「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」 ローマの信徒への手紙12章1節

 12章から、キリストの福音を信じて義とされた者の、キリストに結ばれた新しい生活について、実践的な勧めが展開されます。その中で冒頭の1,2節に、全体の基調をなす勧めが語られています。

 冒頭の言葉(1節)で、「こういうわけで」とは、どういうわけでしょうか。それは、これまでパウロが語ってきたことを根拠として、勧告や命令などの結論を述べるということでしょう。これまでパウロが語ってきたこととは、1章から11章までに記されている事柄のすべてということになります。

 それは、人は自分の行いによって救いを獲得することはできず、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって救われること、それは神の深い憐れみによるもので、その憐れみはユダヤ人のみならず、すべての民に及んでいるということでした。

 「憐れみによって勧める」とありますが、11章までに語ってきた福音について、それを一言にまとめて、「神の憐れみ」と記しているのではないでしょうか。そのためか、この「憐れみ」という言葉は、複数形です。神の憐れみの豊かさ、恵み深さを示していると考えられます。

 「勧める」(パラカレオー)は、「そばに(パラ)呼ぶ(カレオー)」という言葉で、「懇願する、願う、慰める、励ます、勧める、呼びかける」といった意味に用いられます。文脈から、「勧める」が訳語として選ばれていますが(新共同訳、口語訳、岩波訳など)、「あなたがたに求める、命じる」というニュアンスを含んでいるといってよいでしょう。

 勧めを受けているのは、「兄弟たち」です。キリスト教会では信徒同士お互いに「兄弟、姉妹」と呼び合います。これは、単なる呼び名ではありません。お互いの親しみを表現しているものでもありません。キリスト・イエスの贖いによって、天の神を父とする神の家族とされたことを表すものです。

 神との関係を示すという意味では、牧師、執事という職名よりも、「兄弟、姉妹」という呼び名のほうが重要です。牧師も執事もみな神の家族、兄弟姉妹なのです。そして、主なる神を「父」(アッバ)と呼ぶのです。そのように呼ぶということは、神と私たちが親子の関係にあるという確かなしるしです。

 私たちは神を、「アッバ(「お父ちゃん」という意)、父よ」(8章15節、ガラテヤ書4章6節)と呼びます。そして、そのように呼ばせてくださる神の御霊が私たちに与えられているのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり(エフェソ書1章14節)、その霊の働きによって、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(第二コリント書3章18節)。

 キリストを信じて神の家族とされた私たちに勧められているのは、どのようなことでしょうか。それは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」ということです。体を献げるとは、私たちの生活すべてを神のものとするということです。兄弟姉妹すべての生活が、神のものであるということです。

 「体」(タ・ソーマタ the bodies)は複数形です。それは、信徒一人一人が様々な生活を献げるということです。ところが、「いけにえ」という言葉は単数形です。複数の体、信徒一人一人の生活のすべてを、神の御前に一つのいけにえとするということです。

 逆に考えてみると、父なる神が独り子キリストを私たちの贖いのためのいけにえとされました。この一つのいけにえによって、時代を超えたあらゆる民族、部族、すべての者が救いに与ることが出来るようにされたわけです。

 ですから、私たちが一つのいけにえとして自分の体を献げるというのは、このキリストの贖いの業に対する私たちの信仰の応答ということです。信仰の応答として、生きている体=生活を献げるということになれば、どのように生活しなければならないかということも、自ずと示されてきます。

 パウロはそれを、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言いました。私たちがキリストの慈愛に応えようとして生活することこそが、神に喜ばれる礼拝であり、聖なる=神のために区別された、とっておきの礼拝であり、生ける=命ある礼拝なのです。

 「なすべき」(ロギコス)という言葉は、第一ペトロ書2章2節では、「霊の」と訳されています。口語訳では、「あなたがたのなすべき霊的な礼拝」と訳されていました。「ロギコス」とは、「論理的な、理屈に合う」、英語の「logical(ロジカル)」にあたる形容詞ですから、「なすべき」でよいわけです。

 それが「霊的な」という意味も持つというのは、どういうことなのでしょうか。それは、ここに述べられる論理(ロジック)が、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(11章33節)とパウロが語っていた、神の深い摂理だということでしょう。

 神の愛に私たちが応答するのは当然だということですが、実に教会はキリストの体であり(4,5節など)、キリストがご自身をいけにえとして十字架に献げられたことと(エフェソ5章2節など)、すべての兄弟姉妹が一つのいけにえとして自分の生活をささげることとが、神の御前に一つとされるのです。それこそ、神の御業、霊的な礼拝と言われる所以ではないでしょうか。

 2節の「ならう」(シュスケーマティゾー)は、「形(スケーマ)を同じ(シュン)にする」という言葉です。一方、「変える」(メタモルフォオー)は、「形(モルフェー)を変える(メタ)」という言葉です。

 「スケーマ」と「モルフェー」は同じように「形」と訳されますが、基本的な違いがあります。注解書に「オランダ風の庭園をイタリア風に変えるのはメタスケーマティゾー、庭園を都市のような全く別のものに造り変えるのはメタモルフォオーである」という説明がありました。つまり、「ならってはならない」とは「同種のものになるな」ということで、「変えていただく」は、「変貌、変容する」ということです。

 6章4節で「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」と言われていたように、この「変貌、変容」は、バプテスマに関連することと考えてよさそうです。そこに、聖霊が働くのです(上述参照)。 

  その「変貌、変容」の目的を、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」(2節)なることと言います。聖霊の導きにより、神の御心をわきまえることが出来るようにされていくのです。

 主の御心を尋ねて、日々御言葉に耳を傾けましょう。御心をわきまえることが出来るよう、聖霊の導きを祈り求めましょう。そうして、神に喜ばれる「まことの礼拝」へと導いていただきましょう。

 主よ、今日の御言葉で、教会の原点を改めて見つめました。教会に集う兄弟姉妹の生活すべてが神のものであるということです。それは、私たちすべての者は、キリストによって贖われた者だからです。キリストの者とされた私たちが、どのような生活をしなければならないのか、どのようにして一つとされていくのか、教えてください。そうして、神に喜ばれるまことの礼拝をささげさせてください。 アーメン