「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解しつくせよう。」 ローマの信徒への手紙11章33節

 パウロは、なぜユダヤ人がキリストの福音の前に頑なになったのかを考えてきました。それは、ユダヤ人の滅びを願うのではなく、救いを求めているからです。同胞が救われるためなら、神から見捨てられた者となってもよいとさえ考えているほどです(9章3節)。

 そして、彼が到達した結論は、全イスラエルが救われるということでした(26節)。そのことで、先ず「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」(4節)と、列王記上19章18節でエリヤに告げられた神の言葉を引用し、「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」(5節)と言います。

 「残っている」は、「残り物」(レーンマ:remnant)という言葉で、「残り、残余、食事の残り、屑」という意味です。それはおよそ、何かの役に立つというような代物ではなさそうです。しかし、神はそれを「自分のために残しておいた」と、あたかも「とっておき」であるかのように仰っておられます。

 「バアルにひざまずかなかった七千人」は、彼らが自分の信仰心で偶像礼拝をしなかったということではありません。主なる神が彼らを憐れみによってご自分のために残しておこうと選び、恵みをお与えになったので、バアルに跪かずにすんだということなのでしょう。

 しかし、多くのユダヤ人はキリストの福音の前に頑なになり、神から見捨てられた者のようになります(9章3節参照)。そのことを17節以下で、オリーブの「折り取られた枝」と表現しています。神は、栽培されているオリーブの木の枝を折り取り、野生のオリーブの木の枝を接ぎ木したということで、ユダヤ人に替えて異邦人に救いの恵みをお与えになったというのです。

 22節に「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまる限り、あなたに対しては慈しみがあるのです」と言います。「厳しさ」(アポトミア)は、「アポ」(from,away)と「トミア」(cutting)の合成語で「切り離す」という意味の言葉です。「枝が折り取られ」(17節)たことを神の「厳しさ、慈悲の無さ」と見るという言葉遣いです。

 「慈しみ」という傘の下にとどまれば、その恵みによって守られますが、その傘から離れると、「厳しさ」が降りかかり、濡れてしまう=切り取られるという図式です。「神の選びの民」とされたことで自惚れ、その慈しみを離れて倒れてしまったイスラエルを見下すような態度をとれば、それは、神の喜ばれるところではないので、彼らも容易く切り離されてしまうと、異邦人の読者に警告しています。

 そして、25節以下にイスラエルの再興について、パウロの見解が述べられます。そこで、「一部のイスラエル人が頑なになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」(25,26節)と言われます。

 その根拠として、イザヤ書59章20,21節を引用します(26,27節)。救い主が来て、ヤコブ=イスラエルから不信心を遠ざけると語られています。不信心が一掃されるのは、神の憐れみによるのですが、イスラエルが憐れみを受けるのは、かつて神が彼らを選びの民とされたからであり(28節)、そして、神の賜物と招きとは取り消されないものだからです(29節)。

 「取り消されない」(アメタメレートス)は、「悔い改めがない、後悔しない」という言葉です。イスラエルを選びの民とし、彼らに神の賜物をお与えになったことを、神は悔いてはおられないということで、それを取り上げたり、取り消されたりはなされないという意味に用いられているわけです。

 そもそも、神がイスラエルを選ばれたのは、彼らが信仰熱心な優れた民だったからではありません。神の憐れみを受けなければ、エジプトで滅んでしまう奴隷の苦しみの中にいる、貧弱な者たちだったのです(申命記7章6,7節参照)。

 イスラエルの民が神の選びの民としての地位に安住し、他の者たちを異邦人として見下して奢り高ぶっていたので、神はイスラエルを頑なにされ、その結果、キリストの福音は異邦人のものとなりました(30節)。異邦人にキリストの福音が及んだのは、彼らがそれを信じて受け入れたからですが、その背後には、神の異邦人に対する憐れみがありました。

 選びの民が頑なになることで、そもそも不信心だった異邦人に神の憐れみが注がれたとすれば、今頑なになって神の恵みから漏れているイスラエルも、神の憐れみを受けるようになるでしょう(31節)。つまり、神の憐れみは、信仰心篤き者に注がれているのではなく、不信心な者に注がれているのです(4章5節参照)。

 32節で「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と語っているのは、そのことです。神が憐れみ深い方、恵みを豊かに注いでくださる方だったからこそ、不信心な者が不従順の状態のままで、主イエスを信じる信仰に導かれる恵みに与ることができたのです。

 ここまで考えてきて、パウロの心に命の光が差し込みました。同胞の救いを確信することが出来たのです。そこで、彼の口から賛美の言葉がほとばしり出てきました。いまだ、イスラエルの人々が福音を信じようとしているわけではありません。同胞の救いを伺わせるような状況はまだ生まれていません。むしろ、彼らはますます頑なになります。

 コリントでローマ宛の手紙を書いた後、パウロは第3回伝道旅行で集めた義捐金を届けるため、エルサレムに行き、そこで、ユダヤ人らに捕えられ、殺されそうになります。ローマで福音を証しするという使命のために、神がパウロを守っておられなければ(使徒言行録23章11節)、そこで殉教していたことでしょう。

 ですから、ここでパウロは、未だ見ぬ同胞の救いについて、信仰によって先取りして賛美しているわけです。パウロも、神が約束されたことは必ず実現すると信じているのです(ルカ1章20,45節参照)。

 冒頭の言葉(33節)でパウロは、神の富と知恵と知識の深さをたたえます。すべての民を救う神の遠大な計画に思いを馳せているのでしょう。勿論、神の定めを極めることも、神の道を理解し尽くすことも、人間に出来るはずがありません。

 けれども、神はそのような救いの計画の実現のために、教会を、そして私たちを用いられます。第一コリント書1章21節に「世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」とあります。

 神はご自分の力で救いの計画を成就することが出来るのに、人間による福音宣教という手段でそれをなさるというのは愚かなことではないでしょうか。しかし、神はその方法を選ばれました。それこそ、人間が自分の知恵や力によらず、ただ神の憐れみにより、主イエスを信じる信仰によって救われることが明らかにされることだからです。

 すべてを恵みの主の御手に委ね、自惚れることなく、むしろ、力強い神の御手のもとに謙り、御言葉と聖霊の導きに従って歩みましょう。 

 主よ、パウロが語るとおり、あなたの富と知恵と知識はあまりに深くて、それを究めることはおろか、理解することも出来ません。しかし、その富と知恵と知識の深さにより、私たちのような罪人も救いに与らせて頂きました。だから今、キリストの十字架の福音を人々に告げ知らせます。どうか同胞を憐れみ、救いに与らせるために、私たちを憐れみの器として用いてください。 アーメン