「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」 ガラテヤの信徒への手紙6章2節

 11節に「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」とあります。これは、恐らくこの直前まで、つまり6章10節まで口述筆記をしていたのですが、ここからパウロ自身が筆を取り、大きな字で書き始めたということを表しています。「結びの言葉」だけは自ら筆をとり、それをガラテヤの人々に分かってもらいたいと考えたのでしょう。

 というのは、4章15節の「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです」という言葉から、パウロの目が悪くなっていたと考えられ、そのために、パウロに代わってパウロの語る言葉を手紙に認める人がいたわけです。

 けれども、パウロが自ら筆を取り、それを特記するということは、ここに記す内容をきちんと受け止めてもらいたいということでしょう。目が悪くて、大きな字でなければ自ら確認できなかったとも考えられますが、字の大きさは、いちいち断らなくても、見れば分かります。手紙を朗読する者にも、それを聴く聴衆にも、ここに記す重要性を強調するために、大きな字で書いていると解釈すべきです。

 パウロはこの手紙で、人が救われるのは、律法の実行ではなく、イエス・キリストを信じる信仰によることを、繰り返し述べて来ました(2章16節、3章2,3,26節、5章5,6節)。敵対者は、割礼を受け、安息日を守り、立法を行うことによって、より成熟した信仰を持てると説いていたのです。

 敵対者たちがガリラヤの人々に割礼を受けさせることで自らを誇ろうとしていることを、「あなたがたの肉について誇りたい」(13節)という言葉で示しています。つまり、自分の指導に従って異邦人が割礼を受けたということで、それを自分自身の誇りとするというわけです。

 それに対してパウロは、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)と言います。十字架に架けられた主イエスは、言ってみれば、弱さそのものでした。十字架は、この世が主イエスを否定して殺害したところです。

 そこでは、何の奇跡も行われませんでした。水をぶどう酒に変え、嵐の海の上を歩き、荒れる波と風をしかって凪にされたような、また、あらゆる患いを癒し、悪霊を追い出し、就中、死者を甦らせるというような驚くべき御業を、十字架では示されませんでした。

 無抵抗で捕えられ、無実の罪で訴えられ、一方的に裁かれ、そして鞭打たれ、嘲られ、侮辱されるままに、十字架を担いでゴルゴタの丘まで引いていかれ、手足を十字架に釘づけられて磔となり、御自分のためには何の御業もなさらないまま、ピラトが不思議に思うほどにあっけなく息を引き取られました(マルコ14章46,55,64,65節、15章22,29~32,44節、ヨハネ19章17節)。

 ファリサイ派の一員としてユダヤ教主義に生きていたパウロも、はじめは主イエスを否定し、キリスト教会を迫害していました。「木にかけられた者は皆呪われている」(3章13節)と書いてあるので、主イエスは神に呪われた者であると考えていたのです。

 しかし、主イエスはそのパウロを拒否なさいませんでした。むしろ、深い愛をもってその罪を赦し、使徒として選び立てられました。キリストが呪われた者となったのは、私たちの代わりに呪いを受け、私たちが律法の呪いから解放され、救われるためだったのです(3章13節)。

 つまり、神の呪いとしか見えなかったキリストの十字架が、自分をあらゆる呪いから救い、解放する神の力であるというのです。そのことをパウロは、甦られた主イエスとの出会いを通して、聖霊の導きによって示されたのです(1章12節、3章1,2,5,14節、4章6節、使徒言行録9章参照)。

 パウロは、「御霊の導きに従って前進せよ」(5章25節)と勧めていたことを、生活に具体的に適用するよう促します。そこで、冒頭の言葉(2節)に「互いに重荷を担いなさい」と語られています。

 ここで言われている「重荷」(バロス)は、1節の「罪」(パラプトーマ:「過ち、違反」)を言い換えたものです。つまり、隣人の罪、弱さに同情するというだけではなく、隣人の罪を自分の罪、弱さとして引き受けることです。

 それは、罪を贖うということではありません。私たちはキリストではありませんから、隣人の罪を贖うことは出来ません。私たち自身も、罪を贖っていただかなければならない罪人だからです。それが出来るのは、罪のない神の御子キリストだけです。

 弱さを引き受けるとは、互いに弱さを認め、隣人と共に罪と戦い、互いに執り成し祈り合うことです。私たちは互いに重荷を担うように召されています。ということは、自分自身も隣人に重荷を担って頂かなければならない、隣人の助けを必要としている存在であるということです。

 確かに神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2章18節)と言われました。助ける者がいない孤独な状態は、神の御心ではないということです。そして、助ける者自身も、助ける者を必要としている人です。

 ただ、忘れてならないのは、聖書が語る「助け」は、人からではなく、「天地を造られた主のもとから」(詩編121編2節)来るのです。主が助ける者であられるからこそ、私たちのために必要な「助ける者」をお与えになられるのです。

 逆にいうならば、私たちは、信徒同士、家族同士、神がお与えになった「助ける者」であることを知らなければなりません。そこに私たちの使命があります。5節で「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」と言います。ここに言われる「重荷」は2節のものとは異なり、「フォルティオン」という言葉が用いられています。それは、義務や責任、使命を指す言葉です。

 あらためて、「互いに」(アレーロス)は、「他」(アロス)という言葉から出来たと言われます。他人であった者が関わり合うときに、「お互い様」になるわけです。

 「互」という漢字は、二本の竹ざおに縄をかけてねじり合わせた形から造られました。離れて相対しているものが組み合わされることを示します。ある方が、これは、カスガイを相互に打ち込み合っているかたちであると言われました。

 カスガイというのは、鎹という字を書きますが、土台のつなぎ目や梁と柱などをつなぐために打ち込む「コの字型をした金具」のことです。相手にカスガイを打ち込み、自分もまたカスガイが打ち込まれる。その痛みを受け止め合ってはじめて、「お互い」ということが分かるという話です。

 それは、実際に傷を受け、双方が血を流す必要があるということではないと思います。他者と重荷を共に担い、それをお互い様、お蔭様と思うことが出来れば、重荷を担う痛み苦しみは、独りで、時には孤独に担うときとはまったく違ったものになるでしょう。

 そして、私たちはその痛みを主イエスのところに持って行きます。主イエスが、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさいと招いておられるからです(マタイ福音書11章28節)。そこで、重荷を全部主イエスに背負わせて、一件落着となるのではありません。主イエスと共に、主の軛を負うのです。

 その軛は負い易く、その荷は軽いと言われます(同11章30節)。重荷を担うためにふさわしい道具が用意され、そして主と共に担うとき、それは担いやすい、担うのが楽な、あるいはもっと積極的に、担うのが楽しい、嬉しい、そういう真の安息、喜びが与えられるのです。

 主のもとで、主の柔和と謙遜を学ばせていただきましょう。

 主よ、私たちの罪の一切の重荷を主イエスが担ってくださり、感謝いたします。その恵み、喜びを味わっている私たちが互いに隣人の弱さを担い合い、祈り合い、助け合うことが出来ますように。そのために、御霊の導きに絶えず与らせ、わたしたちの心に神のご愛を注ぎ満たしてください。 アーメン