「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。」 テサロニケの信徒への手紙二3章3節

 1節から、自分たちのために祈りを要請しています。まず「主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」(1節)と、宣教の働きが速やかに実を結ぶように祈りを願います。パウロは福音宣教に命を懸けていますが、宣教が進展して実を結ぶのは、聖霊の働きによるからです。

 そして、「わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように」(2節)と、祈りを求めます。それは、教会外の迫害者から守られるようにということもあるでしょう。しかし、「道に外れた」という表現から、偽りの福音を説く者が教会をかき乱している様子を伺えるように思います。

 そして、自分たちの宣教がそのような者に妨げられないように、さらに、自分たちがその誤りに陥ることがないようにと願います。パウロが福音を宣べ伝えるとき、抵抗に遭わずにすむということがなかったのです。また、自分の力で、知恵で、御言葉の上に正しく立ち続けることは誰にも出来ることではないとパウロは知っているのです。

 このように祈りを要請しながら、神がその祈りに必ず応えてくださるという確信が、パウロの心に満ちてきます。それが、冒頭の言葉(3節)の「主は真実な方です」(ピストス・エスティン・ホ・キュリオス the Lord is faithfull )という表現です。

 私たちは時に偽ります。裏切ります。そうしたいと思っているわけではなく、申し訳ないと思いながら、自分で約束したことを守れないことがあります。けれども、主なる神は、真実です。常に信頼に足るお方です。この信頼が裏切られることはありません。

 主の真実は、温かいものです。私たちが裏切り者でも、主は私たちを真実に愛し続け、恵み続けてくださいます(ローマ書3章4節参照)。もったいないほどの愛、恵みです。パウロは、主イエスを信じたときから、主の愛と恵みの中を歩み続け、その真実を味わい続けて来たのです。

 文脈上「主は必ずわたしたちを強め、悪い者から守ってくださいます」という表現になるところですが、ここでは「必ずあなたがたを強め」と言われます。神の真実に思いが導かれたとき、自分が恵みに与って来たように、「迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示している」(1章4節)テサロニケの人々に主の真実が示され、それによって強められ、守られるという確信が湧き上がったのでしょう。

 前に、一日5分、神の御声に耳を傾ける沈黙の祈りをしてみましょうとお勧めしました。そのことで、西南学院大学神学部教授のバークレー先生が、「静寂は聖化の試練である」という言葉を紹介してくださったことがあります。

 神の御前で静まる、沈黙の祈りをすること、つまり、自分の言葉を発しないで、神の御声に耳を傾けることは、私たちの生活を聖め、神に近づくために必要な試練、訓練であるというのです。静寂が試練と言われるのは、たとい声は発していなくても、沈黙していても、私たちの心は沈黙していない。私たちの心は様々な思いや考えに支配されて、本当に神の御前に静まっていないのです。

 黙祷していると、いつの間にか祈りでさえなくなっていることがあります。あらゆる思考を停止して、神の御前に静まり、ひたすら御声に耳を傾けるために、訓練が必要だということです。

 私たちが、どのようなときにも主に目を向け、その真実に心を留め、心静めて御声に耳を傾けるとき、その信仰を主が喜ばれ、必ず私たちを強め、悪い者から守っていただくことが出来ます。福音の前進のために、互いに執り成し、祈り合いましょう。

 主よ、全世界で福音宣教の働きについている伝道者、宣教師、牧師たちに、聖霊の力が絶えず豊かに注がれますように。彼らに託されている福音を正しく大胆に宣べ伝えることが出来ますように。主の御業が前進し、御名が崇められますように。そうして、私たちに神の愛とキリストの忍耐を深く悟らせてくださいますように。 アーメン