「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 マルコによる福音書5章34節

 5章には、悪霊につかれたゲラサ人の解放(1~20節)と、ヤイロの娘と長血の女の病と死の力からの救い(21~43節)が記されています。ゲラサ人の地方の(1節)「レギオン」(9節)という汚れた霊に取り憑かれた男が、解放されて(15節)、主イエスの御業をデカポリス地方に言い広めたことは(20節)、異邦人の地での伝道の始まりを示しています。

 21節以下の段落は、ヤイロの娘の病の癒しの話(21~24節、35~43節)に、長血の女の癒しの話(25~34節)が割り込むかたちになっています。長血の女性の癒しのために、ヤイロの家に向かう主イエスの足が留められることになって、娘は亡くなってしまいますが(35節)、主イエスは娘を生き返らせ(41節)、死に打ち勝つ神の力をお示しになりました。

 今日は、その話の間に挿入された長血の女の癒しの話で、その女性の信仰に注目します。主イエスの周りに大勢の群集が押し迫っていたとき(24節)、そこに紛れ込んで、後ろからそっとイエスの服に触れた女性がいました(27節)。それは、12年間も出血が止まらない女性でした。そ㋨出血は、婦人科の病気によるものだったようです。

 始終出血があるというだけでも気分の優れないものですが、この病気が辛かったのは、出血が宗教的に「汚れ」とされることです(レビ記15章19節以下、特に同25節以下)。その規定は、この女性を清潔な環境に隔離するためのものと考えることも出来るのですが、しかし「汚れ」と言われる以上、差別的な扱いを受けることになったのではないかと思われます。

 この女性は、何とかこの病気を治そうと手を尽くしましたが、財産を失っただけで何の役にも立たなかったばかりか、病気を悪化させてしまったということです(26節)。そういう状況でしたから、この女性が主イエスのことを聞いたとき、これが最後の望みという思いもあったのではないでしょうか。

 しかも、彼女は一途にそのことを思っていたようです。というのは、28節に「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思っていた」と記されていて、「思っていた」と訳されている言葉は、未完了形の動詞が使われているからです。これは、動作が継続していて完了していないこと、つまり、「思い続けている」ということになります。

 さらに、「思う」と訳されている「エレゲン」は「話す」(レゴー)という動詞です。とはいえ、「汚れ」と言われる病気の身の上で他者との接触がはばかられ、公にだれに対してもそのように語っていたと考えることは出来ず、主イエスの衣に触れれば癒して頂けると自分自身に対して繰り返し語っていたということで、それを「思う」と訳したわけです(岩波訳参照)。

 思い続けていたことを実行する日が来ました。うまい具合に大群衆が主イエスを取り巻いていて、誰が誰だか判別できないような状況です。こっそり近づき、こっそり触り、そしてこっそり抜け出すには、絶好の状態です。彼女はそのようにして、そっと主イエスの衣に触れたところ、たちどころに病気がよくなりました(29節)。思い続けていたとおりになったのです。

 ところが、その後の展開は彼女の思い通りではありませんでした。女性が触ったことに主イエスはお気づきになり、「わたしの服に触れたのはだれか」(30節)といってその人をお探しになります。

 弟子たちが、「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」(31節)と主イエスに言います。つまり、誰もが主イエスの触れようとして押し迫っているのだから、衣に触れた「一人」を探し出すのはナンセンスだということでしょう。

 勿論 、主イエスは誰がどのように触れたのか、一人ひとりきちんと感じ取っておられたということではないでしょう。主イエスの内から力が出て行ったことに気づかれたということですから(30節)、主イエスから力を引き出す触れ方をした人がいたということです。だから、「わたしの服に触れたのはだれか」(30節)という問いに応答する人を、主イエスは探しておられるのです。

 「触れたのはだれか」と探されたとき、女性は一目散に逃げようとしませんでした。彼女は、自分の身に起こったことに驚き、そしてご自分に触れた者は誰かとお探しになる主イエスの言葉を聴いて、畏れを感じました(33節)。黙って逃げ出すことはできないと思ったのでしょう。否、逃げてはいけないと考えたのかも知れません。それは、女性が主イエスに「神」を感じているからです。

 彼女は主イエスの前に進み出て、ありのままをすべて話しました(33節)。そのとき、主イエスが女性に対して語られたのが、冒頭の言葉(34節)です。主イエスは女性に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

 ここに主イエスが「あなたの信仰」(へ・ピスティス・スー)と言われていますが、それは、どのようなものなのでしょうか。一つは、前述のとおり、主イエスの服に触れれば癒していただけると、繰り返し話していた、思い続けていたことです。その一途な思いが信仰と受け止められたと見ることが出来ます。

 しかしさらに大切なのは、主イエスの前に進み出て、「すべてをありのまま」申し上げたということです。その心は、神を畏れる心でした。主イエスはその心を「信仰」と言われたのではないでしょうか。つまり、病気がよくなりさえすればよいというのではないのです。主イエスとどのように向き合い、交わりを持つかということが大切だというのです。

 だから、「治った」(セラペウオー)というのではなく、「救った」(ソウゾー)という言い方になるのです。実は、女性が、「いやしていただける」(28節)と言っていたという箇所でも、原文には「救われる」(ソウゾー)という言葉が用いられていました。

 さらに、「安心して行きなさい」も、直訳は「平和の中へと帰りなさい」(フパゲ・エイス・エイレーネーン)という言葉で、神に救っていただいた者として、魂の平安と共に家族や隣人との平和な交わりの中にお帰りなさいという主イエスの思いを、そこに読み込んでもよいだろうと思います。

 そのようにして、主イエスは救いに与った私たちをも、平和の交わりへと招き入れておられるのです。主の御声に耳を傾け、信仰をもって主の導きに応答しましょう。

 天のお父様、主イエスを信じる信仰により、救いの恵みに与らせてくださり、心から感謝いたします。いつも、主への畏れの心をもって、その御衣に触れるほどに近くおらせてください。平和の源なる主の恵みにより、私たちの家族がいつも平和でありますように。絶えず平安な心で過ごせますように。 アーメン