「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」 コリントの信徒への手紙二13章8節

 冒頭の言葉(8節)の「真理」とは「アレセイア(「真理、真実」の意)」という言葉です。ここで「真理」と言われているのは、神が御言葉の中に啓示されていること、即ち、神の御旨を指します。主イエスは、ご自分のことを「わたしは真理である」と言われました。その言葉と働きを通して神の御旨を表しておられるからです。

 そしてパウロは、「真理」という言葉を、彼が宣べ伝えている福音を表すために用いています。その福音の内容は、十字架につけられたキリストに示される神の愛と義、私たちの救いです。

 教会では、教会においでになる方に、①聖書を読むこと、②祈ること、③教会の集会に出席することをお勧めしています。それは、真理を悟り、真理に従うためです。というのは、真理こそ、私たちの人生に最も必要なものだからであり、真理によって私たちは生かされているからです。

 聖書は、イエス・キリストについて記しています(ヨハネ福音書5章39節)。主イエスは、宣教の初めに「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)と言われました。神の国は天国と言ってもよいのですが、「神の国が近づいた」と言われています。これは、私たちが死ぬ時が近づいたということではありません。

 神の国とは、神様が支配しておられ、神様の恵みに与ることが出来るところです。そのために、悔い改めなさいと言われます。悔い改めとは、方向を変えること、神様の方を向くことです。神を無視していた生活を改め、神の方に向き直れば、神様の恵みの支配が近づいていることが分かる、神の国に入ることが出来ると言われているのです。

 旧約聖書にこのような記事があります。長年奴隷として仕えたエジプトを出て、神が約束された国に向かっていく途中、紅海を渡ります。追っ手のエジプト軍はそこで全滅しました(出エジプト記14章)。喜び躍ったイスラエルの民でしたが(同15章1節以下)、三日後には荒れ野で飲み水に困りました(同15章22節)。

 ようやく泉を見つけましたが、その水は苦くて飲めません(同23節)。そこで、民は不平を言い始めます(同24節)。その時、神は一本の木を示され、それを泉の中に投げ込ませます。すると、苦くて飲めない水が、甘い水に変えられました(同25節)。

 この物語は、私たちの日常生活を表わしているようです。どんなに嬉しいことがあっても、感動的な出来事に出会っても、その喜びが三日と続きません。少しのことで全く気分が損なわれ、滅入ってしまいます。何もかもがイヤになり、どうすればよいのか、落ち着いて考えることも出来ません。

 その時に神は、一本の木を示されます。これは、イエス・キリストの十字架を象徴しているようです。問題しか見えない現実の中で、イエス・キリストに目を向ける、十字架に心を向けると、それが恵みに、祝福に変えられる、力が与えられるということです。「辛」いときに「十」字架を仰ぐと「幸」いになるのです。

 主イエスに心を向け、毎日、神が語られた言葉、聖書を読む。新約聖書と旧約聖書を1章ずつ、読みましょう。そうすると、苦い水が甘い水に変えられる世界、すべてがプラスに変えられるという恵みの世界が開かれるのです。

 主イエスは弟子たちに、どのように説教すればよいのか、きちんと教えたなどという記事は見当たりませんでしたが、祈りについては、しばしば教えておられます。主イエスご自身が、夜を徹して、あるいは夜明け前に起きて、また、一人寂しいところに退いて、祈られるお方でした。

 ルカによる福音書22章39節に「いつものようにオリーブ山に行かれると」、同40節に「いつもの場所に来ると」と記されています。これは、ゲッセマネの園での祈りを記しているところですが、そこで祈られることは特別なことではなかったのです。

 「いつものように」、「いつもの場所で」というのですから、主イエスは祈る時間、祈る場所を決めておられた、そうすることが常だったというのです。このように、毎日の生活を通して、祈る生活を弟子たちにお見せになりました。

 主イエスは、「こう祈りなさい」(マタイ福音書6章9節)と、「主の祈り」(同9~13節)を教えてくださいました。主イエスが教えてくださった祈りなので、「主の祈り」と言われるのですが、それはまた、主イエスご自身がいつも祈っておられた祈りでもあるのです。

 祈りは、神に心を向けること、神様と会話し、交わることです。手を組み、頭を垂れ、目を閉じて祈らなければならないと、決まっているわけではありません。そうするのは、心を神に向け、祈りに集中しやすくするためです。

 学生時代に、祈りは霊的な呼吸であると学びました。汚れた空気を吐き出し、きれいな空気を吸い込むように、祈りを通して、神に相応しくない思いや態度を告白し、悔い改めます。そうすれば、神が愛、喜び、平安、清い思いで私たちの心を満たしてくださいます。

 パウロは私たちに、「絶えず祈れ」(第一テサロニケ書5章17節)と教えていますが、祈りが心の呼吸であると考えれば、なるほど納得ではないでしょうか。絶えず心を主に向け、神様に導きを願い、神様の語りかけを待ちましょう。そして、神様の御心が分かったら、信仰をもってお従いしましょう。

 キリストは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ福音書18章20節)と言われました。私たちにとって「教会」とは、建物ではなく、主イエス・キリストを信じた者たちの集まりを言います。

 信者一人一人はキリストの体の一部分であると教えられます(第一コリント書12章27節)。体の各器官はそれぞれ形や働きなどが違うように、教会に集まる人々も様々、各自の才能や能力、賜物などは勿論、働き、生き方、好みも様々ですが、キリストを信じる信仰によって一体とされているのです。

 様々な違いが仲違いの原因になりますが、お互いを理解し、助け合い補い合うことで、大きな力にもなります。「1+1」が「2以下」になることもあれば「5」にも「10」にもなり得るのです。信仰の交わりを通して、愛や謙遜を学び、思いやりを学びます。私たちの信ずる神は、愛だからです(第一ヨハネ書4章7節、マタイ福音書11章29節参照)。

 教会の建物には十字架があります。それは、私たちのために死なれたイエス・キリストが架けられたものです。そこに神の愛が示されました。

 十字架の縦の棒が、神様と私たちをつなぐ橋、横の棒が人と人との間をつなぐ橋を表わします。私と神様との間、私と周りにいる人々との間にキリストがおられ、愛と赦しの架け橋となられました。私が神の民として、神と人とを愛する生活が出来るようにするため、愛の関係、真実な交わりが開かれるためです。

 日毎に聖書を通して神の御声を聴き、感謝を込めて神に祈りをささげ、頂いた恵みを共に分かち合う教会の交わりを大切にして参りましょう。 

 天のお父様、私たちを真理から離れさせる力が働いています。すぐに聖書が読めなくなります。生活の中で祈らなくなります。教会の敷居が高くなってしまうことがあります。どうか私たちを守り導いてください。真理は私たちをあらゆる束縛から自由にするからです。そのため、絶えず聖霊に満たされ、賛美の心で互いに語り合い、主に向かって心から唇の実を献げさせてください。    アーメン