風の向くままに

新共同訳聖書ヨハネによる福音書3章8節より。いつも、聖霊の風を受けて爽やかに進んでいきたい。

今月の御言葉

8月の御言葉 第一コリント書6章19,20節

00
 ここに、「知らないのですか」という言葉があります。調べてみますと、第一コリント書6章には、6回も「あなたがたは知らないのですか」という言葉が出て来ます(2,3,9,15,16,19節)。

  それは、当然知っていると思われるものであり、信仰にとって重要な事柄であるのに、あなたがたはまるで知らない者であるかのように振舞っているという表現ではないでしょうか。そうであるなら、ただ単にコリントの教会の人々に語られている言葉としてではなく、今を生きている私たちに対して語られている言葉として、聞く必要があります。

 私たちの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、私たちはもはや自分自身のものではないと、本当に知っているでしょうか。確かな知識を持っていて、その知識にふさわしく行動していると言い得るでしょうか。あるいは、もう一度、「あなたがたは知らないのですか」とパウロから尋ねられなければならないような振る舞いをしてはいないでしょうか。

 「あなたがたの体」とありますが、「あなたがた」は当然複数形なのに、「体」は単数形です。厳密に言えば、あなたがたの一つの体ということになります。つまり、この「体」というのは、私たち一人一人の身体というのではなく、キリストによって一つとされた体、つまり「教会」を指しているということになります。

 というのは、12章27節に「あなたがたはキリストの体」だといい、エフェソ書1章23節には「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と記されているからです。

 しかしながら、12節以下の段落で繰り返し語られている「体」というのは、自分の体のことです。そして、「娼婦と交わる」(16節)「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」(18節)と語った後、「知らないのですか」と出て来ますから、「体」は単数形として教会を指しているという解釈と同時に、教会を形成している信徒一人一人の「体」のことが考えられていると言わざるを得ません。

 だからこそ、「あなたがたはもはや自分自身のものではない」、自分の体を自分の自由にしてよいということにはならないというわけです。私たちの体が私たち自身のものでなければ、一体全体だれのものというのでしょうか。

 それは、私たちを救うために罪の代価を支払われた主イエスのもの、主イエスをお遣わしになった神のものということです。こうして神のものとされた私たち一人一人の「体」に聖霊が宿り、そうして、私たちをキリストにあって一つの「体」とするのです。

 20節に命じられている「自分の体で神の栄光を現しなさい」というのは、私たちが神のものであればこそ、可能になることです。神がご自分のものを用いて、ご自身の栄光を現されるということになるからです。

 ここでパウロが求めているのは、私たちが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(ローマ書112章1節)ることであり、「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにな」(同2節)ることです。真実な礼拝がなされるところに神は臨在され、ご自身の栄光を現してくださるのです。

 主よ、いつも聖霊の導きによって御言葉に聴き従い、キリストと結びついて一つの霊とならせてください。私たちの交わりが主に喜ばれ、主の愛の証し人になることが出来ますように。 アーメン

 



12月のみ言葉

02
 わが国では、天皇の代替わりに年号も変わります。30年前に「平成」となりました。来年5月に新年号になる予定です。この年号を用いるのはわが国だけで、国際的に通用しているのは西暦何年という言い方です。


 この西暦は、イエス・キリストの誕生を起点としています。キリストの誕生前をBC(Before Christ「キリスト以前」)、誕生後をAD(Anno Domini「主の年」)といいます。神の御子イエスがこの世においでになって、世界にどれほどの影響を与えたのかを示しているといってよいでしょう。

 イザヤ書9章1~6節は、預言者イザヤによるメシア預言と解釈されています。冒頭の言葉(5節)を、詩編2編7節との関連で、王の即位を知らせる言葉とする解釈がありますが、むしろ、7章14節の「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という預言との関連で、むしろメシア誕生に関する神の託宣と読むべきでしょう。

 そのみどりごの名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(5節)と唱えられると言われます。「驚くべき指導者」とは、「不思議な助言者」(ペレ・ヨーエーツ)という言葉で、「議官、相談役」を指します。

 「力ある神」について、王を神と呼ぶのは、詩編45編7節とここだけです。その意味は、王はこの地上において、神の代理者として立てられるということでしょう。「永遠の父」とは、公正で思慮深い父親のように、長期にわたって統治するようにということでしょう。

 そして、その統治がもたらすものは、「平和」(シャローム)です。士師記6章24節に、ギデオンがオフラに築いた主の祭壇を「平和の主」と名付けたとありますが、主なる神の名前は「平和(シャローム)」だということでしょう。

