「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」 ルカによる福音書18章8節

 ルカは、17章11節に「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」と記して、9章51節から始まったエルサレムへの旅路にあることを読者に確認させました。

 そして、それが十字架への道行きであることを、18章31節以下、「イエス、三度死と復活を予告する」という小見出しの段落で明示するのです。そのようにして、弟子たちをはじめ福音書の読者たちにも、主イエスに従う姿勢、心構えを教え、その意志、覚悟を問うているわけです。

 あらためて、18章はルカの独自資料に基づいて二つのたとえ話(1~8節、9~14節)を記した後、15節以下はマルコ福音書に従う記事になっています。そこに、上述の「イエス、三度死と復活を予告する」の段落があり、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」(31節)と、いよいよエルサレムが近づいたことを告げます。

 今日は、最初の「やもめと裁判官」のたとえが語られている段落から学びます。最初に、「イエスは、気を落とさず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(1節)と言います。信仰を持つということは、神に祈るということといってもよいでしょう。

 キリスト教の祈りの特徴のひとつは、皆で祈るというものです。マルコ福音書11章17節に「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と記されています。ここで語られている「家」(オイコス)とは、神の宮、神殿のことといってよいでしょう。そしてそこは「祈りの家」であって、そこで共に祈り、また、お互いのために祈り合うのです。

 祈りはときに、直ぐには答えられないことがあります。祈っても、事態が思うように動かなかった、むしろ、悪くなってしまったという経験をすることもあります。だからこそ、気落ちせず、絶えず祈るべきことを、主イエスが教えてくださっているのです。

 そのたとえ話とは、神を畏れず人を人と思わない悪徳裁判官の下に、一人のやもめがしつこく訴え出て裁判を開いてくれるように頼むと、そのあまりのうるささに、裁判官がやもめの訴えを取り上げてやるというものです。一文の得にもならないやもめの裁判を引き受けるような人物ではないのに、それをするようにしたのは、やもめのうるささ、しつこさということでしょう。

 5節に「ひっきりなしにやってきて、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」と言われていますが、ここで「さんざんな目に遭わす」というのは、「目の下を打ってあざを作る」(フポウピアゾウ)という意味の言葉が用いられています。 そうなれば、仕事にも差し支えるようになるというのを恐れて、女性の望む裁判をしてやろうというのです。

 主イエスは、私たちの祈りを聞かれる神がこの悪徳裁判官のような方であると仰っておられるのではありません。また、どんな願い事でも、しつこく願いさえすれば、泣く子と地頭には勝てないといって、主なる神が私たちの言うことを聞いてくださると教えておられるわけでもないでしょう。

 7節に「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」と言われています。選ばれた人たちが昼も夜も叫び求めているのは、神が公正な裁きを行ってくださることです。つまりそれは、神が義を行われることです。

 「昼も夜も叫び求めている」ということは、地上に神の義が行われていない、神の義の支配を見ることが出来ないということでしょう。それは、裁判が公正に行われていない、裁判にすら、神の義を見ることができないということを示しているのかもしれません。

 主イエスは、大祭司カイアファの家で(22章54節、66節以下)、そしてローマ総督ピラトの官邸で裁判を受けられましたが(23章1節以下)、その裁判に正義はありませんでした。ピラトは主イエスの無罪を確信しながら(同4,14,15,22節)、十字架で処刑することを要求する声(同5,18,21,23節)に負けて、処刑に同意してしまいました(同24,25節)。

 話を戻して、「選ばれた人たち」(7節)とは、主イエスを信じる人々ということです。主イエスを信じた人々は、自分が主イエスを選び信じたのではなく、主イエスから選ばれたのだと教えられています(ヨハネ福音書15章16節)。主イエスを信じる人々が昼も夜も叫び求めているもう一つの理由は、神が必ず祈りに応えてくださると信じているからです。

 このたとえ話の最後に、冒頭の言葉(8節)のとおり「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と主イエスが言われました。これは、疑いの表現です。神の裁きをもたらすために再臨してみたら、忍耐強く信じて待っている者が一人もいないのではないかと、主イエスが疑っておられる言葉と読めます。

 その質問に対して、「私なら大丈夫です。他の皆が信仰を失っても、自分は決して信仰を失いません」と応えることができる人がいるでしょうか。そのように応えてはいけないとは申しませんし、それは嘘だと申しませんが、主イエスは私たちの心をご存知です。それで、そのまま素直に「信仰を見いだすだろうか」と問うておられるのだと思います。

 そして、主イエスが来られるのは、選ばれた人々が叫び求めている神の義を実現するためなのですから、その時まで、信じて祈り続けてほしいと仰っておられるのです。そのことのために、義の神に信頼しつつ、どのようなときにも気を落とさずに絶えず祈るようにと願っておられるのです。

  落胆せず、主を信じて祈るべきことについて、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(第一テサロニケ5章16~18節)とパウロも教えています。自分の祈りの姿勢を正すために、先ずここに語られている主の御言葉を心に留め、主の御心、神の義が実現されることを祈り求めましょう。

 主よ、地上に神の義をもたらすために、御子をお遣わしくださるり感謝いたします。ところが、私たち人間は愚かにも御子を十字架につけて殺してしまいました。しかるに主は、ご自分の命をもって私たちの罪を贖い、私たちに救いの道、命の道を開いてくださいました。そして、救いの完成のために、神の義の到来のために祈りを要請されました。どうか私たちを祈りにも忠実な者とならせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン