「泣くな。見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」 ヨハネの黙示録5章5節

 ヨハネの黙示録を読み、理解する一つの方法は、天上の出来事と地上の人々の状況を対比して考えてみることです。たとえば、4,5章には、天上の玉座の間で行われている礼拝の様子が描かれていますが、地上では、ローマ皇帝ドミティアヌスを神として崇めさせる皇帝礼拝が、皇帝自らの発令で帝国内の民に強要されていました。

 2章13節に「サタンの王座」という言葉がありますが、皇帝礼拝を強要し、それを拒否する者を殺すというのは悪魔的な所行であり、それを命じた皇帝を神として拝ませているという非難の思いを込めた表現です。このような言葉遣いで、皇帝を神として礼拝することを拒否する姿勢を鮮明にしています。

 そして、4章11節で「あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」と賛美をささげて、本当に賛美されるべき方、信じて従うべき方は、天地を創られた唯一の神のみであるという信仰の宣言をしているのです。

 5章では、一つの巻物が話題になります。その巻物は、玉座に座っておられる方の右の手に握られており、表にも裏にも文字が書いてあると、1節に述べられます。そこに何が書かれているのか、本章では明らかになりません。巻物は「七つの封印で封じられて」(同節)いるので、巻物の表裏両面に文字が書かれていると分かったのは何故か、不明と言わざるを得ません。

 6章以下に、巻物の封印を一つずつ解く度に、起こる出来事が描写され、事態が進展していきます。そのことから、本章はその導入の場面として、非常に重要な位置を占めているということになります。

 玉座に座す神の右の手に握られた、表にも裏にも文字が記されている巻物について、エゼキエル書2章9,10節にその表現があり、ヨハネがここにそれを援用したわけです。エゼキエル書の巻物に書かれているのは、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(同10節)で、それはイスラエルの反逆の民に対する神の裁きを意味しています。

 その点は黙示録も同様で、封印が解かれるにつれて、不信の者たちに下される災いが現れます。一方、神の裁きは、信仰者にとっては、救いに近づくしるしとなります。その意味で、神の手に災いの記された巻物が握られているというのは、迫害下にあるキリスト教会にとっては、大いなる希望であり、励ましです。

 ところが4節に、封印された巻物を開くことの出来る者が見当たらないというので、「(著者の)わたし(ヨハネ)は激しく泣いた」という言葉があります。その巻物を封じている七つの封印は(1節)、玉座に座しておられる方の権威の完全さ、だれもそれを犯すことが出来ないということを示しています。

 封印を解いて巻物を開く者がいないことを嘆き悲しむのは、巻物が開かれないので、そこに記されている神の業が現実化しないということだからでしょう。ということは、ローマ皇帝によって迫害されているクリスチャンたちの苦難が、今後も続くことになると考えられ、ヨハネは全信徒を代表するかのようにして、泣いているのです。

 しかし、それは神の権威をもって封じられているのですから、人間がそれを勝手に開くことは許されていません。人間が神の計画を手に入れることは出来ませんし、言うまでもないことですが、神に代わってそれを実現することなど、とうてい出来はしないのです。

 ところがそのとき、冒頭の言葉(5節)のとおり、長老の一人がヨハネに「泣くな」と言いました。「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ」と言われるメシア・主イエスがその巻物を開くことが出来ると言われたのです。

 長老は「ユダ族から出た獅子」と言いましたが、そこに登場して来たのは「屠られたような小羊」(6節)でした。世の中は「獅子」を期待したのですが、「屠られたような小羊」の登場、それが神の計画でした。力で屈服させる王ではなく、人々を罪と死の恐れから解放するために、自らを犠牲とされる愛の王です。

 その愛の力は、死に打ち負かされたりしません。十字架で潰えてしまいませんでした。墓を打ち破って甦られました。このお方が、神の御手にある巻物の封印を解き、救いのご計画を進められる救い主として、私たちに与えられたのです。

 上述の通り、「獅子」ではなく「小羊」が登場してくるところに、この箇所のメッセージがあるでしょう。最も弱いと見えるものが、実は獅子よりも強いものなのです。

 四つの生き物と24人の長老たちは、聖なる者たちの祈りである公を入れた金の鉢と、竪琴を持って、小羊の前にひれ伏し(8節)、新しい歌を歌い始めます(9節)。主イエスのなされた業をほめ讃える賛美の歌です。

 この歌を記しているヨハネは、「彼らは地上を統治します」(10節)と言われているこの地において大変な苦難を味わっています。伝説に従えば、ヨハネはパトモス島に収監されている身で、喜んで歌を歌える、自由に主を礼拝することが出来るという環境にありませんでした。

 けれども、彼はこの地上において自分たちを苦しめているローマの支配の向こうに回し、天上の神の玉座と小羊なる主イエスを見て、罪と死に打ち勝ちって私たちを信仰に生かしてくださる主を、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」(12節)と、高らかに賛美しているのです。

 私たちもこのヨハネの信仰に倣い、イエスを通して賛美のいけにえ、即ち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。

 主よ、私たちに信仰をお与えくださって、心から感謝します。あのベートーベンが、耳が聞こえないというハンディキャップに打ち勝って交響曲第9番「歓喜の歌」を生み出したのは、このような信仰に学んでのものだと思います。私たちにも常に主を仰がせ、絶えず御名をたたえる新しい歌を神に献げさせてください。 アーメン