 平和とは、戦争がないという以上の、あらゆる被造物が神を神として崇め、その御旨に従って生き、行動するときに、主なる神によって与えられるものなのです。

 王がその名で呼ばれるということは、主なる神こそ、イスラエルの王であるという信仰が、そこに示されており、王はその主なる神の代理として振る舞うことが求められるということです。 

 イザヤは、1~6節で告げたこの預言の成就を、自身の存命中に見ることは出来ませんでした。700年後のイエス・キリストの登場を待たなければならなかったのです。

 キリストとは、メシアをギリシア語に翻訳した「油注がれた者=救い主」という称号です。主イエス・キリストこそ、「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(ヨハネ1章9節)メシア=キリストなのです。マタイ章23節では、主イエスの誕生を7章14節の預言の成就と告げています。

 主なる神は、救いを待ち望む全世界のあらゆる世代の民のために、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられるまことの光なる主イエスを、神の独り子にも拘わらず、人としてこの世に生まれさせてくださったのです。

 主よ、あなたの深い憐れみのゆえに私たちも恵みに与りました。御名を崇め感謝します。主に従い、絶えず命の光のうちを歩ませてください。今なお復興の進まない被災地に住み、また避難生活を余儀なくされている人々、軍隊に嗣業の地を奪われ、平和を脅かされている人々に、希望と平安の光が訪れますように。 アーメン



9月の御言葉

02
ヨハネ福音書10章1節以下には、羊飼いがどのように羊の世話をしているのかという一端が記されています。これは、パレスティナでは日常よく見られた光景なのでしょう。

  旧約聖書の中にも、詩編23編やエゼキエル書34章など、羊と羊飼いを題材として記された箇所があります。そこでは、主なる神が羊飼いでイスラエルの民が羊、また、主に選ばれた王が羊飼いで民が羊として、描かれています。民は神の声を聴いてあとに従うように期待されており、王は神の御心に従って民を養うように期待されているわけです。

 冒頭の言葉(11節)で主イエスが「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と宣言しておられます。これは「わたしは良い羊飼いの一人である」という表現ではありません。世の中に羊飼いがどれだけいても、「良い羊飼い」と呼ばれるのは主イエスだけ、主の他に良い羊飼いはいないという宣言です。それは、主イエスが、羊のために命を捨てるからです。

 命を張って羊を守ろうとする羊飼い、そのために命を落とす羊飼いもいるかも知れません。しかし、ここで言われる「羊のために命を捨てる」というのは、単に羊を守るためなどではありません。冒頭の言葉(10節)のとおり、「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」なのです。

 「豊かに」(ペリッソス)という言葉は、「それ以上more」という意味を持つ形容詞です。10節後半を直訳すれば「彼らは命を持ち、そしてそれ以上(のもの)を持つ」という言葉になります。命以上の命、それを「豊かに受ける」というのです。

 ここにいう豊かな命とは、御子キリストから受ける「永遠の命」のことでしょう(28節ほか)。それは、永遠に生きる命というのが一般的解釈です。しかし、「命」というのは、呼びかけ、応え、触れ合い、交わりがあってこそです。自分ひとり永遠に生きることが出来ても、家族や友がいなければ、つまらなく寂しい時間が永遠に続くだけです。

 だから、「豊かに命を受ける」とは、私たちを招かれる良い羊飼いなる主イエスとの交わり、招きに応じた羊たちと主との交わりが豊かで、その豊かさには限りがないという言葉でしょう。その関係が、死によっても失われない、永遠に続くとなれば、それは是が非でも手に入れたいものです。

 這いつくばってでも天国に行きたいと言われた方がありますが、永遠の命は、自分の努力や執念で奪い取るようなものではありません。ただ、主イエスを信じるだけで与えられるのです。でも、そう言われる背景には、神の救いを疎かにして、信仰によって歩もうとせず、自ら滅びを刈り取ろうとしているように見える人々が少なからずいるということでしょう。

 ただ信じるだけで救いの恵みをお与えくださる主イエスは、私たちのためにご自身の命を捨ててくださった救い主です。そのようなお方は、確かに主イエスお一人しかおられません。だからこそ「良い羊飼い」なのです。命の主を仰ぎ、永遠の命に至る真理の道を真っ直ぐに歩ませて頂きたいと思います。

 主よ、今日も私たちの名を呼んで連れ出し、その先頭を歩んでくださることを感謝します。その御声を知っていますから、喜んでついて行きます。御心のままに導いてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン




 

