「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」 ローマの信徒への手紙3章24節

 21~31節の段落は、ローマ書全体の主題を表していると言われます。ここまでパウロは、すべての人が罪のもとにあること(1章18節以下、3章9節以下)、律法を授かったユダヤ人も、律法の行いによっては神に義とされ得なかったとこと(2章1節以下、3章1節以下、20節)を語って来ました。

 けれどもここからは、そのような状況に終止符を打つ出来事について語り始めます。それで、「ところが今や」(ヌニ・デ but now:21節)と語り始められているのです。パウロはここに、「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」と記します。

 「律法とは関係なく」、即ち一切の法的行為の実行とは無関係に、「神の義」、即ち神と正しい関係にあるということ、言い換えれば神の救いが示されたということです。「律法と預言者」とは、「トーラーとネビーム」つまり旧約聖書ということで、パウロは、旧約聖書の中に神の救いが告げ示されていると言うのです。

 旧約聖書で予め告示されてきた神の救いを、22節で「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」と説明します。新たに示された神の義=救いの根拠をなすのは、イエス・キリストに対する信仰です。

 冒頭の言葉(24節)のとおり、主イエスが贖いの業を成し遂げられました。ここで「贖い」(アポルトゥローシス)とは元来、奴隷や戦争捕虜の「釈放、解放」を意味し、それは一般に「身代金、贖い代」(ルトゥロン)によって成立します。「無償で義とされる」ことを「神の恵み」というのは、私たちに替わって主イエスが身代金を支払ってくださったからです。

 主なる神は、主イエス・キリストを信じる者を義とするため、キリストをこの世に遣わされ、罪を償う供え物とされました(25節)。「罪を償う供え物」(ヒラステーリオン)はとても珍しい言葉で、新約聖書中にはあと一回、ヘブライ書9章5節に用いられています。そこでは「償いの座」と訳されています。「償いの座」とは契約の箱の蓋のことで、この蓋の上にケルビムが設置されています。

 「償いの座」を旧約聖書では「贖いの座」(カポーレト:出エジプト記25章17節)と呼んでいます。「カポーレト」は「覆い隠す」という意味で、神の愛が人の罪を覆い、神の裁きから罪人を隠すということを表します。70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)では「贖いの座」を「ヒラステーリオン」とギリシア語訳しています。新約聖書は70人訳の用語を用いているわけです。

 イスラエルにおいては、大祭司が一年に一度、民の罪の償いのために至聖所に入り、そこに贖罪の血を注ぎます(ヘブライ書9章7節)。パウロがここで「ヒラステーリオン」を用いているということは、キリストの十字架こそ「償いの座」であるという信仰を表しているのです。それは、律法によっては成し遂げられなかった救いの御業を、キリストが十字架によって完成されたということです。

 神による救いを「義」と表現しているのですが、それは、神との関係が正しくなるということです。義という漢字は、「羊」の下に「我」と書きます。罪を取り除く神の子羊なるキリストの下に自分を置く、即ちキリストに従うときに、神との関係が正しくなると読むことが出来ます。

 漢字の成り立ちを調べると、「我」というのは、刀を振り下ろすという字で、羊に刀を振り下ろす、つまり羊を殺して相手に差し出すことで、関係を回復する、相手との関係が正しくなるというのが、「義」の意味なのです。中国で「義」という字が作られるとき、聖書の福音の影響があったのではないかと思わざるを得ません。

 私たちが義とされるのは、私たちにその資格があるとか、権利を持っているというわけではありません。23節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」と記されているとおりです。

 「受けられない」(フステレオー)というのは、「欠けている、不足している」という意味の言葉です。義の業を行おうとしても、罪を犯すために、神の栄光が欠けている、不足している。そこで、「神の栄光を受けられない」と訳されているのです。いったい誰が、神の独り子イエス・キリストの命の代価を支払うことが出来るでしょうか。だれにも出来はしません。

 だから、冒頭の言葉どおり、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」道を、神が開いてくださったのです。信じるだけで、誰でも無償でその恵みに与ることが出来るようにしてくださいました(22節)。ここに、神の愛が表されています。私たちの罪の贖いのために、独り子を犠牲とされたからです。実に考えられない恵み(アメージング・グレイス)です。

 「信じるだけで」と申しましたが、この信仰も、私たちが神を信じようと思って、自分の内側から出て来たようなものではありません。信仰も、神から頂いたのです。もしも、「私たち自身の信仰」が義とされる拠り所であれば、こんな不確かなことはありません。なぜなら、私の信仰心は、状況に振り回され、時には不信仰にさえなるからです。

  22節に「イエス・キリストを信じることにより」という言葉がありますが、原文を直訳すると、「イエス・キリストの信仰によって」となります。「信仰」(ピスティス)は、相手に対する真心、誠実という意味ですから、「イエス・キリストの真実によって」という意味になります。

 つまり、私たちが神の救いに与ることが出来るのは、キリストの真実に支えられてのこと、即ち、すべてが神の恵みであるということです。そのことを喜び、感動するからこそ、今こうして主イエスを信じ、神を礼拝する恵みに与っているわけです。

 いつでも神の恵みに対する感謝を忘れず、主の十字架に目を向け、その御顔を仰いで行きましょう。

 主よ、あなたは私たちが御子イエスを信じるだけで義とされる、神の救いに与る恵みの道を開いてくださいました。心から感謝します。その恩を忘れず、絶えず恵みの道、命の光のうちを主と共に歩み、委ねられた御業に励む者とならせてください。 アーメン