「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」 ローマの信徒への手紙2章1節

 パウロは、1章18節から「人の罪」について記しています。特に、神以外のものを神とする異教の偶像礼拝に触れていますので(1章22,23節)、その矛先が異邦人に向けられていると言えます。そして、返す刀で今度はユダヤ人に切り込みます。それが、冒頭の言葉(1節)で始まる2章の記述です。

 「だから」(ディオ)とは通常、前に述べたことを根拠として、結論を述べるのに用いられる接続詞ですが、ここでは「異邦人と同じように」という意味で用いられています。ですから、「すべて人を裁く者よ」とは、ユダヤ人のことを言っていると考えられます。

 ユダヤ人は、パウロが前段で語っていた異邦人に対する裁きについて同意するでしょう。そして、自分たちは真の神を礼拝し、真の神によって特別な選びの民とされていることを喜ぶでしょう。けれども、真の神を知らずに偶像を作り、不義を行っている者を愚かと笑い、彼らに神の裁きが下るのは当然だと思っているユダヤ人にも、同じ裁きが下るのです。

 というのは、ユダヤ人は偶像を作ることはないかもしれません。異教の礼拝に加わり、そこでの淫行に加わることはないかもしれません。けれども、1章29~31節に列挙されている悪徳と完全に無縁の人など、存在し得ないのではないでしょうか。誰が他人を裁く正当な権利を持っているでしょうか。

 それは、主イエスが言われたとおり、「罪を犯したことのない者」(ヨハネ福音書8章7節)です。主イエスの御言葉が耳に届けば、誰も人に向かって石を投げることは出来ないでしょう。自分の罪を思い出した者から、その場を去らなければならなくなります(同9節)。

 ユダヤ人は、自分たちを神の選びの民とし、自分たち以外の者を「異邦人」(エスノス)として差別していました。ギリシア人は、ユダヤ人から異邦人として差別されていますが、彼らは自分たちを「知恵のある人」(ソフォス:1章14節)と呼び、それ以外の者を「未開の人」(バルバロス「野蛮人」の意:同節)と呼んで差別します。

 戦時中、日本は神州、神の国であり、自分は現人神なる天皇の赤子、日本帝国に併合した朝鮮半島や台湾の人々から第二国民として差別し、敵対していた連合国人を鬼畜生と呼んでいたのと同様です。自分たちは神の側に立っている正しく賢い者と考えるので、そうでない他の人々を正しくない愚かな者として差別するのです。

 これはしかし、昔話や他人ごとではありません。私のことです。他人が自分のことを悪く思っていることを知ると、夜も眠れなくなるほど落ち込むのに、自分の秤に合わない人のことを悪く思います。一度悪い判断を下せば、なかなか修正出来ません。もし傷つけられるような経験をしたなら、相手を罪に定めて決して赦そうとは思いません。

 だから、自分は神によって罪赦された者であることを喜びながら、他人を罪に定めているとすれば、神の裁きが降りかかることを知らなければならないのは、私自身です。当然のことですが、神の愛と罪の赦し、救いは、私たちが神に代わって他人を裁くために与えられたわけではありません。

 神の憐れみは、私たちを悔い改めに導くために与えられているのです(4節)。神が私たちに望まれているのは、他人を裁くことなどではなく、私たちが神のみ旨に従って他者を愛する者、仕える者となることです。

 私は、パウロが冒頭の言葉で語っているとおりの罪人であることを認めざるを得ません。それを告白します。主イエスの赦しがなければ、裁きを受けて滅ぼされるべき存在です。自分のしたい善を行う力がなく、したくない悪を行ってしまいます(7章19節)。現在も、瞬間瞬間、主イエスの赦しを必要としている者です。

 神の憐れみにより、悔い改めに常に導かれたいと思います。共に、御言葉により御霊の導きに従って、主の御心を行う者としていただきましょう。

 主よ、いつの間にか、自分一人で、自分の力で歩いているかのように錯覚していました。そして疲れていました。今日、そのことに気づかせてくださいました。主の赦しがなければ、前進出来ません。主の十字架を仰ぎます。すべてを御手に委ねます。主のもとに解決があるからです。御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。 アーメン