2月の御言葉

02

11月の御言葉 エフェソ書1章11~14節

03
 私たちは、キリストの血によって贖われ、神を知らず神に背いてきた罪が赦されました。過去の重荷が取り除かれ、キリストと共に歩む新しい生活が始まったのです。
 
 神の愛によって神の子とされた私たちは、キリストに結ばれて、約束されたものの相続者ともされているのです(11節)。キリストは神の御子として、父なる神のものすべてを相続される資格を持っておられます。私たちには、そのような資格はありません。しかし、子たる身分を授けられて、キリストとの共同相続人なのです。
 
 その目的は、キリストに希望を置く私たちが、神の栄光をたたえるためです(12節)。驚くべき恵みをお与えくださる主を賛美しましょう。
 
 父なる神の祝福は「天のあらゆる霊的な祝福」(3節)と言われ、聖霊の働きによってもたらされます。13節に「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」と記されています。
 
 神の祝福、キリストによる贖いの業が、「真理の言葉、救いをもたらす福音」として語り告げられたとき、それを私たちが理解し、信じることが出来るように働きかけてくださったのは、「聖霊」なる神です。
 
 第一コリント書12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と記されています。それは、「イエスは主である」と言葉で言えるかどうかということではなく、イエスを主とする生活が出来るかどうかということです。
 
 キリストの贖いによって過去の重荷が取り除かれ、キリストと共に歩む新しい生活が始まるのは、聖霊の働きがあるからなのです。
 
 聖霊は、ヨハネ福音書では真理の御霊と呼ばれ(14章17節、15章26節、16章13節)、すべてのことを教え、主イエスの御言葉をすべて思い起こさせ(14章26節)、真理を悟らせ、主イエスに栄光を与えます(16章13,14節)。
 
 聖霊に満たされるとき、確かに信仰の目が開かれ、聖書の言葉が、神の真実な言葉であることを信じる力が与えられます。
 
 「約束された聖霊で証印を押された」とは、私たちが主イエスを信じてバプテスマを受け、神の子どもとされたことを、聖霊が証ししてくださるということです。この聖霊によって私たちは、神に向かって「アッバ、父よ」(ガラテヤ書4章6節)と叫びます。それは神の助けを呼び求める叫びであり、神の助けに感謝し、喜んで神を大声でたたえる賛美です。
 
 絶えず聖霊に充たされて、喜び溢れる賛美を主なる神にささげましょう。
 
 天のお父様、私たちを愛をもって選び、祝福してくださったことを感謝します。絶えず聖霊に満たされて主の御心を悟り、御名をほめたたえさせてください。 アーメン






 

10月の御言葉

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10月の御言葉 詩編84編6~8節

 84編は、万軍の主の神殿での礼拝を慕い求める詩人の「神をたたえる歌」です。5,6節に、「いかに幸いなことでしょう」(アシュレイ)という言葉を重ねて、神の宮における礼拝に与る者と(5節)神を慕って巡礼の旅に出る者(6節以下)を讃えています。そして、詩の最後に、それをまとめて、「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう」と、三度目のアシュレイを語ります。

 冒頭の言葉(7節)で、「嘆きの谷」というところを、口語訳では「バカの谷」と訳しています。実は、「嘆き」と訳されたのが「バカ(bk’)」という言葉で、それを口語訳は固有名詞と考えたのです。英語訳のKJV、RSVなども、「バカの谷(valley of Baca)」としています。

 ところが、ヘブライ語の「バカ」は、「嘆き、涙」という意味ではありません。これは、「バルサムの木」のことです。サムエル記下5章23節に「バルサムの茂み」(ベカイーム)という言葉があり、レファイムの谷に陣取ったペリシテ軍を迎え撃つため、ダビデの軍勢はその茂みに身を隠して、待ち伏せ攻撃をしました(同24節)。その場所は、エルサレムの南にあるヒンノムの谷の北部の谷のあたりであろうと想定されています。

 それが「嘆きの谷」(新改訳は「涙の谷」)と言われるのは、70人訳(ギリシャ語訳旧約聖書)の「涙」(クラウスモウン:weeping)という訳を参考にしたのです。「涙、嘆き」は、ヘブライ語で「ベケー(bkh)」といい、「バカ(bk’)」によく似ているということもあります。

 ヒンノムの谷は、今日アラビア語でワーディ・エル・ラバビと言われます。ワーディは、雨が降ったときだけ水が流れ、いつもは川の水が全く流れていない涸れた川です。巡礼の旅人が水を求めて谷底に降りても、水が得られません。まさに、旅人を嘆かせる嘆きの谷です。

