであることを示します。

 そのように書いてある預言をパウロが見出したという背景には、律法に込められている神の御旨、神の御心を完全に行うことは出来ないことを、パウロが悟ったということがあるでしょう。つまり、救いを人間が作り出すことは出来ないということです。

 そして、律法を守ることが出来ない者は呪われるという掟(申命記27章26節)から、人間は律法を絶えず完全に守ることは出来ないので、すべての人間にとって律法が呪いとなるというわけです。そのことについて、ローマ書3章9節以下でも詩編14編1~3節の言葉を引用しながら、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」と結論しています。

 その律法の呪いをキリストが引き受け、祝福に変えてくださいました。キリストは、律法を完全に行われた唯一人のお方です。そのお方が何故、神の呪いを受けられたのでしょうか。それは、律法を守ることではだれ一人祝福に与ることが出来ない、その律法の呪いを身に引き受け、その贖いによって、すべての人に祝福が及ぶようにするためだったのです。

 さらにパウロは、キリストの十字架によって贖われたのは、「わたしたちが約束された霊を信仰によって受けるため」(14節)と語ります。「約束された霊を受ける」というのは、神の子どもとされるということです(4章4,5節参照)。

 そして、ガラテヤの信徒たちは、彼らがパウロの十字架の福音を聞いて主イエスを信じたとき、御霊の臨在が現れ、霊の賜物による奇跡的な出来事、たとえば癒しや悪霊追放という出来事がその集会の中で行われたのです(2,4,5節)。その御業が現れたのは、彼らが主イエスを信じたからです。

 そして、主イエスを信じるならば、ユダヤ人と異邦人の区別なく、つまり、異邦人がユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなくても、アブラハムの祝福に与れるわけです。ゆえに、神の祝福の道を歩むというのは、律法を守ることではなく、主イエスを信じる信仰の道を歩むことなのです。

 十字架の主を信じて仰ぎつつ、絶えず主の御言葉と聖霊の導きに与り、アブラハムの子として信仰の恵みを周囲の人々に証しする者とならせて頂きましょう。

 主よ、私たちの歩みはすぐに自己中心的になります。人の目が気になり、もっとよく見られたいという自分の欲望が顔を出します。そうして、十字架の主を仰ぎ、主の御言葉に従うという信仰の道からそれてしまうのです。絶えず聖霊の助けによって御言葉へ、祈りへと導いてください。力を得て主の証人とならせてください。 アーメン


7月9日(木) ガラテヤ書2章

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」 ガラテヤの信徒への手紙2章20節

 15~21節に「義とされる(ディカイオオー)」という言葉が4回(16節に3回、17節に1回)出て来ます。因みに21節で「義とされる」と訳されているのは、「義」(ディカイオシュネー)という名詞です。その箇所を直訳すると「もし義が律法によって〔与えられる〕なら、キリストは無駄に死んだことになる」という表現になります(岩波訳参照)。

 「義とされる」は法廷用語で、裁判官が被告に「あなたは無罪だ」と宣告することです。それによって、被告は晴れて留置場を出て、家庭に戻ることができます。それが、ここに用いられているのは、神との関係がもとに戻った、正しくなったということを意味します。

 しかしそれは、人の振る舞いの正しいことが証明されたということではありません。人間が神の義を作り出すことは出来ません。16節にあるとおり、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」のです。イエス・キリストへの信仰によってのみ神の義が与えられるということは、神の義は、神の恵みによって与えられる贈り物だということです。

 本来は神の御前に有罪で処刑されるはずだった私のために、神の御子キリスト・イエスがその身を十字架にささげられ、私の罰を身代わりに受けてくださいました。その贖い、キリストの命の代価によって、私たちは義とされ、神の子として生かされているのです。私たちが信仰によって義とされるとは、神の恵みによって救われることを意味しているといってもよいでしょう。

 19節に「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と記されています。キリストを信じる者となった今、パウロは律法によってではなく、キリストの恵みにより、キリストへの信仰によって生きる者となりました。そのため、キリストが律法によって呪われ、十字架に殺されたように、パウロ自身も律法によって死んだ者となったというわけです。

  さらに「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(同節)と言います。「共に十字架につけられている」(シュネスタウローマイ)というのは完了形で、「一緒に十字架につけられたままである」という意味です。3章1節にも「十字架につけられた(ままの)」(エスタウローメノス)という表現があります。

 勿論、キリストは既に死んで葬られ、三日目に甦られ、そして天に上られました。しかしながら、十字架に死なれたキリストとの出会いを経験したパウロは、キリストの死が自分のためであることを知り、迫害者からキリストの伝道者と変えられた今、十字架はキリストと共に神の使命に生きることを現す表現となったのです。それで、「キリストと共に十字架につけられた(まま)」というのです。

 冒頭の言葉(20節)で「わたし」と語られているのは、パウロ自身を示しています。しかし、これを読むすべての人がこの「わたし」に自分自身を読み込むことが許されています。ここに記されているパウロの言葉は、私たちが共通して味わうことの出来る経験、神様から私たちに与えられた恵みなのです。

 神様がキリストの十字架の贖いによって私たちを義としてくださったとき、私たちの命は神のものとなりました。「キリストがわたしのうちに生きておられる」というのは、私たちが何か特別な経験をすることではありません。私たちの命が神のものとなり、人生をキリストのために用いる者とされたことが語られているのです。

 あらためて、16節に「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」とありました。私たちが義とされるのは、ただキリストを信じる信仰によってのみだということです。

 そして、よく考えてみると、キリストを信じるということも、私たちが一所懸命勉強したり努力したりして分かったということではありません。私たちが信じたというよりも、信じさせていただいた、信じられるようにしていただいたのです。

