「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」 エフェソの信徒への手紙6章11節

 エフェソ書の手紙の最後に、「悪と戦え」という小見出しのつけられた段落(10~20節)があります。その戦いとは、冒頭の言葉(11節)に「悪魔の策略に対抗して立つ」とありますし、12節では「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と記されています。

 信仰の戦いの相手は、どこの誰とかいう特定の人物などではありません。無論、犬や蛇などといった類の動物でもないのです。「悪魔 the devil」、「暗闇の世界の支配者 the rulers of the darkness of this world」について、2章2節に「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」と記されていました。

 悪魔は、悪魔という顔や姿形をし、あるいは悪魔という名札をつけて、私たちに近づいて来るわけではありません。「悪魔の策略」と言われるように、私たちを主なる神から遠ざけて背かせるため、様々な策を弄して滅びを招くようにするということです。

 悪魔の策略に陥らず、暗闇の世界の支配者に対抗するため、冒頭の言葉(11節)のとおり「神の武具を身に着け」ましょう。それは、「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け」(14節)、「平和の福音を告げる準備を履物とし」(15節)、「信仰を盾として取り」(16節)、「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取」(17節)ることです。

 「武具」と言われていますが、真理や正義、平和の福音、信仰、救いは、主イエスを信じる信仰によって与えられるもの、主イエスに結ばれ、主イエスの内に、主イエスと共に生きる私たちに備えられるものであり、それゆえそれは、人を傷つけ、人を害するものなどではありません。

 「身に着ける」ということについて、4章23,24節に「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」とありました。これは同21節の「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスのうちにあるとおりに学んだはずです」を受けて語られています。

 同23節の「あなたがたの心の底から」は、「心の霊において」(新改訳)という言葉です。この霊は、私たちのうちに住まわれる「神の霊」と考えられるので、岩波訳のように「あなたがたの思念〔を規定する神〕の霊でもって新しくされ」と訳すほうがよいのではないかと思われます。即ち、私たちを新しくするのは、神の霊の働きだということです。

 同24節の「新しい人を身に着け」は、不定過去時制・受身形です。ですから、「新しい人を身に着けさせられた」ということになります。つまり、「これから新しい人を身に着けなさい」と言っているのではないのです。そうではなく、福音を聞いてキリストを信じたとき、新しい人を着せていただいたことを学んだはずだ、それを思い起こしなさいと言われているのです。

 これは、同22節の「古い人を脱ぎ捨て」も文法的に同じ形で、古い人を脱ぎ捨てさせられ、新しい人を着せられたということを学んだはずだということになります。バプテスマによって古い自分に死に、キリストに結ばれて新しい命、新しい人生が始まったことを、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着せていただいたと表現しているのです(ローマ書6章3,4,8,11節参照)。

 また、この「新しい人」は、「神にかたどって造られた」(4章24節)者です。創世記1章によれば、すべての人が神にかたどって造られました。しかし、人は「情欲に迷わされ、滅びに向かって」(4章23節)しまいます。そこで神は、「真理に基づいた正しく清い生活を送るように」(同24節)キリストに結ばれ、キリストと共に生きるように新しく造ってくださったのです。

 武具のリストの最後に、「祈り」を加えます(18節以下)。祈りこそ、私たちに与えられた最強の武器です。祈りを通して主の御心に触れ、主の御腕を動かし、それによって悪魔の策略を打ち砕くことが出来るのです。

 以前、こういう話を聞きました。それは、牧師がある方の家を訪ねたところ、お孫さんが誤って階段を転げ落ちたそうです。そのときお嫁さんが「イエス様、イエス様、イエス様、イエス様」と叫びながら降りてこられたというのです。幸い、お孫さんに大事はなかったそうですが、そのときのお嫁さんの「イエス様、イエス様」という叫び声に感心されたという話です。

 危急のとき、とっさのときには、常日頃考えていること、習慣化しているものが飛び出してくるでしょう。そんなとき、自分ならどうするでしょうか。「きゃー」とか「お母さん」などと叫ぶのでしょうか。ただおろおろするだけかもしれませんね。

 そのお嫁さんは、常日頃から「イエス様、イエス様」と主イエスを呼び求めること、主イエスと交わることを大切にしておられるので、子どもの一大事に「イエス様」と呼ばれたわけです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ書10章13節)というので、その叫び声で坊やが守られたのかもしれません。

 これは、出来れば身に着けたい、よい習慣だと思いませんか。今日から実行してみましょう。そのようにして常に主イエスを信じ、主を見上げ、確信をもって大胆に神に近づかせていただきましょう。

 主よ、私たちに憐れみと祈りの霊を注いでください。祈りを通して、絶えず私たちを真の悔い改めに導き、御言葉に従う従順な心を与えてください。主の御心を深く知ることが出来ますように。どんなときにも信仰をもって御前に祈り、主に依り頼みます。あなたの偉大な力によって力づけてくださり、信仰にしっかり立つことが出来るように導いてください。 アーメン