「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」 ローマの信徒への手紙10章17節

 パウロは9章から11章まで、異邦人の使徒として召された自分が、同胞イスラエルの救いのために祈り、格闘している様子を描いています。

 5節以下の段落に記されているのは、人はいかにして救われるのかということです。第一は10節で、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と語られています。

 心で信じて義とされるとは、主イエスを信じることによって神との関係が正しくなるということですから、それを救いと言ってもよいと思います。神様との関係が正しくなければ、救われているとは言いません。神様との関係が正しくなっているからこそ、神様の恵みを期待することが出来ますし、神様は私たちを様々な方法を用いて助けてくださるわけです。

 それを口で公に言い表すとは、どういうことでしょうか。私たちと神様との関係が正しくなったら、どうなるでしょうか。それによって与えられる喜び、感謝を、人に言い表さずにはおれなくなるでしょう。自分の信仰の喜びを黙っていることが出来ないでしょう。それこそが、その人が心に信仰を持っている証拠、神様に義とされたということの明らかな証明になるということでしょう。

 信仰を言い表してバプテスマを受けたから、神に義とされた、救われたというのでありません。救いに与ったので、主への信仰を公に言い表してバプテスマを受けるわけです。それによって、私たちと主イエスとの関係、神様との関係において、神の民、キリスト者としての責任を正しく果たす生活が始まります。

 私たちが天に上らなくても、底なしの淵に下らなくても、神の御子イエス・キリストが人となって、私たちのところに来られました(6,7節)。そして3年ほどの公生涯で神の国の福音を宣べ伝え、そして、十字架で贖いの業を成し遂げられ、三日目に甦られて、私たちのために救いの道を開いてくださいました。

 パウロが8節で、申命記30章14節の「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」という御言葉を引用しているのは、「御言葉はあなたの近くにあり」で、今あなたの前でキリストの福音が宣べ伝えられているということを示し、「あなたの口、あなたの心にある」で、その福音を信じ、信じた通りに口で言い表しなさいということを示すためです。

 神の御言葉が語られて、それを神の言葉として聞くことが出来た、信じることが出来た。それを口で言い表すことが出来た。それはすべて、神様が私たちに近づいて来られ,私たちを正しい関係に導き入れてくださった証拠だというわけです。

 人がいかにして救われるのかということの第二は13節で、「主の御名を呼び求める者はだれでも救われる」と言います。これは、ヨエル書3章5節の引用です。「だれでも救われる」と言われているのが、この引用のポイントです。

 「神様」と呼ぶ者は誰でも救われます。誰でもです。そこに隔てはありません。ユダヤ人もギリシア人も、男でも女でも、幼子でもお年寄りでも、学問があってもなくても、主イエスを呼び求めれば、救われるのです。

 呼び求めるとは、祈ることと言ってもよいでしょう。祈る者は救われる。それは、神が私たちの祈りを聞かれるということです。祈れば神が聞いてくださいます。エレミヤ書29章12節以下に「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」と言われています。

 主イエスを呼び求めるためには、信仰が必要です。そして、主イエスを信じるためには、キリストの福音を聞く必要があります。そして、キリストの福音を聞くためには、宣べ伝える人が必要です(14節)。

 さらに、神に遣わされたのでなければ、福音を宣べ伝えることが出来ないと言われます(15節)。パウロが一番強調したいのが、最後の「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」という言葉です。これは、福音が単なる神の知識などではなく、生ける神の言葉だからです。

 どうして人間が生ける神の言葉を語ることが出来るでしょうか。神の言葉を語ることが出来るのは、神お一人だけです。けれども、語らなくてよいわけではありません。神が、御言葉を宣べ伝えよと言われるからです。ここに御言葉を語る難しさがあります。どうすればいいのでしょうか。そこで、「神様、どうぞ私を遣わしてください」と祈るのです。

 皆、家族の救いを真剣に祈っているでしょう。しかし、自分以上に熱心に、家族に福音を伝えたいと思ってくれる人はいません。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」と言われるのですから、「私を遣わしてください」と真剣に祈るべきです。神は私たちがそう祈るのを待っておられ、呼び求める者は誰でも救われると仰っておられるのではないかと思います。

 人がいかにして救われるのか、第三は17節です。第一、第二の結論であるかのように、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と記しています。ここで、「キリストの言葉」とは、私たちがよく耳にする「ロゴス」という言葉ではなく、「レーマ」という言葉が使われています。「キリストのレーマ」という言葉になっているわけです。

 「レーマ」とは、記されている文字ではなく、語られた言葉、いわば説教を指します。8節の「御言葉はあなたの近くにあり」も、「レーマは」という言葉で、だからその後で「これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです」という説明になるわけです。

 「御言葉があなたがたの近くにある」というのは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉、つまり説教があなたのそばで、あなたの前で語られている、そういう説明になっているわけです。つまり、信仰は聞くことによって、それもキリストの説教を聴くことによって始まるのだというのです。

 直訳は「信仰は聞くことから、聞くことはキリストのレーマを通して」(17節)という言葉遣いで、ここには動詞がありません。岩波訳は動詞を補って「信仰は聞くことから〔生ずるのであり〕、その聞くことは、キリストの言葉を通して〔起こるのである〕」としています。新共同訳は、亀甲括弧の中に「始まる」という言葉を補ったわけです。

 「生ずる、起こる」であれ、「始まる」であれ、そのような動詞が補われるに違いない文脈であることは明らかです。キリストのレーマ、キリストの福音を告げ知らせる説教を聞いたままで、立ち止まっていてはいけません。それが「始まり」、そこから始まるのです。

 先ず、心にいただいた信仰を口に言い表す生活を始めましょう。そして、「わたしを遣わしてください、福音を宣べ伝えさせてください」という祈りを始めましょう。

 「よい知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(15節)と言われます。これは、イザヤ書52章7節の言葉の引用です。なぜよい知らせを伝える者の口ではなく、足が美しいというのでしょうか。私の足は丈夫とか、優美な足だということではないでしょう。これは、生活ということです。私たちの生活が用いられるということではないでしょうか。

 特に変わった生活をして見せるというようなことではありません。日常生活、通常の生活の中で、その生活の中心に信仰が生きている、御言葉に耳を傾けつつ歩む生活、祈りがある生活をするということです。そうすることで、イエス・キリストの御名によって立って歩いているということを、見せるのです。

 誰かにキリストのよい知らせを伝える前に、信仰を持つように勧める前に、自分自身がいつも神の御言葉に聴き、主イエスに従って歩む者となるということです。そうして、御言葉に耳を傾けつつ、主イエスの証人として御言葉を宣べ伝えるために遣わしてくださるように祈るのです。

 よい知らせを宣べ伝えている人の生活は、なんと美しいことかと、それを見た人が言い、それによってその人が、信仰の門を叩き始めてくださると、本当に素晴らしいですね。そして、イザヤにそう語らせた主が、私たちにその美しい生活をして見せてほしいと仰っているのではないでしょうか。

 主よ、私たちの心の耳を開いてください。聖書の御言葉を読むとき、福音の説教を聞くとき、あなたの御声を聞かせてください。私たちの心の目を開いてください。常に主の御顔を仰ぎ、その御業を拝させてください。主との交わりを深めて、聖霊の交わりと導きに与り、その力を受けて主の証人として遣わしていただくことが出来ますように。 アーメン