「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」 ローマの信徒への手紙4章5節

 3章21節以下で、信仰によって神に義とされることを力強く語ったパウロは、その根拠を聖書に求めます。3節に「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、神の義と認められた』とあります」と語られているのは、そのためです。

 ここに引用されているのは、創世記15章6節の言葉がです(ガラテヤ書3章6節も)。パウロはイスラエルの父祖アブラハムに焦点を当て、アブラハムが義と認められたのは、神を信じたその信仰のゆえであることを、この御言葉を引用することによって示しています。

 信仰によって義とされるというのは、律法の行いという働きの報酬ではなく、神から与えられる恵みです(4節、3章21,24節参照)。行いによらず、働きなしに神の恵みを受けた人の幸いを、ダビデの詩を引用して示します。7~8節は、詩編32編1,2節からの引用です。

 どうしてダビデは、不法が赦され、罪を覆い隠された人、主から罪があると見なされない人の幸いを語ることが出来たのでしょうか。それは、ダビデ自身が、その幸いを味わったからに他なりません。ダビデの不法が赦され、罪が覆い隠され、主から罪なしと見なされたのは、彼が律法を熱心に行っていたからではありませんでした。

 ダビデが律法を熱心に、そして完全に行うことが出来ていれば、罪の赦しは不要でした。罪があるということは、神に背き、律法に従い得なかったということです。にも拘らず、罪が赦されたのは、神が彼を深く憐れみ、恵みを与えたからです。ダビデはその恵み、不法が赦され、罪が覆い隠される幸いを味わったので、このように詠っているわけです。

 さらに、神に義とされることが恵みであるということについて、アブラハムの信仰が義と認められたのは、割礼を受けてからか、それとも割礼を受ける前かと問いかけます(9節以下)。アブラハムが割礼を受けたという記事は、創世記17章に記されています(特に23節)。対して、信仰が義と認められたのは、同15章6節に記してあると前に述べました。

 これで明らかなように、アブラハムの信仰が義と認められたのは、割礼を受ける前のことでした(10節)。ですから、アブラハムが割礼を受けたのは、義と認められ、救いを完成させるためではありません。そうではなく、義と認められ、救われたしるしとして、割礼を受けたのです(11節)。

 「認められる」(ロギゾマイ)は、「数える、計算する、考慮する、見なす、もくろむ」という言葉です。これはパウロがよく用いる言葉で、新約聖書に40回用いられている内、34回をパウロが用いています。ローマ書に19回あり、しかも4章に11回用いられています。

 ここでは、商取引の勘定書きに由来する比喩的表現として、「(貸し方に)書き入れる」という意味を含み持つと、ニューセンチュリー聖書注解に記されていました。即ち、「アブラハムの信仰が、義を受けることを見込んで、貸し方に書き込まれた」と解するべきだというのです。「義と」(エイス・ディカイオシュネーン)の「エイス(into:~へと)」は、目標を表す前置詞です。

 パウロは、自分の信じる神を冒頭の言葉(5節)で「不信心な者を義とする神」と呼んでいます。これは、驚くべき言葉です。「不信心」(アセベース)とは、文字通り信仰心がないこと、不敬虔なことです。不信心な者、信仰心なき者は神に裁かれるという御言葉があります(第二ペトロ書3章7節、ヨハネ福音書3章18節)。

 「わたしは悪人を、正しいとすることはない」(出エジプト記23章7節)という言葉を70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)で見ると、「悪人」は「アセベース」で「不信心な者を義とすることはない」と読めます。その人が義とされるとすれば、それは善い行いによって救いを獲得するのではなく、不信心な者をお救いくださる恵みの神に信頼する以外にありません。

 この関連で、アブラハムが信仰によって神に義と認められたということは、自分の子孫が星の数ほどに多くなる言われた主なる神の言葉を信じる以前は(創世記15章5,6節)、アブラハムは「不信心な者」だったということになるでしょう。 

 パウロ自身は、不信心な者ではありませんでした。むしろ、神を信じ、熱心に律法を行う者でした。その熱心のゆえに、キリスト教徒を迫害しました(フィリピ書3章5,6節)。キリスト教徒が安息日を厳格に守らないなど、律法を守らず、神に背くように人々を唆していると考えたからです。

 ところが、パウロは主の声を聞きました。それは「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9章4節)という声でした。パウロは、キリスト教徒を迫害することが、まことの神に敵対し、主を迫害する行為であると知ったとき、どんなにショックだったでしょうか。信仰熱心と考えていたことが、全くの勘違いだったわけです。

 かくてパウロは、自分の律法の行いによっては、神に義とされ得ない者だったのです。ということは、主イエスを信じないで教会を迫害する者であったパウロは、先のアブラハムと同様、「不信心な者」ということになります。しかるに神は、不信心なパウロをキリストの福音を異邦人に語り伝える伝道者として任命されたのです。

 だから、「不信心な者を義とする神」とは、神に敵対している者を信仰に導き、義とされる神ということです。であれば、神に義とされない人がいるのでしょうか。パウロは、一人もいない、誰もが神の恵みによって義とされ、救いに与ることが出来ると信じているからこそ、この福音をユダヤ人ばかりでなく、異邦人にも宣べ伝えたのです。

 迫害者を伝道者に造り替えられた主の恵みが、私たちにも注がれています。不信心な者を義とされる主の恵みに感謝し、その恵みに応えて、それぞれに語りかけられる主の御声に聴き従いましょう。 

 主よ、あなたから正しい関係へと招かれているのに、なおも背を向けてその恵みを味わおうとせず、永遠の命を粗末にしている人々に、主の福音を熱心に伝えることが出来ますように。恵みに与っている者たちが、感謝を忘れず、いつも喜んで歩むことが出来ますように。 アーメン