「イスラエルよ、今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。」 申命記4章1節  

 4章は、28章まで続く、モーセが語り教えた主なる神の「掟と法」(1節)の序文という役割を果たしています。

 アルノン川からヘルモン山に至る、ヨルダン川東部全域を占領したイスラエルの民は、すぐにも約束の地に進軍して行こうとしています。しかし、モーセはヨルダンを渡ることが出来ません(3章27節)。そこで、イスラエルの民が約束の地において守るべき「掟と法」を、ここに語り聞かせているのです。

 3章28節に主がモーセに告げた、「ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう」という言葉が記されています。それで、「掟と法」が語り出されているので、ヨシュアとイスラエルの民を力づけ、励ますのは、「掟と法」なる主の教えだとモーセは考えているのです。

 冒頭の言葉(1節)に、「(掟と法を)聞きなさい」(シェマ)という言葉があります。新共同訳は「忠実に」と意訳して、「忠実に行いなさい」と、実行することに重きを置く文章にしています。

 原文を直訳すると「今イスラエルよ、実行するためにわたしがあなたがたに教えるところの掟と法を聞きなさい」(新改訳参照)となります。掟と法が与えられるのは実行するためですが、命じられているのは、それを「聞く」ことです。

 4章を読んで気がつくのは、「主は火の中からあなたたちに語りかけられた」という言葉が何度も繰り返されていることです(12,15,33,36節)。これは、エジプトを脱出したイスラエルの民がシナイの荒れ野にいて、シナイ山に降られた主が民に語りかけたときのことと言われています(11,15節、出エジプト記19章18節)。

 火は一般に、調理、暖房、灯火、金属の精錬などに用いられますが、ときに破壊や裁きのためにも用いられます(創世記19章24節、出エジプト記32章20節、レビ記20章14節、申命記9章3節など)。特に、神の幕屋では、祭壇でいけにえを献げ、香を炊くために欠かせません。

 アロンが祭司として最初に献げ物を献げたとき、「主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くし」(レビ記9章24節)ました。それは、祭壇のいけにえを神が受け取られたしるしであり、祭壇の火は本来神から出たものということを示しているわけです。祭壇の火は絶やさず燃やし続けるようにという規定があるのは、そのためかも知れません(同6章5,6節)。

 火の中にご自分を顕され、火の中から語りかけられた主なる神の教えは、イスラエルの民に「知恵と良識」を与えるものでした(6節)。その知恵の内容は、いつ呼び求めても、主が近くにおられるということであり(7節)、また、その神から正しい掟と法が与えられているということでした(8節)。

 つまりそれは、主なる神とイスラエルの民との間に深い交わりがあるということです。それゆえ、イスラエルの民は正しい教えを聞くことが出来るというのです。

 火の中から語りかけられたという言葉に続いて、「声のほかには何の形も見なかった」(12節。15節も)と言われています。そこで、神の形を見てはいないし、地上の獣、空の鳥、海の魚、天の万象などすべてのものは神に造られたもの、被造物なのだから、それで像を造り、それらにひれ伏し仕えてはならないと、16節以下で命じられています。

 これが、十戒の第1戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節、第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」(同4節)、「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(同5節)の根拠といって良いのでしょう。

 さらに、神とイスラエルの民とは、神の御声を通して信仰の交わり、その関係を結んでいるということです。御声は、文字ではありません。読めば分かるという、自分の主体的な営みではありません。声を出されるお方(神)がおられ、その御声を聞く者(イスラエルの民)がいて、「御声を聞く」ということになるわけです。その意味で、「聞く」というのは、受動的な営為ということになります。

 そして、7節の「いつ呼び求めても、近くにおられる神」とは、神が近くにおられて、民の呼び求める声を聞いてくださるということですから、声を聞くということが双方向でなされることになります。また、「近くにおられる」とは、その関係の近さ、深さを示しています。

 私たちが聖書を読んだり、祈りをささげているとき、主なる神と私たちの双方向の会話が行われているということです。御心を求めて御言葉を読み、御言葉に信頼し、従うことができるように祈り求めるのです。

 パウロが、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10章16節)と言っているのは、このことだと思います。今、私たちに語りかけられる神の御声に耳を傾けましょう。神に聴いて従う者となりましょう。

 主よ、今日も命の言葉に与らせてくださり、有り難うございます。常に近くにおられる生ける神の御言葉を日々聴くことが出来ますように。聴いた御言葉に喜びと感謝、信仰をもって従うことが出来ますように。信仰はキリストの言葉を聴くことによって始まるからです。御旨を行う者とならせてください。御名が崇められますように。 アーメン