「モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」 出エジプト記40章35節

 幕屋建設の準備が整い、主はモーセに、「第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい」(2節)と言われました。イスラエルの民がエジプトを脱出したのが、正月14日の夜中でした(12章6,18節、29節以下)。それから三ケ月目にシナイの荒れ野に到着し、シナイ山に向かって宿営しました(19章1,2節)。その山で十戒を受け(20章)、主と契約を結びました(24章)。

 それから、主なる神がイスラエルの民と共に住むための「聖なる所」、神の「幕屋」作りが命じられ(25章以下)、その実行のために必要なものが集められ(35章)、そして、アロンとその子らの祭服も含めたすべての準備が完了したのです(39章32節)。

 こうして、エジプト脱出からおよそ一年、シナイの荒れ野にやって来て9ヶ月が経過しました。これから、絶えず主なる神が臨在の幕屋にあって民の内に民と共に住まわれ、いつも共に歩んでくださるという新しい生活が始められるわけです。

 幕屋を建て(2節)、掟の箱を置き、垂れ幕を掛け(3節)、机とその付属品、燭台、香をたく金の祭壇を置き、幕屋の入り口に幕を掛けます(4,5節)。幕屋の入り口の前に祭壇を据え(6節)、祭壇と入り口の間に洗盤を据えます(7節)。周囲に庭を設け、入り口に幕を掛けます(8節)。幕屋とその中のすべての祭具、祭壇と祭具、洗盤と台に油を注いで聖別します(9~11節)。

 次に、アロンとその子らを水で清め(12節)、アロンに祭服を着せ、油を注いで聖別し、祭司として仕えさせます(13節)。また、彼の子らにも衣服を着せ(14節)、油を注いで主に仕える祭司とせよと命ぜられます(15節)。アロンの祭服と彼の子らの衣服との違いなどから、アロンは祭司として、彼の子らは祭司アロンの補佐役として、主に仕えたのでしょう。

 モーセはこれらのことを、主に命じられた通りに行いました(16節)。17節以下、仕事の様子が記録され、その都度「主がモーセに命じられたとおりであった」(19,21,23,25,27,29,32節)と、計7回記されます。「7」という完全数をもって、その仕事が主の命令に忠実に、完全に従っていることを示しています。

 仕事が主の命令通りであったのかどうか、モーセ自身で確かめたことでしょう。アロンとその子らが祭司として任職されるのは、レビ記8章になってからのことでした。ゆえに、灯火を主の前にともすのも(25節)、香草の香を金の祭壇でたくのも(26節)、焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物を祭壇の上で主にささげたのも(29節)、モーセの仕事だったということになります。

 臨在の幕屋が完成したとき、「雲が臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」(34節)と記されています。宿営の外に設けられた仮設の臨在の幕屋では、降って来られた主と「人がその友と語るように、顔と顔を合わせて」(33章17節)語り合ったのですが、幕屋が完成したこの日、冒頭の言葉(35節)のとおり、主の栄光が幕屋に満ちていたため、モーセは幕屋に入ることが出来ませんでした。

 ここに示されるのは、勿論、主なる神の権威です。幕屋に満ちている栄光に示された主の圧倒的な権威の前に、モーセといえども、そのままで近づくことは出来ません。主の許しなしに、主の御前に進むことなど、誰にも出来はしないのです(19章13節、24章12節参照)。

 それはまた、臨在の幕屋は、何よりも主なる神が臨在されるために設けられたものであって、民のために造られたものではないということも示しています。願い事があり、あるいは解決困難な問題があるとき、幕屋に行きさえすればそれでよいということではないのです。

 しかしながら、モーセがそこに入ることが出来ないほど、主の臨在によって神の栄光が満ち溢れているとき、主は何かをして人に仕えてもらう必要など、何もないのです。主はご自身の御力をもって幕屋を満たしておられるのであり、その御力によって、イスラエルの民を祝福してくださっているのです。

 主の栄光が表されるというのは、主が神として崇められ、人が主の民としてその恵みに与り、栄光を拝することが出来るということです。その意味で、アロンやモーセの働きというのは、そこに主が臨在され、主の栄光が満ちるためのものであるということ、また、主の栄光の故に何も出来なくなり、主がご自身の栄光を表されるための奉仕だと言ってよいでしょう。

 勿論、主は機械仕掛けのお方ではないので、何かをすれば必ず幕屋に主の臨在が表され、主の栄光がそこに満ちるというものではありません。私たちが主の臨在を仰ぎ臨み、御言葉に従順に歩めばこそです。絶えず主の御名を賛美し、主を仰ぎ望みましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、御子の十字架によって贖いを成し遂げ、罪の呪いから解放し、救いの恵みに与らせ、神の子としてくださったことを心から感謝し、御名をほめたたえます。どうか私たちの心に御臨在を表わしてください。そのために、私たちの心を清め、御言葉と御霊によって満たしてください。 アーメン