「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。」 申命記7章6節

 主なる神は、約束の地に入った時、「七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人」を自分たちの前から追い払えと命じられます(1節)。それは、容易いことではありません。むしろ、不可能に近いことでしょう。彼らが、ユダヤの民にまさって「数と力を持つ」民だと言われているからです(1節)。

 自分たちの数や力が「七つの民」より劣っているとなれば、どのようにしてその民を追い出すことが出来るのでしょう。かつて、約束の地を偵察した者たちが「あの民に向かっていくのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」(民数記13章31節)と報告して民の心を挫いたのは、正確な報告だったということになりそうです。

 それに対してヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは「もし我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食に過ぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる」(同14章8,9節)とイスラエルの民に訴えました。

 民はヨシュアらを石で打ち殺そうとします(同10節)。つまり、偵察して来た者たちの報告を受け入れるということです。それを受けて、主なる神は、ヨシュアとカレブの他、約束の地に入ることは出来ないと言われました(同11節以下、29,30節)。

 そのことから、ここでも、目に見える数や力などではなく、ただ、七つの民を追い払えと言われる主を信じ、その命令に従うとき、主の助けによってそれが可能になるということです。私たちは無力でも、主なる神は全能のお方だからです。

 神はイスラエルの民を、ご自身のものとしてお選びになりました。主は彼らを、冒頭の言葉(6節)のとおり、「主の聖なる民」と呼ばれ、また、「ご自分の宝の民」と言われます。勿論、主なる神はイスラエルだけを作られたのではなく、全世界のあらゆる種族、部族、民族を作られたのです。けれども、主はその中からイスラエルを選び出して、ご自身の「宝」(セグッラー)とされました。

 この「セグッラー」という言葉は経済用語で、金や銀といった非常に高価な財産、まさに「宝」を指すものだそうです。また、「主の聖なる民」とは、主がご自分のために他から区別した、とっておきの民であり、神の目的に即して職務、召しを受ける民だということです。

 そう言うと、さぞ優れた民族なのだろうと思われますが、その特別さは、イスラエルの民の特質などにはよりません。主なる神が彼らが選ばれた理由について「あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」(7,8節)と記しています。

 つまり、神がエジプトで奴隷の苦しみにあったイスラエルに目を留め、その力ある御手をもって救い出してくださるのでなければ、民の数が多くはなく、むしろ貧弱と評されたイスラエルにとって、自力でエジプトを脱出することなど、到底適わないことだったわけです。ということは、イスラエルを救い出された神は、七つの民を打ち破り、イスラエルの前から追い払うこともお出来になるのです。

 そのように数も少なく貧弱な民が、どうして「主の聖なる民」、「宝の民」と言われるのでしょう。そのことについて、出エジプト記19章5,6節に「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と記されています。

 主との契約とは、イスラエルをエジプトから救い出してくださった主をおのが神とし、イスラエルは主の民となるというものです。そして、主を神とし、主の民となるとは、主の御声に聞き従い、その掟と法を守り行うことでした(5章1節、6章1節以下)。主の掟と法を守り行うことによって「宝」とされ、神が王として治める王国の「祭司」の務めを果たすために区別された民だということです。

 宝石などが「宝」であるのは、その希少性と純粋な美しさにあるでしょう。純度99.99パーセント以上の金を純金と言います。現段階で、不純物を一切含まない純度100パーセントの純金を作ることは、未だ出来てはいないようです。

 七つの民を追い払うというのは、文字通りそれを実行するというより、イスラエルの民がその心の内より一切の不純物を取り除き、純度100パーセントの全き心で主の御言葉に耳を傾け、その契約を守るということでしょう。そのとき、彼らは主にとって、まさに宝の民となるわけです。

 言い換えれば、イスラエルの民が主によって与えられた戒め、また祭司としての使命を「宝」として受け止め、大切に守ることが求められているのです。そしてそれは、人が独りでよく行うことの出来るものではありません。

 ただ、常に主の御声に耳を傾け、導きと助けを願って祈り求めることです。そのとき、主は私たちの心を聖霊で満たし(ルカ11章13節)、聖霊を通して神の愛を豊かに注いでくださいます(ローマ書5章5節参照)。

 主に信頼し、すべてを御手に委ね、授けられた使命に喜びと感謝をもって励み仕えて参りましょう。

 主よ、あなたは私たちの弱さをよくご存じです。しかし、神の力はその弱さの中で十分に働くということを知っています。主よ、私たちの内に清い心を想像し、新しく確かな霊を授けてください。そうして、み救いの喜びを味わわせ、自由の霊によって支え、御心を行う知恵と力、信仰に与らせてください。私たちの心を聖霊で満たし、愛と平和に溢れさせてください。 アーメン