「主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。』」 民数記20章12節

 イスラエルの共同体全体が、ツィンの荒れ野に入りました。それはイスラエル南部のネゲブの南に位置し、約束の地カナンの南端を指しています(34章4節)。

 そこでミリアムが死に、埋葬されました(1節)。出エジプトにおいて重要な役割を果たしたミリアムですが(出エジプト記2章1節以下、15章20,21節)、アロンと組んでモーセを非難したかどで神に打たれ(12章)、以来再び表舞台に登場してくることはありませんでした。

 ツィンの荒れ野、カデシュには飲み水がありませんでしたので(2節)、民がモーセとアロンを非難して、「なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか」(4節)と言います。問題に直面して平安を失い、未来に希望を持てなくなると、ここで死んだ方がましとか、昔はよかったとか言い出すのが、私たちの常です。

 二人が臨在の幕屋の入り口にひれ伏すと、主の栄光が現れ(6節)、モーセに「あなたの杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」(8節)と言われました。

 モーセは命じられたとおり、主の御前から杖を取りました(9節)。そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて、「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(10節)と言いました。モーセが手を上げて、杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲むことが出来ました(11節)。

 ところが、このモーセの言動は、主を悲しませました。主の告げられた御言葉に素直に聴き従わなかったからです。だから、冒頭の言葉(12節)のとおり「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」と断じられ、それゆえ「あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」と告げられたのです。

 問題は、モーセが会衆に語った言葉です。主なる神は「『反逆する者らよ、聞け』と民に告げよ」とは仰いませんでした。確かに、民は繰り返しモーセに逆らい、非難を口にしました。その都度、モーセはそれに対応して来ました。11章以来繰り返されて来た指導者批判に、いい加減にしないかという思いにさせられたというのは、理解出来ないものではありません。

 けれども、モーセは何を考えて、「この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」と語ったのでしょうか。それは、私はあなたたちの召使いなのか、何故に私があなたたちのために水を出さなければならないのかという思いでしょう。また、私がこの岩から水を出すことができるとでも思っているのか、それは出来ない相談だといった思いでしょう。

 「あなたたちはわたしを信じることをせず」と主が仰っているということは、モーセが自分には出来ないことと思っているだけでなく、主の仰るとおりにしても、それでは水を出すことが出来ないのではないかと考えていたことになります。

 また、絶えず自分を非難し、あれこれと文句を言って来るイスラエルの民のために、水を出してやりたくはないと言っているのであれば、岩から水を出すという主の御業を、自分自身の栄光にすることです。そして「彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」(8節)と言われた主の御心に背いています。

 ここで決定的なことは、主は「岩に向かって、水を出せと命じなさい」(8節)とモーセに命じられたのですが、モーセはそのとおりにせず、杖で岩を二度打ちました(11節)。杖で岩を打って水を出すというのは、十戒が授与される前に一度、レフィディムで経験していたことでした(出エジプト記17章5,6節)。

 つまり、モーセは主の御言葉に注意深く聴き従うことをせず、むしろ、それでは水を出すことは出来ないと考えて、自分の経験に従って杖で岩を打ったのです。そして、二度打ったということは、一度では水が出なかったので、もう一度岩を叩いたというわけです。それは、まさに御言葉への不信であり、不従順でしょう。

 歴史に「タラレバ」をいっても仕方がありませんが、もしも一度打ったところで気がついて、主の御前に悔い改め、あらためて主の御言葉を思い起こし、主が告げられたとおり、岩に命じて水を出そうとしていれば、その後の展開はまったく違ったものになったはずです。

 ただ、そのようなモーセの不信仰、不従順にも関わらず、2度叩いた岩から水がほとばしり出たのは、主が恵み深く、民の必要を満たされるお方であること、即ち、主が聖なるお方であられることを、自らお示しになられたということです。

 こうして、主が聖なるお方であること、主の御言葉が聖であることを示さなかったモーセとアロンに対して、主なる神は「この会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」(12節)と告げられ、神の民を導く指導者の座から退けられることになります。

 彼らは二人とも、約束の地を前にしながら、あと一歩のところで入れないということになります。一度の過ちが、取り返しのつかないことになってしまいました。イスラエルの民をエジプトの地から導き出したモーセとアロン兄弟、そして姉のミリアムは、誰も約束の地をその足で踏むことが出来なくなってしまったのです。

 この出来事の後、カデシュを旅立ってホル山に着いたところで、アロンは死に、先祖の列に加えられました(22節以下、28節)。また、モーセも後継者を任命した後(27章12節以下、申命記31章)、モアブ領アバリム山地のネボ山に上り、約束の地カナンを見渡して、息を引き取り、葬られました(申命記34章)。主に近くあることに、畏れを持たざるを得ません。

 その引き金は、民の不平でした。不信と不平によって、出エジプト第一世代は、モーセとアロン、ミリアムも含め、殆ど荒れ野で命を落とすことになります。あらためて、互いに主の御前に柔和と謙遜を学ばなければなりません。主の御言葉に真剣に注意深く耳を傾け、素直に聴き従って参りましょう。

 主よ、誰よりも謙遜で主と会衆に仕えて来たモーセが指導者として相応しくないと言われるのであれば、主の御前に立つことができる者など一人もいません。そうです。今私たちが主とともに歩むことができるのは、すべて主の恵みです。そのことを忘れ、思い上がることのないよう、常に主を畏れ、日々御言葉に注意深く耳を傾け、素直にその導きに従って歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン