「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 コリントの信徒への手紙二12章9節

 1節に「わたしは誇らずにはいられません」とあります。ここに「デイ」(must)という言葉が用いられています。そういう言葉遣いをするということは、パウロは、誇りというものを大変重要なものと考えていたことを表していると思います。誇るという言葉が、この手紙の中に繰り返し登場しているのも、その表れです。

 パウロが、誇らずにはいられないといって口にしたのは、第三の天、即ち楽園(パラダイス)にまで引き上げられた男を知っているということでした(2節)。これは、自分自身の体験を、他人が経験したことであるかのように語ったものです。

 パウロは、「第三の天」(トゥリトス・ウラノス)、4節では「楽園」(パラダイス)と言われていますが、天の最も高いところに「引き上げられて」(ハルパゾー:catch up,take by force)、そこで「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にし」(4節)ました。

 それは、そこで聞いたことを語るのを神に禁じられたということではないかと思われますが、そのように神の言葉を聞いたというのです。パウロがいつ天に登り、神の言葉を聞くという体験をしたのかということについて、パウロの第一回伝道旅行の途上、リストラという町で伝道していたときのことではないかという説があります。使徒言行録14章にその記事があります。

 足の不自由な男がいて、パウロによって足が癒されて立ち上がるという奇跡が起こり、それを見た町の人々がパウロとバルナバを、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」(同11節)といっていけにえを献げ、礼拝しようとします。それを、「わたしたちも、あなたがたと同じ人間に過ぎません」(同15節)といって、なんとか押し留めました。

 その騒動の最中、ユダヤ人たちがやってきて、パウロに石を投げつけました(同19節)。石を投げつけるのは、神を冒涜したという刑罰です。パウロたちが自分たちを神と宣伝して礼拝させていると誤解したのでしょう。大きな石を投げつけられて、それでパウロは死んだようになりました。

 人々は、パウロが死んだものと思って町の外へ引きずり出しました(同19節)。ところが、弟子たちに取り囲まれているとき、息を吹き返し、また町の中へと入って行きました(同20節)。それは、伝道を継続したということでしょう。

 石に打たれて死んだようになり、天国の門まで行ったところ、「せっかく来たのだから」と天国の中を案内され、第三の天まで見せて頂いた後で、「お前はもう一度、地上に戻って、福音を伝えなければならない。頑張りなさい」と励まされ、力づけられたのではないでしょうか。それで、息を吹き返した途端、リストラの町に入って伝道を始めたというようなことではないかと想像されているわけです。

 それは「14年前」の経験だと、2節に記されています。他の手紙や使徒言行録で、パウロがこのような経験をしたということは、全く触れられていません。ですから、パウロは自分の経験をここで初めて(最初で最後)紹介したわけです。

 14年間、だれにも語らずにいた体験談をここで持ち出したのは、自分にもこんな経験があると自慢したり、自分は特別な存在だと誇ろうということではありません。これが自分の経験したことだと言わないのも、彼が自分の体験を自慢しようなどと考えていない証拠です。

 むしろ、霊的な体験を誇示している人々に、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)といって、そういう人々と自分を区別するのです。体験の誇示は自分が「適格者」(10章18節)であると言おうとすることですが、重要なのは、「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人」(同18節)となることだからです。

 7節でパウロは、「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」と言い、続けて「それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、左端から送られた使いです」と語っています。

 「思い上がることのないように」、「思い上がらないように」、いずれも「ヒナ・メー・フペライローマイ」(lest I should be exalted)という同じ言葉が使われています。それによって、「思い上がってはならない」ということを強調しているわけです。

 「フペライロー」という言葉は、「高く持ち上げる、上に運ぶ」という意味です。分を超えて、より権威づけよう、偉大さを誇示しようとして、自分を高く持ち上げるという表現です。風船にガスを入れて膨らませると、高く上って行きます。でも、風船に入るガスの量には限度があります。入れ過ぎると爆発してしまいます。

 神のようになろうとしたアダムとエバがエデンの園を追放されたように(創世記3章)、また、あなたの声は神の声だと言われていい気になり、虫にかまれて死んだ領主ヘロデのように(使徒言行録12章20節以下)。

