「誇る者は主を誇れ。」 コリントの信徒への手紙二10章17節

 10章に入って、パウロの論調がまったく変わります。それまでは、親が子に諭すような優しさがあり、また感謝や喜びの表現がありましたが、ここからは、けんか腰のような表現になっています。自身の使徒としての権威を主張し、「違った福音」を携えてコリント教会に侵入して来た偽使徒を強い言葉で非難しています。

 10~13章はもともと別の手紙で、「涙の書簡」(2章4節参照)と呼ばれる手紙の一部ではないかという解釈が広く受け入れられているようです。そう考えたほうが分かりやすいかも知れません。もっともその内容は、涙ながらにというより、憤って筆を執ったように見えます。

 いずれにしても、パウロに対して、「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」(1節)という非難や、「手紙は重々しく力強いが、実際にあってみると弱々しい人で、話もつまらない」(10節)という非難もありました。

 教会の創設者である使徒パウロを非難するということは、愛と信頼の関係が壊されるということです。少なくとも、パウロに対する感謝や尊敬の念を持たない、教会の外からやって来た人の所業です。これは教会の交わりを損ない、傷つけることですから、そういう非難に対して、ここでパウロは真っ向から反論を展開しているわけです。

 そしてその結論が、冒頭の言葉(17節)です。この言葉は、第一コリント書1章31節にも記されていました。かぎ括弧がつけられているのは、旧約聖書からの引用であることを示していて、これは「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主」というエレミヤ書9章23節の言葉から引用されたものです。

 同22節には「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな」と記されています。パウロはその言葉を引用してはいませんが、当然、結論の前提となっています。

 「誇る」(カウカオマイ)という言葉が新約聖書に37回用いられているうち、ヤコブ書に2度出る以外は、残りすべてパウロ書簡、そのうち20回、第二コリント書で用いています。「誇り」(カウケーシス)は11回中10回がパウロ、そして第二コリントに6回出ます。また「誇り」(カウケーマ)も11回中10回がパウロ、第二コリントに3回用いられます。

 この用語法から、パウロは、誇ること自体を悪いことなどとは考えていないようです。問題は、誇りの内容です。何を誇るのかということです。本書中に用例が多いのは、まさにそのことが問われているということでしょう。

 私たちの誇りは自慢であり、そして自惚れ、奢りにつながります。けれども、私たちの誇りなどは高が知れています。自分よりも優れた業績をあげた人、優れた才能のある人が現れると、自慢が卑下に変わります。優越感が劣等感になります。

 パウロを非難している者は、パウロより雄弁かもしれません。教養があるかもしれません。有力者かもしれません。経済的に豊かな生活をしているかもしれません。当時、手に職を持っているというのは、学問をしていない証拠と考えられたのだそうです。

 教会からの報酬を受け取らないことも、使徒として相応しくない態度と見なされたようです(11章7~9節、第一コリント書9章3節以下参照)。弁が立たないと、教養がないためだとされたようです(11章6節)。そうしたことが、パウロは教会指導者としてふさわしくないという非難になっていたのでしょう。

 けれども、彼らがパウロよりも雄弁であること、教養があること、政治的な力があること、経済力があることなどを誇り得たとしても、そして、それによってパウロを非難したとしても、それは神の御前にまったく意味を持ちません。エレミヤの預言にあるとおり、神は明確に、それらを誇るなと仰っているからです。

 どういう事業を起こし、どれほどの成功を収め、財を成すことが出来たとしても、それらは一つとして天に携えることが出来ません。神の御前において、その裁きに耐え得るものは唯一つ、それは主イエスを知っているということ、主イエスから知られているということです(ホセア書6章6節、ヨハネ10章14節など)。

 主イエスは私たちの弱さをよくご存じです。愚かさをご存じです。神様から「適格者として受け入れられる」(18節)資格のある人間はいません。神は、知恵ある者や力ある者を選ばれるのではなく、むしろ、無学な者や無力な者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれます(第一コリント書1章27,28節)。

 無に等しい存在を通して、神の知恵や力、恵みの計画が明らかにされるためなのです。だから、主に選ばれた人は、自分ではなく自分を選ばれた主を誇り、ひたすら主の命じられた業を行って主に栄光を帰すのです。

 パウロはかつて、キリストの迫害者でした。彼が選ばれてキリストの伝道者、使徒とされたのは、神の憐れみです。そのように主イエスから使徒として任じられたパウロによって、コリントの教会が設立されたのです。ゆえに、自分を召し、自分を用いてくださる主を誇るのです。

 資格のない者を選び、恵みによって用いていただけることにただただ感謝しながら、自分のなすべきことを一所懸命果たして行きましょう。

 主よ、あなたの恵みによって救われ、生かされていることを感謝致します。御言葉と御霊の導きに従い、喜びと感謝をもってあなたに信頼し、信仰の道筋をまっすぐに歩みます。あなたの召しに忠実な僕とならせてください。精一杯の献身をもって、主の恵みに応えることが出来ますように。 アーメン