「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」 ヨハネの手紙三2節

 第三ヨハネ書は、「長老」ヨハネから「愛するガイオ」に宛てられた私信です。しかしながら、古くからこれも公同書簡に入れられて来ました。「ガイオ」について、新約聖書には、使徒言行録19章29節の「マケドニア人ガイオ」、同20章4節の「デルベのガイオ」、第一コリント書1章14節の「(コリント人)ガイオ」の三人がいます。

 ローマ書16章23節の「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオ」は、コリント人ガイオと同一人物でしょう。本書の宛先となっている「ガイオ」がその三人のうちの一人なのか、それとも4番目のガイオなのか、はっきりしたことは何も分かりません。ただ、長老ヨハネとの関係で、第4のガイオの可能性が最も高いと思われます。

 5節に「よそから来た人たち」という言葉があります。これは、単なる旅行者、転入者ではありません。7節に「御名のために旅に出た人たち」とあるように、彼らは各地の教会を旅しながら伝道牧会する巡回伝道者です。第二の手紙12節、本書14節の言葉から、長老ヨハネ自身も巡回伝道者の一人で、その中で指導的立場だったと考えられます。

 当時の教会は、現在のように屋根に十字架のついた礼拝堂が持っていたわけではありません。有力な信徒の家に集まって集会する、「家の教会」だったのです。

 第二の手紙10節に「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません」とありますが、これは、信仰のない人を家に入れるなということではありません。そんなことをすれば、近所づきあいも出来ません。

 そうではなく、キリストの真理の教えを携えて来ない偽預言者を教会の中に迎え入れてはいけないということです。それは、巡回伝道者の中に反キリスト、偽預言者がいて、偽りの教えに惑わされる信徒たちがいたわけです。だから、第二の手紙7節以下でそのことを警告していたのです。

 9節に「ディオトレフェス」という名前があります。前後の文脈から、彼も家の教会の家主の一人だと考えられます。彼が指導者になりたがっていること、長老ヨハネを受け入れようとせず(9節)、悪意に満ちた言葉でそしるばかりでなく、兄弟たちを受け入れないと言います(10節)。

 この兄弟たちは、5節の「兄弟たち、それもよそから来た人たち」のことで、彼らはヨハネが遣わした巡回伝道者たちでしょう。彼らを受け入れ、世話をしようとしている人たちの邪魔をし、自分の意に沿わない者を追い出しているというのですから(10節)、ヨハネの指導から離れ、教会を自分の意のままにしたかったのでしょう。あるいは、偽預言者の強い影響を受けていたのかも知れません、

 ヨハネはこの状況を放置することが出来ず、彼の指導に忠実なガイオに宛てて、この手紙を書いたわけです。ガイオはヨハネから「愛する(者)」(ホ・アガペートス)と呼ばれ、「わたしは、あなたを真に愛しています」(1節)とその信頼ぶりを表明されています。

 冒頭の言葉(2節)は、ガイオのためにささげられた長老ヨハネの祈りです。先ず、「あなたの魂が恵まれているように」と語られます。これは、ヨハネがガイオのために祝福を祈る根拠です。

 魂が恵まれているとはどういうことでしょうか。それは、信仰によるキリストの救いを受けて、神の霊的な祝福に与っていることでしょう。罪が赦され、神の子とされ、永遠の命をいただきました。そこに希望があります。平安があります。

 主イエスを信じたと言いますが、それは私たちの自発的な思いや考えから始まったことではありません。生まれながら主イエスを信じている人、キリストを信じてクリスチャンになりたいと思って生まれてくる人はいません。私たちを信仰に導いたのも、主なる神の働きです。

 第一コリント書12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と記されています。「イエスがわたしの主、わたしの神である」という信仰に導いたのは、聖霊と呼ばれる神であるということです。

 主イエスを信じ、受け入れた者には、神の子となる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。だから、神を「父」と呼び、御子イエス・キリストの名で「父」なる神に祈るのです。聖霊は、私たちが神の子であることを保証してくれます。

 ローマ書8章14~16節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神のことする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と言われているとおりです。

 続いてヨハネは、魂に恵みを受けた者が「すべての面で恵まれるように」(2節)と祈ります。「すべての面」に含まれないものはありません。魂や体という私たち自身のことだけでなく、日常生活、家庭や職場の人間関係、仕事や教育、経済の問題などあらゆる面を網羅しています。

 「恵まれる(エウオドオー)」とは、「よい道を行く」という言葉で、もともと旅が無事に終わることを意味し、「成功する、うまくいく」という意味で用いられます。新改訳聖書のローマ書1章10節に「道が開かれる」と訳されて用いられています(新共同訳は訳出していないようです)。魂が神の恵みで満ちているように、すべての面で成功するように、うまくいくようにと祈っているのです。

 清貧に甘んずることを尊しとする流れがあり、それを否定するものではありませんが、しかし、聖書の中に、すべての面で成功するように、恵みで満たされるようにという祈りがあることも、憶えておくべきです。勿論それは、私たちが自分の業績、持ち物など誇るためではなく、恵みを豊かにお与えくださる神の御名が崇められるためです。

 聖霊は、私たちのために、言葉に表せない切なるうめきをもって執り成し祈ってくださるお方です(ローマ書8章26節)。その執り成しの故に、父なる神が万事益となるように共に働いてくださる(同28節)と言われます。「益となる」のは、神のご計画の中で、神にとって良いことだからです。

 次にヨハネは、魂に恵みを受けた者が「健康であるように」(2節)と祈っています。体を健康に保つことも、信仰の重要な部分であることを知ります。魂が神の恵みで満ちているように、体が健康で満ちているようにと祈ります。ということは、体を欲に任せ、不義の道具として用いるということは、魂が恵まれていないということを表しているのです。

 世界最大規模の教会(信徒数約70万人)を創立されたチョー・ヨンギ牧師は、冒頭の言葉を「三拍子の祝福」と呼び、「三拍子の祝福は、私自身の信仰思想であり、福音宣教の哲学的土台でもあるのです」とその著書で仰っています。この御言葉と祈りの力で、教会が形成されたというのです。主の御名を崇めます。

 恵みを豊かに注ぎ与えてくださる主を仰ぎ、魂が恵みで満ちあふれるごとく、あらゆる面で祝福に与り、心も体も霊も常に健やかで充実した日々を過ごせるよう祈りましょう。

 主よ、私たちが絶えずあなたを仰ぎ、御言葉と祈りを通して、心と魂を恵みで満たしていただくことが出来ますように。そしてその恵みが生活のすべてを潤しますように。また、心と体に健康の恵みをいただくことが出来ますように。その恵みが福音宣教の前進のために用いられますように。そうして主の御名が崇められますように。 アーメン