「アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して、『エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか尋ねよ』と命じた。」 列王記下1章2節

 アハブの死後、その息子アハズヤが王になりました(列王上22章40節)。彼はサマリアで屋上の欄干から落ちて病気になり、冒頭の言葉(2節)のとおり、使者を遣わしてエクロンの神バアル・ゼブブに、この病気が治るかどうか、伺いを立てます(2節)。

 ここで、バアル・ゼブブというのは、当時おそらく病気の癒しで評判の神だったのでしょう。エクロンは、ペリシテの町です。そして、実はバアル・ゼブブとは、「ハエの主」という意味です。そのような名の神がいてはいけないとは思いませんが、新約聖書で「悪霊の頭」と言われ、サタン=悪魔と言われる「ベルゼブル」(マタイ12章24節)は、本来の読み方は、バアル・ゼブル(「家の主人」の意)です。
 
 マタイ10章25節で、「家の主人がベルゼブルと言われるなら」というのは、本来の読みに基づく表現なのです。イスラエルの民にとって、真の神に適応すべき「家の主」という称号を異教の神「バアル・ゼブル」に用いることをよしとせず、これを「バアル・ゼブブ」と読み替え、そして、サタンの別名としたのでしょう。
 
 主は、御使いをエリヤに遣わし、アハズヤに告げるべき言葉を伝えます(3節)。それは、アハズヤが主なる神を捨て、異教のバアル・ゼブブに伺いを立てたから、上った寝台から降りることなく、必ず死ぬ、というものでした(4節)。エリヤは使者たちにその言葉を伝え、使者たちからそれを聞いたアハズヤは、「毛衣を着て、腰には革帯を締めていた」ということから、その預言者がエリヤであることを悟ります(8節)。
 
 そこでアハズヤは、50人の部隊を送って、エリヤに降りて来いと命じます(9節)。すると、天から火が降って来て、部隊の隊長と50人の部下を焼き尽くしました(10節)。同じことが二度繰り返され(11節以下)、なおもあきらめきれないアハズヤは、三度目も同様に部隊を送ります(13節)。
 
 三度目に派遣された部隊の隊長はエリヤに命乞いし、それに対して、神はエリヤに、使者たちに同行することを許します(15節)。そこでエリヤは立ち上がり、アハズヤのところに降りて行って、最初に使者たちに告げたとおりの言葉を語り(16節)、そして、その言葉どおりにアハズヤは死にました(17節)。
 
 ここで、主はアハズヤに対して、何度も悔い改めのチャンスを与えておられたのだと思います。彼の父アハブは、エリヤから厳しい裁きの言葉を聞いたとき、悔い改めて御前に謙ったので、罰を免れたことがありました(王上21章27節以下)。それを知らないアハズヤではなかったでしょう。しかしながら、アハズヤは謙るどころか、エリヤに軍隊を送って自分に従わせようとします。
 
 自分が遣わした軍隊に二度、天から火が降っても悔い改めようとはしませんでした。三度目の時、神がアハズヤのもとに赴くことを許されたのは、神が50人隊の隊長やその部下たちの命を憐れまれたということもあると思いますが、悔い改めないアハズヤに対して最後通告をするためだったわけです。アハズヤ自身が、あの隊長のように主の御前に命乞いし、悔い改めていれば、全く違った結果になったことでしょう。
 
 しかし、アハズヤにはそれが出来ませんでした。それは、父アハブに語られていた、「見よ、わたしはあなたに災いを下し、あなたの子孫を除き去る」という呪いの言葉が実現するためだったわけです(王上21章21節以下)。
 
 謙って神の御声を聴き、その御言葉に従って歩ませていただきましょう。主なる神は、ご自身を否む者には、その罪を子孫に三代、四代も問われますが、主を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみをお与え下さるからです(出エジプト20章5,6節)。

 主よ、あなたは深い憐れみのゆえに、御子キリストの十字架の死によって私たちの罪を贖い、神の子として生きる道を開いて下さいました。それは、まったく一方的に与えられた主の恵みです。その恵みに感謝し、常に主の御名をほめ讃えます。私たちを聖霊に満たし、福音宣教の使命を全うさせて下さい。 アーメン