「これらの災いにあっても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。」 ヨハネの黙示録9章20節

 第五の天使がラッパを吹きました(1節)。すると、一つの星が天から落ちて来ました。その星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられたと言います。穴を開くと、煙が立ち上り(2節)、その中からイナゴの群れが地上に出て来ました。このイナゴは、さそりが持っているような力が与えられました(3節)。

 イナゴながら、草木を損なうことは許されず、ただ「額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい」(4節)と言い渡されていました。それも、五ヶ月の間、殺してはいけないが苦しめることは許されたというのです(5節)。

 ここで、天から落ちて来た星は神の使い、底なしの淵は「死者の世界」(陰府:ローマ書10章7節)、あるいは悪霊の牢獄(ルカ福音書8章31節)と考えられます。神の使いが底なしの淵の穴を開くと煙が立ち上って太陽も空も暗くなり、その煙の中からイナゴが出て来て、神の刻印を押されていない人、即ち不信者に害を加えます。

 「五ヶ月間」(5節)という期間は、他に例を見ませんが、比較的短い期間という意味でしょう。「この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く」(6節)というのですから、その苦しみは、死をさえ凌駕するほどのものだったと言われていることになります。

 イナゴの「顔は人間の顔のよう」(7節)だと言います。これは顔かたちのことではなく、人間のような知恵を持っているということでしょう。「髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のよう」(8節)というのは、イナゴの荒々しさ、猛々しさの表現でしょう。

 11節に「いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている」と言います。「使い」(アンゲリオン)は、不信者を滅ぼすイナゴの王ということで、1節などと同じく「天使」と訳してよいでしょう。また、天から落ちてきた一つの星を「天使」と捉え、彼が穴を開いてイナゴを呼び出したとすると、1節の星と11節の使いは同一の天使と考えてもよさそうです。

 いなごの名を、ヘブライ語でアバドン、ギリシア語でアポリオンと紹介しています。「アバドン」は「アーバド(滅ぶ)」の名詞形で、ヨブ記26章6節などで「滅びの国」と訳されています。「アポリオン」は「アポルミ(滅ぼす)」の名詞形で、「アバドン」をギリシア語訳したものです。イナゴが与える苦しみが、滅びに定められた人々への神の罰に他ならないことを示しているようです。

 注解書に「アポリオンは皇帝ドミティアヌスが自らに対して好んで用いた神の名「アポロ」をもじったものである。その上、イナゴはアポロ心の象徴であった」と記されていました。ということは、イナゴがローマ皇帝を頂点とするローマ帝国を象徴していて、個々に神は、ローマを神の裁きの対象ですが、彼らをも神の裁きの道具として用いられることが示されます。  

 いなごの災いについては、出エジプト記10章1節以下に記されていました。出エジプトのときには、多くの災いがエジプトに臨みましたが、イスラエルの民はその災いに遭うことなく守られました。同様に、これらの災いは不信者の上に臨み、そして神の刻印を押されたキリスト者たちは、この災いから守られるということなのです。

 12節でいなごの災いを「第一の災い」と呼び、「この後、更に二つの災いがやって来る」と言います。つまり、六番目、七番目のラッパによって、あと二つの災いがやって来るというのです。ただ、第一から第四の天使のラッパによってもたらされた災い(8章6節以下)がここでカウントされないのは何故か、よく分かりません。

 第六の天使がラッパを吹くと(13節)、神の前にある金の祭壇の四本の角から声が聞こえました。それは、「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ」(14節)という言葉でした。そして、ユーフラテスのほとりの四人の天使が、人間の三分の一を殺すために解き放されます(15節)。

 「金の祭壇」は8章3節にもあり、それは聖所に置かれている香をたく祭壇のことでした(出エジプト記37章25節以下、40章26節)。その四本の角の声は、すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇に献げた香(8章3節)に対する応答ということになります。

 ユーフラテスは、イスラエルに与えられた約束の地の東の端です(創世記15章18節、出エジプト記23章31節、申命記1章7節、ヨシュア記1章4節など)。なお、この川はローマ帝国の東境でもありました。この大河が国境の天然の防護壁となっているのです。そこから四人の天使が解放され、災いがやって来るということになります。

 解放された天使たちのことを、「その年、その月、その日、その時間のために用意されていた」(15節)と言います。これは、私たちの歴史が神の計画に従って進行しているということ、その計画はとても緻密になされているということです。 

 天使が解放された結果、2億というおびただしい数の騎兵隊が出て来ます。詩編68編18節に「神の戦車は幾千、幾万」とあり、ソロモンが「戦車用の馬の厩舎四万と騎兵一万二千」(列王記上5章6節)を持っていたことなどと比べても、2億は殆ど天文学的な数字です。これだけの天の軍勢に攻撃されては、だれ一人として生き残れないでしょう。四人の天使が騎兵隊になったわけです。

 これは、メソポタミア東方のパルティア人を想定しているのだろうと言われます。ローマ軍は幾度もパルティアの騎兵隊に破れており、彼らを恐れていたのです。それで、ユーフラテスからのおびただしい数の騎兵隊の出現という表現になったのかも知れません。

 けれども、17節以下に語られているのは神による裁きで、火と硫黄はソドムとゴモラを滅ぼしました(創世記19章24,25節、ルカ福音書17章29節など)。黙示録でも神が悪を罰する手段として用いられます(14章10節、20章10節、21章8節など)。

 騎兵隊の出現により、人間の3分の1が殺されたということは(15,18節)、第一の災いが「殺してはいけない」と言われていたのに対し、災いの度合いが高まったといってよいでしょう。

 ヨハネは冒頭の言葉(20節)と続く21節で、殺されずに残った人間について報告しています。ここで、これらの災いが、悔い改めへの神の招きとして理解されるべきこと、にも拘らず悔い改めようとせず、神ならぬ偶像、見ることも、聞くことも、歩くことも出来ない、人間によって作られたものに頼み続ける人間の愚かさが示されます。

 これも、出エジプト記7章3,4節などで、モーセの前に頑なになったファラオを思い出させます。悔い改めが出来ない、方向転換をすることが出来ないところが、神でないものに拠り頼んでいる者の特徴と言ってよいのかもしれません。

 それに対し、私たちを導いておられる神は、絶えず私たちを平安へ、希望へ、命へと導こうとしておられるのです。そこで必要なのは、悔い改めることです。悔い改めとは、神に心を向けることです。目に見えず触れることも出来ない神に心を向けるとは、神の御言葉を聞くことです。教会で、聖書から語られる説教を聞きましょう。聖書日課に従って聖書を読みましょう。

 そして祈ることです。神は、求める者に良いものをくださると約束されました(マタイ福音書7章11節)。私たちに良いものをくださる神様に心を向けて祈りましょう。そうすれば、神様がよいお方であることを味わうことが出来ます。

 主よ、ヨハネは、苦難の中で神に祈りをささげ、その応答の言葉を聞きました。困難な現実の向こうに、あなたの御手を見ることが出来ました。あなたの勝利を信じることが出来ました。私たちも、信仰に立ち続けることが出来ますように。御言葉に耳を傾け、その導きに従い続けることが出来ますように。感謝をもって祈りをささげ、よいもので満たしていただくことが出来ますように。 アーメン