「そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたのときはいつも備えられている。』」 ヨハネによる福音書7章6節

 7章には、仮庵祭にエルサレムへ向かわれる主イエスを巡る出来事が記されています。ということは、過越祭前の出来事を記す6章と本章の間には、半年という時間が経過したことになります。その中で、14節以下の段落は、5章9節以下で展開された安息日の論争を締め括る内容になっています。

 2節に「仮庵祭が近づいていた」と記されています。歴史家ヨセフスの記述によれば、仮庵祭は、イスラエルにおいて最も盛大に祝われる祭りだったようです。元来、ぶどう酒や果物、オリーブの収穫感謝祭として、9月末から10月の初めにかけて7日間祝われました。

 人々はこのとき、果実の収穫のために簡単な小屋を作り、そこで寝起きします。それが仮庵祭の名の由来です。それを、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野でテント暮らしをしていたことと重ね、主の救いを記念するため、家の屋上や広場に仮小屋を建て、七日間を過ごします(レビ記23章34節以下、42,43節)。

 そのとき、主イエスの実の兄弟たちが、「ユダヤに行き、している業を弟子たちに見せてやりなさい」(3節)と勧めます。ユダヤとは、エルサレムのことでしょう。盛大に祭りが祝われているところで、主イエスのしている業、それは奇跡のことを指していると思われますが、それを行いなさい。公に教えを広めようとしながら、隠れて行動する者はいないだろうというのです(4節)。

 兄弟たちは、何も、無責任に語ったわけではないでしょう。むしろ、主イエスの応援者であったろうと思います。5章以下、主イエスはユダヤ人から命を狙われるようになって来ました。

 その後の主イエスの言動から、主イエスのもとを離れていく弟子たちも少なくなかったものと思われます(6章66節)。だから、仮庵祭のように人がたくさん集まる祭りは、名を上げ、教えを広める絶好の機会だ、今このチャンスを逃してはいけない、というわけです。

 それに対して語られたのが、冒頭の言葉(6節)です。「わたしの時はまだ来ていない」。これは、まだ、主イエスの出番ではない、出る幕ではない、タイミングが早すぎるという意味になるでしょう。このとき、主イエスはご自分の出番は、いつ、どのようなときと考えておられたのでしょうか。

 主イエスご自身の言葉ではありませんが、この「時」について、気づかされる記述があります。それは30節で、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」と記されています。

 これを読むと、主イエスを捕らえようと思ったけれども、まだその「時」が来ていなかったので、それを控えたということのようです。まるで、「時」が来ていないということを、人々が理解しているからであるかのように受け取れますが、勿論そうではありません。

 実際に捕らえようと思ったのだけれども、なぜかそのとき、主イエスに手をかけることができなかったということです。それをヨハネが、まだ「イエスの時はまだ来ていなかったからと説明しているのです。

 つまり、この「イエスの時」というのは、神がご自分の計画を進めるためにそのタイミングを図っておられるということです。だから、人がそれに介入したり、変更したりすることを許されないものなのだということが示されます。

 さらに、主イエスの兄弟たちは、今が売り込みのチャンス、名を上げる時であると考えたわけですが、主イエスの時というのは、自分を売り込んで名を上げるときではなく、ユダヤ人に捕らえられ、十字架に殺される「時」であると知らされます。

 33節で、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」というのは、その時のことを語っています。そしてそれは、神が私たちの救いの道を開いてくださる時であり、それによって、私たちが永遠の命を得ることができるようになる時です。

 さらに、主イエスを信じる者に与えられる霊について、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37,38節)と言われます。主イエスの時が来れば、聖霊が降るのです。 

 私たち罪人を救うために、神が独り子を贖いの供え物とする「時」を定め、ご自分の権威をもってそれを成し遂げてくださいました。それを信仰をもって受け止めた者たちが、神の子とされる「時」がやって来ました。そして、その私たちを通して聖霊が働かれる「時」がやって来るというのです。感謝以外のなにものでもありません。

 「今や、恵みのとき、今こそ、救いの日」(第二コリント書6章2節)と、瞬間瞬間主への感謝を込めて、委ねられた使命を全うさせていただきましょう。

 主よ、私たちの歴史の中で、「主イエスの時」にご自分の権威と御力をもって贖いの御業を完成し、栄光を現してくださり、感謝致します。「聖霊の時」がやって来て、私たちも主イエスを信じる恵みに与りました。今こそ、主の恵みの時であることを悟りました。主こそ歴史の主であり、また、万事を益に変えてくださるお方であることを信じ、感謝致します。 アーメン