「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」 申命記6章16節

 6章4~9節は、旧約聖書中で最もよく知られている箇所であり、最も重要な戒めとされているところです。これは、十戒(5章6節以下)が語られた後に、部族の長と長老たちがモーセのもとに行き、主なる神と民との間に立って主の言われることを聞き、それをすべて自分たちに語ってくれるようにと要請し(同27節)、それを受けてモーセが民に語り告げた最初の言葉です。

 この箇所が、「十戒」と「掟と法」(12~28章)との架け橋の役割を果たしていると言われます。それは、この箇所が「十戒」の前文、第一、二戒を積極的に言い換えたものであり、そして、この箇所の意味、内容を、「掟と法」が民の生活において具体的に明らかにしているからです。

 後にユダヤ教は、これらの言葉をすべてのユダヤ人が毎日、朝と晩に唱えるべきものと定めました。主なる神のご支配のもとにあるイスラエルの民が、主のみ前に生活を整え、日常の行動と心の向きを決定するための真の基準と考えているのです。

 今も、信心深いユダヤ人は、これらの御言葉を、文字通り徹底的に実行しようとしています。これらの御言葉を記した巻紙を小さな容器(「聖句箱」という)に入れ、額に結びつけています。また、家の門柱には、それと似た別の容器(「メズーザー」と呼ばれる)を取り付けています。そして、子どもたちに律法教育をしっかりと授けます。

 5節の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」というみ言葉は、キリスト教会でもよく知られています。それは、主イエスが律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられたとき、申命記6章5節のこの御言葉をもって、最も重要な第一の掟であるとお答えになったからです(マタイ22章34節以下)。

 ユダヤ人のように、8,9節を厳格に実行することを、主が望んでおられるのかというと、それはそうではないのでしょう。新約聖書において、聖句箱やメズーザーが話題になったことは一度もないからです。

 ただ、腕や額、門や柱に書き記すというのは、単にそうすればよいということではなくて、いつも神の御言葉が目につくところにあるというほどに、主の御言葉が私たちに生活の中に息づき、常に神が神として崇められ、注意深くその御言葉を聴く心の姿勢が求められているのです。

 勿論、順調な日々ばかりではありません。逆風にさらされているようなときもあります。そんなとき、私たちの心はどうなっているでしょう。じっと主を信頼し、御言葉に耳を傾け続けることが出来るでしょうか。

 イスラエルの民はそんなとき、主なる神に不平を言い、呟きました。時には強く反発し、こんな荒れ野で死にたくない、約束の地を目指すよりも、エジプトに帰った方がよいと言い出しました。

 冒頭の「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」という言葉(16節)は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、シナイ山を目指してレフィディムに宿営していたとき、飲み水がなくて不平を言ったときの出来事を指しています(出エジプト記17章1節以下)。

 そのときモーセが「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」(同2節)と言っています。それは同7節にあるように、イスラエルの民が「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、主を試したからでした。

 水が与えられれば、主がイスラエルの民と共におられるしるし、水が与えられなければ、主はおられないしるしだということでしょう。それも、水が与えられなければ、モーセを石で打ち殺すといっているような、大変緊迫した状態です。つまり、モーセが神を騙ってこんな荒れ野に連れて来て、自分たちに水も与えず、ここで殺そうとしているのだろうと、モーセに詰め寄ったわけです。

 そのとき主はモーセに、「ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て」(同5,6節)と命じられ、そこから水が出るようにされました。その場所をモーセは、「マサ(試し)とメリバ(争い)と名付け」(同7節)ました。

 このように名付けられたことで、民の不信仰が重大視されていることが分かります。それは、苦難のときに主なる神が自分たちを救ってくださるかどうかを試すこと、あるいは、どこまで主が自分たちの不信仰、不従順、わがままを許されるのかと、主の忍耐を試すようなことでしょう。

 いずれにせよ、主なる神の愛を疑い、試すということは、イスラエルの民はそのとき、主を愛し、主に信頼する心を持っていなかったということです。もしも主の民が主への信頼を失い、その恵みのみ業を忘れ去るなら、やがて彼らも主に忘れられ、その恵みを失うことになるでしょう。バビロン捕囚が起こったのは、まさしく彼らの不信仰、不従順の故だったのです(15節、4章26節以下)。

 日々主の御言葉に耳を傾け、その教えを心に留め、主の目にかなう正しいことを行いましょう。主が幸いをさずけてくださるからです。

 主よ、あなたこそ私たちの神です。全身全霊をもってあなたを愛します。あなたに信頼し、御言葉に聴き従います。すべてを明け渡します。委ねます。どうか弱い私たちを試みに遭わせず、悪しき者からお救いください。み名が崇められますように。 アーメン