「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」 コリントの信徒への手紙二11章29節

 パウロは、10章17節で「誇る者は主を誇れ」と記していましたが、1節で「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたら良いが」と言い、16節でも「誰もわたしを愚か者と思わないでほしい」と語り、21節に「愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう」と記して、自分の誇りを数え上げます。こうした言い方で、自分を誇るのは愚か者だと示しているわけです。

 そして、「ヘブライ人」、「イスラエル人」、「アブラハムの子孫」が誇りになるということは(22節)、パウロを排除しようとして侵入して来た偽使徒たちが、同様にディアスポラのユダヤ人、アブラハムの血を継ぐ神の選びの民に属していること、そして、それならばパウロ自身も同様だということを示しています。

 その上で、自分が「キリストに仕える者」(23節)であることを挙げます。このときに、彼の相手は自分の優れた知恵や経験、業績などを持ち出したのでしょうが、パウロはそれをしません。もし言い出せば、パウロには、誰にも引けをとらない、むしろ人々を圧倒する業績があったでしょう。

 3度の伝道旅行を通じて、彼が回った村や町、そして国の数はどれほどに上ることでしょう。そして、どれほどの人々がキリストの福音に触れ、救いに導かれたことでしょう。教会が幾つ建て上げられたことでしょう。何人が献身して、直接伝道に従事する者となったことでしょうか。

 そういったことを何一つ取り上げません。10章13節で「わたしたちは限度を超えては誇らず」と語っておりましたが、パウロはストイックなまでに、そのような成果はすべて神の御霊の働きであって、自分の業績として数え上げられるものなどではないと考えているのです。

 パウロが「キリストに仕える者」としてあげた誇りは、業績ではなく、「苦労したこと」(23節)でした。考えてみれば、なんでも自慢の種になるものだなあと思います。確かに、私たちにも、貧乏自慢をしてみたり、ワル自慢をしてみたくなる場面がないわけではありません。しかし、パウロがしているのは、自分を誇って見せることとは無縁です。

 24節に「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」とありますが、申命記25章3節に「四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない」という規定があり、間違って41回打てば、鞭打った者が罰せられたので、数え間違いがないように、39回になったのだそうです。

 それから25節に「鞭で打たれたことが3度」とあるのは、ローマの官憲による鞭打ちを指しています。使徒言行録によれば、ローマ市民権を持つ者がそのような仕打ちを受けることはなかったようです(16章37節、22章25節)。けれども現実には、ローマ市民権を持っているということで、迫害を免責されるものではなかったということです。

 同胞からも、そしてローマ帝国によっても厳しい迫害に晒されながら、その他にも、旅行に伴う様々な危難、苦労と戦いながら、なおもパウロは「キリストに仕える者」として前進するのです。

 この苦難のリストを見ると、パウロが使徒として歩んだ道は、決して平坦な生易しいものでなかったこと、まさに苦難の連続であったことが分かります。これらは、彼がキリストに仕える者であったからこその苦難であり、それによって侵入者をはるかに凌駕する者であることを明らかにします。

 また、何度も死ぬような目に遭いながら、それにも拘らず、キリストに従い続けてきたパウロの使徒としての心意気が示されます。しかし、それを誇りとするというなら、それもまた愚かなことなのです。ですから、「気が変になったように言いますが」(23節)と付言しているわけです。

 自分の業績や経験などを誇るとき、自分は一人で立っています。けれども、本当に一人で立つことの出来る人が一人でもいるでしょうか。多くの人に支えられ、そのお蔭で立たせていただいているのではありませんか。そして何より、神によって生かされているのではありませんか。

 パウロの苦労は、冒頭の言葉(29節)に示されるとおり、彼が使徒として召された使命、つまり、弱っている者、つまずいている者に共感すること、彼らと弱さ、悩みを共にし、彼らをつまずかせるものと心燃やして戦うことでした。そして、この苦労はキリストの苦難につながっていて、その苦労を通してキリストの栄光に与ることが出来ると確信していたからです。

 そこでパウロは「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(30節)と言います。なかなか「弱さ」を誇る人はいません。弱さを認めることは恥とさえ考えています。

 弱さは、誰かの助けや守りを必要とすることです。パウロが経験や業績を誇ることを愚かと考え、恥ずかしいことと考えているのは、「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ3章5,6節)だったパウロには、それがキリストに敵対するものであることが分からなかったからです(同18節参照)。

 それにも拘わらず、キリストを信じる信仰に導かれ、キリストの福音を異邦人に告げ知らせる使徒、伝道者として召されたのは、主なる神の深い憐れみ、慈しみによるものであり、神の助け、御霊の導きなしに今日はなかったことを知っているからです(ローマ5章6節以下)。

 第一コリント書15章10節でも、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と言います。教会の迫害者であったパウロを使徒とした神の恵みを、そう語るのです。

 パウロにとって「弱さにかかわる事柄を誇る」とは、主イエスの助けがなければ、何も出来なかった、神の恵みがあればこそ、今日の自分になることが出来たと認め、その恵みに応えて生きることなのです。こうしてパウロは、「誇る者は主を誇れ」との御言葉に立ち帰るのです。

 私たちを救いに導き入れてくださった主の恵みを覚え、心新たに主の御心を弁え、使命に生きる者としていただきましょう。

 主よ、パウロの言葉の前に、自分を恥じます。何と私たちは、自分の持ち物や暮らし向きのことで自慢し、あるいは意気消沈していることでしょうか。一方、多くの方々に迷惑をかけながら、なお愛され、支えられていることを教えられます。主イエスの謙遜と柔和を学ばせてください。主に仕える者とならせてください。もう一度、主の十字架を仰ぎます。御言葉をもって導いてください。 アーメン