「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。」 民数記16章3節

 16章には「コラ、ダタン、アビラムの反逆」が記されています。コラは、「レビの子ケハトの孫でイツハルの子」(1節)です。3章27節以下、4章1節以下に「ケハトの氏族とその務め」が記されています。彼らは聖所を警護し、契約の箱や供え物の机、燭台、香の祭壇、その祭具などに関わり、レビの他の家系と比べて重要なポストを任されています。

 祭司アロンと指導者モーセもケハト族で、アムラム家に属します。コラが冒頭の言葉(3節)の通り「あなたたちは分を越えている」、「なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」と語ったということは、彼は、モーセやアロンだけでなく、同じケハト族に属しているイツハル家の自分も、モーセのような指導的な立場に立てるはずだと言っていることになります。

 あるいは、アロンとその子孫だけでなく、イツハル家の自分たちでも、祭司としての務めにつけるはずだと考えていたのではないでしょうか。モーセが、「あなたたちは祭司職をも要求するのか」(10節)と語っていることからも、それが伺えます。

 コラの反逆に、ルベン族のダタンとアビラム、オン(1節)、そして集会の招集者である共同体の指導者250名の名のあるイスラエルの人々(2節)がそれに加担しています。ルベンはヤコブ=イスラエルの長男です。彼らが、反逆するコラの仲間となったのは、2章に記された「全軍の配置」で家族の長の位置を4男ユダに譲るかたちにされたことに対して、不満があるのかも知れません。

 彼らは、「あなたは我々を乳と蜜の流れる土地から導き上って、この荒れ野で死なせるだけでは不足なのか」(13節)と言います。ここで「乳と蜜の流れる土地」というのは、主なる神が与えると約束されたカナンの地のことではなく、奴隷とされていたエジプトを意味しています。

 つまり、豊かな土地であったエジプトから荒れ野に連れて来て、ここでイスラエルの民を死なせようとしているというわけで、これは15章41節で「わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である」と言われた主なる神に対する明白な反抗です。

 続けて、「我々の上に君臨したいのか。あなたは我々を乳と蜜の流れる土地に導き入れもせず、畑もぶどう畑も我々の嗣業としてくれない」(14節)と言います。これは、一年以上も自分たちを荒れ野におらせて、豊かな生活に導き入れることが出来ないモーセを、これ以上指導者として信頼し、従うことなど出来ないということでしょう。

 コラたちの「共同体全体、彼ら全員が聖なる者である」(3節)という主張は、正しいものです。「聖なる者」とは、主によって区別された者という意味です。イスラエルは主のものとして、他の民から区別されました。そして、イスラエルの民の中からレビ人を区別し、レビ人の中からアロンとその子孫を区別して祭司とし、モーセを指導者としたのも、主なる神なのです。

 「イスラエルの神はあなたたちをイスラエルの共同体から取り分けられた者としてご自身のそばに置き、主の幕屋の仕事をし、共同体の前に立って彼らに仕えさせられる。あなたたちはそれを不足とするのか」(9節)と言われているのは、そのことです。

 モーセとアロンに逆らったコラとダタン、アビラムは、家族、持ち物一切を家もろとも大地に呑み込まれ(32節)、すべて生きたまま陰府、即ち死者の世界へ落ちました(33節)。また、コラに仲間として引き入れられた共同体の指導者250名は、主のもとから出た火で焼き尽くされました(35節)。

 彼らが「なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」(3節)といってモーセとアロンに逆らったとき、その動機は何であれ、二人を会衆の指導者として立てた主なる神に対して反逆していたわけです。

 主から託された使命を、主への畏れをもって果たそうとしない者は、主によって重く用いられることはありません。主イエスが「不正な管理人のたとえ」(ルカ福音書16章1節以下)を話されて、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(同10節)と教えてくださったとおりです。

 イザヤが預言者として召されたのは、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ書6章1節以下)と主を畏れたときでした。ペトロが使徒として主イエスに召されたのは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ福音書5章8節)と語った後でした。

 私たちも、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」です(第一ペトロ2章9節)。私たちを選ばれた教会の頭なる主イエスの御前に謙り、畏れの心をもって各々委ねられた使命を忠実に果たして参りましょう。主が私たちに委ねてくださった務めはいずれも、決してごく小さな事ではないからです。

 主よ、静岡教会に連なるすべての信徒が御前に謙り、日々御言葉に真剣に耳を傾け、そこに示された主の御心に従い、それを忠実に実行することが出来ますように。静岡の町に住む686,085名の人々の日々の祝福を願って主の恵みと導きを祈り、主イエスの証人として喜びをもって神の愛と恵みをお伝えすることが出来ますように。 アーメン