「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした。」 ガラテヤの信徒への手紙3章14節

 新共同訳聖書は最初の段落(1~14節)に「律法によるか、信仰によるか」という小見出しをつけています。パウロはこの段落を「ああ、物分かりの悪いガリラヤの人たち」(1節)という言葉で語り始めます。

 その物分かりの悪さは、単なる無理解、無分別というのではありません。「だれがあなたがたを惑わしたのか」(1節)と言われます。正しい判断を失わせるという言葉です。キリストの恵みから「ほかの福音」に乗り換えようとしていること、即ちキリストを信じる信仰による救いを、律法の行いと取り替えようとしていることを、そのように言い表しているのです。

 その際、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(同節)と言います。「十字架につけられた」(エスタウローメノス)は現在完了分詞ですから、正確に訳せば「十字架につけられてしまったままの」(岩波訳)ということになります。2章19節の「共に十字架につけられています」(シュネスタウローマイ)も現在完了形でした。

 十字架につけられてしまったままのキリストは、律法の呪いそのものです。「木にかけられた者は皆呪われている」(13節)と書かれてあるからです。これは、申命記21章23節からの引用です。つまり、キリストは、私たちのために「呪い」そのものとなられたということです。

 「呪い」そのものとなられた主イエスは、その命をもって私たちを律法の呪いから贖い出し、解放してくださいました。主イエスを信じる信仰に生きる者は、アブラハムの子として(7節)、義とされる恵みに与ることが出来ます(8節)。

 そのことが、冒頭の言葉(14節)で「アブラハムに与えられた祝福が、イエス・キリストにおいて異邦人に及ぶ」と表現されています。神がかつてアブラハムと結ばれた約束が、いまだ反故にされてはいない、いえ、有効に働いているということです。

 その約束とは、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12章2,3節)というものです。

 パウロは最後の「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という言葉を、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」(8節)と引用しながら、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、アブラハムに予告されたのだと語っています。ところが、そのような約束にも拘らず、異邦人は割礼がなく、律法を守らない「罪人」として、ユダヤ人によって神の祝福から締め出されて来ました。

 ところが、割礼を受け、律法を与えられているユダヤ人も、律法の行いによっては義とされませんでした(2章16節)。パウロは、「律法の実行に頼る者は誰でも、呪われています」(10節)と言います。

 律法を文字通りに行うという点では、パウロは自分でも「非のうちどころのない者」(フィリピ書3章6節)と語ることができました。しかしながら、その行いによって教会の迫害者となり、神のみ旨に背くものとなったのです。パウロは11節で「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)との預言を引用して、人を義とするのは、神への信仰だけであることを示します。

 そのように書いてある預言をパウロが見出したという背景には、律法に込められている神の御旨、神の御心を完全に行うことは出来ないことを、パウロが悟ったということがあるでしょう。つまり、救いを人間が作り出すことは出来ないということです。

 そして、律法を守ることが出来ない者は呪われるという掟(申命記27章26節)から、人間は律法を絶えず完全に守ることは出来ないので、すべての人間にとって律法が呪いとなるというわけです。そのことについて、ローマ書3章9節以下でも詩編14編1~3節の言葉を引用しながら、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」と結論しています。

 その律法の呪いをキリストが引き受け、祝福に変えてくださいました。キリストは、律法を完全に行われた唯一人のお方です。そのお方が何故、神の呪いを受けられたのでしょうか。それは、律法を守ることではだれ一人祝福に与ることが出来ない、その律法の呪いを身に引き受け、その贖いによって、すべての人に祝福が及ぶようにするためだったのです。

 さらにパウロは、キリストの十字架によって贖われたのは、「わたしたちが約束された霊を信仰によって受けるため」(14節)と語ります。「約束された霊を受ける」というのは、神の子どもとされるということです(4章4,5節参照)。

 そして、ガラテヤの信徒たちは、彼らがパウロの十字架の福音を聞いて主イエスを信じたとき、御霊の臨在が現れ、霊の賜物による奇跡的な出来事、たとえば癒しや悪霊追放という出来事がその集会の中で行われたのです(2,4,5節)。その御業が現れたのは、彼らが主イエスを信じたからです。

 そして、主イエスを信じるならば、ユダヤ人と異邦人の区別なく、つまり、異邦人がユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなくても、アブラハムの祝福に与れるわけです。ゆえに、神の祝福の道を歩むというのは、律法を守ることではなく、主イエスを信じる信仰の道を歩むことなのです。

 十字架の主を信じて仰ぎつつ、絶えず主の御言葉と聖霊の導きに与り、アブラハムの子として信仰の恵みを周囲の人々に証しする者とならせて頂きましょう。

 主よ、私たちの歩みはすぐに自己中心的になります。人の目が気になり、もっとよく見られたいという自分の欲望が顔を出します。そうして、十字架の主を仰ぎ、主の御言葉に従うという信仰の道からそれてしまうのです。絶えず聖霊の助けによって御言葉へ、祈りへと導いてください。力を得て主の証人とならせてください。 アーメン