「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」 コロサイの信徒への手紙2章3節

 1~5節は、1章24~29節で語っていた使徒としての務めを、コロサイの人々に対するものとして描写しています。1章27節で「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内にいるキリスト、栄光の希望です」と、異邦人一般に対するものとして語っています。

 それを「わたしがあなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して戦っているか、分かって欲しい」(1節)と言い、続けて「それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです」(2節)と告げます。

 使徒として世界に福音を宣べ伝えるというのは、様々な人々と実際に出会い、そこで多くの困難や苦労、苦痛、苦悩を味わいながらも、しかし喜び多き務めです。ここに「あなたがた」というコロサイの信徒たちに並んで「ラオディキアにいる人々」に対しても語られているということは、二つの教会が距離的に近いこともあり、同じような問題に直面しているということなのでしょう。

 パウロは冒頭の言葉(3節)のとおり「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と語ります。ということは、知恵と知識の宝が欲しい人は、キリストに注目し、キリストに関心を寄せ、その御言葉に耳を傾けなければならないということです。

 「キリストの内に隠れている」ということは、人間が自分でそれを獲得しようと思っても、それで自分のものにすることは出来ないということです。一方、キリストは、ご自身が内にもっておられるこの宝を、自由に与えることが出来るのです。そして、キリストを信じる信仰によって、その宝をいただくことが出来ます。キリストが私たちの内に住まわれるからです(1章27節)。

 パウロがこのことをここに書き記したのは、コロサイ教会の信徒たちが、「巧みな議論にだまされないようにするため」(4節)です。「巧みな議論」(ピサノロギア)とは、「説得力がある」(ペイソス)と「言葉」(ロゴス)との合成語です。

 コロサイ教会の指導者エパフラスは、危険な異端の教えが教会に侵入してきたとき、それに脅威を感じて、獄に囚われている使徒パウロに指導を仰ぎました。ということは、教会内に「巧みな議論」の罠に落ちた人が少なくなかったものと考えられます。それによって、彼らはキリストの言葉から離れ、説得力のある魅力的な指導者の言葉に耳を傾けるようになったのでしょう。

 しかし、いかに説得力があり、魅力的であっても、そこに命がなければ、それが真実でなければ、結果は空しいものになります。「巧みな議論」を8節では「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまりむなしいだまし事」と言います。それは人の言い伝えにすぎず、また人が思索を重ねた「哲学」であって、キリストに根ざした真理では有り得ないのです。

 かつて、神の造られた野の生き物のうちで最も賢い蛇が、人を惑わしました(創世記3章1節以下)。女は蛇の語った「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」(同4,5節)という言葉を真に受けて、取って食べるなと命じられていた善悪の知識の木の実を食べ、男にも渡して食べさせました(同6節)。

 その結果、彼らは裸であることを知り、腰を覆うためにイチジクの葉を綴り合わせました(同7節)。そして、主なる神の足音を聞いて、神を恐れて身を隠しました(同8節)。そのことを神に問われて、「恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(同10節)と答えます。それが、「目が開け、神のように善悪を知るものとなること」なのでしょうか。

 パウロは、異端の「巧みな議論」によって神の顔を避け、キリストの御言葉に背いて信仰から離れるような空しい結果にならないように、むしろ、キリストの内に隠されている知恵と知識の宝を、キリストを信じる信仰により、恵みとしてしっかりと受け取るように、教え諭しているのです。

 そもそも、異邦人であったコロサイの教会の信徒たちが主イエスの福音を信じることが出来たのは、神の愛、キリストの恵み、聖霊の導きの賜物でした。神が私たちにお与えくださるものが、私たちにとって最善の宝物であると信じ、受け止めることの出来る人は、本当に幸いです。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節、申命記8章3節)と言われます。神の御言葉こそ、私たちに命を与え、力を与える生きたパンなのです。御言葉によって、私たちの必要の一切が創造され、豊かに注ぎ与えられるのです。

 御前に謙り、日ごとに主の御言葉の恵みに与らせていただきましょう。御言葉を通して、主イエスを信じる信仰に、さらに深く進ませていただきましょう。私たちの内におられるキリストこそ、栄光の希望だからです。

 主よ、弱い私たちを憐れんでください。御言葉と霊の恵みをもて、日々養ってください。主イエスに堅く結ばれ、御言葉を信じて前進させてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心を行うことが出来ますように。 アーメン