 しかし、一旦雨が降れば、そこに水が流れ、様々な命が芽吹きます。嘆きの谷に恵みの雨が降り、泉を作ります。長旅の渇きも、泉の水で癒されます。人生の旅路において様々な嘆きの谷を通過した人々が神の宮にやって来て、主の恵みに触れたとき、喜びが泉となって内から湧き上がります。

 7節後半の、「雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」という言葉や、8節後半の、「ついに、シオンで神に見えるでしょう」という言葉などから、その力とは、単に体力や気力というのではなく、新約の時代において、あのペンテコステに降り注いだ聖霊によって与えられる「力」(使徒言行録1章8節、2章1節以下)を指しているように思われます。

 どんなときにも、私たちの内に、私たちと共にいて下さる御霊なる神の恵みと力に満たされて、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌いたいと思います。

 主よ、弱く貧しい私たちを顧み、絶えず新しい恵みに与らせてくださることを、心から感謝します。涙の谷を通ることがあっても、そこを恵みの雨に与る場所としてくださる主を仰ぎます。キリストの言葉を心に豊かに宿らせ、御霊に満たされて、心から御名をほめ讃えさせてください。主の御名は賞むべきかな。 アーメン


 

9月の御言葉

IMG_20170829_00079月の御言葉 コロサイ書1章9,10節 

 パウロは、同労者のエパフラスからコロサイ教会のことを聞いて以来、執り成しの祈りを続けていました。その祈りについて、9~12節に三つの祈りが記されており、冒頭の言葉(9,10節)は、最初の祈りです。
 
 ここでパウロが「絶えずあなたがたのために祈り、願って」いるのは、「神の御心を十分悟り」(9節)、「主に従って歩」(10節)むということです。
 
 「神の御心を十分悟り」は、原文を直訳すると「あなたがたが彼(神)の御心の知識に満たされるように」という言葉です。ここに用いられている「知識」(エピグノーシス)は、単なる「知識」(グノーシス)を超えた(エピ)、物事の本質をつかむことで、それは観念的な知識ではなく、人格の深みにおいて交わることです。
 
 その知識の満たしは、「霊によるあらゆる知恵と理解によって」(9節)与えられます。だからこそ、パウロたちが絶えず祈り求めているわけです。言い換えれば、祈りという神との交わりを通して「上からの知恵」(ヤコブ書3章17節)が授けられて、神の御心を深く認識することが出来るのです。
 
 この認識は、それに満たされれば良いということではありません。「主に従って歩」(10節)むという信仰の実践と結びついています。
 
 「主に従って歩む」とは、「主にふさわしく歩く」という言葉遣いです。「生きること、生活すること」を「歩く」と表現しているわけです。
 
 「主にふさわしく歩く」という言葉を説明するのに、「あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように」と言います。ここで、「ますます深く知る」は「知識(エピグノーシス)が増し加えられる」という言葉です。
 
 また、「実を結ぶ」ことと「知識が増加する」ことが一つのこととして語られています。というのは、「実を結ぶ」と「知識が増加する」はいずれも現在分詞で、「あらゆる善い業において実を結びながら、神の知識を増し加えられながら」という言葉遣いになっているからです。
 
 神との交わりを通して御心を深く認識し(エピグノーシス)、主に喜ばれるよう生活する(ペリパテオー)ことで、更に深く神を認識する(エピグノーシス)という、認識と実践の循環、ここに信仰の成長、成熟を見ることが出来ます。
 
 パウロが絶えずこの祈りをしているということは、信徒たちの霊的成長、成熟が常に求められているということです。
 
 私たちも、主にあって成長成熟していけるよう、聖霊の導きと交わりを求めて祈り続けましょう。
 
 主よ、私たちも神の御心を十分に悟り、その御心の実践を通して更に深く主を知るという充実した信仰生活のために、絶えず聖霊の交わりに導いてください。その力を受けて主の証人としての使命を果たすことができますように。 アーメン
 

8月の御言葉

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 使徒言行録の書き出しは、主イエスが甦られて使徒たちに姿を現されたことから始っています。3節に、二つの事実が明らかになっています。

 一つは、主イエスが40日にわたって姿を現されたことです。ここには「現れる」という動詞の現在分詞形が用いられており、それは文法上、動作が継続していることを示しているので、時々現れたというのではなく、ずっと一緒におられたという表現になっています。

 もう一つは、主イエスが「神の国について話された」ということです。「神の国」とは、神の支配、神が王として国を支配されていることを指す場合と、神が支配している地域、場所を指す場合があります。二者択一というより、いつも両方の意味を含んでいると考える方がよいでしょう。

