「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」 マタイによる福音書3章11節
主イエスのメシア=キリストとしての働きが始まる前に、洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が登場して来ます(1節)。彼は、らくだの毛衣に革の帯を締めていました(4節)。そのいでたちは、旧約時代の偉大な預言者エリヤのようです(列王記下1章8節参照)。
エリヤは、アハブ王に仕える450人のバアルの預言者、400人のアシェラの預言者をカルメル山に集めて対決し、勝利しました(列王記上18章)。主なる神がエリヤの祈りに応えて、天から火を降らせたのです。
エリヤはその対決の前にアハブ王に旱魃を預言し、3年もの間、イスラエルには一滴の雨も降らず、露も降りませんでした(同17章1節,18章1節)。対決後、旱魃が終わりを迎えました(同18章41節以下)。それによって、主なる神こそイスラエルに雨と実りをもたらすお方であるということが、はっきりと示されたのです。
3節にイザヤ書40章3節が引用されていますが、よく似た言葉がマラキ書3章1節にもあります。さらに同3章23節に「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。マタイは洗礼者ヨハネのことを、ここに語られている預言者エリヤの再来として描いていると言ってよいと思います。
洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ります(2節)。「悔い改める」(メタノエオー)とは、「思いを変えるchange one's mind、方向を転換する」という意味です。
「天の国は近づいた」と語られていますが、ユダヤの人々は、主なる神への畏れから、また、「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という十戒の規定から、神という代わりに天と言ったり、天の国と言ったりします。
そして、聖書で語られる「天の国」とは、人が死んでから行くところというのではありません。神が支配しているところ、神の支配が及んでいるところを天の国、神の国と言っています。つまり、天の国が近づいたというのは、神の支配が近づいたということです。神を信じる者にとって、神の支配が近づいたということは、神ならぬものの支配が終わり、その縄目から解放されることです。
ヨハネは、どこに天の国、神の支配を見つけたのでしょうか。それは、冒頭の言葉(11節)にいう、彼の後から来られる方の存在です。それは誰のことでしょうか。14節の言葉から、それは主イエスのことだと分かります。主イエスがメシアとして登場されることで、「天の国は近づいた」と語ったわけです。
そこで、「悔い改めよ」というのは、主イエスの方を向きなさい、主イエスの言葉を聴いて思いを変えなさいと言っていることになります。それは、冒頭の言葉(11節)で「わたし(洗礼者ヨハネ)の後から来る方(主イエス)は、わたしよりも優れている。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」と言われているからです。
主イエスが授けるという「火のバプテスマ」は、前後の文脈から、神による裁きを意味しています。一方、「聖霊によるバプテスマ」は、神による救いを示しています。キリストが最後の審判者として、悔い改めた者には聖霊のバプテスマ、悔い改めなかった者には火のバプテスマを授けるというわけです。
「バプテスマ」とは、水に浸すという意味のギリシャ語の動詞「バプティゾー」から出た言葉で、文字通りには「水に浸す儀式」ということになります。因みに、私たちバプテスト教会は、水に全身を浸すという方法でバプテスマを施すことを選び取ったことで、その名で呼ばれています。
バプテスマについて使徒パウロが、「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ書6章4節)と語っています。
つまり、主イエスを信じ、主イエスに従う者たちは、古い自分に死んでキリストと共に葬られ、聖霊による新しい命を与えられて主イエスと共に生きる者とされたことを、水に全身を浸すバプテスマを通して、目に見えるかたちで証言しているのです。
「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(ローマ書6章12,13節)。
主よ、私たちを主イエスを信じる信仰に導いてくださり、感謝致します。信仰により、聖霊によるバプテスマを授けられたことを感謝します。いつも聖霊に満たされ、感謝と賛美に溢れた生活をおくらせてください。聖霊の力を受けて主イエスの証人としての使命を全うすることが出来ますように。 アーメン
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