「ここを立ち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」 ルカによる福音書15章19節

 15章は、1節以下の段落にマタイ福音書との共通資料、8節以下の段落と11節以下の段落にはルカの独自資料という構成になっています。

 ここには、三つのたとえ話が記されています。一つ目は「見失った羊」のたとえ(1~7節)、二つ目は「無くした銀貨」のたとえ(8~14節)、三つ目は「放蕩息子」のたとえ(15節以下)です。これらはいずれも、なくしたものを見出した喜びについて語っています。

 この観点から言えば、「見失った羊」は、羊を見つけた羊飼いの話、「無くした銀貨」は銀貨を見出した女性の話、「放蕩息子」はいなくなっていた息子を見出した父親の話ということになります。

 7節の「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」という言葉と、14節の「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」という言葉は、「放蕩息子」のたとえを語る備えを与えていて、三つのたとえ話で一つの話になっています。

 以前、一人の壮年男性と出会いました。彼は町でクリスチャン女性と会い、教会に連れて来られました。以後、毎週のように礼拝に出席し、やがて祈祷会にも出席するようになりました。秋の伝道集会でクリスチャンになる決心をし、クリスマスにバプテスマを受けられました。

 彼は、親の財産を食いつぶして、家に帰ることが出来なくなり、ホームレス生活をしていました。彼がクリスチャンになる決心に導かれたのは、熱心なクリスチャン女性の励ましがあったからですが、秋の伝道集会において語られた「放蕩息子」の話を聞いて、それに自分を重ね合わせたということでした。

 自分のしたことは、この放蕩息子以上の大きな罪だと彼は言いました。そして、罪を告白するといって、それまでに自分が犯した罪・過ちについて、ノート1ページにびっしりと書いて持って来られました。

 聖書に「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(第一ヨハネ書1章9節)とありますから、好み言葉どおり、神はその男性の罪を赦してくださったと信じます。

 彼がバプテスマ(洗礼)を受けるとき、「今はホームレスをしているけれども、バプテスマを受けて生まれ変わり、一日も早くもとの生活に戻りたい。それが私の本当の悔い改めだと思っている。できれば、仕事をして蓄えを作り、住まいを確保して、他のホームレスを助けられるようになりたい」と語ってくれました。

 バプテスマを受けて数ヵ月後には、導かれて仕事が与えられ、それに伴って住まいも備えられました。この男性と同じような境遇の人が、すべて同じように導かれるわけではありません。むしろ、人々の善意に甘えて寸借を繰り返し、返済しないままおいでにならなくなるといったケースのほうが多いのではないかと思います。

 言うまでもなく、教会が彼らに提供できるのは、お金や仕事などではなく、信仰と祈りです。それ以外のものを与えはしないということでもありませんが、しかし、信仰と祈りが彼らにとっても、最も重要な助けではないかと思います。

 かの男性が、「元の生活の戻ること、それが自分の真の悔い改めだ」と語り得たのは、私たちが何かを与えたからではありません。むしろ、何も差し上げませんでした。ただ一緒に聖書を学び、祈っただけでした。そして、御言葉を通して放蕩の罪を赦し、新しい生き方、歩むべき道を与えてくださる神と出会ったのです。

 聖書の中の放蕩息子は、危機的状況の中で家を思い出し、帰る決断をします。そこにしか、自分の生きる道を見つけることが出来なかったのです。17節に「彼は我に返って」とありますが、それこそ、しばらく我を忘れていた放蕩息子が、すべてを失い、危機に直面することで、もう一度我を取り戻したのです。

 しかし、財産の生前分与を受けて家を出るという親不孝をしたこの息子には(12,13節)、もはや帰る「家」はありません。自分の罪を自覚した息子は、父親にその罪を侘び、そして、息子としてではなく、雇い人の一人にしてくれるように頼もうと考えました。それが冒頭の言葉(18,19節)です。その願いが聞かれるという自信もなかったでしょう。けれども、前述の通り、彼にはそれしか考えられなかったのです。

 ところが、家に帰った彼を待っていたのは、そんな彼の思いをはるかに超える父親の愛でした。雇い人にしてもらえれば恩の字だったのに、父親は息子にその言葉を言わせないで、すぐに最上の着物を着せ、靴を履かせ、家族のしるしの指輪を与え(22節)、肥えた子牛を屠らせ、祝宴の準備をさせました(23節)。そこに、父親の息子に対する深い愛が示されています。

 私たちの天の神は、この父親のようなお方なのだと、主イエスが教えてくださっています。そして、だれもが、天における大きな喜びの中に、この父なる神との交わりへと、絶えず招かれています。外で見物している必要はありません。招きに応じて、喜びの輪に加わればよいのです。

 御言葉と祈りを通して、その恵みの世界に共に進ませていただきましょう。

 主よ、あなたのご愛を忘れ、見失って右往左往している愚かな僕を赦してください。いつもあなたの慈愛の御手のもとに留まらせてください。絶えずその恵みを豊かに味わわせてください。今、悩み苦しみの内におられる方々に主の恵み、喜び、平安が開き与えられますように。 アーメン