「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 ローマの信徒への手紙5章5節

 3,4章で「信仰義認」という主題を展開したパウロは、ここから、神に義とされたキリスト者として生きる生活について語り始めます。つまり、「神の義」は神による救い、神にある新しい生命を意味するものであり、福音は「救いをもたらす神の力」(1章16節)であるということを展開していくのです。

 1節で「信仰によって義とされた」ことを「神との間に平和を得た」と言い、2節でパウロは「キリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と語った後、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(3節)と語ります。「誇る」(カウカオマイ)は「喜ぶ」とも訳されます(口語訳、新改訳。欽定訳:glory)。

 通常の心理であれば、苦難はいやです。避けたいものです。神の栄光に与るためには、苦難を避けられないということも考えられますが、それならば、苦難を誇るというよりも、苦難を切り抜け、乗り越えた経験や知恵などを誇りとすると言った方が分かり易いです。苦難を誇るというのは、どういうことなのでしょうか。

 ここに、「神の栄光に与る希望」と「苦難」が誇りの対象とされているようですが、原文を直訳すると、神の栄光への希望の「上で」(エピ)誇る、苦難の「中で」(エン)誇るという表現になっています。つまり、神の栄光への希望が誇りの土台、その根拠で、苦難はパウロたちキリスト者が置かれている環境、状況を示しています。

 パウロは3,4節で「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と語っています。聖書で「知る」というのは、一般的な知識ではなく、体験的に味わった知識です。つまり、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを体験したということです。

 主イエスに従うキリスト者たちは、様々な苦難を経験していました。忍耐は、苦難をじっと我慢したというのではなく、どんなに苦しめられても福音の証しをやめないことを指します。そして、練達とは、信仰が本物であると証明されるということを表します。そして希望は、神の栄光に与ることを望む心です。

 神の栄光に与る希望を土台として誇りに生きるパウロらキリスト者は、苦難が神の栄光に与る希望をより確かなもの、強固なものとするゆえに、苦難という状況でも誇ると語り得ました。苦難の重圧が増せば耐える力も増し、耐える力が増せば練達が底光りするほどのものとなる、そして、練達が増すことよって、それだけ希望が確固たる基礎の上に置かれることになるというのです。

 パウロはなぜ、苦難が栄光に向かって人を導く道であると信じる信仰に堅く立つことが出来たのでしょうか。その根拠について冒頭の言葉(5節)で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」と言っています。

 「注がれている」というのは、「注ぐ」という動詞の完了時制・受身形です。つまり、今注がれているというのではなく、既に注ぎ込まれて私たちの心は神の愛で満たされている、その状態が続いているということになります。

 私たちがキリストを信じてその信仰を表明することが出来たのは、聖霊の働きです(第一コリント書12章3節)。私たちの体はキリストによって贖われ、聖霊が宿られる神殿とされています(同6章19節)。私たちの内におられる聖霊との交わりが開かれたとき、自分は神に愛されているという確信が与えられます。

 パウロは、神の愛によって救いを体験しました。パウロが「まだ弱かったころ」、「不信心な者」(6節)であったとき、また「まだ罪人であったとき」(8節)、さらには「敵であったとき」(10節)に、キリストが死んでくださったことによって神の愛が示され(8節)、神と和解させていただいたのです(10節)。

 その愛に押し出されて、キリストを証しする者、その福音を語り伝える伝道者となりました。そして、苦難にあうとき、その愛に支えられました。ゆえに、キリストの証人として、いつでもどこでも堅く立つことが出来たのです。

 以前、「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章11節以下)から、「我に返るとは、神が私を愛しておられる、私は神に愛されているという原点に返ること」と学び、「土のチリという価値なきもので、私という人間が神のかたちに創り出された。それは神の愛である。この愛を知った者は、命を粗末に扱うことは出来ない。それは罪だ」と教えられました。

 被造物である私たちは、この神の愛を、様々な人や出来事との出会いを通して経験的に学びます。「この人と出会わせてくださったのは、神の愛だ」、「こういう出来事に遭遇したのは、私が神に愛されている証拠だ」というようなことです。

 そして、その出会いは、私たちにとって嬉しいこと、楽しいことばかりではありません。放蕩息子は、手持ちの財産を使い果たし、その上で飢饉に遭遇するという最悪とも思われる事態の中で、「我に返って」(同17節)、親の愛、神の愛のうちに自分を回復することが出来ました。

 主なる神は、その愛を知らせるために独り子イエスをこの世に送られました(ヨハネ3章16節、第一ヨハネ4章9節)。神のみ子が人となり(フィリピ書2章6,7節)、私たちをその罪の呪いから贖い出すために、十字架に死なれたのです(ガラテヤ書3章13節)。主イエスを信じる信仰に導く出会いを与えてくださった神に心から感謝します。

 家族、知人友人、周辺にいる人々に、キリストとの出会いを提供する伝道の業に、皆で心を合わせ、祈りを会わせ、共に励んでまいりましょう。

 主よ、聖霊のお働きを通して、私たちに主イエスを信じる信仰の導きと、神に愛されているという確信をお与えくださり、有難う感謝致します。周りの人々に神の愛と恵みを証しすることが出来ますように。そうして、いつも聖霊に満たされ、心から御名を賛美させてください。 アーメン