「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」 ガラテヤの信徒への手紙2章20節

 15~21節に「義とされる(ディカイオオー)」という言葉が4回(16節に3回、17節に1回)出て来ます。因みに21節で「義とされる」と訳されているのは、「義」(ディカイオシュネー)という名詞です。その箇所を直訳すると「もし義が律法によって〔与えられる〕なら、キリストは無駄に死んだことになる」という表現になります(岩波訳参照)。

 「義とされる」は法廷用語で、裁判官が被告に「あなたは無罪だ」と宣告することです。それによって、被告は晴れて留置場を出て、家庭に戻ることができます。それが、ここに用いられているのは、神との関係がもとに戻った、正しくなったということを意味します。

 しかしそれは、人の振る舞いの正しいことが証明されたということではありません。人間が神の義を作り出すことは出来ません。16節にあるとおり、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」のです。イエス・キリストへの信仰によってのみ神の義が与えられるということは、神の義は、神の恵みによって与えられる贈り物だということです。

 本来は神の御前に有罪で処刑されるはずだった私のために、神の御子キリスト・イエスがその身を十字架にささげられ、私の罰を身代わりに受けてくださいました。その贖い、キリストの命の代価によって、私たちは義とされ、神の子として生かされているのです。私たちが信仰によって義とされるとは、神の恵みによって救われることを意味しているといってもよいでしょう。

 19節に「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と記されています。キリストを信じる者となった今、パウロは律法によってではなく、キリストの恵みにより、キリストへの信仰によって生きる者となりました。そのため、キリストが律法によって呪われ、十字架に殺されたように、パウロ自身も律法によって死んだ者となったというわけです。

  さらに「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(同節)と言います。「共に十字架につけられている」(シュネスタウローマイ)というのは完了形で、「一緒に十字架につけられたままである」という意味です。3章1節にも「十字架につけられた(ままの)」(エスタウローメノス)という表現があります。

 勿論、キリストは既に死んで葬られ、三日目に甦られ、そして天に上られました。しかしながら、十字架に死なれたキリストとの出会いを経験したパウロは、キリストの死が自分のためであることを知り、迫害者からキリストの伝道者と変えられた今、十字架はキリストと共に神の使命に生きることを現す表現となったのです。それで、「キリストと共に十字架につけられた(まま)」というのです。

 冒頭の言葉(20節)で「わたし」と語られているのは、パウロ自身を示しています。しかし、これを読むすべての人がこの「わたし」に自分自身を読み込むことが許されています。ここに記されているパウロの言葉は、私たちが共通して味わうことの出来る経験、神様から私たちに与えられた恵みなのです。

 神様がキリストの十字架の贖いによって私たちを義としてくださったとき、私たちの命は神のものとなりました。「キリストがわたしのうちに生きておられる」というのは、私たちが何か特別な経験をすることではありません。私たちの命が神のものとなり、人生をキリストのために用いる者とされたことが語られているのです。

 あらためて、16節に「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」とありました。私たちが義とされるのは、ただキリストを信じる信仰によってのみだということです。

 そして、よく考えてみると、キリストを信じるということも、私たちが一所懸命勉強したり努力したりして分かったということではありません。私たちが信じたというよりも、信じさせていただいた、信じられるようにしていただいたのです。

 「わたしを愛し、わたしのために献げられた神の子に対する信仰による」(20節)と記されています。「神の子に対する信仰」という言葉は、原文を直訳すると「神の子の信仰において」となります。これを「神の子を信じる信仰」と解釈しているわけです。

 しかし、もう一つの解釈があります。信仰という言葉は、真実とも訳せます。神の子の真実、神の子が持っている真実と解釈できます。永井訳(私訳)はそう解釈して、「我を愛し給ひ、且つ我がために己自らを付し給ひし神の子の信仰に在りて生くるなり」と訳しています。

 16節の「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」も同様に解釈されます。岩波訳の注に「直訳は『イエス・キリストの信仰』」といい、参照箇所のローマ書3章20節注で「この『の』を主格的にとって『イエスが持っていた信仰』とするか、対格的にとって『イエス・キリストへの(に対する)信仰』とするかは論争されている。数の上では後者が圧倒的に優勢である」とありました。

 確かに私たちは神の御子イエス・キリストを信じさせていただきました。しかし、私たちが信じることができたのは、私たちのために身を献げてくださった主イエスの真実、私たちを愛してやまない主イエスの真実に触れさせていただいたからです。

 その方が私たちと一緒にいてくださいます。そして、私たちを御自分のために用いてくださるのです。その恵みを与え続けていてくださいます。私たちの内に生きておられる主キリストによって、喜びと平安に満ちた人生を歩むことが出来ることを、心から主に感謝しましょう。

 主よ、私たちは御子キリスト・イエスの命の代価によって贖われ、神のものとされました。今私たちの体は、聖霊が住まわれる神の宮とされています。感謝をもって御前に唇の実をささげ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌います。絶えず聖霊で満たし、主の御業のために用いてください。 アーメン