 主イエスは生前、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)と語られ、また、「神の国」についてたとえ話を用いて度々使徒たちに教えておられました(同4章26節以下、30節以下など)。

 それは、終わりのときに神によって完成される神の国、完全な救いを表していると同時に(同9章47節、10章15節、23節以下など)、主イエスの宣教と働きによって既にこの世にもたらされていることを示しています(ルカ福音書11章20節、17章20,21節)。

 主イエスが40日に渡って現れ、神の国について話されたというのは、さながら神がモーセと40日にわたってシナイ山で語り合い、契約のしるしとして十戒を授けられたようなものです(出エジプト記24章18節、34章28節)。

 主イエスは「父の約束されたもの」(4節)、即ち聖霊が授けられることを待つようにと言われ、続けて5節で、かつて洗礼者ヨハネが「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが・・・その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」(ルカ福音書3章16節)と語っていたことを受けて、「あなたたちは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と告げられています。

 洗礼者ヨハネから水のバプテスマを受けて、主イエスのメシアとしての働きが始められたように、父なる神から聖霊のバプテスマを受けて、主の弟子たち、即ちキリスト教会による働きが始められるのです。

 使徒言行録を通して、神の国の教えを彼らがいかに実践したかを学び、主の証人として神の国の福音を生きるために、聖霊の力に与りましょう。そのために一つところに集まり、皆で「心を合わせて熱心に祈」(14節)り合いましょう。
 
 主よ、キリストによって罪が贖われ、神の子とされました。私たちの信仰の目を開き、さらに深く主を知らせてください。聖霊に満たされ、その力を受けて、主の証人としての使命を果たし、神の国として主キリストの教会を建て上げてくださいますように。 アーメン


7月の御言葉

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 詩編100編は、自分たちを創造された神をほめたたえる「賛歌」です。詩人は、全地に向かって賛美を呼びかけます(1節)。次いで、喜びをもって御前に進み、主に仕えよと告げます(2節)。
 
 「御前」とは、原語は「彼の顔」という言葉です。人間は、その罪深さゆえに、聖なる神の御顔を見ることは許されないと考えられていますが(出エジプト記3章6節、士師記6章22節など)、この表現は、神の御顔をはっきり見ることが出来るほどに近づくようにという意味になるでしょう。
 
 そして、主に「仕える(アーバド=serve)」ことは、主を「礼拝(アボーダー=service)」することです。その礼拝の基調は、「喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」と言われるように、厳粛さ、荘厳さよりも、喜びであることが示されます。
 
 ヘブライ語で主人に仕える僕を「エベド」といいます。かつてイスラエルの民はエジプトで、奴隷としてファラオにこき使われていました(出エジプト記1章11節以下)。そこから解放され、主なる神に仕える者となったのです(同3章12節、12章31節)。
 
 しかし、イスラエルの民はその喜びを忘れて他の神々に仕え、主の怒りを買って国を滅ぼす結果となりました(列王記下17章、24章20節以下)。詩人はここに、人に仕えるのではなく、他の神々に仕えるのでもなく、喜びをもって主なる神に仕えようと歌うのです。
 
 そして、「知れ、主こそ神であると」(3節)と歌います。かつてイスラエルは、エジプトから導き出された主が神であることを学びました(出エジプト記19章3節以下、20章2節)。全地の民が主が神であると知るのは、主が「わたしたちを造られた」お方だからです(創世記1章26節以下)。
 
 私たちも、神の恵みによってキリストが神の御子であられること、私たちの贖いのため、十字架で死なれたこと、三日目に甦られたこと、そして今も生きておられることが信じられるようになりました。
 
 その信仰によって私たちは神の子とされました。永遠に神と共に住み、神との交わりに入ることが許されたのです(ヨハネ福音書1章12節、17章11,21節以下、第一コリント書15章3節、ガラテヤ書3章26節、コロサイ書1章14節、ガラテヤ書3章26節など)。
 
 「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ福音書14章9節)と言われています。主イエスの御顔に輝く神の栄光をさらに深く悟るために日々主の御言葉に耳を傾け、羊飼いの声に聴き従う羊のように、先立って歩まれる主の御足跡に、賛美しながら喜んで従って参りましょう。
 
 主よ、御子キリストの贖いにより、神の家に共に住まう恵みと特権に与らせていただきました。感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入ります。御口から出る一つ一つの言葉で養われ、喜んで主に仕える者とならせてください。 アーメン


 
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