「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」 コロサイの信徒への手紙4章2節

 この手紙は、用語法や文法の特徴から、パウロが語った内容を聞き取ったテモテがこの手紙の執筆し(1章1節)、最後にパウロが署名をして(18節)、それをティキコに届けさせたものでしょう(7節)。ティキコはアジア州出身で(使徒言行録20章4節)、エフェソはアジア州の中心都市でした。ここでパウロと出会い、同労者となったわけです。

 ティキコにオネシモが同行します(9節)。オネシモは、フィレモン書で知られる人物で、フィレモンのもとから逃げ出してパウロのもとに身を寄せ、信仰の道に入り、コロサイのフィレモンのもとに送り返されました(フィレモン書12節)。そこから再びパウロのもとに遣わされ、今度はパウロの使者として、ティキコを連れてコロサイに戻るのです。

 10節に「バルナバのいとこマルコ」の名があります。第2回伝道旅行の際に、マルコのことでパウロとバルナバが衝突したという、いわく付きの人物でしたが(使徒言行録15章38節、13章13節参照)、長い年月を経て、このマルコがパウロにとって有用な協力者になったことを示しています(フィレモン書24節参照)。

 そしてアルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」(17節)と書き送ります。フィレモン書1,2節の宛名から、このアルキポはフィレモンの子なのではないかということと、コロサイ教会で伝道者として重要な役割を担っていたのではないかということが窺えます。

 「ゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と語るということは、アルキポが意気阻喪しているか、あるいは、その務めを軽んじているという様子を想像させます。それに対して、「主に結ばれた者として」それを行うようにと諭しているのです。

 ティキコを7節で「彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」と紹介し、アルキポのことを17節でに「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い」と語っています。かくて7節以下の段落は、最初と最後に「主に結ばれた」(エン・キュリオー)という言葉が出て来て、括弧で括ったような形になっています。

 これは、ティキコとアルキポだけのことでなく、「主を信じる者」(3章18節:エン・キュリオー)すべてが主に結ばれた者であり、各自が「主に結ばれた者として、ゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と語られているということを表しています。

 私たちが十字架につけられた主イエスを、私たちの救い主、神の御子であると信じることが出来たのは、聖霊の導きです。聖霊が私たちの内に満たされるというのは、キリストが私たちの内に宿られるということであり、それは、イエスこそ私たちの主であるという信仰に堅く立つことです。

 冒頭の言葉(2節)で「目を覚まして」というのは、聖書では通常、終末との関連で用いられます。「世の終わりが近づいているから気をつけて」という意味になります。「十人のおとめ」のたとえ(マタイ福音書25章1節以下)が、「目を覚ましていなさい」(同13節)という警告で締め括られていました。

 朝が来て陽が上り、明るくなると目が覚めます。私たちの心の目、信仰の目を覚まさせるのは、神の御言葉です。御言葉が開かれ、命の光に照らされると、心の目が開かれて来ます。詩篇119編130節に「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」と詠われています。

 そして、今がどのようなときなのか、何をすべきなのかを教えてくれるのです。御言葉に耳を傾けず、祈りもしないというのは、それは信仰的に「とき」を弁えていない、霊的に眠り込んでいるということになります。目を覚ますことが祈ること共に語られているのは、ひたすら祈ることが、目を覚まして主を待つ正しい姿勢だからです。

 「ひたすら祈りなさい」というのは、「祈りに専念しなさい、絶えず祈り続けなさい」ということです。「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ書5章17節)という言葉もあります。どうすれば、ひたすら祈れるようになるのでしょうか。24時間365日、不断の祈りが出来るでしょうか。それは、人間には無理なことのように思われます。

 けれども、もしそれが不可能なことであるならば、どうして「ひたすら祈れ」、「絶えず祈れ」と命じているのでしょうか。少なくとも、手紙の著者はそれが出来ると考えているのです。どうすればよいのでしょう。

 一つは、私たち弱い者のために、私たちの内におられる聖霊が、私たちのために執り成しの祈りをしておられることを覚えましょう(ローマ書8章26,27節)。私たちを守る神は「まどろむことなく、眠ることもない」(詩編121編4節)お方ですから、不断の呻きの祈りをささげて、万事が益となるように働いておられるのです。

 さらに、もう一つ。不断の祈りを一人の人間が行うのは、現実的には上記の通り無理かもしれませんが、他の人に祈りの応援を頼んだらどうでしょう。一方が眠っている間、他の人が目を覚ましているというかたちで、お互いのために祈るのです。

 パウロも「ひたすら祈りなさい」と言った後に、「わたしたちのためにも祈ってください」(3節)と祈りを要請しています。お互いに祈り合うことを通して、そのような祈りの交流を通して、不断の祈りが神の前にささげられることになるのです。

 神に心を向けて祈ろうとするとき、私たちのために不断に執り成し、万事を益としてくださる聖霊の働きを思い、また、お互いのために祈る信仰の仲間のあることを思うと、心に感謝と賛美が湧き出して来るでしょう。パウロがここに「感謝を込め、ひたすら祈りなさい」というのは、そのことではないでしょうか。

 絶えず主を仰ぎ、御言葉を求めて祈りましょう。そうして感謝と喜びに満たされましょう。主は、求める者に必ず良いものをくださいます(マタイ福音書7章11節)。そう信じるからこそ、目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈るのです。

 主よ、毎日の慌しい生活の中で祈りはしますが、いつの間にかその祈りから、神を慕い求め、喜びをもって御言葉に聴き従う思いが失われています。やがて、祈らずに忙しく走り回っている自分を見出します。御言葉と祈りを通して、いつも目覚めさせてください。主の御心を心とすることが出来ますように。 アーメン