「ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。」 申命記3章26節

 ヘシュボンの王シホンを打ち破り、アルノン河畔のアロエルからギレアドまで、すべての町を手に入れたイスラエルは(3章36節)、さらに北へ、バシャンに至る道を上って行きます(1節)。バシャンは、ギレアドからヘルモン山に至るガリラヤ湖東部の地を指します。約束の地に入るのに、ギレアドからバシャンに上って行く必要はないと思われます。

 バシャンの王オグは、上って来るイスラエルを迎え撃つために全軍を率いて出撃し、エドレイに陣を敷きます。今回モーセは、シホンの時のように予め領地通過の許可を求める友好使節を送るなどのことをしていません。バシャンもアモリ人の王国ですから、撃ち払えということだったのでしょう。また、バシャンの王オグも、ヘシュボンを滅ぼしたイスラエルを見過ごしには出来なかったのでしょう。

 この戦いにおいて、バシャンはイスラエルの前に完全に打ち破られ(3節)、その結果、アルノン川からヘルモン山に至るヨルダン川東部地域がイスラエルの手に渡ることになりました(8節)。モーセはその地を、求めに従ってルベンとガド、そしてマナセの半部族に与えました(12節以下、民数記32章33節以下)。

 つまり、「アルノン川沿いにあるアロエルからギレアドの山地の半分、およびそこにある町々」(12節)、即ちヘシュボンの王シホンの支配地域はルベンとガドの子孫に、そしてマナセの子孫のうち、ヤイルには北部のアルゴブ(即ちバシャンの全土、13節)、マキルには南部のギレアドが(15節)、嗣業の地として与えられたのです。

 その後、ヨルダン川を渡って約束の地を獲得するよう、進軍の命令(18節以下)を与えたモーセは、主の前に祈りました(23節)。その祈りは、24,25節に記されています。そこにおいてモーセは、「あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました」(24節)と言います。

 今神は、イスラエルを解放し、カナンの土地を与えるという約束の実現に向けて、端緒を開かれました。当然、その結末を知りたい、神の約束が実現しているところを見たいと思うでしょう。だから、「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」(25節)と祈り願ったわけです。

 このように祈り求めているということは、当然、モーセ自身、ヨルダン川を渡って約束の地に入れるとは考えていないということになります。それは、1章34節以下で、モーセは良い土地に入ることは出来ないと言われていたからです(同37節)。

 ただし、その理由は、民数記20章1節以下の「メリバの水」の出来事で、モーセの過ちの故ということではないようです。「主は、あなたたち(イスラエルの民)のゆえにわたし(モーセ)に向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった」(26節)と記されていて、イスラエルの民との連帯責任というか、監督責任のために約束の地には入れないようになったということでしょう。

 そうであれば尚更、モーセは約束の地を見たかったでしょう。そもそも、彼が自ら願ってイスラエルの指導者になったわけではありませんでした。主に命じられて、民を約束の地に導き入れるために40年間苦労し続け、ようやくそれが叶うところまでやって来たのです。

 前に斥候たちが探ってきた良い地(民数記13章参照)に、足を踏み入れてみたかったでしょう。そこで生活してみたかったことでしょう。それが出来ないというのは、どんなに心残りだったことでしょうか。

 「あなたたちのゆえに」ということは、何か責任転嫁の言葉のように思われますが、しかしながら、神はそれをお咎めにはならなかったようです。イスラエルの民に対して「わたしが与えると先祖に誓った良い土地を見る者はない」(1章35節)と言われていましたが、モーセには、冒頭の言葉(26節)のとおり、ピスガの頂上から約束の地を見渡すことが許されているからです。

 ピスガについて34章1節に、「ネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った」と記されています。ネボ山は、ヨルダン川東方のアバリム山脈の峰の一つで、ヨルダン川河口から東19キロメートルに位置する、標高802メートルのジェベル・エン・ネバと同定されています。

 ここからイスラエルの全地を見渡すことは、事実上不可能です。けれども、そのとき主なる神が御力をもって、モーセがイスラエル全地を見渡すことが出来るようにしてくださったわけです。人には出来ないことも、神に出来ないことはありません(マタイ19章26節ほか)。

 「もうよい」(26節:口語訳「おまえはもはや足りている」、新改訳「もう十分だ」)とは、主がモーセに委ねた働きは、既に十分なものになっているということでしょう。主イエスが「タラントンのたとえ」で、主人の期待に応えた僕に、「忠実な良い僕だ。よくやった」(マタイ25章21,23節)と告げたのと同じ意味といってもよいでしょう。

 そこで、モーセに委ねられていたイスラエルの民を率いて約束の地に入るという使命は、ヌンの子ヨシュアに引き継がれます(28節)。モーセの最後の務めは、神が啓示してくださった約束の地を見渡しながら、イスラエルの民に「神の掟と法」を語り告げることです(4章以下)。約束の地に生きる術を、荒れ野から神の言葉として語るのです。

 荒れ野で悪魔に試みられた主イエスが、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ福音書4章4節)と答えられました。これは、申命記8章3節からの引用です。

 主にあってこの世に生きる者として、日々主の御言葉に耳を傾け、その導きにまっすぐに従って参りましょう。

 主よ、あなたの御言葉こそ、私たちの道の光、私たちの歩む道を照らす灯火です。仰せの通り、私たちの足取りを確かなものとしてください。私たちの耳を開き、日毎に主の御声に耳を傾けさせてください。私たちの目を開き、御業を清かに拝させてください。御名が崇められますように。 アーメン