「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。」 ローマの信徒への手紙13章12節

 パウロは、主イエスを信じる信仰によって義とされ、キリストに結ばれて新しい命に生きる私たちに、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(12章1節)と勧め、この世に倣うのではなく、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心にかなう、善い、神に喜ばれる、完全なものであるのかをわきまえなさいと語ります(同2節)。

 冒頭の言葉(12節)は、それを受けて語られているものです。「この世」を夜と呼び、新しく到来する神の完全な支配を「日」と呼んでいます。また、「闇の行い」、「光の武具」という言葉も用いられ、対比されています。

 「闇の行い」とは、13節の「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」という類いのものでしょう。また、14節の「欲望を満足させようとして、肉に心を用い」ることをも指しています。こうしたことが記されている背景には、ローマの裕福な人々の豪奢な生活に倣い、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」に身をやつす輩が少なからずいたということでしょう。

 「酒宴と酩酊」、「淫乱と好色」、「争いとねたみ」と類似の言葉を対にして3つ並べ、また、これらの名詞はすべて複数形です。この用語法で、これらのことが繰り返し行われていることを強調するようなかたちになっています。

 それに対して、「光の武具を身につけよう」というのは、夜は既に過ぎ去ったということではないということを表します。夜の闇と日の光の間に戦いがあり、この戦いに「光の武具を身につけ」て参加せよというのです。ということは、今はまだ夜の暗闇の中にいることになります。

 「夜は更け、日は近づいた」とは、夜になってからずいぶん時間がたつので、朝が近づいたということですが、「更ける」は「深ける」とも書くと国語辞典にあって、夜の闇が深くなったという表現と考えられます。「夜明け前が一番暗い」という言葉もあります。

 常識で考えれば、確かに朝は近づいているのかもしれないけれども、しかし自分を取り巻いている状況は、朝の到来を思わせるしるしが何もない、あるいは、もう二度と自分には朝がやって来ないのではないかと思えるほどに闇が深まっている、そんな状況を想定してもよいのかもしれません。

 パウロが伝道旅行中、この手紙を執筆していた頃は、キリスト教会に対するローマ帝国の組織的な弾圧・迫害はまだ表立って行われてはいませんでした。けれども、キリスト教会の成長、信徒の増加に伴い、ユダヤ教徒たちによる迫害が起こっていきました(使徒言行録6章8節以下、8章1節など)。

 迫害者サウロが復活の主イエスと出会い、伝道者パウロとなって活動し始めて以来、ユダヤ教徒たちから命を狙われるようになり(同9章23節以下、13章45,50節、14章5,19節、17章5,13節、18章6,12節以下)、進む先にはいつも「殉教」の2文字がぶら下がっているようなものでした(同22章22節、23章12節以下参照)。

 今日の私たちを取り巻いている情勢は、迫害や弾圧という闇ではありませんが、国と国、民族と民族が対立し、争乱が絶えず、また貧富の差が大きくなり、その上、大規模な自然災害が至る所で発生し、さらには疫病の蔓延に伴う混乱など、「夜は更け」という言葉のままにますます混迷の度を深め、闇が濃くなり、終末を目指して邁進しているのではと思わざるを得ません。

 しかしながら、パウロはそこで信仰の目を開き、「日は近づいている」というのです。闇が打ち破られて、神の光が夜に満ち溢れる、救いの完成の日が到来することを確信しているのです。だからこそ、「光の武具を身につけ」て、闇の業を追い出せというわけです。

 さらに、「光の武具を身につけ」ることを、14節では「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言っています。この言葉の背景には、クリスチャンが信仰を表明してバプテスマ(洗礼)を受けるときに、今まで身につけていた着物を脱いで、バプテスマ用のガウンを身につけるという教会の習慣があります。

 バプテスマとは、古い自分に死に、主イエスの命に入れられること、その命の中に浸されることです(6章3,4節、コロサイ書2章11~13節)。それで、主イエスを身にまとう、キリストを着るという表現が出て来ているのです(ガラテヤ書3章27節)。

 そして、バプテスマを受けた者たちは、キリストを生活の土台として、その福音にふさわしい生活を始めます。その生活は、もはや夜の闇に支配されることなどはないということではありません。むしろ、戦いがあることを忘れてはなりません。それが、「光の武具を身につけましょう」と勧告している意味です。

 パウロはこのとき、ローマの権力を「悪、闇」と考えているわけではありません。むしろ、国家権力に対して敬意を払いつつ服従することを勧め(1,7節)、隣人に愛をもって行動することを求めています(8節以下)。それが、闇に呑み込まれない、光の内を歩むキリストの福音に相応しい行為と考えているのでしょう。

 光の武具で武装していること、絶えず福音にふさわしい生活をしようと心を定め、主の御言葉に耳を傾ける生活をすることこそ、眠りから目を覚ましているということなのです。光の内におられる神との御言葉と祈りによる交わりを(第一ヨハネ書1章7節)、しっかりと持ち続けましょう。

 主よ、私たちはアダムのように裸で、罪に汚れていました。放蕩息子のように、自ら父なる神を遠く離れて生きる希望を失いかけていましたが、あなたの深い憐れみにより、イエス・キリストという最上の衣をまとわせていただきました。絶えず主を見上げ、主の御声を聴き、御言葉に従う生活をさせてください。目覚めて福音に相応しく生活することが出来ますように。 アーメン