「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」 コリントの信徒への手紙二9章10節

 9章も、前の章に続いてエルサレム教会への献金について勧める言葉が記されています。この献金のことを、「奉仕」(ディアコニア;1,12,13節)と記しています。8章3節に「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕」とあり、同6,7,19節では「慈善の業」(カリス:「恵み」の意)と言われていました。

 それが同19節の「わたしたちが奉仕している、この慈善の業」から、同20節で「自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金」と、募金のための働きを「奉仕」と言っています。奉仕とは、他者に仕えて働くことで、信仰によって共に生きる輩のために仕える喜びから、この献金のための働きが「奉仕」と言われているわけです。

 マケドニアの諸教会の信徒たちに倣い、その奉仕、この働きのための献身を通して、主への信仰を表明し、その恵みと愛を証ししてほしいと、パウロは望んでいます(同24節)。そして2節に「アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました」と記しています。

 マケドニア州の諸教会の信徒たちがエルサレムの聖徒たちのための献金について知ったときに、アカイア州の人々(即ちコリント教会の信徒たち)が既にこの働きを始めていると、パウロがマケドニア州の人々に「誇りました」というのです。

 この「誇る」(カウカオマイ)という言葉は、パウロがよく用いているものですが(「喜ぶ」と訳されることもあります)、特にこの手紙には、動詞の形で23回、名詞の形で6回用いられています。パウロが自慢好きであったというようなことではありません。

 「誇る者は主を誇れ」と言い(10章17節、第一コリント書1章31節)、自分自身のことは、「自分の弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(11章30節)と言っています。パウロはここで、コリントの人々が募金活動を始めていることを自分のことのように喜び、マケドニアの人々にその証しをしたのです。

 冒頭の言葉(10節)で「慈しみが結ぶ実」と訳されている言葉は、口語訳、新改訳では直訳的に「義の実(複数形)」(タ・ゲネーマタ・ディカイオシュネース)と訳されていました。ユダヤでは「義」(ディカイオシュネー)という言葉を狭く捉えるときは、「慈善、施し」の意味で用いたようです。

 主イエスが山上の説教(マタイ福音書5~7章)の中で、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(同6章1節)と言われたとき、この「善行」という言葉が「ディカイオシュネー」でした。「善行」について、同2節で「施しをするときは」と言われていますし、同5節以下では「祈り」、同16節以下で「断食」のことが語られています。

 「施し」と「祈り」と「断食」が、「義」(ディカイオシュネー)の業、「善行」と考えられていた証拠です。そう考えると、本章全体でエルサレム教会の人々に対する施し、募金について考えておりますから、当然ここでも、「慈しみが結ぶ実」として具体的に「施し、募金」が考えられていることになります。

 6節以下では、種まきのたとえが考えられています。種をまく者は、豊かな収穫を期待してそれをします。冒頭の言葉で主なる神を「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方」と語り、そして、まいた種を増やし、結ぶ実を豊かに成長させてくださると告げます。

 これは、慈しみが結ぶ実を成長させてくださる主なる神を信頼して、自分の持っている種をまきなさい、つまり、エルサレムの聖徒たちのために「施し、募金」という奉仕をしなさい、そうすれば、主なる神はあなたがたをパンで養い、あなたがたの奉仕は神に祝福されて、豊かに用いられると語られているわけです。

 このことで、ヨハネ福音書6章の記事を思い出します。少年が自分のお昼の弁当を主イエスにささげた話です。少年のお弁当は、大麦パン五つと魚が二匹でした。食べ盛りの少年なら、それなりの量だったかもしれません。

 しかし、そこには男だけで五千人もの人がいました。アンデレは、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(同9節)と言いました。弁当を差し出した少年も、そのくらいのことは分かっていたと思います。ですが、彼は精一杯のものを主イエスにささげたのです。

 それを主は感謝され、人々に配られると、そこにいたすべての人々が満腹しました。ささげた少年が自分ひとりで食べたら、他の人々は空腹で帰らなければなりませんでした。少年は、自分は空腹で帰ってもよいと考えていたことでしょう。しかし、彼も満腹で帰ることが出来たのです。ここに、神の御業、主イエスの祝福の力が表されました。

 「祝福」は原文のギリシア語で「エウロギア」という言葉ですが、5節に2度用いられており、最初のものは「贈り物」、二つ目は「惜しまず差し出したもの」と訳されています。続く6節では「惜しんでわずかしか」(フェイドメノース)の対句として「惜しまず豊か」訳されています。

 「恵み」(カリス)が相手への「慈善の業」だったように、「祝福」(エウロギア)が「惜しまず差し出した贈り物」とされ、「慈善の業」が神の恵みによって可能になったように、「惜しまず差し出した贈り物」をすることで、「慈しみが結ぶ実」を成長させてくださる神が「あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせ」てくださるでしょう。

 ところで、この「祝」という漢字は、神を表す「示」へん、そして、「兄」というかたちは、ひざまずいている人が口を開いていることを表しています。つまり、神への祈りということになるわけです。

 ですから、「施し」という「祝福」の「贈り物」が、祈りとして神の御前にささげられ、それを神が「豊か」なものとして相手の心に届けてくださるということになります。そしてそれは、神の畑に「慈しみ」の種をまく振る舞いで、ささげた者自身も天において「豊か」に祝福されるというわけです。

 私たちも恵みの主に信頼して、委ねられている主の業に日々励んでまいりましょう(第一コリント書15章58節)。

 主よ、物惜しみして心貧しくなるものではなく、主にあって、惜しみなくささげて祝福される者とならせてください。自分のお弁当をささげた少年のごとく、レプトン銅貨2枚をささげた貧しいやもめのごとく、喜んで精一杯ささげ、主にあって富む者とならせていただくことが出来ますように。 アーメン