 「わたしを愛し、わたしのために献げられた神の子に対する信仰による」(20節)と記されています。「神の子に対する信仰」という言葉は、原文を直訳すると「神の子の信仰において」となります。これを「神の子を信じる信仰」と解釈しているわけです。

 しかし、もう一つの解釈があります。信仰という言葉は、真実とも訳せます。神の子の真実、神の子が持っている真実と解釈できます。永井訳(私訳)はそう解釈して、「我を愛し給ひ、且つ我がために己自らを付し給ひし神の子の信仰に在りて生くるなり」と訳しています。

 16節の「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」も同様に解釈されます。岩波訳の注に「直訳は『イエス・キリストの信仰』」といい、参照箇所のローマ書3章20節注で「この『の』を主格的にとって『イエスが持っていた信仰』とするか、対格的にとって『イエス・キリストへの(に対する)信仰』とするかは論争されている。数の上では後者が圧倒的に優勢である」とありました。

 確かに私たちは神の御子イエス・キリストを信じさせていただきました。しかし、私たちが信じることができたのは、私たちのために身を献げてくださった主イエスの真実、私たちを愛してやまない主イエスの真実に触れさせていただいたからです。

 その方が私たちと一緒にいてくださいます。そして、私たちを御自分のために用いてくださるのです。その恵みを与え続けていてくださいます。私たちの内に生きておられる主キリストによって、喜びと平安に満ちた人生を歩むことが出来ることを、心から主に感謝しましょう。

 主よ、私たちは御子キリスト・イエスの命の代価によって贖われ、神のものとされました。今私たちの体は、聖霊が住まわれる神の宮とされています。感謝をもって御前に唇の実をささげ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌います。絶えず聖霊で満たし、主の御業のために用いてください。 アーメン


7月8日(水) ガラテヤ書1章

「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。」 ガラテヤの信徒への手紙1章15~17節

 今日から、ガラテヤの信徒への手紙を読み始めます。ガラテヤは、小アジア(今のトルコ)のほぼ中央に位置する一地方の名前です。紀元前3世紀にケルト人がここに移住して住み着きました。彼らをギリシア語で「ガラタイ」と呼んだことから、彼らが住み着いた一帯がガラテヤ地方と呼ばれるようになりました。

 使徒言行録を見ると、パウロは第一回伝道旅行の際、リストラとデルベで福音を告げ知らせました(14章6,8節以下)。次いで第二回伝道旅行のときに、フリギア・ガラテヤ地方を通っていますが(16章6節)、使徒言行録の記述によれば、先を急いでただ通過しただけのようです。

 そして第三回伝道旅行の折に、「ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた」(18章23節)とありますから、第一回伝道旅行のときにまかれた福音の種が生い育ち、教会の礎がそこに据えられていたようです。

 この手紙は、ガラテヤ地方に建てられた「教会」(2節、エクレシア・複数形)に宛てて記されました。それはおそらく第一コリント書と同時期、紀元54年頃第三回目の伝道旅行中エフェソで書かれたものと推定されています。

 この手紙が書かれた理由は、パウロによって教会が設立された後に入り込んできた別の指導者によって、パウロの教えが曲げられようとしていたのです。その指導者は、異邦人の多いガラテヤの教会に対し、ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守ることによって、真のキリスト者となることが出来ると指導していたのです。

 パウロはそれを「ほかの福音」と呼び(6節)、「キリストの福音を覆そうとしている」ものだと言っています(7節)。そして、ガラテヤの人々がほかの福音にそれて行く恐れが大きくなったのを知って(6節、3章1節以下、5章7節以下も参照)、キリストの福音にとどまらせるべく、この手紙を書いたのです。

 比較的短い手紙ですが、キリスト教の歴史の中で、人々に大きな影響を与えてきました。特に、この手紙が宗教改革者マルティン・ルターに影響を与えたのです。彼は、ガラテヤ書の注解書を著わすと共に、「キリスト者の自由」という彼の代表作を執筆しました。

 新共同訳聖書は、5章2節以下の段落に「キリスト者の自由」という小見出しをつけています。ルターの「キリスト者の自由」を貫いているテーマが、この段落、特に同6節の「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」という言葉に基づいているのです。

 ルターが影響を受け、それによって宗教改革が行われたということになれば、今日の私たちプロテスタントの信徒にとっても、信仰の源流が本書にあるということになりますので、しっかり学ばなければならない手紙であると言えます。ということで、毎日一章ずつ、じっくり読み進めてまいりましょう。

 冒頭の言葉(15節)によると、彼が選ばれたのは「母の胎内にあるとき」です。ということは、その選びが神の主権によって全く自由になされたことで、パウロの意思や才能などとは無関係であることを示しています。そしてパウロ自身、自分が神に選ばれた者であることを知らなかったのです。

 かつてパウロは、ユダヤ教徒として誰よりも徹底して神の教会を迫害し(13節)、先祖伝来の教え、つまり、割礼を受け、(安息日遵守を含む)律法を熱心に守る生活をしていました(14節)。そのパウロが、ダマスコ途上で復活の主キリストと出会って回心しました(16節、使徒言行録9章1節以下)。ユダヤ教徒であり、迫害者であったパウロが、キリストの伝道者となったのです。

 10節で「今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」というのは、「誰よりも徹底して」といったパウロの振る舞いは、自分自身を含む人の評価を気にしている姿だということです。

 11~12節で「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」と語り、自分が伝道者になったのは、自分自身の回心の体験に基づいていて、キリストの福音を誰かから聞いたとか、教えられたというのではないことを強調しています。

 回心した時点で選ばれたというのではなく、「母の胎内にあるとき」にということは、神の選びにも拘らず、キリストの教会を迫害していたという自分の罪を告白することです。迫害者であった自分が赦されたというのは、神の憐れみ以外の何ものでもないということです。

