「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」 コリントの信徒への手紙一13章4節

 13章は、「愛の賛歌」と呼ばれて親しまれている箇所です。パウロは、12章の最後のところで、「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12章31節)と記しています。そうして語られたのが、この「愛の賛歌」です。即ち、パウロは、愛こそが最大の賜物、愛に生きることこそ最高の道と考えているわけです。

 1~3節に、12章に記されていた「霊の賜物」が登場して来ます。まず1節、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」と言われます。14章でパウロは、「異言」という賜物を肯定的に評価していますが、それには、愛をもって語ることが重要だというわけです。

 「やかましいシンバル」のあとの動詞が省略されていますが、「なる」(ギノマイ)の現在完了形が用いられているので、直訳すれば「なってしまっている」となります(岩波訳参照)。コリントの信徒たちの語る異言は、大きな音を立てる楽器と化していて、そこに意味を見いだすことが出来ないとているという批判の言葉ということが出来そうです。

 2節は、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」です。教会を造り上げるためには、「預言」の賜物が「異言」にまさっていると14章5節に記されていますが、愛なしにはそれも無に等しいのです。

 「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じている」、「完全な信仰を持って」いるということを自慢している人々がいたようです。神から与えられた賜物を持っていることを自慢する者たちは、他者への愛に欠けており、それは無意味なことだというパウロの批判と見ることが出来ます。

 3節には、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」と記されています。貧しい人々に全財産を施すというのは、最高の道徳行為と考えられていました。また、「わが身を死に引き渡す」とは、殉教の死を遂げるという表現です。命をかけて信仰を守るというのは、信徒の誇りでしょう。

 しかし、最高の行いと思われることでも、愛がなければ、何の益もないと言われます。これは、大変厳しい言葉ではないでしょうか。施しというものは、その動機が何であれ、そこには多少なりとも愛があるでしょう。それを、愛がなければ無益と言われるということは、逆に、私たちは愛の行為をすることが出来るのかということになるのではないでしょうか。

 そこで、パウロは4~7節において、15の動詞を用いて、愛の特質について説明します。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」です。

 「忍耐強い、情け深い」と言えば、日本語では形容詞ですが、原語では「忍耐する、親切にする」という動詞です。動詞で愛の特質を説明しているのは、愛というものは、何よりも行動によって示されるものであるということです。

 バークレイの注解では、冒頭の言葉(4節)の「忍耐強い」(マクロスメオー)という動詞について、「常に人々に対する忍耐を表わし、周囲の状況に対する忍耐を意味してはいない。それは、他者から不当な扱いを受け、これに対して復讐しようと思えば簡単に出来るのだが、あえてそれをしない、そういう人間について用いられる言葉である。それは怒りを遅くする者をあらわす」と言います。

 私たちは、たとえば、貧しさとか病気などの苦しみは耐えようとすることが出来ますが、むしろ、人々から受ける不当な扱い、たとえば、誤解されること、無礼な態度をとられる、侮辱されるなどの苦痛を味わわされても、それをじっと忍耐し、あえて復讐しないというのは、大変困難なことです。

 パウロは、十字架の苦難、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架に釘づけられるという苦痛の上に、あらゆる侮辱、嘲りを耐え忍ばれた主イエスの忍耐を思っているのです。この「忍耐強い」という動詞に示されているのは、キリストを通して表された神の愛なのです。

 よく言われることですが、4~7節の「愛」という言葉に自分の名前を入れて読んでみましょう。どうでしょう。はっきりと声を出して読めますか。だんだん声が小さくなりますね。自分の内に、聖書で言う愛がないということを、思い知らされるような感じです。

 あらためて、「愛」という言葉を「キリスト」と置き換えて読んでみましょう。「キリストは忍耐強い。キリストは情け深い。ねたまない。キリストは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

 何の違和感もありません。ここに語られている「愛」は、確かにキリストを表わしているということが分かります。ということは、ここに15の動詞で表現されている愛は、パウロが経験してきた、パウロが味わっている主イエスのご愛そのものということではないでしょうか。

 以前、幼稚園の卒園式のときに、泣いている子どもたちがいたので、「悲しいことがあれば、泣けばいい。だけど、光の子として胸を張ろう。後ろのことは忘れて、前を向こう。力を合わせ、助け合って前進しよう。神様がきっと祝福してくださる」と話したことがあります。

 式の後、一人のお母様が私のところにおいでになって、あの言葉で癒されましたと仰いました。どういう悲しみをお持ちなのか、詳しいことは分かりませんが、神様がすべてご存知で、拙い言葉を通して、お母様に慰め、癒やしをお与えくださったのだと思いました。神様がそのご家族を、広い愛、長い愛、高い愛、深い愛で導いてくださるようにと祈りました(エフェソ書3章18,19節参照)。

 パウロは、「愛は決して滅びない」(8節)、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(13節)と断言します。信仰と希望と愛は、7節で「忍び」と「耐える」にはさまれて、「(愛は)すべてを信じ、すべてを望み」と記されていました。パウロはここに、終末に訪れる神の愛の最後の勝利を堅く信じ、その勝利を待ち望んでいるのです。

 この愛が神の最大の賜物であり、それを受けるよう「熱心に努めなさい」と言われるということは、愛を祈り求めよということです。祈りを通して、信仰に、希望に、愛に導かれ、その恵みをお与えくださる主をほめたたえましょう。

 主よ、私たちに聖霊をお与えくださり、感謝いたします。聖霊を通して私たちの内なる人を強め、信仰によってキリストを心の内に住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者、神の忍耐強い愛に生きる者としてください。 アーメン