「あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない。あなたは除酵祭を守らねばならない。七日の間、わたしが命じたように、あなたはアビブの月の定められた時に酵母を入れないパンを食べねばならない。あなたはその時エジプトを出たからである。何も持たずにわたしの前に出てはならない。」 出エジプト記23章14,15節

 冒頭の言葉(14節)で、年に三度、主なる神のために祭りを行えと命じられています。それは先ず、春の除酵祭であり(15節)、次に畑の初物の刈り入れの祭り(16節)、そして産物の取り入れの祭り(16節)です。そのことについては、34章18~23節に再度記され、レビ記23章にも細かく規定されています。

 「祭りを行う」と訳された「ハーガグ」という言葉は、本来「巡礼の祝祭を守る」という意味です。祝祭を守るために、日々の仕事や生活を離れて、巡礼しなければならないということです。

 除酵祭を祝う春の大麦の刈り入れの頃、イスラエルの民はエジプトの国を脱出しました。それを過越祭として祝い、続く7日間、酵母を入れないパンを食べながら神に感謝する除酵祭を祝うのです(レビ記23章5~14節など参照)。

 大麦の刈り入れから7週間後、初夏を迎える頃、小麦の収穫を祝う七週祭を行います(同23章15~22節など参照)。後にこれは、シナイ山で十戒を授けられたことを祝う祭りとなります。

 畑の産物の取り入れの祭りは、秋のぶどうの収穫を喜び祝う祭りで、収穫したぶどうからぶどう酒を作る作業をするため、郊外に仮小屋を建て、作業を続けます。それが、40年間シナイの荒れ野を旅して過ごした天幕生活を偲ばせることから、仮庵祭として祝われるようになります(同23章34~43節など参照)。

 新約時代には、仮庵祭の期間中、毎日シロアムの池の水を、朝夕の供え物と共に祭壇に注ぐという行事が行われました(ヨハネ福音書7章37,38節参照)。一種の雨乞いのようです。こうして、イスラエルの人々は農業の収穫祭を、エジプトの奴隷生活から解放された救いの出来事と重ねて祝うように導かれました。

 子や孫から、どうしてこのような祭りを行うのかと尋ねられたときに、収穫をお与えくださった神に感謝しているというだけでなく、苦しい奴隷生活をしていたイスラエルの先祖たちを神が憐れみ、そこから救い出してくださった出来事を、こうして記念しているのだと、子々孫々に語り継ぐのです。

 そしてこの伝統は、キリスト教にも引き継がれています。過越祭は、主イエスの受難と復活を祝うイースター(復活祭)となりました。七週祭は、聖霊降臨を祝うペンテコステ(五旬祭)となりました。仮庵祭は収穫感謝祭ですが、キリスト教会はそれに代わる祭として、「年の終わりに」(16節)主イエスの誕生を祝うクリスマス(降誕祭)があって、年に三度、主の前に大きな祭りを行っています。

 冒頭の言葉(15節)の中に、「何も持たずにわたしの前に出てはならない」という言葉があります。もともと三大祭は収穫祭なのですから、「土地の最上の初物」(19節)を主の宮に携えて来ることが規定されているわけです。

 ただし、イスラエルの民がエジプトを出て40年、シナイの荒れ野を彷徨っていたときには、この規定は意味をなしません。畑に蒔いて刈り入れたり、果物を収穫することなど、出来はしないからです。ということは、必ず約束の地に入り、豊かな産物を手にするときが来ることを、こうして予め示していたということになります。

 ところで、「何も持たずにわたしの前に出てはならない」という規定は、今どうなっているのでしょうか。勿論、取り消されたわけではありません。何も持たずに主の前に出るとは、それは、神の恵みに対する感謝の心を持たずに、ということでしょう。

 私たちは、心ばかりのものですといって、贈り物をします。贈り物で心の内を示しているわけです。その意味では、どんなに豪華な献げ物をしても、感謝の心が伴わないままであれば、「何も持たずに」ということになってしまうのではないでしょうか。

 主イエスが、金持ちがたくさんの献金を賽銭箱に入れるのを見られ(ルカ21章1節)、そして、貧しいやもめがレプトン銅貨2枚(今日のお金にして約100円)献げたのを御覧になって(同2節)、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」(同3節)と言われました。それは何よりも、その女性の心を御覧になっての賛辞だったのです。

 私たちの心が主への感謝と喜びに満ちていれば、それにふさわしい献げ物を主の御前に携え行くことでしょう。主を喜び祝うことこそ、私たちの信仰の生活の力の源だからです(ネヘミヤ記8章10節)。

 「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」(ヘブライ書13章15,16節)。

 主よ、あなたは慈しみ深く、憐れみに満ちた方です。その恵みによって、私たちは主の救いに与りました。あなたの恵みに応える術を知りませんが、感謝と喜びをもってこの身を献げ、日々御名を褒め称えつつ主の導きにお従いします。御業のために用いてください。福音宣教の働きが、主にあって力強く前進しますように。 アーメン