 それから、「召し出してくださった」という言葉がありますが、これは、使徒としての召命を受けた、使徒として呼び出されたということです。胎児で何の働きもないときに召し出されたということで、「恵みによって」と語っているのです。

 それはまた、そのような神の選びにも拘わらず、神に背き、教会の迫害者としての道を進んでいたパウロを、処罰するのではなく復活の主と出会わせ、異邦人の使徒として立てられたのは(16節)、神の恵みによるものだということも示しているようです。

 国語辞典で「召命」を調べてみたら、「(キリスト教で)罪の世界に生きていた者が、神に呼び出されて救われること」と書いてありました。この説明は大事なことを教えています。即ち、召命とは、「神に呼び出されて救われること」と、「救い」を指す言葉として説明されているわけです。

 それで何が大事なことなのかというと、パウロは、「恵みによって召し出してくださった」と語っていて、使徒としての召命が恵みの出来事、つまり、救いの体験と密接に関連していることを示しているのです。パウロにとっての回心とは、単に救い主イエスを信じて罪が赦されたということに留まらず、それは、使徒として召し出されたということだったのです。

 パウロを回心させたのは、御子イエス・キリストの啓示です(12節)。御子が啓示されたとき、律法に従って生き、律法によって救いを獲得しようとしていたパウロが、キリストを信じる信仰によって救われること、否、キリストを信じるほか、救われる道はないことを知ったのです。そしてパウロは、神の計画に従い、その福音を異邦人に告げ知らせました(16節)。

 そのパウロの働きでガラテヤ地方にも教会が建てられました。その教会を形作っているガラテヤの教会の信徒一人一人も、パウロ同様、神の恵みにより、憐れみによって救いに与りました。彼らが恵みを受けたのは、ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守っていたからではないのです。

 そして、それは私たちも同様です。私たちも恵みによって救いに与りました。決して割礼を受けたのでも、律法を守っていたのでもありません。恵みによって救いに与ったということは、ただそれを喜んでいればよいということではありません。恵みによる救いは、召命と密接な関係があるのです。神の救いの計画が進められるために、神の御業が進められるために、それぞれに使命が与えられるのです。

 私たちは、イエス・キリストを信じる信仰を人々の前で公に言い表してバプテスマを受け、キリスト者としての歩みを始めました。人々の前でイエスを主と証しする生活を開始したわけです。これから、主イエス・キリストをどのように証しし、語り伝えていくべきか、「イエス・キリストの啓示によって知らされた」(12節)とあるように、まさに主の言葉を受けて、その導きに従うほかありません。

 日毎主の御言葉に耳を傾けましょう。そこから、日々主の御心を聴きましょう。御心を悟るのは、聖霊の助けが必要です。聖霊の助けと導きを祈り求めつつ御言葉に聴くのです。

 主よ、私たちをも恵みにより、主イエスを信じる信仰に導いてくださり、感謝します。恵みの福音を委ねられた者として、その福音に生き、信仰の恵みを証しする者となることが出来ますように。聖霊の助けと導きを与えてください。常に聖霊で満たし、御業のために用いてください。御名が崇められますように。 アーメン


7月7日(火) 第二コリント書13章

「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」 コリントの信徒への手紙二13章8節

 冒頭の言葉(8節)の「真理」とは「アレセイア(「真理、真実」の意)」という言葉です。ここで「真理」と言われているのは、神が御言葉の中に啓示されていること、即ち、神の御旨を指します。主イエスは、ご自分のことを「わたしは真理である」と言われました。その言葉と働きを通して神の御旨を表しておられるからです。

 そしてパウロは、「真理」という言葉を、彼が宣べ伝えている福音を表すために用いています。その福音の内容は、十字架につけられたキリストに示される神の愛と義、私たちの救いです。

 教会では、教会においでになる方に、①聖書を読むこと、②祈ること、③教会の集会に出席することをお勧めしています。それは、真理を悟り、真理に従うためです。というのは、真理こそ、私たちの人生に最も必要なものだからであり、真理によって私たちは生かされているからです。

 聖書は、イエス・キリストについて記しています(ヨハネ福音書5章39節)。主イエスは、宣教の初めに「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)と言われました。神の国は天国と言ってもよいのですが、「神の国が近づいた」と言われています。これは、私たちが死ぬ時が近づいたということではありません。

 神の国とは、神様が支配しておられ、神様の恵みに与ることが出来るところです。そのために、悔い改めなさいと言われます。悔い改めとは、方向を変えること、神様の方を向くことです。神を無視していた生活を改め、神の方に向き直れば、神様の恵みの支配が近づいていることが分かる、神の国に入ることが出来ると言われているのです。

 旧約聖書にこのような記事があります。長年奴隷として仕えたエジプトを出て、神が約束された国に向かっていく途中、紅海を渡ります。追っ手のエジプト軍はそこで全滅しました(出エジプト記14章)。喜び躍ったイスラエルの民でしたが(同15章1節以下)、三日後には荒れ野で飲み水に困りました(同15章22節)。

 ようやく泉を見つけましたが、その水は苦くて飲めません(同23節)。そこで、民は不平を言い始めます(同24節)。その時、神は一本の木を示され、それを泉の中に投げ込ませます。すると、苦くて飲めない水が、甘い水に変えられました(同25節)。

 この物語は、私たちの日常生活を表わしているようです。どんなに嬉しいことがあっても、感動的な出来事に出会っても、その喜びが三日と続きません。少しのことで全く気分が損なわれ、滅入ってしまいます。何もかもがイヤになり、どうすればよいのか、落ち着いて考えることも出来ません。

 その時に神は、一本の木を示されます。これは、イエス・キリストの十字架を象徴しているようです。問題しか見えない現実の中で、イエス・キリストに目を向ける、十字架に心を向けると、それが恵みに、祝福に変えられる、力が与えられるということです。「辛」いときに「十」字架を仰ぐと「幸」いになるのです。

