「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」 ヨハネによる福音書15章16節

 主イエスは、主イエスを信じ、主イエスに従う私たちを「わたしの友 my friends」(14節)とされました。「僕(ドゥーロス:奴隷)」ではなく、「友(フィロス)」と呼ばれます(15節)。冒頭の言葉(16節)のように、私たちが主イエスを友と選んだのではありません。主が私たちを選んでくださったのです。

 私たちには、主イエスの友として選ばれる資格などありません。神の選びの条件に適合したというわけではないのです。神が一方的な憐れみによって声をかけてくださらなければ、友はおろか、僕となることさえ出来ません。どうして人間の私が、神の選びの子、友となることが出来るでしょうか。選んでくださった主イエスの愛と恵みに感謝するだけです。

 その友としての選びは、また任命でもありました。「あなたがたを選んだ」と言われた主イエスは続けて、「わたしがあなたがたを任命した」と言われています。私たちは主イエスに選ばれ、任命され、派遣されて、主イエスのために、主イエスに代わって仕事をするのです。

 「任命する」の原語「ティセーミ」には、「置く、定める、設ける」という意味があります。この「ティセーミ」が、13節の「(友のために命を)捨てる」というところに用いられていました。文字通り、主イエスが私たちのために「命を捨てられて」、主イエスに友として「任命された」のです。

 私たちのために命を捨てて私たちを贖い、神の子としてくださった主イエスが、私たちにご自分の仕事を託されました。そんなことがあり得るのでしょうか。理屈では到底考えられません。神の愛は、私たちの理屈を超えています。

 人間が主イエスの仕事をすることが出来るのでしょうか。出来るはずがありません。どうすればよいのでしょうか。だから主イエスは、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」、私たちを任命したと言われ、祈ることを教えてくださったのです。何を願いますか。主イエスがしようとしておられることが、私たちを通して実現されるようにと願います。

 そのために私たちが任命されているのですから、私たちが主の仕事を実行出来るように、と願います。主は特に、「互いに愛し合え」と命令されています(12,17節)。愛し合うことを通して、私たちが主イエスの弟子であることを皆が知るようになるからです(13章34,35節)。

 「わたしの名によって願うものは何でも与えられるように」と、弟子たちに祈るように示された主イエスは、14章13節でも、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と言われていました。16章23節にも、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と告げられます。

 繰返し、わたしの名で願えと言われていて、主イエスの名をもって祈る、主イエスの名代として祈る、さながら、主イエスご自身が祈っておられるように、その名で祈ること、それで、その祈りがかなえられるということを教えられています。

 14章では、主の名による祈りについて語られた後、「別の弁護者」として(14章16節)、「真理の霊」(同17節)なる聖霊が与えられる約束が語られます。さながら、聖霊を主イエスの名で求めなさいと教えられているかのようです。

 15章では、主の名によって祈るよう指示した後、迫害の予告が語られます(15章18節以下)。迫害の中で、しかし、別の弁護者なる真理の霊の主イエスについての証しを受けて(同26節)、弟子たちも証しをすると言われます(同27節)。聖霊の満たしにより力を受けて、主イエスの証人とされるのです(使徒言行録1章8節)。

 かつて、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所では、脱走者が出ると見せしめのために数人をガス室送りにしていたそうです。あるとき、脱走者が出て、見せしめのための犠牲者が数名、その名を呼ばれました。そのうちの若い一人が、妻子家族のことを思って泣き始めました。

 そのとき、一人の人物が、その若者の身代わりを申し出ました。それはポーランド人の神父、日本でもお働きになったことがある、マキシミリアノ・コルベ先生です。先生は、その若者に代わって処刑棟(餓死塔)に連れられて行きました。先生が入れられた監房からは、ロザリオの祈りや賛美の声が聞かれ、苦しみの中で人々を励まし、仲間の臨終を見送ったそうです。

 監房に入れられてから2週間後、死を早めるための注射が打たれ、先生は永遠の眠りにつきました。その顔は、神の栄光に輝いていたそうです。主イエスに代わって十字架の愛を示された、美しい物語です。カトリック教会は、先生を『愛の殉教者』と呼びました。

 そして「『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』とキリストは語った。コルベ神父は文字通りこの言葉を実行した。彼は自分が身代わりとなることで、ひとりの命を救っただけでなく、他の受刑者と苦しみを共にすることを選んだ。彼は最期まで、見捨てられ絶望した人々の友であった。そして、彼の名は永遠に全世界の人々に記憶されることになった」と称えています。

 主に愛され、罪赦されて神の子とされ、友と呼んでいただいている者として、主を愛し、隣人を愛する愛に生きることが出来るよう、聖霊の導きを願い、主イエスの名によって祈りましょう。

 主よ、私たちには、他者のために命をささげる勇気も力もありません。しかし、主イエスは私たちのために命を捨ててくださいました。私たちにも、主イエスの仕事が出来るように、必要な力と勇気を与えてください。 アーメン