「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」 ヨハネの黙示録4章11節

 4章で場面は天上に移り、開かれた門が見えます。ヨハネは「ここへ上ってこい。この後必ず起こることをあなたに示そう」(1節)という声を聞きます。それは「あの最初の声」というので、1章10節で聞いた声のことでしょう。「ラッパのように響く」というのがその声の特徴で、声の主は、同12節以下の描写から、神の右に座す御子キリストでしょう。

 ヨハネは霊に満たされ、玉座の前に出ます(2節)。玉座に座しているのは、碧玉や赤めのうのような方です(3節)。碧玉、赤めのうは、旧約以来宝石として尊重されていました(出エジプト記28章17節以下、エゼキエル書28章13節など)。ここでは、神の高貴さを表現するために用いられているのでしょう。

 玉座に座しているお方について、イザヤ書6章1節以下、エゼキエル書1章26節以下に前例があります。特にエゼキエルでは、王座がサファイアのように見え(同1章26節)、腰のように見えるところから上は琥珀金が輝いているように見えたとあります(同27節)。これも、神の高貴さの表現でしょう。

 玉座の周りにエメラルドのような虹が輝いているというのは、創世記9章13節の契約のしるしとしての虹を思い出させますが、エゼキエル書1章28節に「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった」とあり、ヨハネもそれを考えての表現でしょう。「エメラルドのよう」というのも、同様に神の高貴さを表しています。

 玉座から稲妻、様々な音、雷が起こったというのは(5節)、出エジプト記19章16節などにある、シナイ山における神顕現の描写を思い起こします。モーセは、角笛の音が鳴らされたのに応えて山に登りました。ヨハネを天に招くラッパのような声は、それに対応していると見ることが出来ます。

 玉座の前の七つのともし火は(5節)、聖所に置かれた七つ枝の燭台(出エジプト記25章31節以下、40章4節など)を思わせます。また、玉座の前の水晶に似たガラスの海のようなものは、ソロモンが神殿の祭司の庭に置くために作らせた青銅の海(列王記上7章23節以下)を思い起こします。いずれも、神を礼拝する場所に置かれていたものです。

 ただ、「七つのともし火」は、「神の七つの霊」(5節)と説明されます。1章7節にも「玉座の前におられる七つの霊」とあり、これは、聖霊の表現と考えられます。ゼカリヤ書4章2節以下にも七つ枝の燭台の描写があり、それは「ゼルバベルに向けられた主の言葉」(同6節)で、それを「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(同6節)と説明します。

 玉座の周りの白い衣を着た24人の長老は(4節)、星座を神々とするバビロンの占星術と関係があるとする説や、神殿の祭司が24組に分けられていたことや(歴代誌上24章)聖歌隊も24組に分けられていたこと(同25章)に基づいているとする説、また、旧約の12部族、新約の12使徒の数を合わせた旧・新約聖書の代表者という説などがあります。それらが皆影響しているかも知れません。

 ネヘミヤ記9章6節には「天の軍勢はあなたを伏し拝む」と歌われており、玉座の周りに座しているのは、神に仕える天使たちと見ることもできそうです。また、イザヤ書6章2節以下、エゼキエル書1章5節以下によれば、玉座の周りの「四つの生き物」とは、セラフィムのことといってよいでしょう。そうすると、いずれも天的な生物ということになります。

 かくて、ここに描かれているすべてのものは、ヨハネを呼び出した神の御子キリストと玉座の前の「神の七つの霊」と言われる聖霊、そして玉座に座す御父なる神の権威、力、栄光を、天の玉座の前で賛美する表現ということになります。

 セラフィムなる四つの生き物が8節で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」と歌います。イザヤ書6章3節でセラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌った出来事の再現のようです。

 そして、24人の長老が玉座の前にひれ伏し、冠を投げ出して(10節)歌ったのが冒頭の賛美の言葉(11節)です。「ひれ伏す」のは相手への最大限の敬意を表す姿勢で、特に神礼拝を言い表すものです。「冠を投げ出す」のも、王に対する尊敬と服従を表す当時の習慣でした。

 ここで、「あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」とは、当時の賛歌の形式の一つだったと言われます。主なる神が賛美を「受けるにふさわしい方」として讃えられるということは、この地上の誰も、その栄誉を受けることは出来ないと言っていることになります。

 また、9節に「栄光と誉れをたたえて感謝をささげると」と言われていましたが、ここでは「栄光と誉れと力を受けるにふさわしい」と、感謝が力に置き換えられたようになっています。「力」は全能の神、万物の支配者としての力です。

 栄光と誉れと力とは、いずれも神に属するもので、神にそれらを与えることができるような者は、どこにも存在しません。「受けるにふさわしい」とは、「栄光と誉れと力」の唯一の所有者であるとの告白、賛美を受けるにふさわしい方だということです。

 唯一賛美を受けるに方である根拠として、「あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」と歌います。万物を創造され、御手の内にすべてを治めておられる方だからこそ賛美すべきであり、そのお方に信頼し、従うべきだというわけです。

 万物が神によって存在し、創造されたと天の玉座の前で歌われたこの歌が、地上ではどのように歌われるでしょうか。万事が順調に運んでいるときには、高揚した思いで歌うことが出来るでしょう。しかし、八方ふさがりのとき、抵抗できない力でねじ伏せられているとき、すべてが神によって造られ、神の支配の中にあると歌うのは、思うほど易しいことではないと思われます。

 けれども、ローマ帝国の圧倒的な権力と支配の前に、八方をふさがれ、ねじ伏せられているようではあるけれども、今ヨハネは、天において、万物は神によって創造されたものであり、すべて神に支配の下にあると歌う24人の長老の姿を見、その歌声を聞いています。そしてヨハネ自らも、この歌を共に歌っているわけです。

 ヘブライ書12章1,2節に「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉があります。

 旧約の証人たち、そして先に召された信仰の先達が、私たちにエールを送っていてくださるのです。常に主を仰ぎ、主に信頼して歩むとき、天の歌声を聞くことが出来るでしょう。そして、私たちも信仰によってその歌声に和すのです。

 逆に、私たちがどのような境遇にあっても主イエスを仰ぎ、賛美を歌うとき、天の軍勢もそれに和して天上と地上で主を讃える賛美の交換がなされるということも出来そうです。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰をもって、主をほめ歌いましょう。 

 主よ、ステファノは殉教直前、天が開かれて、立ち上がっておられる主イエスを見たと言いました。確かにあなたは、信仰の戦いの中にある私たちのために、立ち上がって応援していてくださると信じます。弱い私たちを助けてください。あなたをいつも見上げることが出来ますように。すべてを委ねて主をほめ歌うことが出来ますように。 アーメン