「ハザエルは、『この僕、この犬にどうしてそんな大それた事ができましょうか』と言ったが、エリシャは、『主はあなたがアラムの王になることをわたしに示された』と答えた。」 列王記下8章13節

 アラムの王ベン・ハダドが病気になり(7節)、その病気が治るかどうか、ダマスコを訪れていた預言者エリシャに尋ねます。これは、前に軍の司令官ナアマンの重い皮膚病をエリシャに癒してもらったことがあったので(5章)、自分も癒して欲しいという願いがあったのでしょう。
 
 そのとき、ベン・ハダドの使者として遣わされたのは、ハザエルです(8節)。エリシャはハザエルに、「行って王に言うがいい。『あなたは必ず治る』と。しかし、主は彼が必ず死ぬことをわたしに示された」と告げます(10節)。
 
 そして、エリシャはハザエルの顔をじっと見つめて、泣き出します(11節)。それは、ハザエルによってイスラエルに災いがもたらされるからです(12節)。その涙の理由を尋ねた後のハザエルとエリシャとのやりとりが、冒頭の言葉(13節)です。つまりアラム王ベン・ハダドは、その病気で死ぬことはないけれども、家臣のハザエルによって殺され、代わってハザエルが王になるということです。
 
 かつて、主がエリシャの師エリヤに対し、「ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ」と告げられたことがあります(列王記上19章15節)。エリヤが実際にダマスコに赴き、ハザエルに油を注いだという記事はどこにもありません。今ここで、エリヤの後継者エリシャが、ハザエルに油を注ぎ、王に任命したようなものでしょう。

 王のもとに帰ったハザエルは、「必ず治ると彼(エリシャ)は言いました」と報告します(14節)。そして、翌日、ハザエルは事故を装うかの如く、王ベン・ハダドの顔に濡れた布を乗せて暗殺し、代わって自分が王となりました(15節)。
 
 神はなぜ、ハザエルに油を注いで王とせよと、エリヤに告げたのでしょうか。それは、12節に言われているように、ハザエルが王となって、「砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂く」という災いをイスラエルにもたらすためです。エリシャが泣き出したのは、この災いがイスラエルにもたらされることが分かったからでした。

 けれども、だからといって、エリシャはハザエルが王にならないようにしたわけではありません。むしろ、上述のとおり、王として油を注いだのです。こうして、神はアラムを、イスラエルを試すために用いられます。危機にあってイスラエルが神に信頼するか、それとも、自分の力や知恵を頼みとするかを試すのです。そして、神に信頼することがないとき、神はアラムを用いてイスラエルに敵対させ、イスラエルを打ち負かすようにさえなさるのです(列王記下8章28,29節、10章23節、12章18,19節、13章3,22節)。
 
 イザヤ書45章7節で主は、「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」と語られます。私たちが神に背き、我が道を行こうとするとき、神は私たちに災いをもって臨まれます。災いを下したいからではなく、私たちに義の道を歩ませたいからです。
 
 また、災いと見えるところを通過することで、忍耐を学び、従順を学ばせられるのです。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ書5章8節)と言われます。そして主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と(マタイ11章29節)、主と共に重荷を担うよう招いておられます。パウロが、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1章29節)と言っているのは、そのことでしょう。
 
 さらに、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とあります(ローマ8章28節)。それは、御霊なる神の働きです。神は、ご自身の計画に従って私たちを召し出して下さいました。そして、私たちを「神を愛する者」と呼んで下さいます。どのようなときにも、神を愛し、神を信頼する者たちのためには、神は万事を益に変えて下さる、どんなマイナスと見える出来事もプラスにして下さるというのです。
 
 そのことを、「わたしたちは知っています」とパウロは言います。既に、その恵みを経験し、喜びを得ていたのです。主を愛し、主を信頼して、その御言葉に耳を傾け、日々その導きに従いましょう。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことでも感謝しましょう。

 主よ、あなたはハザエルを用いてイスラエルを裁き、キュロスを用いてバビロン捕囚から解放されました。御旨を行われるために、すべてのものが用いられます。私たちの主の御用のために用いられたいと思います。主に用いられる器として、整えて下さい。試練を耐え忍び、主を喜び、賛美することを教えて下さい。 アーメン