「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」 ローマの信徒への手紙14章9節

 14~15章は、信仰の弱い人と強い人が話題となっています。単純に考えれば、信仰の弱い人は強い人になりなさいと指導されているのだろうと思われるのですが、実際はそのような指導は全く行われてはいません。それは、どういうことでしょうか。

 信仰の弱い人のことを、「野菜だけを食べている」(2節)と言います。また、「ある日を他の日よりも尊ぶ」(5節)人のことです。旧約の律法で菜食主義になることは考えられませんし、彼らが律法を守るように主張したとも考えられません。教会内にグノーシス主義に影響を受けて禁欲的生き方をしていた人々がいたのでしょう。

 手紙の文面からすると、彼らは少数派で、多数派から禁欲主義にとらわれた「信仰の弱い者たち」という差別を受けていたのではないかと想像されます。一方、少数派の人々は、多数派の人々の野放図な生活を非難していたという構図を考えることが出来ます。ですから、少数派とはいえ、教会が分裂する危機をはらんでいたわけです。

 パウロ自身は、禁欲的生活をしなければならないと考える立場ではありません。むしろ何を食べてもよいと考え、どの日も同じと考える立場であろうと思われます。けれどもパウロは、「信仰の弱い人を受け入れなさい」(1節)と、自ら強いと主張している者に向かって語りかけます。

 彼らが「信仰が弱い」といって差別している人々も、主の兄弟として受け入れるべきだというのです。それは、「神はこのような人をも受け入れられたからです」(3節)。

 原文には、「このような人をも」の「も」という言葉はありません。直訳すれば、「神は彼を受け入れたからです」(口語訳、新改訳、岩波訳)となります。原文にはない「も」がつけ加えられたのは、多数派が少数派を主の兄弟姉妹として認めるだけでなく、少数派も多数派を認めることが必要だという信仰理解があるからでしょう。

 即ち、信仰が強いと自称する自由派が「信仰の弱い人を受け入れ」るだけでなく、少数派の禁欲的な生活をしている人々も、多数の自由派の人々を神の家族として受け入れる必要があるということ、お互いに主にある兄弟姉妹だと認め合いなさいということなのです。

 というのも、何かを食べないことや、何でも食べるということが、信仰にとって究極的に大事なことではないからです。それぞれ、何のためにそうするのかという理由があります。両者とも、それぞれの生活態度を通して主イエスを仰ぎ、そして神に感謝しているのです。

 些細な違いではないかもしれませんが、お互いがそれぞれに主のためにしていることを理解し合い、兄弟姉妹同士互いに裁き合わないようにすべきです。4節に「他人の召し使い」(4節)という言葉があります。文脈上、「他人」とは「主イエス」、「召し使い」はキリスト者です。食べない者も食べる者も、いずれもキリストの召し使いなのです。

 「召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです」と言い、「倒れる」は裁きを思わせる表現です。しかし、「召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」とされます。「倒れる」に示される裁き、それによって退けられた人が、「立つ」に示される成功や祝福を受けることが出来るというのです。

 即ち、今自分が立っているのも、主の恵みなのであって、その人の働きの実ではないのです。恵みで立たせていただいているのであれば、それを誰も誇ることが出来ません。「誇る者は主を誇れ」(第一コリント1章31節、第二コリント12章7節など)といわれるとおりです。

 私たちは、キリストのために生かされています。そして、キリストのために死にます(8節)。ここで、パウロは死について、寿命が尽きてお迎えがやってくるという、運命のように考えてはいないことが分かります。

 パウロは、自分の身も心も、命までも献げているので、自分の真の持ち主である主イエスのもとに戻ることであると考えているわけです。だから、死ぬことも、パウロにとっては大きな喜びなのです。

 ゆえに、主イエスの死と復活という救いの御業によってキリストの者とされた私たちは、何をするにも、主のためにするのです。それが、私たちの救われた意味です。そのとき、他の人が何をしているのかということは、問題になりません。主があなたに何をせよと仰っておられるのかということが、重要な問題なのです。

 キリストの体とされたお互いですが、全員が目ではないし、耳ではありません(第一コリント12章14節以下、17節)。しかし、全身のあらゆる器官がそれぞれの役割を忠実に果たすとき、その体は生きています。主を頭として、主によって生かされ、主と共に、主のために歩んでいく群れです。

 私たちがキリストに属し、キリストに結ばれたキリストの者とされていること、それこそ、キリストの死と復活の意味であると、冒頭の言葉(9節)は私たちに教えています。死と復活の出来事を通して、主イエスは天と地を貫いて「死んだ人にも生きている人にも」、すべての者の主となられたのです。

 私たちが主のものであるならば、私たちが立つか倒れるか、生きているか死んでしまったかは、大したことではありません。だから、強い人は弱い人を軽蔑すべきではありませんし、弱い人は強い人を裁くべきではないのです(3,4節)。私たちは、最終審判者たる主の裁きの前に立つときが来ます。主なる神こそ唯一の裁き主なのです(10,12節)。

 生ける主の御前に膝をかがめ、命を与え、神の子、光の子として歩ませてくださる主の恵みを、心から誉め讃えましょう。主に愛されている者として、互いに愛し合いましょう。主にあって一つの体とされたキリスト教会を形成する信徒が互いに愛し合うことで、主の栄光を表しましょう。

 主よ、静岡教会というキリストの体によって、神の栄光を表すことが出来ますように。絶えず御言葉に聴き、御霊の力を受け、御霊を通して注がれる神の愛で私たちの心を満たしてください。私たちを御子イエスの血によって贖い、キリストの者としてくださったことを心から感謝します。 アーメン