 主イエスに心を向け、毎日、神が語られた言葉、聖書を読む。新約聖書と旧約聖書を1章ずつ、読みましょう。そうすると、苦い水が甘い水に変えられる世界、すべてがプラスに変えられるという恵みの世界が開かれるのです。

 主イエスは弟子たちに、どのように説教すればよいのか、きちんと教えたなどという記事は見当たりませんでしたが、祈りについては、しばしば教えておられます。主イエスご自身が、夜を徹して、あるいは夜明け前に起きて、また、一人寂しいところに退いて、祈られるお方でした。

 ルカによる福音書22章39節に「いつものようにオリーブ山に行かれると」、同40節に「いつもの場所に来ると」と記されています。これは、ゲッセマネの園での祈りを記しているところですが、そこで祈られることは特別なことではなかったのです。

 「いつものように」、「いつもの場所で」というのですから、主イエスは祈る時間、祈る場所を決めておられた、そうすることが常だったというのです。このように、毎日の生活を通して、祈る生活を弟子たちにお見せになりました。

 主イエスは、「こう祈りなさい」(マタイ福音書6章9節)と、「主の祈り」(同9~13節)を教えてくださいました。主イエスが教えてくださった祈りなので、「主の祈り」と言われるのですが、それはまた、主イエスご自身がいつも祈っておられた祈りでもあるのです。

 祈りは、神に心を向けること、神様と会話し、交わることです。手を組み、頭を垂れ、目を閉じて祈らなければならないと、決まっているわけではありません。そうするのは、心を神に向け、祈りに集中しやすくするためです。

 学生時代に、祈りは霊的な呼吸であると学びました。汚れた空気を吐き出し、きれいな空気を吸い込むように、祈りを通して、神に相応しくない思いや態度を告白し、悔い改めます。そうすれば、神が愛、喜び、平安、清い思いで私たちの心を満たしてくださいます。

 パウロは私たちに、「絶えず祈れ」(第一テサロニケ書5章17節)と教えていますが、祈りが心の呼吸であると考えれば、なるほど納得ではないでしょうか。絶えず心を主に向け、神様に導きを願い、神様の語りかけを待ちましょう。そして、神様の御心が分かったら、信仰をもってお従いしましょう。

 キリストは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ福音書18章20節)と言われました。私たちにとって「教会」とは、建物ではなく、主イエス・キリストを信じた者たちの集まりを言います。

 信者一人一人はキリストの体の一部分であると教えられます(第一コリント書12章27節)。体の各器官はそれぞれ形や働きなどが違うように、教会に集まる人々も様々、各自の才能や能力、賜物などは勿論、働き、生き方、好みも様々ですが、キリストを信じる信仰によって一体とされているのです。

 様々な違いが仲違いの原因になりますが、お互いを理解し、助け合い補い合うことで、大きな力にもなります。「1+1」が「2以下」になることもあれば「5」にも「10」にもなり得るのです。信仰の交わりを通して、愛や謙遜を学び、思いやりを学びます。私たちの信ずる神は、愛だからです(第一ヨハネ書4章7節、マタイ福音書11章29節参照)。

 教会の建物には十字架があります。それは、私たちのために死なれたイエス・キリストが架けられたものです。そこに神の愛が示されました。

 十字架の縦の棒が、神様と私たちをつなぐ橋、横の棒が人と人との間をつなぐ橋を表わします。私と神様との間、私と周りにいる人々との間にキリストがおられ、愛と赦しの架け橋となられました。私が神の民として、神と人とを愛する生活が出来るようにするため、愛の関係、真実な交わりが開かれるためです。

 日毎に聖書を通して神の御声を聴き、感謝を込めて神に祈りをささげ、頂いた恵みを共に分かち合う教会の交わりを大切にして参りましょう。 

 天のお父様、私たちを真理から離れさせる力が働いています。すぐに聖書が読めなくなります。生活の中で祈らなくなります。教会の敷居が高くなってしまうことがあります。どうか私たちを守り導いてください。真理は私たちをあらゆる束縛から自由にするからです。そのため、絶えず聖霊に満たされ、賛美の心で互いに語り合い、主に向かって心から唇の実を献げさせてください。    アーメン


7月6日(月) 第二コリント書12章

「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 コリントの信徒への手紙二12章9節

 1節に「わたしは誇らずにはいられません」とあります。ここに「デイ」(must)という言葉が用いられています。そういう言葉遣いをするということは、パウロは、誇りというものを大変重要なものと考えていたことを表していると思います。誇るという言葉が、この手紙の中に繰り返し登場しているのも、その表れです。

 パウロが、誇らずにはいられないといって口にしたのは、第三の天、即ち楽園(パラダイス)にまで引き上げられた男を知っているということでした(2節)。これは、自分自身の体験を、他人が経験したことであるかのように語ったものです。

 パウロは、「第三の天」(トゥリトス・ウラノス)、4節では「楽園」(パラダイス)と言われていますが、天の最も高いところに「引き上げられて」(ハルパゾー:catch up,take by force)、そこで「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にし」(4節)ました。

 それは、そこで聞いたことを語るのを神に禁じられたということではないかと思われますが、そのように神の言葉を聞いたというのです。パウロがいつ天に登り、神の言葉を聞くという体験をしたのかということについて、パウロの第一回伝道旅行の途上、リストラという町で伝道していたときのことではないかという説があります。使徒言行録14章にその記事があります。

 足の不自由な男がいて、パウロによって足が癒されて立ち上がるという奇跡が起こり、それを見た町の人々がパウロとバルナバを、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」(同11節)といっていけにえを献げ、礼拝しようとします。それを、「わたしたちも、あなたがたと同じ人間に過ぎません」(同15節)といって、なんとか押し留めました。

