「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」 ガラテヤの信徒への手紙4章6節

 キリストを信じる信仰により、キリストに結ばれて神の子とされた者は(3章26節)、アブラハムの子孫であり、約束の相続人でもあります(同29節)。即ち、神の子どもとして、神の持てるすべてのものを受け継ぐ資格が与えられているということです。

 当然のことながら、私たちは「神の子」ではありません。ですから、相続人になれるはずもありません。神が私たちを養子にしたくなるような才能や特質を備えているわけでもありません。その行いが倫理道徳的に、宗教的に聖く正しいわけでもありません。むしろ、神を知らず、神に背いて歩き続けている存在でした。そんな私たちが神の子とされるのは、神の一方的な恵みです。

 ガラテヤの人々は、どのようにして神の子になったのでしょうか。それは、私たちとなんら違いはありません。彼らは、アブラハムの子孫ではありません。旧約聖書の律法とも無縁の生活をしていた人々です。その人々に、パウロがキリストの福音を伝えました。そして、導かれて彼らはキリストを信じる者となったのです。そして、その導きをお与えくださったのが、恵みの神ご自身なのです。

 初めてキリストの話を聞いて、すぐに信じることが出来る民族、氏族というものなどありません。なぜキリストを信じることが出来たのか、理路整然と話せる人のほうが少ないと思います。大多数の人が自分でキリストを信じたくて、信じようとして信仰に入ったのではなく、様々な人や出来事との出会いの中で、信仰を持つように導かれたとしか言いようがないという状況だと思います。

 イスラエルの人々は、アブラハムの子孫たるしるしに割礼を受け、律法を守ります。しるしが与えられることは、悪いことではありません。けれども、私たち人間には、そのしるしを他の人よりも大きく見せたいという誤った思いが働きます。神の子とされている喜びよりも、だれよりも律法を熱心に守っている自分の行いを誇り、律法を守ろうとしない者を裁こうとします。

 ガラテヤの人々を惑わしているのも、そのような思いです。自分の救いをより確かにするために、割礼を受け、律法を厳格に守れと教える人が教会にやって来て、それに従う人々が出て来たわけです。律法が生活の基準になるとき、自分の行いが律法に適っているかどうかが誇りの基準となります。律法の行いによって、むしろ神に目を向けることが妨げられてしまいます。

 冒頭の言葉(6節)で「御子の霊を、わたしたちに送ってくださった」(God has sent forth the Spirit of His Son into your hearts)という表現は、4節の「御子を・・お遣わしになりました」(God sent forth His Son)という表現と非常によく似ています。どちらにも、「遣わす」(アポステッロー)の過去形の動詞が、「神」(ホ・セオス)という主語の前にあります。

 御子キリストをこの世に遣わされた神が、私たちの心に御子の霊を遣わされたという表現で、あのゴルゴタの丘でキリストが十字架につけられた出来事が、私たちを贖う神の救いの御業であるということを示し、私たちが神の子とされる保証として、「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊をいただきました。聖霊の働きで、私たちは御子キリストを信じることが出来たのです。

 私たちを贖ってくださった神は、私たちを奴隷、下僕とされたのではなく、神の子としてくださいました(7節、ローマ書8章15節)。これは、考えられない恵みです。理解を超えています。どうして、人間が神の子になることが出来るのでしょうか。理屈は分かりませんが、そのように神は私たちに愛を示されました。「神は愛です」と言われる通りです(第一ヨハネ書4章7~10,16節)。

 神の愛を受け、キリストの御霊に覆われた私たちの心から、「アッバ、父よ」(6節)という叫びが生じます。「アッバ」とは、「父よ」というアラム語です。これは、父上様というような格式ばった表現ではなく、幼児が父親を「父ちゃん」と呼ぶ言い方です。

 「アッバ」は、主イエスが父なる神を呼ばれる際の、親密さを表す表現だったので、当時の信徒たちはそれをそのまま自分たちの祈りのときに用いたようです。そして、それは「父よ」という意味だということがアラム語を理解していない人々にも分かるように、原典ギリシア語の「ホ・パーテール」と併せて「アッバ、父よ(ホ・パーテール)」という表記になったわけです。

 これは、単に神をそう呼ぶということ以上の、重い意味があります。というのは、父親に対して「アッバ」と呼べるのは、実の子どもだけだからです。私たちは、自分で神を「父」とは呼べません。しかし、神が遣わしてくださった御子の霊が、私たちに「アッバ゙、父よ」と神を呼び求める叫びを与えてくださいました。

 そして、その叫びが与えられたということは、その叫び声を上げることが許される親密な関係に入れられたということであり、神がその叫びに耳を止めて、「子よ、なにか用か」とその叫びの祈りに答えて、私たちに必要な一切のものを豊かに授けてくださるということです。

 このことは、上記ローマ書8章15節に「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記されています。

 そして、同26節で「同様に、霊もわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」という御霊の執り成しの祈りについて言及しています。

 さらに同32節には「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言われるのです。

 私たちが心から、「アッバ、父よ」と叫ぶとき、私たちは神の子であり、だから、神の恵みの資産を受け継ぐ相続人であることになります(7節、ローマ書8章17節)。神の資産は無限大です。無限大は、どれほど多くの人と分け合っても無限大です(∞/n=∞)。その恵みに与らせようと、主なる神はこの世に御子を遣わし、御子の霊を送って私たちを信仰に導いてくださいました。

 主の恵みに感謝し、その恵みを無駄にしないように、「アッバ゙、父よ」と神を呼び求めつつ、その御旨を行う者にならせていただきましょう。

 天のお父様、資格のない者に対して一方的な恵みをもって「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を授けてくださり、心から感謝します。しかし、そのためにキリストが贖いの供え物となられたことを厳粛に受け止めます。どうか私たちを、神の子どもに相応しく、恵みによって整えてください。信仰によって福音に生きることが出来ますように。 アーメン