 そうならないように「わたしの身に一つのとげが与えられた」(7節)、つまり、自分に弱みが与えられたとパウロは言います。「とげ」というから、小さなささくれが刺さったり針の先で引っかくようなことを考えるかも知れませんが、続いて語られている「わたしを痛めつけるために」というのは、「こぶしで殴る」(コラフィゾウ)という言葉です。

 主イエスが十字架につけられる前、唾を吐きかけられ、目隠しされてこぶしで殴りつけられたことがありますが(マルコ福音書14章65節など)、この「こぶしで殴りつけ」という言葉が「わたしを痛めつける」という言葉なのです。「とげ」よりも「杭」(stake)というような、肉体的、精神的に大変大きな苦痛を与えるものと考えた方がよいのかも知れません。

 そのことについて、これはパウロの身に何度となく襲いかかった迫害のことだと考える人がいます。また、彼の病気や障害のことと考える人もいます。有力なのは、眼病だったのではないかという説があります(ガラテヤ書4章14,15節など)。また、主の光に打たれて地に倒れたという表現から(使徒言行録9章)、てんかんという障害を考える人もいます。

 いずれにしても、パウロにとってこの「とげ」は、宣教の妨げになるものだったので、パウロは3度、取り除いてくださるようにと主に願いました(8節)。ちょうど、主イエスがゲッセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ福音書26章39節など)と三度願ったというのと同じ状況です。

 3回という回数以上に、心を込めて繰り返し繰り返し、何度も主に願い求めたということでしょう。「主に願う」というのは、「傍に呼ぶ」(パラカレオー)という言葉なので、主の衣をつかんで、その脚に縋りついて懇願するといった表現でしょう。

 繰り返し主に願って、ようやく与えられた答えが、冒頭の言葉(9節)です。この言葉をリビングバイブルという聖書では、「いや治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ最もよく表されるものだから」と訳しています。

 もう十分に与えている、これ以上は出来ないと、門前払いというか、主から突っぱねられた言葉のように見えます。けれどもパウロは、そうだ、わたしには神の恵みが十分与えられていると信じ、受け止めることが出来たのです。

 それはなぜでしょう。これは、理屈では分かりません。ここは、とても大切なところです。神が神であられるということが、どういうことなのかということを、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と言われた言葉の中に、パウロははっきりとつかむことが出来たのです。

 だから、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と語ることが出来たわけです。私たちと神様との間に愛と信頼の関係がなければ、パウロのように語ることは出来ません。そうでなければ、ただギブ・アンド・テイク、打算の関係、ご利益があるから拝む、言うことを聞いてくれたら信じるという、所謂ご利益宗教になってしまいます。

 1章8,9節に「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」とありました。

 そして、「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」(同10節)と語っています。

 自分の病気や障害、それらの苦しみ、それは確かに、何かをしようとするときの妨げとなるかも知れません。それでも働かなければならない、頑張らなければならないとすれば、それは苦痛かも知れません。

 けれども、そこで神ご自身が働いてくださるというなら、主が御業を行ってくださるというのであれば、主ご自身がなさりたいことを、自分の弱さを通してなされるということならば、喜んで主にお委ねしますから、御心のままになさってくださいという思いになって、パウロは「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(9節)と語ることが出来たのではないでしょうか。

 確かに、神様の恵みは私たちに対して十分なのです。信仰の目を開いて、神様のなさることを見ることが出来るならば、それ以上望むことがあるかと思うほどに、十分なものを与えられているということを知る、それが、今日私たちが学ぶべき信仰の世界なのです。

 主の前に、主を傍らにお呼びする祈りをしましょう。失望しないで願い続けましょう。そして、主の御声を聴きましょう。御言葉に耳を傾けましょう。御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 主よ、どうか私たちの心の目を開いてください。常に共におられる主を見出すことが出来ますように。そして、主の恵みが完全に覆っていること、弱さの中に力強く働いていることを知ることが出来ますように。そして、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰に歩ませてください。主の御名があがめられますように。 アーメン