 その騒動の最中、ユダヤ人たちがやってきて、パウロに石を投げつけました(同19節)。石を投げつけるのは、神を冒涜したという刑罰です。パウロたちが自分たちを神と宣伝して礼拝させていると誤解したのでしょう。大きな石を投げつけられて、それでパウロは死んだようになりました。

 人々は、パウロが死んだものと思って町の外へ引きずり出しました(同19節)。ところが、弟子たちに取り囲まれているとき、息を吹き返し、また町の中へと入って行きました(同20節)。それは、伝道を継続したということでしょう。

 石に打たれて死んだようになり、天国の門まで行ったところ、「せっかく来たのだから」と天国の中を案内され、第三の天まで見せて頂いた後で、「お前はもう一度、地上に戻って、福音を伝えなければならない。頑張りなさい」と励まされ、力づけられたのではないでしょうか。それで、息を吹き返した途端、リストラの町に入って伝道を始めたというようなことではないかと想像されているわけです。

 それは「14年前」の経験だと、2節に記されています。他の手紙や使徒言行録で、パウロがこのような経験をしたということは、全く触れられていません。ですから、パウロは自分の経験をここで初めて(最初で最後)紹介したわけです。

 14年間、だれにも語らずにいた体験談をここで持ち出したのは、自分にもこんな経験があると自慢したり、自分は特別な存在だと誇ろうということではありません。これが自分の経験したことだと言わないのも、彼が自分の体験を自慢しようなどと考えていない証拠です。

 むしろ、霊的な体験を誇示している人々に、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)といって、そういう人々と自分を区別するのです。体験の誇示は自分が「適格者」(10章18節)であると言おうとすることですが、重要なのは、「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人」(同18節)となることだからです。

 7節でパウロは、「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」と言い、続けて「それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、左端から送られた使いです」と語っています。

 「思い上がることのないように」、「思い上がらないように」、いずれも「ヒナ・メー・フペライローマイ」(lest I should be exalted)という同じ言葉が使われています。それによって、「思い上がってはならない」ということを強調しているわけです。

 「フペライロー」という言葉は、「高く持ち上げる、上に運ぶ」という意味です。分を超えて、より権威づけよう、偉大さを誇示しようとして、自分を高く持ち上げるという表現です。風船にガスを入れて膨らませると、高く上って行きます。でも、風船に入るガスの量には限度があります。入れ過ぎると爆発してしまいます。

 神のようになろうとしたアダムとエバがエデンの園を追放されたように(創世記3章)、また、あなたの声は神の声だと言われていい気になり、虫にかまれて死んだ領主ヘロデのように(使徒言行録12章20節以下)。

 そうならないように「わたしの身に一つのとげが与えられた」(7節)、つまり、自分に弱みが与えられたとパウロは言います。「とげ」というから、小さなささくれが刺さったり針の先で引っかくようなことを考えるかも知れませんが、続いて語られている「わたしを痛めつけるために」というのは、「こぶしで殴る」(コラフィゾウ)という言葉です。

 主イエスが十字架につけられる前、唾を吐きかけられ、目隠しされてこぶしで殴りつけられたことがありますが(マルコ福音書14章65節など)、この「こぶしで殴りつけ」という言葉が「わたしを痛めつける」という言葉なのです。「とげ」よりも「杭」(stake)というような、肉体的、精神的に大変大きな苦痛を与えるものと考えた方がよいのかも知れません。

 そのことについて、これはパウロの身に何度となく襲いかかった迫害のことだと考える人がいます。また、彼の病気や障害のことと考える人もいます。有力なのは、眼病だったのではないかという説があります(ガラテヤ書4章14,15節など)。また、主の光に打たれて地に倒れたという表現から(使徒言行録9章)、てんかんという障害を考える人もいます。

 いずれにしても、パウロにとってこの「とげ」は、宣教の妨げになるものだったので、パウロは3度、取り除いてくださるようにと主に願いました(8節)。ちょうど、主イエスがゲッセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ福音書26章39節など)と三度願ったというのと同じ状況です。

 3回という回数以上に、心を込めて繰り返し繰り返し、何度も主に願い求めたということでしょう。「主に願う」というのは、「傍に呼ぶ」(パラカレオー)という言葉なので、主の衣をつかんで、その脚に縋りついて懇願するといった表現でしょう。

 繰り返し主に願って、ようやく与えられた答えが、冒頭の言葉(9節)です。この言葉をリビングバイブルという聖書では、「いや治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ最もよく表されるものだから」と訳しています。

 もう十分に与えている、これ以上は出来ないと、門前払いというか、主から突っぱねられた言葉のように見えます。けれどもパウロは、そうだ、わたしには神の恵みが十分与えられていると信じ、受け止めることが出来たのです。

 それはなぜでしょう。これは、理屈では分かりません。ここは、とても大切なところです。神が神であられるということが、どういうことなのかということを、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と言われた言葉の中に、パウロははっきりとつかむことが出来たのです。

 だから、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と語ることが出来たわけです。私たちと神様との間に愛と信頼の関係がなければ、パウロのように語ることは出来ません。そうでなければ、ただギブ・アンド・テイク、打算の関係、ご利益があるから拝む、言うことを聞いてくれたら信じるという、所謂ご利益宗教になってしまいます。

 1章8,9節に「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」とありました。

 そして、「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」(同10節)と語っています。

 自分の病気や障害、それらの苦しみ、それは確かに、何かをしようとするときの妨げとなるかも知れません。それでも働かなければならない、頑張らなければならないとすれば、それは苦痛かも知れません。

 けれども、そこで神ご自身が働いてくださるというなら、主が御業を行ってくださるというのであれば、主ご自身がなさりたいことを、自分の弱さを通してなされるということならば、喜んで主にお委ねしますから、御心のままになさってくださいという思いになって、パウロは「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(9節)と語ることが出来たのではないでしょうか。

