「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。」 使徒言行録19章18節

 パウロが第三回伝道旅行に出て、ガラテヤやフリギアの地方を巡回してすべての弟子たちを力づけた後(18章23節)、エフェソに下って来ました(19章1節)。エフェソは、アジア州第一の都市です。エーゲ海に面する港町で通商によって富み栄え、シリアのアンティオキア、エジプトのアレキサンドリアと並ぶ東地中海の三大都市の一つに数えられていました。

 パウロがエフェソにやって来たのは、第二回伝道旅行の際の訪問(18章19~21節)に続いて二度目ですが、一回目はごく短期間の滞在でした。今回は、アレキサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家の宣教によって教会の礎が築かれ始めたところで(同24節以下)、パウロがアポロのバトンを受け取って、宣教の働きを進めるのです。

 そこで先ず「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」(2節)と、エフェソの信徒たちに尋ねます。彼らは、聖霊の存在を聞いたこともないと答えます。ヨハネのバプテスマしか知らないということだったので(3節、18章25節)、彼らに主イエスの名によるバプテスマを授け(5節)、パウロが彼らに手を置くと、聖霊が降りました(6節)。

 その人数が「12人ほど」(7節)と告げられており、主イエスが選び出した12人にも似て、彼らがエフェソの教会の中心的な役割を担う存在となっていたのでしょう。そしてそれは、主イエスの働きが12人によって担われることになったように、パウロの働き、即ち異邦人伝道の働きが彼らにより、そうしてエフェソ教会によって担われることになったのでしょう。

 教会の足場を固めたパウロは、前に訪ねたこともあるユダヤ人の会堂(18章19節)に入り、三ヶ月に亘って神の国について大胆に論じ、人々を説得しようとしました(8節)。けれども、ユダヤ人の一部は頑なで福音を信じようとしないだけでなく、非難する者たちもいました(9節)。

 そこで、パウロは会堂を離れ、弟子たちをも退かせて、ティラノという人の講堂で教え続けました(9節)。その生活がいつの間にか2年に及びました(10節)。長い時間をこのエフェソで過ごしたわけです。20章31節には、3年間教えたというパウロの言葉が記録されています。

 「講堂」(スコレー)という言葉は、現在の「学校」に通じる言葉ですが、もともとは「暇、労働からの自由」で、余暇に議論を戦わせたり、学びをしたりというところから、講堂、学校という場所を指す言葉になったようです。パウロは、午前中テント作りの仕事をして生活の糧を得る傍ら、人々が昼寝をする午後の時間、講堂に入って福音を説き続けたのです。

 この宣教活動により、アジア州に住む者は、誰もが主の言葉を聞くことになったと、10節に記されています。勿論、パウロ一人ですべての人々に宣べ伝えたというのではないでしょう。エフェソや周辺の教会の人々がパウロの宣教活動に励まされて、熱心に福音を伝えたことでしょうし、また教会に好意を持つ人々によって口伝えに、ときには反対者の口によっても広められたと考えられます。

 そのような熱心な宣教活動に伴い、目覚しい奇跡も起こりました。パウロが身に着けていたものに触れると、病人が癒され、悪霊が出て行くほどだったと報告されています(11,12節)。それを知った占いや呪いをする祈祷師たちで、主イエスの名を唱えて悪霊を追い出そうとする者も出てきました。

 「ユダヤ人の祈祷師」とありますが、ユダヤ人は元来、占いや呪いを禁じられています(申命記18章9節以下)。それによって運命を先取りし、あるいはその運命を変えようという行為は、神の力を自分のために利用しようとすることだからです。神は、そのような異教の習慣を厭われるのです。

 祭司長スケワの7人の息子たちがそんなことをしていたとありますが(14節)、スケワという名の祭司長がいたという記録は残っていません。あるいは、由緒正しい祈祷師であると宣伝するために、そのように名乗っていたのかも知れません。

 悪霊に取りつかれた一人の男に、この7人が「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」(13節)と、イエスの名の権威で悪霊を追い出そうとしました。ところが、「イエスもパウロもよく知っている、お前たちはないものだ」と言い返され(15節)、そしてその男が7人に飛び掛り、酷い目に遭わせたので、彼らは裸で逃げ出しました(16節)。

 神の厭われることを行っている祈祷師たちが、真の信仰を持っていないのですから、主イエスの名を語ったところで、役に立つはずがありません。しかし、その事件がエフェソ中に知れ渡り、主イエスの名は大いにあがめられることになりました(17節)。

 冒頭の言葉(18節)に「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」と記されています。「悪行」と訳されているのは、「行い」(プラークシス)という言葉で、この言葉に「悪」というニュアンスはありません。口語訳などは「行為」、「していること」と訳しています。新共同訳は、前後の文脈から「悪行」と意訳しているわけです。

 ここで「悪行」というのは、占いや呪い、魔術の類を行っていたことを指します。それが信仰に入る前か、入った後のことかは記されていません。あるいは、主イエスを信じた後も、その悪行をしていたのではないでしょうか。その「悪行」を告白して、魔術の本を焼き捨てました(19節)。

 「エフェソの書簡」と呼ばれる魔術の本は、高い値で売れたそうです。それだけ、エフェソでは「悪行」がはびこっていたということでしょう。であれば、その町に、占いや呪い、魔術を捨て去って主イエスを信じる信仰に入る人々が起こされたところに、聖霊の力を受けて福音を告げ知らせるパウロと弟子たちの働きのめざましさが示されます。

 また、悪霊との関わりや異教の習慣を断ち切ることによって、まことの神を畏れ、ただ主イエスを信じる信仰によって生きるということを、教会の内外に明確に表しました。それによって、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していきました。その信仰が神に喜ばれたのです。

 私たちも主イエスの福音によって救われ、神を「アッバ、父」と呼ぶ信仰に生かされています。日々聖霊の導きを求めながら主のみ言葉に耳を傾け、その導きに従って生きることを通して、主こそ神であられることを証しする者と慣らせていただきましょう。 

 主よ、信仰に入る前だけでなく、信仰に入ってからも、あなたを悲しませることを繰り返している私たちです。あらゆる汚れを清め、清い新しい霊を授けてください。日々聖霊の導きを慕い求めつつ主のみ言葉に耳を傾け、主のみ心をわきまえる者としてください。そうして、御心がこの地に実現されますように。 アーメン