「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださるように。」 ローマの信徒への手紙15章13節

 信仰の強い者が弱い者を受け入れるように(14章1節)、そして、強い者は強くない者の弱さを担うべきだと(15章1節)パウロは語り、ローマ教会に生じている分裂の危機に対処しようとしています。パウロはまだローマに行ったことはないので、何らかの方法でその情報を得て、これを書き送っているということでしょう。

 パウロはしかし、その状況を悲観してはいないようです。「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」(2節)と告げて、その根拠を「キリストもご自分の満足を求めませんでした」(3節)といい、「『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです」と語ります。

 それは、詩編69編10節(70人訳)からの引用です。そうして、「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」(4節)と言っています。

 そして、「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」(5,6節)と祈るのです。

 つまり、私たちの信じる神は忍耐と慰めの源なる神であり、私たちは聖書を通して神の忍耐と慰めを学んでいるのだから、互いの違いを認めながら、キリストのために同じ思いになれるという希望が持てるというのであり、そうして、お互いに声を揃えて神をたたえさせてくださいと祈っているわけです。

 さらに、パウロはキリストを引き合いに出して、「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(7節)と言います。ここに言われているのは、食事を共にすることも含め、双方が互いに相手を受け入れ合うことです。

 キリストがあなたがたを受け入れてくださったとは、ユダヤ人にとっては、「キリストは神の真実を表すために、割礼ある者たちに仕える者となられた」(8節)ということです。それは、キリストがユダヤ人としてお生まれになったこと、そして、主にイスラエルで活動され、エルサレムで十字架にかかられたからです(9章4,5節参照)。

 一方、キリストが異邦人を受け入れたのは、その憐れみのゆえでした(9節、11章30節など)。それは、本来なら受け入れられるはずのない者が、恵みによって受け入れられることになったということであり、だから、それを知った異邦人たちが神をたたえるようになるのです(9節以下)。

 ユダヤ人と異邦人とが互いに受け入れ合い、認め合うというのは、容易に起こり得ないようなことだったでしょう。けれども、イエス・キリストの真実と憐れみのゆえに、福音はユダヤ人から異邦人へと広げられ、そのことを喜び、神をほめたたえて来たのです(使徒言行録11章18節など)。

 対立し合い、食事も共に出来ないようになっている人々に対し、主の晩餐に共に与ることから、再び交わりが始まり、互いに受け入れ合うようにと、このときパウロは考えていたのではないでしょうか。

 同じように仲間割れ、仲間争いをしていたコリントの教会の人々に、「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(第一コリント書10章17節)と、主の晩餐に基づいて説明しているからです(同11章17節以下も参照)。

 そうして、冒頭の言葉(13節)のとおり、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださるように」と祈ります。教会を一つにするのは神の力であり、神を信じる信仰によって喜びと平和が満たされ、教会の土台が堅く据えられてキリストの栄光を拝することが出来るようにと祈り願うのです。

 パウロの内には喜びと希望が満ち溢れており、どのような困難があってもローマへ行き、そこを拠点にして、イスパニア(スペイン)まで伝道に行きたいと熱望しているのです(24節)。パウロが望めば必ずかなうということではありません。パウロのスペイン伝道は、実現しなかったのではないかと考えられます。

 しかし、希望の源なる神は、私たちの心に希望を与え、それが実現するようにと働いて下さいます(フィリピ書2章13節)。パウロはスペインまで行けなかったかもしれませんが、しかし、スペインまで伝道したいという彼の希望は、実現したのです。

 私たちも希望の源なる神にあって大いなる希望を抱き、聖霊の力によってその希望に満ち溢れさせていただけるように、祈りましょう。

 主よ、静岡市には70万という人々が生活しています。そこに40あまりの教会が建てられています。一つの教会が1万8千人を対象に伝道しようとしていることになります。どうか私たちに救霊のために愛を注いでください。信仰によって得られるあらゆる喜びと平和で私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださいますように。信仰と希望と愛、それは永遠に存続するものだからです。 アーメン