 確かに、神様の恵みは私たちに対して十分なのです。信仰の目を開いて、神様のなさることを見ることが出来るならば、それ以上望むことがあるかと思うほどに、十分なものを与えられているということを知る、それが、今日私たちが学ぶべき信仰の世界なのです。

 主の前に、主を傍らにお呼びする祈りをしましょう。失望しないで願い続けましょう。そして、主の御声を聴きましょう。御言葉に耳を傾けましょう。御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、どうか私たちの心の目を開いてください。常に共におられる主を見出すことが出来ますように。そして、主の恵みが完全に覆っていること、弱さの中に力強く働いていることを知ることが出来ますように。そして、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰に歩ませてください。主の御名があがめられますように。 アーメン


7月5日(日) 第二コリント書11章

「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」 コリントの信徒への手紙二11章29節

 パウロは、10章17節で「誇る者は主を誇れ」と記していましたが、1節で「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたら良いが」と言い、16節でも「誰もわたしを愚か者と思わないでほしい」と語り、21節に「愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう」と記して、自分の誇りを数え上げます。こうした言い方で、自分を誇るのは愚か者だと示しているわけです。

 そして、「ヘブライ人」、「イスラエル人」、「アブラハムの子孫」が誇りになるということは(22節)、パウロを排除しようとして侵入して来た偽使徒たちが、同様にディアスポラのユダヤ人、アブラハムの血を継ぐ神の選びの民に属していること、そして、それならばパウロ自身も同様だということを示しています。

 その上で、自分が「キリストに仕える者」(23節)であることを挙げます。このときに、彼の相手は自分の優れた知恵や経験、業績などを持ち出したのでしょうが、パウロはそれをしません。もし言い出せば、パウロには、誰にも引けをとらない、むしろ人々を圧倒する業績があったでしょう。

 3度の伝道旅行を通じて、彼が回った村や町、そして国の数はどれほどに上ることでしょう。そして、どれほどの人々がキリストの福音に触れ、救いに導かれたことでしょう。教会が幾つ建て上げられたことでしょう。何人が献身して、直接伝道に従事する者となったことでしょうか。

 そういったことを何一つ取り上げません。10章13節で「わたしたちは限度を超えては誇らず」と語っておりましたが、パウロはストイックなまでに、そのような成果はすべて神の御霊の働きであって、自分の業績として数え上げられるものなどではないと考えているのです。

 パウロが「キリストに仕える者」としてあげた誇りは、業績ではなく、「苦労したこと」(23節)でした。考えてみれば、なんでも自慢の種になるものだなあと思います。確かに、私たちにも、貧乏自慢をしてみたり、ワル自慢をしてみたくなる場面がないわけではありません。しかし、パウロがしているのは、自分を誇って見せることとは無縁です。

 24節に「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」とありますが、申命記25章3節に「四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない」という規定があり、間違って41回打てば、鞭打った者が罰せられたので、数え間違いがないように、39回になったのだそうです。

 それから25節に「鞭で打たれたことが3度」とあるのは、ローマの官憲による鞭打ちを指しています。使徒言行録によれば、ローマ市民権を持つ者がそのような仕打ちを受けることはなかったようです(16章37節、22章25節)。けれども現実には、ローマ市民権を持っているということで、迫害を免責されるものではなかったということです。

 同胞からも、そしてローマ帝国によっても厳しい迫害に晒されながら、その他にも、旅行に伴う様々な危難、苦労と戦いながら、なおもパウロは「キリストに仕える者」として前進するのです。

 この苦難のリストを見ると、パウロが使徒として歩んだ道は、決して平坦な生易しいものでなかったこと、まさに苦難の連続であったことが分かります。これらは、彼がキリストに仕える者であったからこその苦難であり、それによって侵入者をはるかに凌駕する者であることを明らかにします。

 また、何度も死ぬような目に遭いながら、それにも拘らず、キリストに従い続けてきたパウロの使徒としての心意気が示されます。しかし、それを誇りとするというなら、それもまた愚かなことなのです。ですから、「気が変になったように言いますが」(23節)と付言しているわけです。

 自分の業績や経験などを誇るとき、自分は一人で立っています。けれども、本当に一人で立つことの出来る人が一人でもいるでしょうか。多くの人に支えられ、そのお蔭で立たせていただいているのではありませんか。そして何より、神によって生かされているのではありませんか。

 パウロの苦労は、冒頭の言葉(29節)に示されるとおり、彼が使徒として召された使命、つまり、弱っている者、つまずいている者に共感すること、彼らと弱さ、悩みを共にし、彼らをつまずかせるものと心燃やして戦うことでした。そして、この苦労はキリストの苦難につながっていて、その苦労を通してキリストの栄光に与ることが出来ると確信していたからです。

 そこでパウロは「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(30節)と言います。なかなか「弱さ」を誇る人はいません。弱さを認めることは恥とさえ考えています。

 弱さは、誰かの助けや守りを必要とすることです。パウロが経験や業績を誇ることを愚かと考え、恥ずかしいことと考えているのは、「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ3章5,6節)だったパウロには、それがキリストに敵対するものであることが分からなかったからです(同18節参照)。

 それにも拘わらず、キリストを信じる信仰に導かれ、キリストの福音を異邦人に告げ知らせる使徒、伝道者として召されたのは、主なる神の深い憐れみ、慈しみによるものであり、神の助け、御霊の導きなしに今日はなかったことを知っているからです(ローマ5章6節以下)。

 第一コリント書15章10節でも、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と言います。教会の迫害者であったパウロを使徒とした神の恵みを、そう語るのです。

