「しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。」 テサロニケの信徒への手紙二2章13節

 冒頭の言葉(13節)に「主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません」とあります。パウロは、始終主の前に祈る人でした。確かに彼は、使徒として史上最大の伝道者ですし、パウロほど深い思索をもって神学をした人も、それほどいないと思います。また優れた聖書学者でもあったと思います。

 しかし、見落としてならないのは、彼が祈る人であったということです。彼の伝道の力、そして、手紙に書き残した様々な教えも、その知性、知能によるところ小ならずとは思いますが、しかし、祈りを通して主なる神から授けられた力、知恵ではないかと思われます。

 そして、パウロが祈る祈りの特徴のひとつは、必ず感謝するということです。「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ書5章17節)というパウロは、「いつも喜んでいなさい」(同16節)、「どんなことにも感謝しなさい」(同18節)と語ることを忘れません。

 祈りに喜びと感謝を添えて、神にささげているのです。テサロニケの人々のために祈りをささげるときにも、「いつも神に感謝せずにはいられません」というわけです(13節、1章3節)。フィリピ書4章6節にも「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と記しています。

 感謝の言葉に続いて、「なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです」(13節)と、感謝の理由が述べられます。

 つまり、「聖なる者とする霊の力」と、「真理に対する信仰」によって、神がテサロニケの人々を御自分の民として愛し、選ばれたということです。ここに、三位一体なる神の働きが見られます。

 「聖なる者とする」とは、聖くする、聖化するという表現ですが、もともと、神のために区別するという意味です。神が私たちを御自分のために特別にお選びくださったということです。そして、私たちを神のために選び出し、聖なる者とするのは、聖霊の力です。

 また「真理に対する信仰」というのは、信仰を強調する表現です。「真理」については、様々な定義があると思いますが、聖書が語る「真理」について一言で言うならば、それは、主イエスのこと、主イエスこそが真理なのです。

 主イエスご自身が、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14章6節)と言われました。だから、「真理に対する信仰」とは、主イエスを信じる信仰ということになります。主イエスの御言葉に従って生きるところに真理がある、真実に生きる道がある、それを信じるということです。

 私たちは自分でその信仰を取得、獲得したのではありません。私も牧師になって30年あまりの間、様々な方が信仰に導かれ、バプテスマを授けさせていただく恵みに与りましたが、私の指導で人々が信仰を持つようになったというわけではありません。

 私自身、牧師の息子として生まれ、聖書が身近にあるという環境に育ちましたが、それゆえに、神の存在について今まで一度も疑ったことはありませんが、それでも、主イエスを信じてクリスチャンになろうというのは、私にとって当たり前のことではありませんでした。

 むしろ、中学1年生の春までは、なりたくないと思っていたのです。ところが、いつの間にかクリスチャンになりたいと思うように変えられました。意思をはっきりと表明したのは、中学一年の秋の特別伝道集会のときですが、講師の話を聞く前から、クリスチャンになろうと決めていたように思います。「霊の力」というように、聖霊なる神の働きによって信仰に導かれたということでしょう。

 であれば、神が働いて多くの人々を信仰に導き、主イエスを信じる信仰を授けてくださるように、絶えず祈らざるを得ません。そして、神がその祈りを聞いてくださるので、信仰に導かれる方が起こされ、喜びと感謝が溢れて来るのです。

 さらに、彼らは「救われるべき者の初穂として」神に選ばれたと言われます。「初穂」とは、その収穫を感謝して神に捧げるものです(レビ記23章10節など参照)。言葉の上では、いちばん最初に出た穂を「初穂」というのでしょうが、聖書では、最も善いものという意味であるといってよいでしょう。

 ですから、テサロニケの信徒たちが「救われるべき者の初穂として」選ばれたというのは、ギリシア、あるいはヨーロッパで救われた人々の中から選ばれて神にささげられた者と解釈出来、そして、彼らが選ばれたのは、ギリシア全土からヨーロッパ全体にキリストの福音がもたらされるためであるということなのです。

 神が彼らをお選びになった二つの手段、「聖なる者とする霊の力」と「真理に対する信仰」とは、今見てきたように、いずれも人が持ち合わせているものではありません。それは、神がお与えになる賜物で、選びの出来事すべてが神の恵みなのです。だから、祈りの度に神に感謝しているわけです。

 だから、祈りの度にテサロニケの人々と一緒に神の御前に立ち、神がテサロニケの人々をお選びになったこと、そのために霊の力と信仰の賜物をお与えになったこと、彼らが神の御前に招かれるために、パウロたちの福音宣教が用いられたことを(4節参照)、神に感謝しているわけです。

 とすると、15節以下の勧めと祈りは、テサロニケの人々のために語ると同時に、自分自身がそれに従って生きるためであるということになります。

 私たちも、神に愛され、選ばれた者として、置かれた場所・地域で、隣人の救いのために祈りつつ、聖なる生活と主イエスを信じる信仰によって、福音宣教の業に励みましょう。

 主よ、私たちの内を聖霊の宮としてお住まいくださり、その力をもって私たちを聖なる者としてくださること、また、絶えずイエスを主と告白しつつ従う従う信仰の導きを与えてくださることを、感謝します。私たちの遣わされている場所で、主の証人として福音宣教の使命をしっかりと果たすことが出来ますように。 アーメン