「死んだ者と生きている者との間に立つと、災害は治まった。」 民数記17章13節

 主はモーセに、祭司アロンの子エルアザルに対して、共同体の指導者250名が焼き尽くされた焼け跡から青銅の香炉を取り出し、炭火は遠くにまき散らすように告げさせます(2節)。さらに、取り出した香炉を打ち伸ばして板金にし、祭壇の覆いを作るよう命じさせます(3節)。そして、「これは、イスラエルの人々に対する警告のしるしとなる」(同節)と主は言われました。

 祭司エルアザルは、モーセを通じて命じられたとおり、香炉を集めて打ち伸ばし、板金にして祭壇の覆いを作りました(4,5節)。それによって、モーセに対する反逆は収まるかと思われましたが、翌日、共同体全体が「あなたたちは主の民を殺してしまった」(6節)と言って、さらにモーセとアロンを非難します。

 このように不平が噴出してくる背景には、エジプトを脱出して既に1年以上が経過しているのに、未だに乳と蜜の流れる約束の地に入れず、荒れ野を彷徨っていること(16章14節)、それはモーセとアロンによるミスリードではないかという考えがあるのでしょう。

 あるいは、「お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう。わたしに対して不平を言った者、つまり戸籍に登録された二十歳以上の者はだれ一人、わたしが手を上げて誓い、あなたたちを住まわせると言った土地に入ることはない」(14章29,30節)と主なる神によって断罪されたことに対して、反発する思いがあるのかも知れません。

 神が民を断罪されたのは、審きを文字通りに実行することがその目的ではなく、むしろそれによって、悔い改めに導くためです。モーセらに対する不平不満ではなく、必要を満たしてくださる主に信頼し、荒れ野に向かって出発することで信仰が試され、成長することが求められているのです。主は、すべての人々が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるのです(第一テモテ2章4節)。

 モーセとアロンに反旗を翻したイスラエルの民が、臨在の幕屋の方を向くと、雲がそれを覆い、主の栄光が現れていました(7節)。「栄光」(カーボード)というヘブライ語は、もともと「重さ」を意味していました。主の御手がイスラエルの民の上に重くのしかかると、誰もそこから逃れることが出来ません。

 「神の力強い御手のもとで自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ5章6節)という御言葉があります。謙遜な態度が求められます。けれども、その時イスラエルの民は主なる神の御前に謙り、主が立てられたモーセとアロンの指導に素直に従うことが出来ませんでした。それゆえ、主の重い御手が民の上に厳しい裁きとなって臨むことになります。

 主はモーセに「この共同体から離れなさい。わたしは直ちに彼らを滅ぼす」(10節)と言われました。それを聞いたモーセは、そこで民のための執り成しの祈りをしていません。それは、主の御前から怒りが出て、既に疫病が始まっていたからです(11節)。

 そこでアロンに「香炉を取り、それに祭壇の火を入れ、香を載せ、彼らのために罪を贖う儀式を行いなさい」(11節)と言います。アロンはモーセの命じたとおりに香を焚き、罪を贖う儀式を行いました(12節)。そして、冒頭の言葉(13節)の通り、死んだ者と生きている者との間にアロンが立つと、災害は治まりました。

 大祭司は、死者に触れて汚れを身に負うことが禁じられていますが(レビ記21章10節以下、11節)、アロンは死者の汚れを引き受けて、生きている者の防波堤の役割を果たしたのです。疫病で17,400人が亡くなりましたが、モーセとアロンの働きで、災害は治まりました。ここに、アロンが主によって立てられた神の祭司であることが、はっきり目に見えるかたちで示されます。

 それは、主イエスが私たちのために十字架にかかり、罪の呪いをその身に受けて死んでくださったことにより、その命の代価をもって私たちを罪と死の呪いから贖い、永遠の命に預かり、神の子として生きる救いの道を開いてくださることを、予表しています。

 不信仰によって神の安息から漏れることがないよう、「わたしたちには、諸々の天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」(ヘブライ書4章14節)。

 主よ、あなたこそ生けるまことの神です。あなたが私たちを選び、その使命に与らせてくださったことを感謝します。しかし、私たちはその働きに相応しい者ではありません。知恵も力も足りません。主よ、委ねられた働きを忠実に果たすことが出来るよう聖霊に満たし、知恵と力を授けてください。宣教の御業が前進しますように。 アーメン