 パウロにとって「弱さにかかわる事柄を誇る」とは、主イエスの助けがなければ、何も出来なかった、神の恵みがあればこそ、今日の自分になることが出来たと認め、その恵みに応えて生きることなのです。こうしてパウロは、「誇る者は主を誇れ」との御言葉に立ち帰るのです。

 私たちを救いに導き入れてくださった主の恵みを覚え、心新たに主の御心を弁え、使命に生きる者としていただきましょう。

 主よ、パウロの言葉の前に、自分を恥じます。何と私たちは、自分の持ち物や暮らし向きのことで自慢し、あるいは意気消沈していることでしょうか。一方、多くの方々に迷惑をかけながら、なお愛され、支えられていることを教えられます。主イエスの謙遜と柔和を学ばせてください。主に仕える者とならせてください。もう一度、主の十字架を仰ぎます。御言葉をもって導いてください。 アーメン


7月4日(土) 第二コリント書10章

「誇る者は主を誇れ。」 コリントの信徒への手紙二10章17節

 10章に入って、パウロの論調がまったく変わります。それまでは、親が子に諭すような優しさがあり、また感謝や喜びの表現がありましたが、ここからは、けんか腰のような表現になっています。自身の使徒としての権威を主張し、「違った福音」を携えてコリント教会に侵入して来た偽使徒を強い言葉で非難しています。

 10~13章はもともと別の手紙で、「涙の書簡」(2章4節参照)と呼ばれる手紙の一部ではないかという解釈が広く受け入れられているようです。そう考えたほうが分かりやすいかも知れません。もっともその内容は、涙ながらにというより、憤って筆を執ったように見えます。

 いずれにしても、パウロに対して、「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」(1節)という非難や、「手紙は重々しく力強いが、実際にあってみると弱々しい人で、話もつまらない」(10節)という非難もありました。

 教会の創設者である使徒パウロを非難するということは、愛と信頼の関係が壊されるということです。少なくとも、パウロに対する感謝や尊敬の念を持たない、教会の外からやって来た人の所業です。これは教会の交わりを損ない、傷つけることですから、そういう非難に対して、ここでパウロは真っ向から反論を展開しているわけです。

 そしてその結論が、冒頭の言葉(17節)です。この言葉は、第一コリント書1章31節にも記されていました。かぎ括弧がつけられているのは、旧約聖書からの引用であることを示していて、これは「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主」というエレミヤ書9章23節の言葉から引用されたものです。

 同22節には「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな」と記されています。パウロはその言葉を引用してはいませんが、当然、結論の前提となっています。

 「誇る」(カウカオマイ)という言葉が新約聖書に37回用いられているうち、ヤコブ書に2度出る以外は、残りすべてパウロ書簡、そのうち20回、第二コリント書で用いています。「誇り」(カウケーシス)は11回中10回がパウロ、そして第二コリントに6回出ます。また「誇り」(カウケーマ)も11回中10回がパウロ、第二コリントに3回用いられます。

 この用語法から、パウロは、誇ること自体を悪いことなどとは考えていないようです。問題は、誇りの内容です。何を誇るのかということです。本書中に用例が多いのは、まさにそのことが問われているということでしょう。

 私たちの誇りは自慢であり、そして自惚れ、奢りにつながります。けれども、私たちの誇りなどは高が知れています。自分よりも優れた業績をあげた人、優れた才能のある人が現れると、自慢が卑下に変わります。優越感が劣等感になります。

 パウロを非難している者は、パウロより雄弁かもしれません。教養があるかもしれません。有力者かもしれません。経済的に豊かな生活をしているかもしれません。当時、手に職を持っているというのは、学問をしていない証拠と考えられたのだそうです。

 教会からの報酬を受け取らないことも、使徒として相応しくない態度と見なされたようです(11章7~9節、第一コリント書9章3節以下参照)。弁が立たないと、教養がないためだとされたようです(11章6節)。そうしたことが、パウロは教会指導者としてふさわしくないという非難になっていたのでしょう。

 けれども、彼らがパウロよりも雄弁であること、教養があること、政治的な力があること、経済力があることなどを誇り得たとしても、そして、それによってパウロを非難したとしても、それは神の御前にまったく意味を持ちません。エレミヤの預言にあるとおり、神は明確に、それらを誇るなと仰っているからです。

 どういう事業を起こし、どれほどの成功を収め、財を成すことが出来たとしても、それらは一つとして天に携えることが出来ません。神の御前において、その裁きに耐え得るものは唯一つ、それは主イエスを知っているということ、主イエスから知られているということです(ホセア書6章6節、ヨハネ10章14節など)。

 主イエスは私たちの弱さをよくご存じです。愚かさをご存じです。神様から「適格者として受け入れられる」(18節)資格のある人間はいません。神は、知恵ある者や力ある者を選ばれるのではなく、むしろ、無学な者や無力な者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれます(第一コリント書1章27,28節)。

 無に等しい存在を通して、神の知恵や力、恵みの計画が明らかにされるためなのです。だから、主に選ばれた人は、自分ではなく自分を選ばれた主を誇り、ひたすら主の命じられた業を行って主に栄光を帰すのです。

 パウロはかつて、キリストの迫害者でした。彼が選ばれてキリストの伝道者、使徒とされたのは、神の憐れみです。そのように主イエスから使徒として任じられたパウロによって、コリントの教会が設立されたのです。ゆえに、自分を召し、自分を用いてくださる主を誇るのです。

 資格のない者を選び、恵みによって用いていただけることにただただ感謝しながら、自分のなすべきことを一所懸命果たして行きましょう。

 主よ、あなたの恵みによって救われ、生かされていることを感謝致します。御言葉と御霊の導きに従い、喜びと感謝をもってあなたに信頼し、信仰の道筋をまっすぐに歩みます。あなたの召しに忠実な僕とならせてください。精一杯の献身をもって、主の恵みに応えることが出来ますように。 アーメン


7月3日(金) 第二コリント書9章

「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」 コリントの信徒への手紙二9章10節

 9章も、前の章に続いてエルサレム教会への献金について勧める言葉が記されています。この献金のことを、「奉仕」(ディアコニア;1,12,13節)と記しています。8章3節に「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」とあり、同6,7,19節では「慈善の業」(カリス:「恵み」の意)と言われていました。

 それが同19節の「わたしたちが奉仕している、この慈善の業」から、同20節で「自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金」と、募金のための働きを「奉仕」と言っています。奉仕とは、他者に仕えて働くことで、信仰によって共に生きる輩のために仕える喜びから、この献金のための働きが「奉仕」と言われているわけです。

 マケドニアの諸教会の信徒たちに倣い、その奉仕、この働きのための献身を通して、主への信仰を表明し、その恵みと愛を証ししてほしいと、パウロは望んでいます(同24節)。そして2節に「アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました」と記しています。

 マケドニア州の諸教会の信徒たちがエルサレムの聖徒たちのための献金について知ったときに、アカイア州の人々(即ちコリント教会の信徒たち)が既にこの働きを始めていると、パウロがマケドニア州の人々に「誇りました」というのです。

 この「誇る」(カウカオマイ)という言葉は、パウロがよく用いているものですが(「喜ぶ」と訳されることもあります)、特にこの手紙には、動詞の形で23回、名詞の形で6回用いられています。パウロが自慢好きであったというようなことではありません。

 「誇る者は主を誇れ」と言い(10章17節、第一コリント書1章31節)、自分自身のことは、「自分の弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(11章30節)と言っています。パウロはここで、コリントの人々が募金活動を始めていることを自分のことのように喜び、マケドニアの人々にその証しをしたのです。

 冒頭の言葉(10節)で「慈しみが結ぶ実」と訳されている言葉は、口語訳、新改訳では直訳的に「義の実(複数形)」(タ・ゲネーマタ・ディカイオシュネース)と訳されていました。ユダヤでは「義」(ディカイオシュネー)という言葉を狭く捉えるときは、「慈善、施し」の意味で用いたようです。

 主イエスが山上の説教(マタイ福音書5~7章)の中で、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(同6章1節)と言われたとき、この「善行」という言葉が「ディカイオシュネー」でした。「善行」について、同2節で「施しをするときは」と言われていますし、同5節以下では「祈り」、同16節以下で「断食」のことが語られています。

 「施し」と「祈り」と「断食」が、「義」(ディカイオシュネー)の業、「善行」と考えられていた証拠です。そう考えると、本章全体でエルサレム教会の人々に対する施し、募金について考えておりますから、当然ここでも、「慈しみが結ぶ実」として具体的に「施し、募金」が考えられていることになります。

 6節以下では、種まきのたとえが考えられています。種をまく者は、豊かな収穫を期待してそれをします。冒頭の言葉で主なる神を「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方」と語り、そして、まいた種を増やし、結ぶ実を豊かに成長させてくださると告げます。

 これは、慈しみが結ぶ実を成長させてくださる主なる神を信頼して、自分の持っている種をまきなさい、つまり、エルサレムの聖徒たちのために「施し、募金」という奉仕をしなさい、そうすれば、主なる神はあなたがたをパンで養い、あなたがたの奉仕は神に祝福されて、豊かに用いられると語られているわけです。

 このことで、ヨハネ福音書6章の記事を思い出します。少年が自分のお昼の弁当を主イエスにささげた話です。少年のお弁当は、大麦パン五つと魚が二匹でした。食べ盛りの少年なら、それなりの量だったかもしれません。

 しかし、そこには男だけで五千人もの人がいました。アンデレは、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(同9節)と言いました。弁当を差し出した少年も、そのくらいのことは分かっていたと思います。ですが、彼は精一杯のものを主イエスにささげたのです。

 それを主は感謝され、人々に配られると、そこにいたすべての人々が満腹しました。ささげた少年が自分ひとりで食べたら、他の人々は空腹で帰らなければなりませんでした。少年は、自分は空腹で帰ってもよいと考えていたことでしょう。しかし、彼も満腹で帰ることが出来たのです。ここに、神の御業、主イエスの祝福の力が表されました。

 「祝福」は原文のギリシア語で「エウロギア」という言葉ですが、5節に2度用いられており、最初のものは「贈り物」、二つ目は「惜しまず差し出したもの」と訳されています。続く6節では「惜しんでわずかしか」(フェイドメノース)の対句として「惜しまず豊か」訳されています。

 「恵み」(カリス)が相手への「慈善の業」だったように、「祝福」(エウロギア)が「惜しまず差し出した贈り物」とされ、「慈善の業」が神の恵みによって可能になったように、「惜しまず差し出した贈り物」をすることで、「慈しみが結ぶ実」を成長させてくださる神が「あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせ」てくださるでしょう。

 ところで、この「祝」という漢字は、神を表す「示」へん、そして、「兄」というかたちは、ひざまずいている人が口を開いていることを表しています。つまり、神への祈りということになるわけです。

 ですから、「施し」という「祝福」の「贈り物」が、祈りとして神の御前にささげられ、それを神が「豊か」なものとして相手の心に届けてくださるということになります。そしてそれは、神の畑に「慈しみ」の種をまく振る舞いで、ささげた者自身も天において「豊か」に祝福されるというわけです。

 私たちも恵みの主に信頼して、委ねられている主の業に日々励んでまいりましょう(第一コリント書15章58節)。

 主よ、物惜しみして心貧しくなるものではなく、主にあって、惜しみなくささげて祝福される者とならせてください。自分のお弁当をささげた少年のごとく、レプトン銅貨2枚をささげた貧しいやもめのごとく、喜んで精一杯ささげ、主にあって富む者とならせていただくことが出来ますように。 アーメン
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